それが私の仕事ですから~令嬢社長は破談してでも、部下を守りたい~
ストレチアは、「守りたい女」だった。
辺境寄りの公爵領で、国を守る父と母に育てられたせいもある。だが尋常ではないその衝動は、とても説明のつくものではなかった。
(私が傷つくことなど、構わない)
迷子の子どもを谷底から連れ帰ったり、騎士叙勲まで受けて魔物と戦ったりしてきた。その陰で、いくつ傷を作ろうとも。
(けれど……)
そんな彼女も、長じて淑やかになった。だが、その血が湧きたつような原始的な欲求は、むしろ強くなった。
(やってくれましたね……リーン殿下)
公爵令嬢ストレチアは物腰柔らかな婚約者、王太子リーンを想う。
『少し難しかったかい? ここはね……』
(幼い頃から才気を見せる、素晴らしい方だった……私は。彼を守りたいと、思ったのに)
皆を守るためならば、国を強くすればいい。ストレチアが優秀な王子にほれ込んだ理由は、シンプルであった。彼女はリーンを支えるために、教養を培った。妃候補たちと団結し、彼を支えようと誓い合った。
(このペンを使いこんで、お役に立とうと誓った。なのに)
サインの途中で、万年筆のインクが切れる。尽きたインクに自分の愛情を重ね、古く使い込まれたペンを忌々しげに握り締める。インク壺に雑に突っ込み、大きくため息を吐いた。
(あんな方、だったなんて)
表向きは、ストレチアがリーンの唯一の婚約者である。だが彼は、妃候補たちに愛を囁き、家に帰すことを拒絶していた。愛と未来への不安で揺れる仲間たちのため、ストレチアは会社を設立した。働いた実績で、彼女たちの価値を高めるためだ。
(おかげで、苦労したわね)
父から融資を受けるために、何度も申し込んだ。国王から承認をもぎ取るために、幾人もの貴族たちの間を駆けずり回った。設立後も自ら顧客を開拓し、時に部下のために頭を下げて回った。公爵令嬢のすることではないと嘲笑われたが、少しも気にならなかった。
彼女たちが――――彼女が守れるのならば。
(フォリア……)
翡翠のインク壺をプレゼントしてくれた部下、転生者の平民であるフォリアを思う。庇護欲を誘う、小柄で元気な少女。非常に活力溢れて積極的な資質。そして稀有な才気。何もかもが、ストレチアの「守りたい」という欲求を刺激してきた。誰にも漏らしていないが、会社の設立はフォリアのためでもあった。
(時代を切り開くだろう、輝かしい才能。不思議と、あの笑顔を見ると、胸が暖かくなる)
ある日突然妃候補として連れてこられた彼女は、その特異な知識に目を付けたリーン王子によって、働かされていた。一目見て電撃的な保護欲に襲われたストレチアは、明らかに過労だった彼女の労務管理をするため、フォリアを入社させた。
だが。
(けど……また、守れなかった)
執務室の奥の扉を横目に見る。そこでは、先日倒れたフォリアを匿い、休ませていた。血が滲みそうになるほど、手を握り締める。せっかく会社を作ったというのに、フォリアはいつの間にかリーン王子に手伝いをさせられており、ついに倒れた。
『またなくなってる! 頑張りすぎですよ、ストレチア様』
いつもインクを補充してくれる、気遣い上手な彼女の声が思い起こされる。
(絶対に……あの方から、守らなくては)
ストレチアは、ルビーのあしらわれた万年筆を手に取る。それは幼い頃に、リーンがプレゼントしてくれたものだ。
(リーン様。私が愛し、愛していると言ってくださった……あなたの、本心は……)
楽しい思い出がたくさんある。特に、初めてエスコートされた夜会が思い出深い。彼は優雅で、ダンスのリードは大胆。その時の幸福感は今でもはっきり覚えている。手紙や贈り物を始め、何もかもが――――大切な思い出だった。今回の件で、処分するまでは。
(今も……何も変わっていない、はずなのに)
彼が傾けてくれる心も、自分が向ける愛情も、ずっと同じなはずだった。なのに強烈な違和感があって……いつからか王子といると、妙な吐き気を覚えるようになっていた。それはフォリアが倒れたことで、決定的になった。
(許さない。あなたは守るべき王子ではない。この私の――――敵だ)
サインの途中だった王命による会社の譲渡同意書紙に、今一度向き合う。ストレチアは、王子がフォリアたちを酷使していた件を、国王に正式に抗議。彼女たちをリーンから取り返した。そしたら即座に、王子への会社譲渡を迫られた。
(皆を。フォリアを守るためには、これしかない。お父さまや顧客、取引先への裏切りであろうとも。私自身が家を出され、国を追われようとも)
遠い地球の知識をきらきらとした目で語る彼女を想いながら、ストレチアは記名した。
(それで殿下の愛を、失うことになろうとも! 守りたい!)
