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『穢れた義眼』と蔑まれ神殿を追放された下働きですが、実は十五年間この神殿を守り続けていたのは俺でした——今さら戻ってきてくれと言われても、もう遅いです

作者: uta
掲載日:2026/03/16

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

一章 廃棄された神の眼


「その穢れた義眼を持つ者が、神殿に居座ることは許されない。本日をもって、お前を神殿から追放する」


 大神官ヴァルター・ゼーゲンの冷酷な宣告が、白亜の神殿に響き渡った。


 高い天井に反響する声は、まるで神託のように荘厳で、それでいて残酷だった。集まった神官たちの視線が、祭壇の前に跪く一人の青年に突き刺さる。侮蔑、嫌悪、そしてほんの僅かな好奇——それらが入り混じった視線を、青年は静かに受け止めていた。


 リヒト・アッシェンバッハ、二十三歳。


 色褪せた亜麻色の髪は短く刈り込まれ、下働きとして十五年を過ごした証である日焼けした肌と、労働で荒れた手を持つ。背丈は平均的だが、常に背を丸め、存在感を消すような姿勢を取り続けてきた。


 そして——右目に宿す銀灰色の義眼。


 それこそが、彼がこの神殿で『穢れ』と呼ばれ続けてきた理由だった。


(やはり、この日が来たか)


 リヒトは静かに目を伏せる。驚きはなかった。むしろ、ここまで引き延ばされたことの方が意外だったくらいだ。


 彼の義眼は『廃棄された神の義眼』と呼ばれていた。


 かつて世界を創造した七柱の神の一柱——忘却神ヴォイド。その神が神格を剥奪された際に砕け散った神器の欠片が、なぜか生まれたばかりのリヒトの右目に宿った。理由は誰にも分からない。分かっているのは、それが不吉の象徴であり、穢れの証であるということだけ。


 少なくとも、この神殿においては。


「あのような薄汚い義眼と、セレスティア様の神眼を同じ神殿に置くなど、神への冒涜です!」


 副神官長オスカー・ブラントが声高に叫んだ。痩せぎすの体躯を震わせ、神経質そうな細い目を見開いて、まるで自分こそが正義の代弁者であるかのように振る舞っている。


(この男は、一週間前まで俺に廊下の掃除を押し付けていた時には、ろくに目も合わせなかったというのに)


 リヒトは内心で苦笑する。権力の風向きが変われば、これほど容易く態度を変える。人間とはそういうものだと、十五年の下働き生活で嫌というほど学んできた。


「まあ、私の神眼が穢れてしまうわ。早く追い出してくださいまし」


 扇で口元を隠しながら、冷笑を浮かべる声。


 セレスティア・ヴァンフォード。


 金色の長い巻き毛と白磁のような肌、華奢な体躯を持つ典型的な美貌の令嬢。三ヶ月前、『真なる神眼の持ち主』として神殿に迎えられた彼女は、瞬く間にこの場所の中心となった。


 その金色の瞳は、確かに美しかった。


 だが——


(見える)


 リヒトの銀灰色の義眼が、微かに光を帯びる。


 セレスティアの金色の瞳の奥に、黒い糸のような魔力の残滓が絡みついているのが視えた。不自然に安定した魔力波形。生体組織との不完全な融合痕。それは神から授かった神眼などではなく、闇商人から購入した魔道具による偽装だった。


 彼女の瞳は——偽物だ。


(言っても無駄だろう。彼女の後ろ盾は王弟殿下だ)


 王弟は美しいものや珍しいものを蒐集する趣味で知られている。金色の瞳を持つ美しい令嬢は、彼の蒐集品として相応しかったのだろう。その後ろ盾がある限り、セレスティアの偽装を暴いたところで、リヒトが信じられることはない。


 むしろ、讒言の罪で処刑されるのが関の山だ。


「リヒト・アッシェンバッハ」


 大神官が改めて名を呼ぶ。その声には、一片の温情もなかった。


「お前には本日中に神殿を去ることを命じる。神官服を脱ぎ、私物のみを持って出ていけ。今後、この神殿に近づくことは許さん」


「……かしこまりました」


 リヒトは静かに頭を下げた。


 その従順な態度に、周囲の神官たちは拍子抜けしたような顔をする。もっと抵抗するか、命乞いをするか、せめて恨み言の一つでも吐くと思っていたのだろう。


 だが、リヒトにはそんなつもりは毛頭なかった。


(俺がいなくなれば、三日で神殿の結界に穴が開く)


