グルコースの夢
「君、こんなところで何をしているのです。」
誰かが夜の街の路地裏にしゃがんでいる私を見下ろし声をかけている。スマホを弄る手を止めて声の主を見上げる。物静かな雰囲気の痩せた青年が怪訝そうな顔でこちらを見つめている。服装は……和服だろうか。
「何って、家出。」
私の口から冷めた返答が漏れでる。こんなにすんなりと答えてしまったことに、自分でも心底驚いている。
「そうですか。」
彼は私を叱りもせず、帰ることを促そうともせず、ただ私の隣にしゃがみこんだ。私は彼をまじまじと見つめる。青白い肌、尖った鼻、虚ろで、光の無い瞳、ほのかに香る甘い香り。少し目を離したらふっと消えてしまいそうな、独特な雰囲気を持った人だった。
「寝床は、どうするつもりですか。」
彼がとつとつと私に問いかける。正直、今後のことは全く考えていなかった。大した物も持たず、勢いに任せて家を飛び出してしまったのだ。今あるものはスマホと、五千円のみだ。この金額じゃ、一泊するのも難しいだろう。
「……あのビルとビルの隙間で寝る、とか。」
「風邪をひいてしまいますよ。」
「別にいいよ。」
彼はまた黙り込んでしまった。冷たい風が私たちの居る道路を吹き抜ける。しばらく食べていないせいか、私の身体はかなり冷えている。せめて上着を持ってくるべきだった。彼はまだ居る……寒くないのだろうか。
しばらくして、顔にあたる朝日が私の目を覚ました。昨日はそのまま眠ってしまったようだ。私の身体には、薄汚れたブランケットがかけられている。そして、隣には昨日の青年がまだ座っていた。彼はうつむきながら、指を弄っている。少しして、彼は私が起きたことに気付き、こちらに顔を向けた。
「あ、目覚めたのですね。」
そう言うとすぐ目を落とした。
「あの、これ……」
私はブランケットを指して彼に話しかけた。
「ん?ああ、お気になさらず。」
彼は軽く返事をしただけで、すぐ視線を逸らしてしまった。
「あんた帰らないの?」
「帰りたくないのです。」
「……私と同じ?」
「どうだか。」
彼の表情が少しだけ柔らかくなったような気がした。私は独りではない。この事実にこの上ない安心感を感じていた。彼も同じように感じているだろうか。そう思うと、私の胸は勝手に高鳴った。同時に、唇が滑るように動き出す。
「私ね、学校が嫌いなの。自分が何もかも劣っていることがありありと分かるから。」
*
ある日の授業中、眉間に深く皺が刻まれた先生が低い声で名前を呼ぶ。
「ここの問題、如月。……どうした、何か言え。」
教室内の空気が止まる。生徒たちは、行儀良くこちらを見つめ、私の答えを待っている。けど、分からない。何が問われているのか、何を答えるべきか。唯一分かることは、この程度の問題は皆答えられる――私を除いて――ということだけだ。微かな笑い声の中、隣の人が私をサポートしようとする声が聞こえる。けれど、余計惨めな気持ちがあふれ、喉から出たのは「ひっ」という嗚咽だけだった。先生はそれを見て、軽蔑するような眼差しを向けた。
「はあ……もういいよ。」
*
「それで、母に相談したんだけど……」
*
母のスマホの光だけで照らされた部屋で、私は下を見ながらぼそぼそと今日の出来事、そして、学校が怖い、もう嫌だと母に告げた。しかし、
「ふーん、そんなの誰でもあるでしょ。それより、玄関の掃除と、夕飯の支度早くしてくんない?」
布団の中に潜っている母は、棘の刺すような声でそう言っただけだった。少しもこちらを見てくれなかった。光の無い部屋の中に、秒針の音だけが頼りなく響く。その瞬間、私の中で何かのスイッチが入り、気がつくと私はスマホと五千円を握りしめ、路上に立っていた。
*
「昔は母も優しかったの。愚痴だって聞いてくれた。だけど、今はずっとスマホ見てて、家事もしてくれない……どうしてこうなっちゃったんだろ。」
ふと隣の青年の顔を見つめる。彼は、濁った温水のような瞳でこちらを見ていた。彼の表情は柔らかく、私は少し安心した。
「ちょっと、お腹空いたな。スーパーでも行かない?」
「いいえ、私はここで待っていますので。」
「そっか、わかった。」
しばらくして戻ると、やはり彼は元の所に座っていた。
「ただいま。」
「お帰りなさい。」