ペン立てに万年筆を置く。手の震えが、止められなかった。
(ふふ……私はやっぱり、異常だ。歓びが、溢れる。きっと守ってみせるわ……みんな。フォリア)
肩で息をし、心を無理やり落ち着ける。
ノック音が響く。応諾すると、メイドが扉を開いて来客を通した。ストレチアは座ったまま、王太子を出迎える。
「お待ちしてました、リーン様」
(こんな時でも笑顔……昔からこんな薄気味悪い顔だったかしら)
微笑みを携えた貴公子が、執務机の前までやってくる。
「社長の君は偉そうだね? ストレチア」
(……不機嫌だわ。私がした抗議は、とてもお嫌だったと)
圧のある笑顔を見て、ストレチアは柔らかくほほ笑んだ。
「私は王家の承認を得た事業主。我々は対等です、リーン殿下」
「対等なら、客の僕を手厚く歓迎するんじゃないかい?」
「客ではありません、敵です。強引に我が社の譲渡を迫った、王太子殿下?」
「悪かったよ。君が彼女たちを使うなというから、仕方なかったんだ。これはお詫びだ」
リーンは机の上の譲渡同意書を手に取り、代わりに一枚の紙を置いた。ストレチアは目を見開く。
「これは、破談の!?」
「そうだ。お守り代わりに、持っておくといい。僕の誠意と……愛の証だよ」
(信じ、られない……なんて非常識な!)
無神経な物言いに一瞬顔色が変わり、それを笑顔に置き換えた。
「殿下がこんなもの書いたと知れたら、大変なことになりますよ?」
「秘密で頼むよ」
口元に人差し指を当て、リーンが片目をつぶって見せている。
「万が一伝わったら、その時はどうされるのです?」
「そしたら君とは残念だけど……みんなに慰めてもらうよ」
「そういう問題ではありません。当公爵家はあなたの後見から降りますが、その代わりがいるのですか?」
リーンの頬がぴくり、と動いた。彼は無作法に、机に腰かける。横顔が張り付いたような笑みを浮かべていた。
「それが困るから、内緒にしてって頼んだんだけど? わからないかな」
「わかっておりますとも。国王陛下にまでサインをもらった、リーン殿下?」
「……………君には想像がつかないだろうけど、父は公爵が敵に回る恐ろしさくらい、理解しているとも。黙っているさ」
「殿下はご子息なのに想像がつかないようですが、恐ろしければこんな書類にサインしませんのよ? すでに何人もの目に、留まっていらっしゃるでしょうに」
鋭く言及すると、リーンは机を降りた。肩を震わせながら、息を呑んだようだった。だがどう見ても怒っているようなのに、その表情は。
「僕は悲しいよ、ストレチア。何を怒っているんだい? どうしてそんなことを言うんだ」
気味の悪い、笑顔のまま。
「あら、お分かりにならない? 当社の社員を酷使した件。私はまだ、何の申し開きも受けておりませんが」
「ストレチア!? 彼女たちが僕のために倒れるまで頑張ってくれたのに! そんな言い方はひどいじゃないか!」
(……言葉は通じているのに、会話している気がしない)
背中を向けたままの彼に悍ましさのようなものを感じつつ、呆れを抑えながらなんとか口を開く。
「なら、せめて対価を払ったらいかがです?」
「払ったとも。皆、僕の妃になるのだから――――僕の愛があれば、満足だろう?」
得意げに肩を竦めるリーンに、開いた口が塞がらなくなった。
「全員妃とすると? 皆が子を産めば、激しい権力闘争が起きます。それを望まれるので?」
「強い子が残る、世の真理だ。君には難しかったかな? ストレチア」
『少し難しかったかい? ここはね……』
(……あの時の、言葉。嬉しかったけど、違うんだ。あれは優しさでは、ない)
彼の言動が過去と重なり、ストレチアは、理解した。王子は、気遣っていたのではない。弱い者として、見下していたのだ。
「殿下は強き者がお好きなのですね。だから皆が倒れるまで、仕事を押し付けるのですか? 特に、フォリアに」
「フォリア、ね」
リーンが振り向き、笑みを深く深くする。気味が悪かった。
「どうしてもというから、僕は仕事をあげたんだ。彼女の手がけた郵便網や、馬車の改良は素晴らしい。これからもぜひ、僕のために働いてほしい。そのために……譲渡書を書いてもらったんだし、ね」
「彼女の能力だけが、目当てだった、と」
震えを抑えながら応える。返ってきたのは、少しの笑い声だった。
「ほかに何かあるのかい? 平民で、君ほど美しくもない。なのに僕の愛情を受けられるのだから、生涯尽くして当然だろう?」
(何が当然だ! 私は、こんな男を信じて……! そのせいで、皆を、フォリアを傷つけることに……!)