 リヒトは神官服の紐に手をかけながら、冷静に計算する。


(一週間で聖水の泉が濁り始める。一ヶ月もすれば、この神殿は瘴気に呑まれるだろう)


 この十五年間、リヒトは義眼を通じて『視て』きた。


 廃棄された神の義眼は、あらゆる呪詛、瘴気、魔素の乱れを視覚化する力を持っていた。そしてリヒトは、その力を使い続けてきた——誰にも、気づかれることなく。


 神殿の結界の綻びを修復した回数、三百七十二回。

 王都に侵入しようとした異界の魔物を察知して討伐隊に匿名で通報した数、十七体。

 神殿の聖水が枯渇しないよう、地下水脈の魔素汚染を浄化し続けた年月、六年。


 すべては、掃除夫として廊下を拭きながら。庭師として草木に水をやりながら。誰にも気づかれぬよう、下働きとしての日常に紛れ込ませて。


「ふん、やはり何の抵抗もできない小心者ですわね」


 セレスティアが扇の向こうで嘲笑う。


「そのような者が、私と同じ神殿にいたなんて。考えただけで寒気がいたしますわ」


 リヒトは何も答えなかった。


 神官服を脱ぎ、畳んで床に置く。その下には、擦り切れた麻の服だけが残った。十五年間、昇給も昇格も与えられなかった下働きの、みすぼらしい正装。


「お前に渡す退職金などない。神殿の物は一切持ち出すな。それが穢れに対する当然の処遇だ」


 大神官の言葉に、リヒトは再び頭を下げる。


「承知いたしました」


 そして——振り返ることなく、祭壇の間を後にした。


 ◇


 神殿の長い廊下を歩く。


 この廊下を、何度磨いたことだろう。夜明け前に起き出して、神官たちが目覚める前に塵一つなく清めておく。それが下働きとしての最初の仕事だった。


 壁に掛けられた聖画の前を通り過ぎる。この聖画の裏には、三年前に侵入しようとした異界の蟲を封じた結界が隠されている。リヒトが密かに張ったものだ。


 中庭に面した回廊を抜ける。あの噴水の下には、地下水脈から瘴気を濾過する魔法陣が刻まれている。毎晩、庭師の仕事を終えた後で、少しずつ手直しを加えてきた。


(俺がいなくなれば、半年で機能しなくなる)


 それでもリヒトは抗わなかった。抗う理由がなかった。


 十五年間、彼はこの神殿を守り続けてきた。しかしそれは、神殿のためでも、神官たちのためでもない。


 ただ——そうするのが、正しいと思ったから。


 穢れと呼ばれ、蔑まれ、感謝されることなど一度もなかった。だが、リヒトの義眼は災厄を視る力を持っていた。視えるものを放置することは、彼にはできなかった。


(それが、俺の誇りだった)


 誰に認められなくとも。誰に感謝されなくとも。自分が正しいと信じることをやり続ける。それだけが、この十五年間、彼を支えてきた矜持だった。


 だが——もう、終わりだ。


 彼らが俺を追い出すというのなら、それに従おう。


 もう、彼らを守る義理はない。


 ◇


 神殿の正門をくぐり、石段を降りる。


 背後で重い扉が閉まる音がした。十五年間暮らした場所との決別を告げる、乾いた音。


 リヒトは振り返らなかった。


 代わりに、正面を見据える。


 そこに——一人の老婆が立っていた。


 腰の曲がった白髪の老婆。粗末な外套を纏い、杖をついている。どこにでもいそうな、市井の老人。


 だが——


(違う)


 リヒトの義眼が、瞬時にその正体を看破した。


 老婆の姿の奥に、別のものが視える。白銀の長髪が足元まで届く絶世の美女。淡い紫銀色の瞳は、見る者に永遠と刹那を同時に感じさせる不思議な深さを湛えている。そして何より——その存在の密度。世界の理そのものを編み込んだような、神格に限りなく近い存在感。


