表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホロビタセカイデバケモノノタビ  作者: ウラエヴスト=ナルギウ(のペンギン)
1/49

其の一 吸血のバケモノ

注意※分かりにくい表現、誤字脱字があるかもしれません。そして唐突な戦闘などがあります。「そんな駄作見たくねぇよケッ!」と言う人は見ないでください。


ご了承下さい。


……と言うか文句はあっちのペンギンに言って下さい。

 ……どれだけ歩いただろうか。


 ……何処へ向かっているのだろうか。


 ……何処に、いたのだろうか。


 ……何も分からない。……俺は……誰だ。もう何も分からない。ただゆっくりと、歩いているだけ。


 そこに意味など無く、そこに理性は無い。本能からの逃走なのか、それさえも分からない。


「……もう……疲れた……」


 ただゆっくりと、地面に倒れた。時間の感覚はもう失われた。


 ……喉が乾いた……。……腹も減った……。……死ぬ……嫌だ……。


 意識は少しずつ遠のいていく。やがてそれを手放した。


 倒れた黒髪金眼の男性は、古ぼけた布を着ているだけだった。何も履いていない足の裏には小さな棘が刺さり、歩く度に痛みが走っていたはずだろう。


 目に見える傷が多く、最早生きていることさえも奇跡としか言えないだろう。


「……"レト(・・)"……」


 その言葉の意味は、男性には分からなかった――。


 ――……男性は古びて薄汚れて壊れかかっているベットで寝ていた。男性はどうやってここまで来たのか、誰がここまで運んだのかを考えていた。


 だが、答えは横にいた。


 男性の隣に眠っていたのは白い髪の女性だった。全身に包帯だけを巻き、安らかに小さく寝息を出しながら寝ていた。


「……おい、起きろ」

「…………み……」

「ここは何処だ。お前は誰だ。お前がここまで俺を運んだのか」

「…………お待ち下さい…………。"レト"は……まだ夢現です…………。……ん……」


 男性は女性の体を何度も揺さぶり、無理矢理起こそうとした。


 開いた瞳は銀色に美しく輝いていた。


「……お早う御座います」

「もう一度聞くぞ。お前は誰だ」

「……レトと申します」

「レト? 姓名は」

「……有りません」

「……何で、俺を助けた」

「それが……私の使命だから……です」


 ゆっくりと喋るレトの言葉に嫌気が差したが、状況判断のために尋問のように語りかけた。


「俺を助けることが? 意味が分からない」

「……分からなくても……良いのです。我々は……最早記憶さえも……失くした身です……。……ただ……使命に囚われ……戦を求め続ける……それが使命なのです……」

「……どうやって俺の記憶が無いことを知った」

「……そればかりは……」

「使命って言うのは何だ」

「貴方と私の……定められた使命……。……とは……何でしょうか……」

「お前が分からなければもう何も分からないだろ……」

「……そうですね……。……大変申し訳有りません…………」


 男性はただため息をしていた。


 すると、男性の体に異変が起こった。肺から何度も痛々しい音を出しながら咳き込み、やがて上体を起こすことも出来ずにもう一度寝転んだ。


「……は、はぁっ……クッソ」

「……大丈夫ですか……」

「これが大丈夫と思うなら相当……」


 男性はまた何度も咳き込んだ。そこから大きな倦怠感にまで襲われ、まるで飢餓で何年も過ごしたような空腹感にまで襲われた。


 明らかな体調の異常。それどころか生命の危機としか思えない症状。最早虚ろな視界に翻弄されながらレトの姿を見ていた。


 初対面では無いと思っていた。目覚めた時から感じていたそれは、この瞬間に確信に変わっていた。


 すると、レトは首辺りから包帯を解いた。解けた包帯から見える乳房を手で隠しながら、苦しんでいた男性の口を無理矢理開かせた。


 露出した首筋を、男性の口に近付けた。


 男性はただ本能として溢れた、またの名を食欲と言う欲望のまま力強く噛み付いた。


 男性には猟奇性を表す鋭い牙が生えていた。その牙はレトの白い肌を容易に千切り、まるで似合わない赤い液体を出させた。


 噛み千切ることで力尽きた男性はレトから口を離した。ただレトの白い肌から滴る赤い液体に涎を垂らしていた。


 レトは目の前に自身の体から溢れる血を求める主人に対して悦びを感じていた。何故なら、「自分は御主人の約に立てる。自分の体を求めている」と断言しているからである。


 レトは自分の首筋から溢れた血を手で受け止め、それを自身の主人の口に近付けた。


 バケモノはその血を啜った。その血を啜ることでしか食欲を満たせないバケモノは、徐々に力を取り戻した。


 自分からレトの体を抱き寄せ、首筋にまた牙を突き立てた。そこから更に溢れる血を余すこと無く啜り、渇き切った欲望を満たしていた。


「……どうぞ……お好きなように……。レトは……貴方の物ですから……」


 レトの心の根底にあるのはこの御主人の所有物としての使命。それが苦とも思わないある意味において奴隷とも言える異常な精神。


 そこから生み出される異常性はバケモノである御主人さえも受け入れ、そのために体を捧げ傷付けられることさえも史上の悦びとして受け入れる。


 やがて男性は口を離した。それと同時に、レトの肩の傷が塞がった。男性にはまだ体に残っている傷は消えていない。また弱々しく寝転んだ。


「……クッソ」

「……レトは……美味しかったですか……?」

「ああ、助かった」

「……良かった。……貴方の……約に立てることこそが……私の至上の悦び……なので」

「……なあ、何処かで会ったか?」

「……私にそのような記憶は……ございませんが……ですが……そうですね……。…………きっとそうなの……でしょう……。……そうで無ければ……この胸の高鳴りも……偽物になってしまいます……から」