挨拶に返答があったことが久しぶりで、嬉しくて泣いてしまいそうだ。けど、変な風に思われたら困るので、涙は必死の思いでこらえる。
「えっと、パンは食べられる?」
私は手に持った二つの惣菜パンのうち、少しだけ豪華な方を彼に差し出した。彼はパンを見つめ、不思議そうな顔をしている。
「私の分も……」
「もしかして嫌いだった?」
「いえ、お気持ちは有り難いのですが、私に食事は不要なので。」
「え……、どういうこと?」
そう問いかけると、彼は視線を逸らしてしまった。心なしか、表情がさっきより苦しそうだ。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。
「あの、ごめんなさい……。」
「ああ……あなたは何も悪くありませんよ……。私のことは、お気になさらず。」
彼は一瞬こちらを見て、笑いかけてくれたが、また下を向き、何かに怯えるような顔をした。良く見ると、肩が小刻みに震えている。絶対彼に何かあったに違いない。私は彼にかける言葉を必死に考える。その時、何かが私の身体にぶつかり、思考は中断された。見上げると、筋肉質な男の人が鋭い目でこちらを見下ろしている。
「あ、すいませ……」
「邪魔なんだよ、消えろ!!」
男の人はそう吐き捨て、去っていった。私のすぐ横に置いておいたパンが踏み潰されていた。
ふと、周りを見つめると、こちらを見ながらひそひそ声で何か言っている人、黙ってスマホをこちらへ向けている人、中指を立てる人、石を投げつける人……沢山の人たちが私を見つめ、見下し、淘汰しようとしていることに気がついた。その瞬間、呼吸が早くなる。頭の中が、恐怖でいっぱいで、もう訳が分からない。
「はあ、はあ、はあっ、はあっ……」
殺される殺される殺される殺される……
「大丈夫ですか。」
あの青年が柔らかい声で語りかける。その声を聞くと、身体の力が抜け、呼吸は遅くなり、心臓の鼓動はだんだんと小さくなっていった。私は、ぽつりと彼に告げた。
「私、もう、ぜんぶやだ。」
私は彼に笑いかける。彼も私に笑い返す。
私たちの思いは同じである。
*
私たちは、この街にある唯一の川に来た。……二人で、入水するためだ。
「綺麗な川だね。」
「本当に。」
二人、強く手を繋いだ。彼の手は、心配になる程冷たかった。
「そうだ、最後に聞いてもいいかな。……あんたって、何者?」
彼は黙り込んだ。私に何を話そうか、考えているのだろう。
しばらくして、彼は自分の耳に手を掛けた。その手にぐっと力を入れ、なんと彼は耳を千切った!
「いやぁーっ!」
予想外の行動に思わず叫んでしまった。だが、不思議なことに、耳からは血液が一滴も流れていない。断面は、肌と同じで、真っ白だ。
どういうことか問う間もなく、彼はその耳を私の口に押し入れた。
甘い。今まで食べたどんなお菓子よりもはるかに甘い。私は思わずむせ込みそうになったが、彼がやめてくれと言わんばかりの表情で私の口を強く押さえつけた。
「私は人間ではありません。私は砂糖菓子。ある日突然生まれました。理由は、分からない。善意で自分の身体を人間に分け与えたこともありました。しかしそれから人間は、私を無理矢理解剖しようとしたり、大勢で捕えようとしてきました。」
何か話したかったが、彼に口を塞がれているため、何も言えない。仕方なく、頷くだけだった。
「けど、あなたになら食べられるのも悪く無いと思いました。……ありがとう、隣に居てくれて。」
彼は私の口を塞ぐ手を緩めた。ようやく話せる。
「そんなの……こっちの台詞だよ。独りで心ぼそかったけど、あんたのお陰で結構大丈夫だった。けど、食べるなんて……」
「私は砂糖でできています。このまま水に入れば、溶けて流されてしまいます。そうしたら、あなたの傍には居られない。お願いです、最後は、あなたの胃袋の中に居させてください。」
彼の目を構成する砂糖の粒が光を反射している。イルミネーションのような、美しい瞳をしていた。
「わかった、一粒も残さないから。」
夕日が眩し過ぎて、何も見えない。
夢ならばこのまま覚めないで欲しかった。
数日後、○○川下流にて一人の少女の水死体が目撃された。
ちなみに、少女の胃袋は空であったという。