「よく耐えたね、我が眼の継承者よ」


 老婆が——いや、その奥に在る存在が、微笑んだ。


「……あなたは」


「十五年間、見ていたよ。あなたが毎晩、結界の綻びを繕うのを。地下水脈の瘴気を少しずつ浄化していくのを。誰にも気づかれず、感謝もされず、それでもただ正しいと信じることをやり続けるのを」


 老婆の姿が揺らいだ。


 そして——真の姿が、顕現する。


 白銀の髪。紫銀の瞳。この世のものとは思えない美貌。


「私はメモリア。忘却神ヴォイドの眷属にして、『追憶の女神』。かつてあの方が不当に断罪された時、唯一異を唱えた者」


 リヒトは息を呑んだ。


 忘却神ヴォイド——彼の義眼の源泉たる存在。その眷属が、今、目の前にいる。


「あなたの義眼は、廃棄されたのではない」


 メモリアはリヒトの前に歩み寄り、その頬にそっと手を添えた。


「あの傲慢な神々から『解放』されたのです。そして十五年、あなたはその力を正しく使い続けた。誰に強制されたわけでもなく。報酬を求めたわけでもなく。ただ——そうあるべきだと、信じたから」


 その言葉は、十五年間の孤独な戦いを、初めて認めてもらえた瞬間だった。


「私と共に来なさい、リヒト」


 メモリアがその手を差し伸べる。


「世界の果て、忘却領域へ。そこであなたに、真の力の使い方を教えましょう。あなたの義眼は——見るだけでなく、終わらせることができるのです。すべての呪いに、苦痛に、災厄に、終止符を打つ。それが、忘却神の眼に宿る慈悲の本質」