「……そうか」

「……行き先は……ございますか……? もしあるのなら……私が頑張って……」

「……駄目だ。もう動けない。さっきから足を動かそうとしてるんだ。だが、全く動かない」

「……分かりました。歩けるまで……もしくは……足を動かさずとも……進める物が見付かるまでは……ここで寝ていて……下さい……。……寂しければ……私が傍にいますが……」

「必要無いから辞めてくれ……」

「分かりました……。……寂しかったら何時でも呼んで下さい……」

「だから必要無いって言ってるだろ。話が分からない奴だな」

「……すみません。……私は物分りが悪いようです……」


 少しだけ寂しそうな顔を見せながら男性の元を離れ、レトは外に出た。


「……何だったんだアイツは……」


 男性は天井を見上げた。


 薄汚れたコンクリート、点かない電灯、夥しい蜘蛛の巣、何処に繋がっていたのかも分からない纏まった配線、男性は自身の記憶には無かった、だが何処か覚えている風景に、必死に記憶を遡った。


 彼の記憶は白紙だった。見たことがある、聞いたことがある。だがそれは何時、何処で、何をしていたのかも情景としては浮かび上がらない。


 つまり先程のレトとの会話はある意味において始めて生み出された記憶だった。


 その生まれ立てとも言える男性にとって始めて会話したレトは、男性が思っていた以上に大きな存在になっていた。


「……やっぱり寂しいか」


 すると、外からレトの少しだけ張った声が聞こえた。


「やはりそうでしたかー……」


 大分無理をして声を出したのか、喉から出る咳の音が聞こえた。


 レトは主人の元に駆ける子犬のように男性の傍に立った。


「……やはり寂しいですよね……。……今日一日は私が……傍にいます……」

「……いや本当に大丈夫だ。と言うかあの小さな声が聞こえたのか……どんな地獄耳だ」

「嘘を付かなくても……良いのですよ……? ……私は貴方のために……生きています……好きにして良いのです……」

「いや本当に大丈夫。本当に大丈夫だ」

「……そう……ですか。……分かりました……。……近くに廃れた病院が……ありました……。もしかしたら……車椅子か……もしくは体を固定出来る……何かがあるのかも知れないので……探索して来ます……。……何かあれば……大声を」


 そのままレトは外に行ってしまった。


 男性は何時の間にか眠っていた。疲れのせいかも知れない。あるいはレトのせいかも知れない。もしくはその両方だ。少なくとも男性は両方だと思っている。


 目が覚めると、何故か体が重い。目を見開いて辺りを見渡すと、辺りに灯りは全く無く、ただの暗闇が写るだけ。


 夜目に慣れた頃、男性はようやく自分の上に乗っかっている物に気付いた。


 レトだ。レトなのは予想が出来ていたが、予想外はその服装だ。


 元々服とも言えない物を付けていたが、今のレトはその包帯も緩めており、妙に汗をかいており、視点が虚ろだ。それに息も荒かった。


「……レト?」

「……ふぅー……はー……はぁ……。……な……何でしょうか……。……まだ夜です……今はただ安静に……眠りましょう……。……眠れないのなら…………何でもしますが……」

「いや……充分だ」

「……何でもしますが」

「だからしなくても良いって言ってるだろ! 分からねぇ奴だな……」


 男性はもう一度何とか眠ろうと目を力強く閉じた。


 意外とすんなり睡眠に入ることが出来た。レトの体温が丁度良い布団のような効力を発揮していたのだろう。


 目が覚めると、まず感じたのは冷たく凍えるような隙間風だった。だが、その冷たさも、昨日から体温がほとんど変わっていないレトのおかげである程度は緩和された。


 男性が足に力を入れると、少しだけ動かすことが出来た。そのまま何とか体を起こそうとしたが、レトの体重が乗るだけでも起き上がれない程までに弱くなっている。


 男性はため息をつくと、胸の上に眠っているレトの体を揺すった。


「おい、起きろ。おーきーろー。おーきーるーんーだー! レト!」

「……ふぁい……」

「ったく……」


 男性はまたため息をついた。


 すると、男性はまた肺から何度も痛々しい音を出しながら咳き込んだ。だが、今度は少しだけ軽そうに見えた。


 レトは一瞬だけその無表情の顔を崩し、心配そうな顔を向けた。すぐに包帯を解き、顕にした首筋を男性の口に近付けた。


 母乳を求める赤子のように、男性は首筋に噛み付いた。その猟奇性と残虐性を表す牙は、肌を突き破り血を吹き出させた。


「……どうぞ。……幾らでも」


 レトは無表情だが、その瞳には歓喜を宿していた。


 男性はある程度血を飲むと、すぐにレトから口を離した。


 レトは包帯を巻き直し、男性が寝ているベットから降りた。


「……まだ歩けないのでしょうか……?」

「……ああ。足は少しだけ動くんだが……」

「……車椅子を……見付けたので……持って来ます……。……何が使命で……何をするべきなのか……それは未だに……分からないですが……それでもレトは……貴方のお傍に……」

「……何で、そんなに俺を慕うんだ?」


 レトは無表情で首を傾げた。その様子から、男性はレトさえも知らないと言うことを納得した。だからこそ、何故慕うのかと言う疑問は晴れることは無くなった。


 ……まず、俺は誰だ……。ここは何処だ……それが分からない。レトとは初対面だとは思えない。何処か懐かしさを感じる。恐らく記憶を失う前に面識があったんだろう。だが……。