ストレチアは、甲斐甲斐しく王子に尽くすフォリアの姿を思い出し、腹の底が煮えくり返りそうになった。
「君だって、僕に尽くせて幸せだよね? ストレチア」
リーンが机に強く手を付く。バンッと音が鳴り、ペンが転がった。彼からもらったペンに、深くヒビが走るのが見える。
(なに、この、かお)
王子は笑顔だった。だが目が、おかしい。嘲笑っている、と。そう表現すべき形をしていた。だが怒りや悲しみのようなものも、見える。
「僕がこんなに愛してるのだから……もっといい子にしてほしいな?」
(そんなものの、どこが愛だというの……? 私の想いとは、違い、すぎる)
舐めるような声を聞いて、心が震え上がった。怒りが冷え、頭は真っ白になり、鼓動がずきずきと痛みを訴える。
『僕のためなんだ。やってくれないかな?』
(これが、この方の、本性……)
幼少からの、王子との思い出が走馬灯のように駆け巡る。風邪を看病してもらったとき。手を引いてもらったとき。作法を教えてもらったとき。
優しかった。愛おしかった。
だが。
『しょうがないなぁ、ストレチアは。僕が教えてあげるよ』
はにかむような、彼の笑顔は。
(ち、がう。この人が語る、ものは……!)
その奥に、ずっと侮りを隠していたのだ。優しかったリーン王子の思い出が、傲慢な愛情で女たちを貶める醜さに上書きされていく。
(あれもこれも、全部全部! 愛などではなかった! 私のしていたのは、ただの片思いで――――)
ストレチアは彼のすべてが、理解できなくなった。じっと見つめてくる赤い瞳が恐ろしくなり、すくみ上った。息ができず、目が泳ぐ。顔を逸らしたいのに、怖くて動けない。
(誰か、誰か助け――――)
『初の大取引だー! あ、社長はどーんと構えててください! 攻めの姿勢で!』
背中を叩かれた気がして、視界が揺れる。目の端に、万年筆と、インク壺が映った。そう言って結局は失敗し、自分が守ったフォリアの顔が脳裏に蘇る。
『またなくなってる! 頑張りすぎですよ、ストレチア様』
幻の部下が、笑顔でインクを注いでいく。
彼女の心に、注ぎ込む。
それは。
(私は、社長……………………)
小さな壺いっぱいの、勇気。
(部下を守るのが、私の使命よ!)
ストレチアはペンを手に取り、書類に自分の名前を書ききった。ガリっと音がし、万年筆のペン先が折れ砕ける。紙の外にインクが飛び散る。素早くペン立てに戻し、王子を睨みつけた。
「なっ…………なんのつもりだ!? ストレチア!」
王子からは、さぞ異常に映ったことだろう。悦びに打ち震え、自分との婚約破棄に同意した女の様子は。守りの衝動は恐怖を破壊し、彼女を強く突き動かしていた。
(こいつは敵……ならばあの子を守るために、私はなんだってする!)
「あなたの愛などいらないと、そう言っているのです」
「なんてことを言うんだ! さては浮気……浮気しているんだろう!」
「魅力的なお誘いなら、たくさん受けております。主に国外から」
「そんなの、僕は聞いてないぞ!?」
艶やかに笑って見せると、崩れた笑みの王子が喚いた。
「殿下のお心を煩わせるものどうかと思いまして……何せ、量が本当に多いものですから。ああ、皆のもとにも、届いております。特にフォリアは、大人気でしてよ?」
「許せない……僕の愛する女たちに、手なんて出させない!」
(彼女を見下しておいて、どの口が! こんなものが、愛なはずがない!)