 リヒトは、差し出された手を見つめた。


 背後には、彼を追い出した神殿がある。

 前には、彼の価値を認める者がいる。


 選択肢は、一つしかなかった。


「……参ります」


 リヒトはその手を取った。


 メモリアが微笑む。慈愛と、そしてどこか誇らしげな笑み。


「ようこそ、我が眼の継承者よ。ここからが、あなたの本当の物語の始まりです」


 二人の姿が、光に包まれる。


 そして——消えた。


 後には、閉ざされた神殿の門だけが残された。


 その内側で、誰も知らない。三日後に何が起こるのかを。



 二章 崩壊の序曲


 ◆ 神殿側視点 ◆


 リヒト・アッシェンバッハが追放されて、三日が経った。


「大神官様、大変です!」


 夜明け前、ヴァルター・ゼーゲン大神官は部下の悲鳴で叩き起こされた。


「何事だ、騒々しい」


 苛立ちを隠さずに寝室から出ると、若い神官が青ざめた顔で立っていた。


「け、結界が……北壁の結界に、穴が開いているのです!」


「何だと?」


 大神官は目を見開いた。


 神殿の結界は、百年以上前に先人たちが築き上げた傑作だ。王都を守護する要の一つであり、常に完璧な状態を保っている——はずだった。


「馬鹿な。あの結界に穴が開くなど、あり得ん」


「ですが、現に……瘴気が、僅かですが内部に侵入しています。このままでは——」


 大神官は押し黙った。


 そんなことが、ありえるのか。


 ◇


 七日後。


「聖水の泉が……濁り始めています……」


 報告を受けた大神官は、自らの目で確認しに行った。


 神殿の中庭にある聖水の泉。神々の祝福を受けたとされるその水は、常に澄み切った青白い輝きを放っている——はずだった。


 だが、今。


「……黒い」


 泉の底から、黒い靄のようなものが立ち上っている。聖水の輝きは濁り、かつての清浄さは失われつつあった。


「どういうことだ……なぜ……」


 大神官の声は震えていた。


「セレスティア様の神眼で、原因を探ることはできないのか!」


 副神官長オスカー・ブラントが慌てて提案した。だが——


「で、ですが……セレスティア様は、このようなことは専門外だと……」


「何を言っている!あの御方は『真なる神眼』の持ち主だぞ!瘴気や魔素の異常を見抜けなくてどうする!」


「そ、それが……」


 若い神官は言いよどむ。真実を口にすれば、自分がセレスティアの不興を買う。かといって嘘をつけば、後で大神官の怒りを買う。


 結局、彼は沈黙を選んだ。


 ◇


 二週間後。


 神殿内に瘴気が漂い始めた。


 最初は回廊の隅、人目につかない場所に黒い靄が溜まっているのが発見された。それが次第に広がり、やがて神殿の至る所で瘴気が確認されるようになった。


 神官たちが次々と病に倒れた。


 原因不明の熱病。悪寒。幻覚。日に日に衰弱していく者たち。


「なぜだ!なぜこのようなことが!」


 大神官ヴァルター・ゼーゲンは狂乱した。


 百年以上安定していた神殿が、なぜ突然崩壊し始めるのか。結界の綻び、聖水の汚染、瘴気の侵入——すべてが同時に起こるなど、あまりにも不自然だ。


「王都の結界術師ギルドに調査を依頼せよ!金に糸目はつけん!」


 ◇


 結界術師ギルドから派遣された調査員は、四十代の実直そうな男だった。


 彼は三日間、神殿内を隈なく調べ上げた。結界の構造、聖水の浄化機構、魔素の循環システム。そのすべてを精密に解析し——そして、信じられないものを発見した。


「大神官様」


 報告の場で、調査員は複雑な表情を浮かべていた。


「原因は判明しました。しかし……正直なところ、私には理解できない部分があります」


「何だと?はっきり言え」


「この神殿の結界、聖水の浄化機構、魔素循環システム……そのすべてに、極めて精緻な補修の痕跡があります」


「補修?」


「はい。しかもそれは、十年以上にわたって継続的に行われてきたものです」


 大神官は眉を顰めた。十年以上?そんな大規模な補修が行われていたなど、聞いたことがない。


「誰がそのような——」


「それが分からないのです。ただ、この技術レベルは……」


 調査員は言葉を切り、慎重に続けた。


「宮廷魔術師団長クラスです。いえ、部分的にはそれ以上かもしれない。結界の綻びを塞ぐ手法、瘴気を濾過する魔法陣の構築、聖水の浄化機構の最適化……どれをとっても、私の知る限り最高水準の技術です」


「……」


「そして」調査員はさらに続けた。「その補修は、約二週間前を最後に完全に止まっています。結界の穴が開いたのも、聖水が濁り始めたのも、すべてその補修が途絶えたことが原因です。つまり——」


「つまり?」


「誰かがこの神殿を、十年以上にわたって密かに守り続けていた。そしてその人物がいなくなったことで、神殿は急速に崩壊し始めている。大神官様、二週間ほど前に神殿から去った者はいませんか?」


 大神官の脳裏に、一人の青年の姿がよぎった。


 毎晩遅くまで廊下を掃除していた。庭師として草木に水をやっていた。色褪せた亜麻色の髪。日焼けした肌。荒れた手。存在感を消すような姿勢。


 そして——銀灰色の義眼。


「まさか……」


 大神官の顔から、血の気が引いた。


「あの……下働きの……」


「下働き?」調査員は首を傾げた。「この技術を持つ者が下働きですと?」


「いや、しかし、あれは『穢れ』で……廃棄された神の義眼を持つ……」


 大神官の声は震えていた。


 あり得ない。あり得るはずがない。


 だが——他に説明がつかなかった。


 三百七十二回の結界修復。六年がかりの聖水浄化。十七体の魔物通報。


 すべてを、あの下働きが?


「大神官様」


 調査員が静かに告げた。


「神殿を救うには、その人物を呼び戻すしかありません。この崩壊を止められるのは、補修を行っていた本人だけです。私の力では、せいぜい進行を遅らせることしかできない」


 大神官は膝から崩れ落ちた。


 ◇


 その夜、セレスティア・ヴァンフォードの私室に、副神官長オスカー・ブラントが訪れた。


「セレスティア様、お願いでございます。どうか神眼の力で、瘴気の発生源を——」


「無理ですわ」


 セレスティアは苛立たしげに扇を振った。


「私の神眼は、そのような些末なことに使うものではありませんの。大体、下々の者が解決すべき問題でしょう?」


「で、ですが……」


「しつこいですわね!」


 セレスティアの金色の瞳が、怒りに燃えた。


 だがその瞳は——本物の神眼であれば感知できるはずの、部屋の隅に漂い始めた瘴気に、まったく気づいていなかった。


「出ていきなさい。私は休むのです」


 副神官長は深々と頭を下げて退出した。


 廊下を歩きながら、彼は気づき始めていた。


 セレスティア様の神眼は、本当に瘴気を感知できないのではないか。


 もしそうだとしたら——


(いや、そんなはずはない。あの御方は『真なる神眼』の持ち主だ。王弟殿下のお墨付きもある。疑うなど不敬だ)