 男性は頭を回すことしか出来なかった。体を動かせない男性にとってはそれしか出来ない。レトが車椅子を持って来るまでは同じ景色をずっと眺めるしか無いのだ。


 やがて頭も回らなくなった頃、男性の元にレトが戻って来た。その様子は無表情ではあるが、力はあまり無いのか車椅子を持って来るのにも数mずつ休憩を挟んでいた。


「……重いですね……。……ああ、どうぞ……この車椅子に……。……済みません。……体が動かせないのでしたね……配慮が足らず申し訳御座いません……」


 レトは丁寧に頭を下げていた。その行動にも男性は嫌気が差していたが、それと同時に既視感を覚えていた。


 この奇妙な感覚も、きっと、このレトと共に過ごせば何時か分かるのだろう。男性はそう思いながらレトに身を委ね車椅子に座った。


「それでは……何処へ向かいましょうか……」

「目的地は無いんだよな……。……レト、取り敢えず進める所を真っ直ぐ行って欲しい。大変だろうが……」

「大丈夫です……。……私は貴方の為に……生きているので……」


 レトが車椅子を押しながら、二人の奇妙な旅は始まった。


 軽く見渡すと、かつて輝いた電光掲示板は光を失いコンクリートで出来た人工的な地面に落ちており、資本主義を主張していた仕事場を表すビルのガラスは曇っており、植物に飲み込まれている。


 コンクリートの地面には罅が走り、所々が植物の根のせいで隆起している。そのせいで壊れかけている車椅子では進むことがあまりにも困難だった。その苦労のほとんどをレトが請け負っている。


 隆起した地面に車椅子の車輪が突っ掛かり、バランスを崩した車椅子から男性が転げ落ちた。


「ああ……!」


 レトはすぐに男性の傍に駆け寄った。即座に男性を車椅子に座らせ、体に傷が付いていないかどうかを入念に確認していた。


「申し訳御座いません……! 何処か痛む場所は……!」

「大丈夫、大丈夫だ。……ごめんな。まともに動けなくて」

「……いえ、貴方は……悪く無いのです……」


 レトは男性の左手に両手を添えた。


「……貴方は、決して……悪く無いのです……」


 その言葉を発したレトの顔は、少しだけ悲しそうだった。まるで存在しない過去の記憶の感情だけを思い出しているかのように。やがて、少量で些細な一粒の涙を落とした。


 表情はほとんど変わらない。だが、確かに感情はある。そうで無ければ、この言葉は嘘になるから。


「……大丈夫だ。……レト、進んで欲しい」

「……分かりました」


 レトは車椅子の後ろに回り、手すりを押した。


 ごろごろと転がる車輪の音は、時折止まる。また少し動いて、また止まる。


 何度も何度もそれを繰り返した。何度も何度も聞こえるその音に、男性は辟易していた。


 やがて気温は下がり、辺りを闇に落とした。凍える夜が、二人を襲った。


 レトが見付けた毛布に二人で包まり、地面で寝転んだ。それしか夜を凌ぐ術を二人は持っていなかった。寒さに体を震わし、男性は小さなくしゃみをした。


 レトはその男性に更に深く抱き着いた。


「苦しいんだが……」

「凍えるか……死なない程度に……圧迫されるか……何方でも……」

「……分かった。我慢する。明日筋肉痛にならないだろうな」


 二人はそのまま凍える風に吹かれて眠った。


 目覚めたのは、肺から出て来る苦しい息の音が聞こえたからだった。


 男性はまた咳き込んでいた。目に見える傷はもうほとんど治っているが、中を蝕む呪いのような傷はまだ癒えていない。


 男性はまたレトの血を啜っていた。それをレトは至福の時間だと感じていた。


 血を啜る行為は、男性にとってただの食欲に近い衝動だ。ただそれを抑えることは出来ない。男性の意志が弱いからでは無い。それ程までに強制力を有している無意識的な衝動こそが、血を啜る行為だった。


「……体は……動かせますでしょうか……?」


 レトは車椅子に座らせた男性にそう聞いた。その心は最早恋愛感情に近かった。それが恋愛感情だと言う知識も、レトからは失われていたが。


「昨日よりは動くが、歩けそうじゃ無い。今日もお願いして良いか?」

「……お任せ……下さい……。レトは……貴方の為に生きているのです……」


 その奴隷的な思考も、男性はもう慣れてしまった。


 また車椅子を押し、二人は前へ進んだ。


「……貴方は……何故彼処で倒れていたのでしょうか……」


 疑問を含ませた言葉をレトは発した。

「そう言えば、レトはどうやって俺を見付けたんだ?」

「……愛です」

「愛で俺を見付けられるなら、離れ離れになる心配は無いか。安心だ」


 男性は冗談混じりにそう言った。


 この二人には、今存在している記憶よりも大きな絆が存在していた。失った記憶から無意識的に懐かしさを感じているからかも知れない。


 理由は二人には分からなかった。分からない方が、きっと、何も思い出さずに過ごせるのだろう。


 深くを思い出すことは出来なかった。やろうとしても霞が掛かるように何も見えない。


「……誰も、いないのですね……。……この情景から……それは分かっていたことではありますが……」


 レトは進める道を見極めながらそう呟いた。


「俺達以外に人がいない……訳が無いか。と言っても人がいる所は分からないが……」

「人がいれば……きっと……今の苦労はある程度は……無くなるはずですから……」

「そうだな。レトも食事が取れるはずだ」

「……? ……ああ、私に……食事は必要ありません……。それこそ……排泄も……。その心配はせずとも……私は大丈夫……です」

「そうなのか? 本当に人間か? ……いや、俺もそれは言えるか」


 車椅子はまだ進んでいた。


 大して地面を暖かくもしない太陽が頂点に達した頃、車椅子は錆び付いた鉄橋の上を進んでいた。その鉄橋の全貌を見れば、かつてここはどれだけの技術があったのかを妄想させる。その技術力に、男性は見惚れていた。