ストレチアは息を吸い込み、腹の底に溜めた。言葉を、想いを飲み込まないために。
「――――――――あなたのそれは、愛ではありません。ただの支配欲です」
ずっと抱えていたものが、強く震えを伴いながら吐き出された。
「何を言うんだ、ストレチア――――これが王の愛……支配者の愛だ」
リーンが大仰に手を振り回す。芝居がかったそのしぐさの向こうに、歪んだ顔が見えた。
「君たちだって、それを期待しているんだろう? この僕に支配されることを。大変だけど……ちゃんと全員、面倒を見てあげるよ。もちろん、君もね」
もはやそれは……笑顔では、なかった。
(殿下の表情が崩れた――――ここだ!)
背筋を伸ばし、奥歯を噛みしめる。
「面倒、ね。ところでご存知ですか? あなたの妃候補は皆――――辞退したと」
「…………は?」
「陛下もご承認なされました。リーン様の妃になろうという女は、誰もいません」
(そう……最後の一人もさっき、いなくなった)
サインした婚約破談の同意書をそっと見つめる。視線を上げると、王子が目を細め、蛇を思わせる顔つきでにやにやとしていた。
「いや、まだだ。働いてもらうぞ……。大丈夫、僕は頑張って皆を愛してあげるよ! そうすれば君たちだって!」
「働くとは、何のことでしょう」
「君の会社は僕のものだ! 社長命令に従ってもらうぞ! 王子でもある僕に!」
「その会社――――従業員は一人もおりませんよ?」
口を開け、リーンが呆然としている。
(笑顔を作るのも忘れて……そんなに意外でしたかね)
「譲渡の件で父が怒って、融資を引き揚げました。借金を返すのに資産を売り払って。資金が底を尽きたので、社員は全員解雇しました」
ストレチアがにこやかに告げると、ようやくリーンは我に返った様子だった。
「そ、そんな勝手に!? 僕の会社だぞ!」
「国王陛下には承認いただきました」
「ひ、ひどい……みんなで寄ってたかって、僕を! ストレチア、あんなに愛してあげたのに!」
(愛? いいえ……愛だと言うなら。きっと殿下は私のお願いに、答えてくださった。やはりこの方は、我々を支配したかっただけ)
叫ぶ王子を見て、ふと幼い頃の記憶が蘇る。
『わたくし、でんかにはほかのきさきを、とっていただきたくありません』
『なら君が誰よりもがんばって、僕の一番にならないとね。ストレチア』
それはまだ柔らかかな表情をしていた頃の、愛しかったリーンの姿。
「覚えていらっしゃらないようですが――――」
ストレチアは立ち上がる。
「私、嫉妬深いのです。あなたが私以外を娶ろうとしたこと……一生、許しません」
その赤い瞳で、じっと王子を見つめた。
「なら、僕を、愛して、るんでしょう? なのに」
「ええ。さっきまでは、ね」
ハッとしたリーンの目が、同意書に注がれる。
「こんなもの――――」
「外のメイドたちに騒ぎが聞こえているので、もう無駄です」
見たこともない絶望の色がリーンの瞳に映り、涙が溜まる。後ずさる彼に、ストレチアはにやりと笑ってみせた。
「ところで。リーン様に、国王陛下から伝言です。執務室に来るように、と。譲渡同意を得るために、随分無茶をなされたそうで。王太子の座、無事だと良いですね?」
「な、え!?」
「早く行って、ご確認された方がいいですよ? 支配が大好きで、権力の座にいたい……王子様?」
一瞬、怒りに歪んだ顔を見せたリーンが、肩を震わせて背を向ける。急ぎ足で扉に向かうリーンが、よろけて転びそうになった。
(殿下――――)
彼の背に、無意識に届かない手を伸ばす。かつて本気で、守ろうとした相手に。
だがふと目についた壊れたペンから、インクが零れ続けていて。インク壺のそばまで、黒い液体が広がっていた。
(――――フォリア!)