 彼は首を振って、疑念を振り払った。


 振り払おうとした。


 だが、一度芽生えた疑念は、そう簡単には消えなかった。


 ◇


 一ヶ月後。


 神殿は、もはや人が住める場所ではなくなっていた。


 濃い瘴気が満ち、壁は黒ずみ、聖水の泉は完全に枯れた。病に倒れた神官たちは次々と命を落とし、生き残った者たちも神殿を離れるしかなかった。


 セレスティア・ヴァンフォードの偽装が露見したのは、その混乱の最中だった。


 王都の魔術師団が調査に入った際、彼女の金色の瞳が魔道具による偽装であることが発覚したのだ。


「詐欺罪により、セレスティア・ヴァンフォードを逮捕する」


 鉄鎖をかけられながら、セレスティアは叫んだ。


「嘘よ!私は王弟殿下に愛されているの!あの方が助けてくださるわ!」


 だが、王弟からの助けは来なかった。


 偽物の神眼を持つ令嬢など、彼の蒐集品としての価値はない。掌を返すように、彼は彼女を切り捨てたのだった。


 ◇


 大神官ヴァルター・ゼーゲンは罷免された。


 神殿の崩壊、偽物の神眼を持つ者を迎え入れた判断ミス、そして——真に神殿を守っていた者を追放した愚行。


 すべての責任を取らされる形で、彼は聖職を剥奪された。


「リヒト……」


 廃墟と化した神殿の前で、元大神官は呟いた。


「お前は……知っていたのか。俺たちが何も見えていないことを。俺たちが……どれほど愚かだったかを」


 答える者はいなかった。


 神殿の廃墟からは、黒い瘴気が立ち昇り続けている。かつて白亜の輝きを誇った建物は、今や不吉な闇に呑まれようとしていた。


 ◇


 その頃——


 世界の果て、忘却領域。


 時間の流れが異なるその場所で、リヒトは真の力に目覚めようとしていた。


「あなたの義眼は、見るだけではない」


 メモリアが静かに告げる。


「終わらせることができるのです。呪詛を。苦痛を。災厄を。それこそが、忘却神ヴォイドの慈悲——すべてのものに、安らかな終わりを与える力」


 リヒトは銀灰色の義眼を見つめた。


 穢れと呼ばれ続けてきた、この眼を。


「……俺は」


「あなたは、その力を正しく使える者です。十五年間、誰にも気づかれず、感謝もされず、それでも守り続けた。その心があるからこそ、この力を託せるのです」


 メモリアがリヒトの手を取った。


「さあ、始めましょう。世界には、あなたを必要としている人々がいる。神殿の者たちではなく——本当に助けを求めている人々が」


 リヒトは頷いた。


 もう、振り返ることはない。


 彼の新しい物語が——今、始まろうとしていた。



 三章 終焉の銀眼


 三年の月日が流れた。


 忘却領域での修行を終えたリヒトは、世界各地を旅していた。


 その名は、いつしか『終焉の銀眼』として裏の世界で伝説となっていた。


 ◇


 最初に名を上げたのは、グラーフ王国での出来事だった。


 千年続く怨霊の連鎖——かつての戦争で虐殺された村人たちの怨念が、呪詛となって代々の領主を蝕み続けていた。どんな高名な祓魔師も解決できなかった呪いを、銀灰色の義眼を持つ青年が訪れ、一夜で断ち切ったという。