 かつて全盛の姿を男性は知らない。かつて利用されていた姿を男性は知らない。ただ思考を元に構成された妄想と言うシミュレーションだけがここの景色を作り上げる。


「なあレト」

「……はい。……何でしょうか……」

「凄いな、この世界は。ひょっとしたら、俺達はここがまだ綺麗だった景色を見てたかも知れないんだ」


 男性の顔は、子供のようにはしゃいでいた。


「その時の景色はもう覚えてないが、それでも今の景色を美しいと思ってしまったんだ。きっと、この世界は美しいで満ちているはずだ」

「……貴方がそう思うなら……きっと……美しいのでしょう……。私は……残酷だと思いますが……残酷であり……美しいと言えるのでしょうか……」


 レトは、かつて発展していた歴史の遺物を見詰めた。


「……世界とは、残酷とも言えます……。……これ程までに……天に届く程の建造物さえも……大河の上を渡る鉄の橋さえも……最早歴史の遺物と化しています……。……貴方は……せめて貴方だけは……苦しまないように……」

「……それを心配されるとは心外だな。今の所苦しいとは思ってないぞ?」

「……苦痛を感じず過ごせるのなら……良かったです」


 レトは男性の顔に触れた。それは、あまりにも愛おしい御主人に、触れたかったと言う単純で明快な理由だ。この人の為なら身を捧げ、命さえも捧げる覚悟を持っている。


 男性は優しく微笑んでいた。


「大丈夫だレト。俺は、お前の前からいなくならない。だからお前も、俺の前からいなくならないで欲しい」

「……分かっています。……私は……貴方だけのレト……ですから」


 レトは、何とか力一杯口角を上げようとした。その笑顔はあまりにも不器用で、表情筋を動かすことを慣れていないことが分かる。


 その不器用な笑顔を見ながら、男性は声を出して笑っていた。


 鉄橋を越え、夜を迎えた。


 男性とレトは同じ様に夜を過ごした。


「……あの」

「どうしたレト。お前が眠れないなんて珍しいな」

「……いえ……。……嫌な、予感が……。……気の所為でしょう。……申し訳御座いません……心配させてしまい……」

「……大丈夫だ。きっと明日も、一緒にいられるはずだ」

「……そう……なら……良いですね……」


 レトの声は、少しだけ悲しそうだった。


 次の日の朝、男性は少しだけ咳き込んだが、前よりも軽そうだった。衝動も少しは抑えられているのか、苦しそうな声は出していなかった。


「……もうこれも……日課になりましたね……」

「何時もありがとうなレト」


 顕にした肩に噛み付き、血を啜った。


 バケモノは、血を啜れば傷を癒やしていた。それを何度も繰り返して、男性は自力で歩けるまでに回復していた。


「良かったです……」

「ちょっとまだ力が入らない……それにすぐに疲れる……」


 やがて男性は弱々しく体中の力が抜けた。すぐにレトが抱え、その場に座らせた。


「大丈夫ですか……?」

「ああ……大丈夫だ……。偶には歩かないと、衰えてしまうからな。今日は何とか歩きたい」

「それなら……私が支えますので……」

「ありがとうな、レト」


 その二人には、雪が降った。


 目の前の視界が見えない程に、白い雪が落ちていた。何処へ進んでいるのかも、何処にいるのかも分からないまま、二人は見失わないようにゆっくりと歩いていた。


 レトのように寒そうな服装をしていても、特に寒がるような様子をしていない。白い肌に白い雪が触れたとしても体温が一切下がっていない。それに比べて男性は寒がっていた。


「レト……お前本当に頑丈だな……おーさぶ! あーさぶ!」

「……寒い、と言う感覚……その物が……存在しないのです……」

「便利な体だな。あーさぶ! 何で急に雪が降り始めるんだよ!」


 男性の指の先は赤くなっており、両手で擦りながら何とか暖を取っていたが、それをしながら不安定な足場で、まだまともに力の入らない体を動かすことは困難を極めた。


 レトに支えて貰いながら動くことが大半になってしまった。


 白い息が口から吐き出され、それがこの空気の気温を物語っていた。


「……やばい……死ぬ」

「大丈夫ですか……?」

「……だいじょばない……」

「……分かりました……。何か……暖を取れる物が……都合良く……見付かれば……」


 そう言ってレトは辺りを見渡していたが、それを見付けることは難しかった。辺りに降り積もる雪はすぐに積もり、足首まで白い雪で満たされた。


 真っ白な景色に足音を残し、レトは支えている御主人の為に辺りを散策していた。


 もう男性は動くことも出来ていなかった。唇を青くしながら僅かに震えていた。


「……レト……もう眠い……」

「……それは簡単に死んでしまう……はずなので……」

「……分かってる……気合で起きてるから……せめて雪に当たらない室内に移動してくれ……」

「……分かりました」


 レトは未だに残っている木造の平野の扉を傍にある木片を投げ付けて壊し、すぐに放置されているベットに男性を寝かせた。


 もう虫食いが酷い毛布ではあるが、それを男性に被せたが、それでもまだ震えている。


 どうすれば良いのか、無表情でその場でぐるぐると回っていた。


「ああ……! このままでは……あぁ……」

「……落ち着いてくれレト……。……取り敢えず……暖かい物を……」

「わ……私なら……!」

「そう言う物じゃ無い……お湯とか……布をお湯に浸して被せるとか……」

「ああ……分かりました……」


 レトは雪が降る外を駆け回りながら、何とか火が付けられそうな道具を探していた。


 都合良くオイルが微量に残っているライターが落ちていた。何とかまだ使えるように思えるが、燃やす物が無い。


 辺りに爆発的に繁殖している植物の蔦を何とか引き千切り、掻き集めた。


 水が漏れないはずの錆びた容器の中に雪を詰め、室内で蔦を起き、それに火を付けた。あまりに火が付かないせいか、レトの緊張は高まった。


 ようやく小火が付き、その貴重な火を消さないように僅かに風を送った。ある程度の熱をその火から発することを確認すると、雪を詰めた容器をその火で温めた。


 湿気が酷い植物の火力は大した物では無い。雪を溶かすことも時間が掛かる程だ。その悠久に感じる長い時間に、レトは更に緊迫していた。レトの耳に、御主人が自分を呼ぶ声が微かに聞こえた。