ストレチアはインク壺を救い出すように手に取り、両手で握り締めた。扉が開く音を聞きながら、荒い呼吸を何度も繰り返す。心臓が張り裂けそうなほど脈打った。
(私は……みんなを、フォリアを守らなければならない。もう振り返れないわ)
手を開き、その中のインク壺を見つめる。
(今までで一番疲れた……なのに。とても、気が楽)
壺を見ていると、自然と顔が緩んだ。ほっとした息を吐き、壺の蓋を優しく慎重に閉める。
(ああ、そうか……)
実感が浸透し、脳の奥から多幸感が溢れて全身を震わせた。肩から一気に重さが降りたような気がして、ストレチアはどさりと椅子に座り込んだ。
(私は、守れた、のね)
開かれたままの扉と、その向こうから覗き込むメイドが目に入る。婚約破棄の同意書の送付と、机の清掃を命じ、椅子に深く背を預ける。顔に昇った興奮を抑えようと息を整えていると、部屋の奥の扉が開いた。
「いやー、もー。ストレチア様かっこよ……どうしたんですかその顔!?」
エメラルドを思わせる綺麗な瞳の少女が、机を回り込んでやってくる。
「フォリア……! あなた、体は」
「さすがにもう平気ですって、休み過ぎです。それより……」
ストレチアは、滲んだ涙を拭った。
「聞いてたならわかっていますよね。ほっといてください」
「ほっとけませんって……忘れましょうよ、あんな蛇みたいな人」
(そうじゃないわよ……あなたを見たらほっとしてつい零れたのよ)
想いごと笑いを吹き出しそうになったが、なんとか息を飲み込む。
「よく言いますね。あなた、好きだったんじゃないんですか? 彼のこと」
「や、そりゃ、最初は……」
からかうように水を向けると、フォリアが意外に深刻そうな顔をした。
「最近も、だから仕事を山ほど引き受けていたのでしょう?」
「あれは! ストレチア様のためになるから、って言われて……」
(馬鹿なの? 可愛いのだけど)
呆れたストレチアは、少しの笑い声を漏らす。
「くっ……失態を挽回するために、攻めます!」
(どこに攻め込むっていうのよ)
「攻める」はフォリアの口癖であったが、たまに意味が分からない。それが耳に心地よく、ストレチアは自然と頬を緩めた。
「私、決めました。魔力動力機関と魔力波通信網の計画、やらせてください」
だが彼女の返答に、顔を引きつらせる。
「は? 技術的課題があると言って……」
「解決できる手段、見つけました。隣の帝国で」
産業革命すら起きてない世界で、動力機関と通信網を整備する。ストレチアは戦慄した。そのキラキラした碧の瞳を見ているうちに、背筋を熱い震えが駆け上る。
(この子だ――――やっぱりこの子しか、いない! フォリアの手で、世界が変わる……! 守りたい!)
照れた様子で顔を逸らしている、フォリアの目には映らなかったが。衝動が情欲や歓喜をすら刺激して、ストレチアは紅潮し、瞳を潤ませていた。
「……さては。だから次の拠点に帝国を挙げていましたね?」
「えへへ……ほめてください、ストレチア様!」
絞り出した声に軽快に返され、さっと表情を苦笑いに切り替える。
「褒められないです……世界中から狙われますよ? なぜ踏み切ろうと思ったんです」
「それは――――ストレチア様が、絶対守ってくれるって、思った、ので」
(なにそれ。下手に褒められないじゃないの……)
赤い顔が隠せなくて、ストレチアは誤魔化すように立ち上がった。
「あ、万年筆壊れてる!」
メイドたちが残していった折れたペンを、フォリアが驚いた顔で見ている。
「……ええ。古かったですし。次はあなたに、見繕ってもらいましょうか」
「なんですそのあざといおねだりは。はい」
彼女が差しだしたのは、翡翠色のペン。
「どうぞ。書き味、試してみてください」
「えぇ!? え、ええ」
インク壺を置いて蓋を開け、キャップをとった万年筆の先を付ける。少しインクを吸ったのを確認し、残されていた婚約破棄同意書の控えに、さらりとサインした。
「……手になじむ。最高です。こんなもの、いつの間に」
「インク壺とおそろいで用意してました。けどそっちの赤いのがあるから、贈るのもどうかと思って。ガンガン使って、使い潰してください!」