「あなたの苦しみは、もう終わりです」


 リヒトが怨霊たちに告げた言葉は、それだけだった。


 彼の義眼が淡い銀光を放つと、千年分の怨念が——ゆっくりと、安らかに消えていった。


 恨みを終わらせたのではない。

 苦しみを終わらせたのだ。


 彼らが本当に望んでいたのは、復讐ではなく、安息だった。リヒトにはそれが視えていた。


 ◇


 次に噂になったのは、東方のヴェルデ小国を救った一件だった。


 その国は、瘴気の海に呑み込まれようとしていた。原因不明の瘴気が国土を覆い、住民たちは次々と病に倒れ、国は滅亡寸前にあった。


 リヒトが訪れたのは、すべての専門家が匙を投げた後だった。


「まだ間に合う」


 彼はそう言って、単身で瘴気の中心部へ向かった。


 三日三晩、彼は瘴気の源と対峙した。それは古代の戦争で使われた禁呪の残滓——千年の歳月をかけて膨れ上がった災厄の塊だった。


 普通の方法では破壊できない。封印もできない。


 だが、リヒトの義眼は『終わらせる』ことができた。


 災厄に終止符を打つ。それが忘却神の慈悲の本質。


 瘴気が晴れた朝、ヴェルデ小国の民は泣いて喜んだ。そして、国を救った恩人の名を永遠に記憶に刻んだ。


 ◇


 各地で絶望的な呪詛を解呪し、打つ手がないとされた災厄を終わらせ——リヒトの名声は静かに、しかし確実に広がっていった。


 表の世界では知られていない。だが、本当に助けを必要としている者たちの間では、『終焉の銀眼』は希望の象徴となっていた。


 そして、彼の旅には仲間ができた。


 グラーフ王国で千年の呪縛から解放された、霊媒師の末裔エリーゼ。

 ヴェルデ小国を救った際に出会った、元王女ユリア。

 解呪不可能と言われた呪詛から解放された、元騎士ヴェルナー。


 彼らは皆、リヒトに命を救われた者たちだった。そして今は、彼と共に旅をしている。


「リヒト様は、もっと報酬を求めるべきですわ」


 ユリアが呆れたように言った。元王女らしい優雅な所作で紅茶を注ぎながら。


「ヴェルデを救ったのですから、国宝でも爵位でも、何でも貰えたはずです」


「必要ないよ」


 リヒトは穏やかに笑った。三年前とは別人のように、穏やかで、どこか晴れやかな表情。


「俺が欲しいのは、そういうものじゃない」


「では、何が欲しいのです?」


「……こうして、旅を続けられること。困っている人を助けられること。そして——」


 リヒトは仲間たちを見回した。


 エリーゼ、ユリア、ヴェルナー。そして、人間の姿をとったメモリア。


「こうして、共にいてくれる人たちがいること。それだけで十分だ」


 かつては一人だった。

 誰にも気づかれず、感謝もされず、孤独に戦い続けた。


 だが今は違う。


 共に歩んでくれる者がいる。彼の価値を認め、対等な仲間として接してくれる者が。


(あの日、追い出されて良かった)


 リヒトは心の中でそう思った。


(あの日があったから、俺は本当の居場所を見つけられた)