 本来なら聞こえない声量だろう。聞こえた理由は愛である。


 それをレトの心を更に焦燥させる。


「……早く……」


 漏らした言葉は、焦燥感を放っていた。


 やがてその容器で溶かした水に指を入れると、充分に温まったことを確認した。


 零さないように、それでいて焦るように、丁寧に男性へ持って来た。


「……どうぞ……」


 その容器を男性の口に付け、僅かに傾けた。男性の口内にお湯が入り、それを疲弊し切った体で何とか飲んでいた。


「……あぁ……温かい……」

「良かったです……。……ああ……本当に……良かった……」


 レトは男性の凍えた指先を包むように両手で握った。その手は、寒さでは無い僅かな震えを見せていた。

 

 その震えは、御主人の命の危機に瀕したことへの恐怖感、そしてそれを今は乗り越えたことによる安堵からの物だった。それ程に、心から愛した彼の存在が愛おしいのだ。


 ただ、今は、冷たい体が徐々に暖かくなっていく男性を見て、安堵の息を大きく吐いた。


 献身的な介抱を続け、男性の体から震えが収まったと同時に男性は眠ってしまった。


 今度の睡眠はきっと大丈夫だろうと、レトは思いながらその男性の隣に寝転んだ。


「……名前さえも、私の中から……消えてしまっているのです……。……貴方は、以前……どんな名前だったのでしょうか……。……きっと……とても美しく……とても……綺麗な物なのでしょう……」


 レトは眠っている男性の顔を撫でた。愛おしそうに、恋い焦がれているように。


 何故慕っているのか、何故愛しているのか、何故尽くそうと思っているのか、その記憶は未だに見えない。ただ、とても美麗で全てを捧げることが出来る程の思い出があるのだろうと、無くした思い出に思いを馳せた。


 レトは疲労を感じていた。それを苦とは思わなかったが、生物として、疲れを癒やすように深い眠りに入った――。


 ――ある景色を見ていた。それが何かは、レトは未だに分からない。ただ、妙な既視感と懐かしさを感じるだけ。


 遠い遠い何処かに、御主人の影を見付けた。それを追い掛けるようにレトは駆けたが、一向に追い付くことは出来なかった。やがて疲れ切ったように、その場に蹲った。


「……何処へ……行ってしまったのですか……。……嫌だ……もう二度と……貴方をあんな目に(・・・・・)……」


 その言葉の真意は、レトにも分からなかった。心の底から出て来た悲痛な叫びに近かった。


「……ここは……」


 レトはここが夢であると理解した。何故なら、目の前の景色には桜が舞い散っていたからだ。寒い風が吹くあの景色とは全く違うからだ。


 その桜の前に、自分と同じ髪色と瞳の色をしている女性が正座で座っていた。その女性に話し掛けようとした直後に、その女性はレトに気付いたように正座を崩した。


「……レトちゃん!? 何でこんな所に……。……いや、その様子だと、初めましてになっちゃうのかな?」


 レトは首を傾げた。


「……誰でしょうか」

「そっか。うん。仕方無いよ。……何時か、きっと、貴方は自分が何のかを思い出せるよ」


 その女性はクスクスと笑っていた。その顔は可愛らしい。


「……貴方は一体……」

「私? うーん……□□□□□。聞こえた?」

「いえ……」

「そっか。それならまだ遠いかな? けど、大丈夫。旅を続けて。そうすれば、何時か、私を知る。それが旅の終着点じゃ無いけどね」

「……私は……誰なんですか」

「……貴方は――」


 ――その言葉を聞くことも出来ずにレトは目覚めてしまった。少しだけ冷えている男性の体に密着した。


「……起きたか?」

「……はい……」

「……寒いからもう少し引っ付いてて欲しい……」

「分かりました…………暖かいですか……?」

「勿論」

「……それなら良かった……」


 レトは男性と更に密着した。


「……ああ、忘れていました……。……血を……」


 レトは包帯を解き、顕にした首筋を男性の口元に近付けた。


 男性は自分の腕でレトの体を抱き締め、その首筋に噛み付いた。


 少しだけ強いその力に、レトは更に悦んだ。


 ある程度血を啜り、男性は首筋から口を離した。


「……あの」

「どうした?」

「……今日は……抱き締めてくれるのですね……」

「嫌だったか?」

「そうではありません……ただ……珍しいと思いまして……」

「寒いからな。こうした方が体温が奪われずに済む」

「……今日は一日……この中にいますか……?」

「いやー……雪が収まったら出発しよう。ここにずっといるよりかは良いはずだ」

「……分かりました……」


 二人は抱き合って数時間を過ごした。やがて豪雪に近かった雪ははらはらと小さな雪粒が降る程度に収まった。


 男性は虫食いの毛布を体に羽織った。


 二人は雪景色に変わってしまった場所を歩いた。


 もう男性の体は充分に動けるようになっていた。一般的な男性程度の運動は何とか出来るらしい。それでも少し走るだけで息を切らす程度には回復していない。


「ようやくレトの手助け無しで歩けるようになったな」

「良かったです……。……私に頼ることが少なくなった……と考えれば……少し寂しいような……気分になりますが……」

「今は祝ってくれよ。ほら、一緒に歩けるんだから」


 男性はレトの顔を優しく撫でた。その手をレトは無表情ながらも嬉しそうに握っていた。


 そのまま二人は何時間も降り積もる雪を歩いた。


 レトも裸足だが、寒さを感じないのかずっと無表情で苦痛の言葉も発していない。ただ、男性はその冷たさを感じる感覚はまだあった。そのせいか、歩けば歩く程に足の触覚が無くなることが分かる。