傷ついてインクが流れ切った、リーンが幼い頃にくれた赤い万年筆。何年も前に作られたはずなのに、エメラルドのように輝くフォリアのペン。そしてずっと使い続けてきた、彼女のくれたインク壺。ストレチアはその3つを、じっと見つめて。
「嫌です。一生大事にします」
きっぱりと、言い切った。
「ぉ……」
目の端で、フォリアが赤くなる顔を隠しているのが見える。
(一生……そうだ)
キャップをして万年筆を置き、蓋をしたインク壺を横に添える。ストレチアは机の引き出しから、小箱を取り出した。蓋を開けて中身を取り、フォリアに近づく。
「フォリア。失礼しますね」
「え、ちょ、甘い雰囲気!? 近い、顔が良……ん?」
(これをあげるつもりは、なかった。彼が婚約破棄など持ち出さなければ、私は……でも、もう。あなたしかいないわ)
幼い日からずっと見てきた、彼の笑顔が。徐々に気味悪く感じていた、その表情が。嬉しそうで柔らかなフォリアの笑みに、上塗りされていく。より濃いインクが、ぶちまけられたかのように。胸の鼓動を抑えながら、フォリアの首に、鎖を巻いて留めた。
「下がってるのは、勲章です。伯爵相当の身分保障があります」
「どうしたんですこんなもの!?」
驚いて首飾りを触って確かめているフォリアを見て、ストレチアはにっこりとほほ笑む。
「国王陛下から、迷惑料代わりにもぎ取りました。これで外国に行っても、平民とは侮られません」
「ほわぁ……一生大事にします……。というか褒めるのはお預けしておいて、素敵な贈り物で上げるなんて、ストレチア様あざとい」
「何を言ってるのです」
(それは贈り物ではない――――首輪よ)
フォリアは耳まで真っ赤になりながら、勲章をしげしげと眺めている。チェーンから下がるバッチを、ストレチアはその赤い瞳でじっと見つめた。錠前のような金属板、会社のロゴにする印章が施されていて、中央には小さなルビーが埋まっていた。
(あなたは絶対に守り抜いてみせる。他の、誰にも――――)
「ストレチア様……どうして、ここまでしてくれるんです?」
思考に割り込むように、呟きが挟まれた。
「私、専務から聞きました。この会社、私のために作ったんだって。今回だって、私が倒れたから怒って、譲渡するフリして国外移転することにしたんだって」
(あの女、口が軽い……減俸ね)
今は隣国で新拠点を回しているはずの令嬢の姿を思い浮かべ、ストレチアは眉をひそめた。
「――――これは、償いです」
少女が上司の、冷たい言葉に身を固める。
「あなたの未来を、台無しにしてしまった、私の。あなたたちを守れず、失敗してしまった、私の」
「そんなこと、気にしちゃイヤです……!」
(私がしっかりしていれば、この子たちを王子から守れた。この国で掴む未来も、あったはずなのに)
ストレチアはインク壺を左手に、万年筆を右手に取り、少し握り締める。
「社長の私には責任があります。失敗は自覚し、改めなければならない。だから新天地で私は、あなたを、皆を幸せにしてみせます」
「幸せ……」
ぼうっとした顔の部下を見て、ストレチアは頷く。
「取り急ぎ、縁談ですね。山ほど来てたでしょう」
「あ。あれ全部、断りました」
「なんですって?」
今日一番の驚きを得て、目を丸くした。
「利益狙いなの丸わかりですし。専務にもご了解いただいてます」
(あの女、情報を差し止めていたわね……減俸は二カ月にしましょう)
苦虫をかみつぶすように、口元を歪める。
「どのみち、下手に受けるの危ないですし。だからその。ストレチア様」
西日が窓から差す中。躊躇うような部下の顔を、じっと見つめる。ずいぶんと、長く待った気がしたが。
「よければ私のこと、ずっと面倒、見ていただけませんか?」
碧の瞳と目が合った瞬間、その言葉がするりと告げられた。
「…………ええ」
ぞくりとした震えと隠せない緩んだ顔をごまかすように、ストレチアはフォリアの隣を通り過ぎる。インク壺を持つ手の甲が、部下の手と少しだけ、触れた。
「それが私の、仕事ですから」
(あなたを守るのが、ね)
振り向く部下の耳に入らないように。顔に浮かぶその愉悦が、決して目に留まらないように。ストレチアは想いを、飲み込んだ。