 ◆ ◆ ◆


 その日、リヒトたちの元に使者が訪れた。


「『終焉の銀眼』殿に、王家より正式な依頼でございます」


 使者は王家の紋章が入った書状を差し出した。


「神殿の浄化をお願いしたい、とのことです」


 仲間たちの表情が強張った。彼らは皆、リヒトの過去を知っている。神殿で何があったのか。誰に追い出されたのか。


「……神殿?」


 リヒトの声は平坦だった。


「はい。三年前より瘴気に侵され、もはや近づくことすらできない廃墟と化しております。このままでは王都への被害も避けられません。どうか——」


「詳しい話を聞こう」


 リヒトはそう言って、書状を受け取った。


 仲間たちは複雑な表情を浮かべていたが、何も言わなかった。これはリヒト自身が決めるべきことだと分かっていたから。


 ◇


 翌日、指定された場所に向かった。


 王都の郊外、かつての神殿が見える丘の上。


 そこで待っていたのは——


「リヒト……」


 膝をついた、痩せぎすの中年男。かつての面影はあるが、この三年でひどくやつれていた。


 元副神官長、オスカー・ブラント。


「お前だったのか……『終焉の銀眼』は……」


 その声は震えていた。恐れと、後悔と、そしてほんの僅かな希望が入り混じった声。


「頼む、神殿を救ってくれ。報酬はいくらでも出す。金でも、地位でも、名誉でも——」


「お断りします」


 リヒトの声は静かだった。怒りも、恨みも、感情の揺らぎすらない。ただ、事実を述べるような平坦さ。


「な……」


 オスカーは絶句した。


「なぜだ!お前にはできるはずだ!神殿を救えるのはお前だけなんだ!」


「俺はもう、あの神殿とは無関係の人間です」


 リヒトは遠くに見える廃墟——かつて十五年間を過ごした場所を眺めた。


 黒い瘴気が立ち昇り、不吉な闇に包まれている。かつての白亜の輝きは、もはやどこにもない。


「それに、俺にはこの力を必要としてくれる人々がいる。あなたたちに使う時間はない」


「待ってくれ!」


 オスカーが地面に額を擦りつけた。かつてリヒトを『穢れ』と罵り、追放の急先鋒となった男が。


「すまなかった!俺たちが間違っていた!お前の価値を、何も分かっていなかった!だから——」


「分かっていますよ」


 リヒトは穏やかに言った。


「あなたたちが間違っていたことは。でも、それは今さら謝られても、どうにもならないことです」


「……」


「俺が十五年間、何をしてきたか。あなたたちは知らなかった。知ろうともしなかった。ただ義眼が『穢れ』だからという理由で、俺を追い出した」


 リヒトの声に怒りはなかった。ただ、静かな諦観があるだけだった。


「それは、あなたたちの選択です。そして今、俺があなたたちを助けないのも——俺の選択です」


 オスカーは顔を上げることができなかった。


 自分がかつて投げかけた言葉が、今、そのまま自分に返ってきている。


 『あのような薄汚い義眼』——そう罵った相手が、今や王家が頭を下げて依頼を出すほどの存在になっている。


 そして、自分たちには——何もない。


「さようなら、ブラント殿」


 リヒトは踵を返した。


「今後二度とお会いすることはないでしょう」


 ◇


 丘を下りながら、メモリアが隣に並んだ。


「よかったの?」


「ええ」


 リヒトは振り返らなかった。


「俺には、助けを求めている人がいる。本当に俺を必要としてくれている人たちが。あの神殿のために時間を使う理由はありません」


「恨んでいないの?」


「……」


 リヒトは少し考えてから、答えた。


「恨んでいません。むしろ——感謝しているくらいです」


「感謝?」


「あの日、追い出されなければ、俺は今もあの神殿で下働きを続けていたでしょう。誰にも気づかれず、感謝もされず。でも追い出されたから——」


 リヒトは仲間たちの方を振り返った。


 エリーゼ、ユリア、ヴェルナー。彼を待っている、かけがえのない仲間たち。


「——俺は、本当の居場所を見つけられた」


 メモリアは微笑んだ。千年以上を生きる従神が見せる、慈愛に満ちた笑み。


「あなたは、本当に強くなったわね」


「あなたのおかげです」


「いいえ。あなた自身の力よ。私は少し手を貸しただけ」


 二人は丘を下り、仲間たちと合流した。


「次の目的地は?」


 ヴェルナーが尋ねる。


「南方の港町で、百年続く海難の呪いがあるそうだ。漁師たちが困っている」


「また無報酬で引き受けるおつもりですの?」


 ユリアが呆れたように言う。


「食事と宿は出してもらうことになっている」


「それだけ?」


「十分だよ」


 リヒトは笑った。穏やかで、どこか晴れやかな笑み。


 かつて神殿で見せたことのない、本当の笑顔。


 一行は南へ向けて歩き出した。


 彼らの背後で、神殿の廃墟は瘴気に呑まれ続けている。やがてその地は立入禁止区域として封印され、後世に語り継がれることになる。


 傲慢と偏見がもたらした、取り返しのつかない結末の象徴として。


 ◆ ◆ ◆


 終章


 数年後——


 『終焉の銀眼』の名は、表の世界でも知られるようになっていた。


 解呪不能の呪詛を終わらせ、滅びゆく国を救い、世界中の災厄に終止符を打つ伝説の存在。その正体は謎に包まれているが、銀灰色の義眼を持つ青年だという噂だけが、静かに広まっている。


 かつてその義眼を『穢れ』と呼んだ者たちは、今や誰もいない。


 大神官は罷免され、失意のうちに世を去った。

 副神官長は没落し、王都の片隅で惨めな余生を送っている。

 偽りの神眼を持っていた令嬢は、獄中で狂死した。


 彼らが蔑んだ義眼は——今や、世界を救う希望の光として輝いている。


 そして、その光を持つ青年は、今日も仲間たちと共に旅を続けている。


 本当の居場所を見つけた者の、穏やかな笑顔と共に。



                           ——了——

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