 やがて二人はある大きな建造物に入った。男性の足があまりの冷たさに壊死の一歩手前になってしまっているからだ。せめて雪が積もっていない場所に逃げた結果だ。


 探索すると、暖かそうな布が何枚か放置されていた。もう汚れてはいるが、それでも男性の足を温めるには充分だった。


 布を足に被せ、レトの脚の包帯を破りそれで布を縛った。


 簡易的な靴ではあるが、無いよりはマシだ。男性はまたレトに向けて感謝の言葉を述べた。


 二人は何か役立つ物が無いかとその植物に襲われたショッピングモールの中を歩いた。


「……こんなに……探していると……言うのに……死体の一つも……見付けられない…………どうしてでしょうか」

「何処かで人が密集している……そう言えば動物も見掛けてないな。……何かが食べているとかか」

「何か……とは?」

「さあ?」


 二人はもう動かない黒い階段を登り、辺りをぐるりと見渡した。


 レトの目に、何か動く物が見えた。それは風に吹かれたからでは無く、何かが高い所から落ちた訳では無く、確かに意志を持っている人形の何かだった。


 そのまま壁の後ろに移動し、見失ってしまった。


「……何か……見えました」

「動物か?」

「いえ、ある意味に……おいてはそうです……」

「分かりにくいな……つまり人がいたってことだな?」

「……はい」

「追い掛けるぞ。この世界の荒廃の理由が分かるだけでも儲けになるはずだ」


 レトの案内を受けながら見えた場所を覗いたが、そこには何もいない。


「雪が積もっていないことがこんな面倒臭い事態を引き起こすとは思わなかったな……。積もってれば足跡が残るのに……」

「……捜索しましょう……」

「じゃあ二手に別れるか」

「……分かりました……。…………何かあれば……大声を……」


 そう言ってレトは男性と別れた。


 レトの背には、嫌な気配が貼り付いていた。胸騒ぎとも言える。


 妙な不安感に心は支配された。それを振り払うように、見えた何かを探していた。


 レトは更に上へ行った。


 もう一度その人影が見えた。それを追い掛けるように早足で歩いた。


 その人のような何かは確かに見付けられた。確かに、見付けられた。ただ、それはレトが抱いていた希望的な物では無かった。

 狼のような頭をしている人間。いや、人間とも言えないのだろう。片腕は氷で形成され、そのナイフに近い鋭利な刃物のような物が指先に形成されていた。


 その怪物は、人間の敵として立ちはだかっていた。


 レトはすぐに逃げた。恐怖はすぐに命の危機を察知した。


 その逃亡はすぐに無駄になった。レトの背中には三つの爪で切り裂かれた。


 包帯に血が滲み、レトの小さな悲鳴が聞こえた。そのまま狼のような頭をしている人間は動きが鈍ったレトに向けて腕を横に振るった。


 そのあまりにも冷たい剛腕は、レトを殴り飛ばした。コンクリートの壁に叩き付けられ、何かが砕ける音が聞こえた。


 弱々しく倒れたレトに、その怪物は更に追撃を繰り返し、辺りを凍らせていた。


 凍り付いたレトの腹部が崩れ始めた。そこから僅かに赤色の固形物が溢れ出している。それが何なのかは、考えたくも無かったのだろう。


 左腕は、その言葉通り皮一枚で辛うじて繋がっていた。落ちる血は、流れる血は、レトから意識も流していた。


 辛うじて、レトは、意識を保っている過ぎなかった。


 世界とは、レトの言ったように残酷であった。滅びた世界は残酷であった。


 強者こそが、この世界で生きる権利を持つ存在だ。それ以外はどれだけ力強く抗ったとしても、それは無様に穢らわしく幼稚に空振るだけ。


 レトの体は何かに抱えられた。その暖かさに、その無表情の銀色の瞳に、涙が流れていた。それ程までに、愛おしかった御主人。


「レト! おいレト! 生きてるよな!」


 男性はレトを抱えながら何とか走っていた。疲労はすぐに溜まり、走ることも困難になっているが、それでも何とか足を動かしていた。


「……棄てて下さい……」

「何だ! 自己犠牲すれば俺が生き残るからか  そんな俺が良いならもう一度言え!」

「……棄てて下さい……」

「あーそうかい! 残念だったなレト好みの性格じゃ無くて!」

「……違うのです……。……私には……貴方程の命の価値は……ありません……。……貴方はこの先の世界に……必要なのです……。……もう……囚われの使命は……きっと無いのです……。……だから……だからせめて……人形に等しい私を……棄てれば……」

「使命とか何とか色々分からないことばっかり言いやがって! 記憶が無いからそんな物知らないんだよ! ただ……! ただお前は俺に必要だ! 死ぬなレト!」

「……ああ……勿体無い言葉……。…………やはり……使命はもう無いのです……。……分かるのです……それが……何も無い……。生きる理由は……貴方だけで充分です……」

「どうした急に!」

「……助けて下さい……。貴方の……暖かみが……貴方の声が…………貴方の顔が……貴方の瞳が……愛おしい……。……何よりも愛おしく……美しく。ずっと……傍にいたい」


 だが、そのレトの言葉も、意味を為さない。何故なら今の二人は弱者であるからだ。弱者は生きることさえも許されない。強者の庇護下に置かれることにより初めて長く生きることが許される。弱者とは搾取されるだけであり、強者こそがその搾取された物を啜ることが出来る。


 二人は、怪物にとって弱者であり、餌である。


 男性の足は限界に達し、その場で倒れてしまった。その直後に男性の片足首は凍り付き、崩れた。


 それでも前へ進もうと強い意志を示していた。レトの右腕を握り、不格好な匍匐前進を繰り返して前へ進んでいた。


 やがて割れたガラスから体を落とし、積もった雪の上に二人は落ちた。衝撃は雪のおかげで和らいでいたが、それでも凍える手で深い場所に雪で埋まっている下の地面を掘り起こし、手を起き、レトの腕を掴んで這う。それが長く続くはずも無かった。


 手は悴んで、まともに動かすことは出来ない。男性が持っている輝く金色の瞳が写す視界は以前よりぼやけて見えてしまう。


 震える体から溢れる僅かな白い息だけが、レトがまだ生きている証拠だった。


 男性の指の先が凍傷での壊死のせいか崩れ始めた。それでも無理矢理指を使い、更に逃げるようにレトを引き摺った。


「……レ……レト……生きてるよな……。……息は……している……。……出血は止まっている……。……短時間に重大な傷を何度も受けると死ぬのか……? ……それなら……レトだけは生き残れるか……。……俺が死ぬ前に……もっと遠くに……」


 震える体を動かすことはほとんど出来なかった。蛞蝓の方がもう少し速く動ける位に男性の進む速度は遅くなっていた。


 やがて、男性の傍に何か大きな生物が羽撃くような強い風を感じた。それは辺りに積もっている雪も此方に飛ばしているせいか、男性の体は更に凍えた。


 男性は僅かに頭を上げた。そこにいたのは、更なる怪物だった。


 辺りには白く小さな蝶が舞っていた。その先にいる存在こそが、強者として君臨する怪物の蝶だった。


 白い羽根を持っている人のようだった。ただ、その人は5m程の身長を持っており、その羽根は更に横に広がっていた。

 人の体は背骨に沿うように一人分の背程の長さをしている突起物が三本生えていた。

 その下半身は脚では無かった。人を簡単に丸呑みにするであろう大きさの頭を持つ蛇が六匹生えていた。その六匹の蛇の頭は男性とレトを餌としての希少性を見定めていた。

 生えている蝶の羽根は、特徴的な白い模様が書かれている黒い物だった。


 男性は、もう何も見たく無かった。己の弱さを悔いた。


 レトと過ごした時間は数日程だ。だが、きっと、失った記憶の中では長い時間過ごして来たはずなのだ。それを思い出せなくても、この胸の高鳴りで証明出来る。


「……レト……もう二度と……一人にさせないから……」


 男性は、気を失ってしまい動くことも話すこともしないレトの体を抱き寄せた。その右腕に、噛み付いた。


 男性は経験から分かっていた。血を啜れば、肉を喰らえば、自分の傷が塞がると言うことを。少しずつレトの血を啜っているせいでその回復も微々たる物ではあっただけだ。


 もし、右腕全てを喰らえば、どうなるか。それを男性は、失った記憶から学んでいた。


 レトの為に、二人で過ごす為に。強者を喰い殺す為に。弱者に落魄れないように。


 目の前の強者を蹂躙する。目の前の怪物を蹂躙する。彼は、バケモノだった。


 立ち上がった。微かに泣きながら、立ち上がった。


「……一人にさせないから……だから……お前を殺さないと……。……なあ……レト」


 男性は少しだけ体を動かした。その直後に、怪物の高い頭に蹴りを入れた。


 怪物は少しだけ蹌踉めいた。目の前に、着地に失敗し足を痛めている男性を六匹の蛇の頭部が睨んだ。


「いった……。……ああ……そうだった。俺は……」


 男性の足は完璧に治っていた。壊死した指も何事も無かったかのように治っており、その右手には黒の片刃の直剣を握っていた。黒鉄の輝きを僅かに発するその直剣は、僅かに懐かしさを感じた。


 妙に男性の手に合う。これを振るった記憶が、何処か遠い霞に閉ざされた奥深まった所に雪に埋もれている記憶には、これを振るった記憶があった。


 それを一度振るうと、真っ赤な炎が横に広がった。


 それと同時に、男性の体に変化が起こった。


 右の側頭部に大きく、醜い程に曲がった山羊の角が生えていた。


 左の瞳の周りには赤い罅が走っていた。そこから僅かに血が流れており、それに痛みは無かった。


 上半身から左肩に掛けて左手にまで黒い鎖で縛られていた。その鎖は罅が走っており、その内部から赤い光が僅かに漏れ出していた。


 怪物は危機を覚えた。目の前にいる上位存在から感じる異常な力は、この世界には決して存在してはいけない物だった。その黒は、絶対的な悪であった。悪でなければならない。悪と言わなければならない。何故なら、彼はバケモノだから。


 六頭の蛇は男性を襲った。


 まず近付いた蛇の頭を左手で殴り飛ばし、二つ目の頭には右手で頭蓋を陥没させ、三つ目と四つ目は、体を回して自由自在に伸びる黒い鎖が辺りのコンクリートを抉りながら頭を叩き潰した。


 五つ目の頭は跳躍で避け、その蛇の胴体を軽やかな足で走った。


 六つ目の頭も襲って来たが、その鼻頭に左手を置き、それを飛び越えた。


 飛んでいる怪物の頭よりも高く跳躍した男性は、直剣を振り下ろした。


 それは怪物の片側の羽根を切り落とした。人の体をしている部分を両足で蹴り飛ばして隣のビルに叩き付けた。


 未だに自由落下中の男性は、自分の頭が下の逆様であっても腕を振るった。


 黒い鎖は怪物に巻き付き、もう一度腕を後ろに向けて振るって近付けた。勢い良く此方に向かう怪物の腹部に、右手で握っている直剣を突き刺した。


 そのままその怪物の巨体を叩き落し、腹部を斬り裂くように男性は走った。


 両断された体だとしても、羽根が切り落とされたとしても、その怪物は未だに飛ぼうとした。


 僅かに飛翔しているその怪物が大きく絶叫のような叫び声を発すると、男性の体に無数に傷が刻まれた。だが、それだけでこのバケモノを止められること等出来る訳が無かった。


 怪物の懐に潜り込み、そこから直剣を構え、思い切り高く跳躍した。


 怪物の肉に刃は入り込み、その鋭利な切れ味は簡単に真っ直ぐ抵抗も無しに上へ上へ切り裂いた。


 血が男性の体に撒き散らされ、内臓が男性の肩に乗る。それでもまだ上へ動いていた。


 男性の口には怪物の鉄臭く生臭い血が入って来る。


 やがて男性は怪物よりも上にいた。その下にいる弱者に成り下がった怪物は、上から下まで真っ直ぐ切り分けられていた。


 最早悲鳴も発することも無かった。発する為に必要な声帯も、それを動かす神経も、それを伝える脳も切り分けられていたからだ。


 男性は着地が出来なかった。受け身もせずに衝撃を諸に体に響いてしまい、また這うように男性はレトに近付いた。


 何時の間にか、男性の姿は元に戻っていた。その体で、男性はレトを抱き締めた。


「……大丈夫……大丈夫だ……。レト……お前は死なない……だから……」


 傷を治そうともしなかった。正確には、傷を治す為の出血をレトの体に刻む程の力が無かった。


 意識が降り積もる冷たさに奪われる。男性は、最後に何とかレトの顔を見詰めていた。


「……ああ……良かった――」


 ――黒髪の好青年のような男性が雪景色を歩いていた。暖かそうなコートを羽織っており、この雪が齎す凍えるような冷たさを克服していた。金属で出来たマスクを口元に付けており、何かを警戒していた。


 その好青年の身長よりも長い柄を持つ槍を肩に乗せながら、後ろで歩いているもう一人の男性に話し掛けた。


 その男性は好青年よりは年上に見える。赤い髪に黒色の瞳の男性だった。同じ様にコートを羽織って、金属で出来たマスクを口元に付けていた。


 その男性は奇妙な形をしている大槌を右手で軽々しく持っており、偶に遊ぶように回していた。


「この辺りか? 昨日見付けた大型の変異体と言うのは」

「多分なぁ。昨日は流石に物資が揃って無かったから逃げたが……」

「今日はあくまで確認と観察だ。もしお前の言う通りの変異体と言うのなら、ある程度の戦力は掻き集めなければいけない」

「はぁーあ。どっかで誰かが倒してくれねぇかなぁ……」

「大型の変異体を倒せる人間がいるとすれば、それはただの化け物だ」

「それも……あ? 何だあれ」


 赤髪の男性はある奇妙な物を見付けた。辺りに満たす白い雪景色に似合わない赤い塗料があった。


 好青年の男性もそれに気付いたのか、赤髪の男性と顔を合わせた。


 その付近に近付くと、赤髪の男性は声を出した。


「……おい。これ……俺が見付けた変異体の死骸だ」


 蝶の羽根を持っている縦に別けられた人の体を見てそう言った。


 その言葉には驚愕が多分に含まれていた。


「そんな訳が無い。ここまで大型の変異体を倒す存在がこの辺りにいる訳が無い。その方が脅威だ」

「でもよぉ……」


 赤髪の男性はまた何かを見付けた。


 見てみると、雪に半分埋もれている二人組を見付けた。その二人組はまるで凍った死体のようだった。抱き合っている一人の女性は未だに白い息を出しているが、もう一人の男性はその息を発していない。


「おい! こっち! 人が倒れてるぞ!」


 好青年の男性はすぐに駆け寄った。


 傷の程度を調べていると、焦っている声を出した。


「……不味い。女の方はまだ大丈夫だ。脈も安定しているし息もしている。片腕が無いが出血も止まっている。だが……男の方が虫の息だ。呼吸が安定していない、と言うかほとんどしていない。それに……取り敢えず止血だ。その後に人工呼吸だ」

「ここでやっても凍死するだけだ! 一旦拠点に連れ帰るぞ!」

「その間に死ぬ可能性があるから早く人工呼吸をしろと言っているんだ! 私はとにかく二人を運ぶ物を持って来る。その間にお前は人工呼吸! 良いな!」

「あぁー! 分かってる!」


 赤髪の男性は気道を確保した状態で鼻をつまみ、大きく口を開けて覆うように密着させた。大体二秒程吹き込んで胸が膨らんだことを確認すると、口を離した。


 もう一度同じことを繰り返しても、呼吸をすることは無かった。


 好青年の男性が何とか運ぶ為の橇のような形の物を持って来た。


「早く乗せるぞ! 手遅れになる前に!」

「人使いが荒いなお前は!」

最後まで読んで頂き、有り難う御座います。


いいねや評価をお願いします……ペンギンの自己評価がバク上がりするので……何卒……何卒……

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