二章 その1
ンィーガとザルバドの初めての狩りの日から、七年が経った。
早朝。サウザンド族の集落では、全員参加の大規模な集会が開かれていた。内容が伝えられておらず、広場に集められたンィーガとフーは人混みの中で何事かと話し合っていた。
そばには伸びた黒髪をいじっているロウロ、相変わらずの呆けた顔で鼻の穴に指を突っ込んでいるギャドと、それを見て馬鹿にして笑うルキアとバーリアの姿があった。七年経っても変わらない彼らのような存在がいる一方で、ンィーガとフーの身辺には変化があった。
このところ、ザルバドが呪術師ブンババと弟子のグーグスが住まう家に篭るようになり、交流が途絶えたのだ。狩りには参加しており、その際にはこれまで通りの他愛もない会話もするのだが、話す機会があるのはそのときぐらいで、狩りの予定がない日にンィーガの家の前で遊ぶことはなくなっていた。そして今日も、全員参加の集会にも関わらずザルバドの姿がない。
「ザルバドのやつ、どこに行ったんだろう」
「わからない」
「人も集まってきたし、そろそろ集会が始まりそうなんだけどな」
フーの言葉通り、村で一番大きい家の中からオウララが姿を現し、高台に立って集会の開始を宣言した。狩りのときの服装とは異なり、肩からホウキョクグマの毛皮をマントのように羽織っている。首には大きな翡翠の首飾りを、両腕には木製の腕輪を身につけていた。
「注目! 今日は大事な話がある」
オウララの一声で、広場は水を打ったように静かになった。
「ブンババが呪術師を引退することとなった。これからは弟子のグーグスがその任を引き継ぐ。新しい呪術師、グーグスの誕生だ!!」
オウララが声を張り上げると、応えるように広場から歓声が上がった。オウララの合図で呪術師グーグスが姿を見せると、その声は一層大きくなる。グーグスはブンババから譲り受けたホウキョクグマの赤い毛皮の衣装を着込み、まぶたにはヘタマイトやマンガン由来の紫の顔料を塗り込んでいた。
ある者は手をたたき、またある者は雄叫びを上げる。広場全体が歓迎の空気に包まれた。
「話はもう一つある!」
オウララが声を張り上げる。群衆は騒ぐのをやめ、固唾を飲んで続く言葉を待った。
「今から十七年前のことだ。大賢者様からある予言を授かった。遠くない未来、この地に起こる災厄と、それを退ける英雄の予言だ。英雄の名はザルバド! ザルバドはいずれ、我らサウザンド族を率いる長となる男だ!!」
オウララの言葉を静かに聞き入っていた人々の中に波紋が広がる。疑惑と、困惑の色を含んだその波はンィーガやフーたちにまで及んだ。
「ザルバドが、英雄?」
フーが呟く。混乱を避けるため、オウララは今日この日まで大賢者の予言を秘匿していたのだった。ンィーガには幼いころに伝えられていたが、彼はその意味をよく理解していなかった。
ンィーガはオウララの続く言葉を真剣な眼差しで見入った。
背後から露骨な舌打ちが聞こえた。ルキアとバーリアだった。ンィーガはオウララに視線を向けたまま、二人の会話に耳を立てる。ぼそぼそと、控えめな声量で何事か話している。声色から、ザルバドを妬んでいるのだとわかった。
「ザルバドはまだ若い。サウザンド族の長は引き続き、このオウララが担う。しかし、今日この日から、ザルバドが狩りの指揮を執り行うものとする!」
「なんだって?」「ありえねぇ、あんな奴に命を預けろってのかよ」
眉をひそめ、ルキアとバーリアが悪態をつく。今度はンィーガにもはっきりと聞こえた。そばに立つロウロが、不安げにンィーガの腕を取った。ザルバドと仲が良いはずのフーも、笑顔を見せない。突然のことに驚いているようだ。
「大賢者様の予言に従い、この私、オウララから英雄ザルバドに”剣”を授ける」
サウザンド族は剣を知らない。しかし、高台にザルバドが現れ、オウララから棒状に長く削り出した石の棒を受け取るのを見て、状況を察した。
ザルバドが授かった剣を天高くかかがけてみせる。再び歓声が上がった。しかし、空気は歓迎一色には染まらなかった。あちこちで囁き合う言葉でない声が広がり、中には怒号を上げる者さえいた。ルキアとバーリアも便乗して否定的な声を上げる。
「るきあ、ばーりあ?」
二人を見て、周囲を見ても、ギャドには何が起こっているのかわからなかった。首をかしげながら、気の抜けた顔で鼻をほじっている。
「お前はいいよな、気楽で」「どうせなんもわかってないんだろ?」
ルキアとバーリアに罵倒されても、ギャドはぼうっとしたままでいた。
広場の喧騒が大きくなる。賛同する声と批判する声が入り混じって、収拾がつかなくなる。
「静まれ!」
声を上げたのはザルバドであった。
「確かに俺は若い。だが俺にはみんなと同じサウザンドの血が流れている。俺はこの血に誇りを持っている。気に食わない者もいるだろう。しかし、例えお前たちが俺を見捨てても、見損なっても、俺はサウザンド族の指導者として、常に最善を尽くすと誓う!! どうか俺に、皆の命を預けて欲しい」
ザルバドの演説によって、その場はなんとか収まった。集会が終わると、ンィーガはザルバドのもとへ走った。
「ザルバド!」
ザルバドは呪術師グーグスの家の前で振り返る。
「ィーガか。なんのようだ」
「ザルバド、立派になったな。よく思わない者もいるだろうが、挫けるなよ? 俺は応援する」
嬉しそうに笑うィーガに、ザルバドは顔色を変えない。その褐色の瞳は冷たく、どことなく生気がなかった。
「言いたいことはそれだけか?」
ザルバドは返答を待たずに向き直り、グーグスの家の中に消えた。
「ザルバド?」
数日後。小高い丘の上に、武器を手にしたサウザンド族の男たちが集結していた。今日はザルバドが初めて指揮をとる狩りの日だ。しかし、かつてのオウララを真似て丘の頂上に立ったザルバドは、浮かない顔をしていた。
「おかしい。他種族の姿がまったく見えない」
ザルバドはここに来るまでの道のりを思い返す。思えば、その時点で他種族の気配はほとんどなかった。
広大な円形の大地マーミアでは数多くの種族が暮らしている。しかし実は、一平方キロメートルに生息する種族の個体数はそれほど多くない。とはいえ、サウザンド族の視力なら数キロ先の種族の種類を見分けることができる。そんなサウザンド族の目を持ってしても他種族の姿が見当たらないというのは、異常事態に他ならなかった。本来なら狩りを中止し、すぐにでも引き返すべきだ。
しかし、
「ん? あれは、アズマゾウか」
ザルバドは比較的近い距離に、一頭のアズマゾウの姿を見とめた。体高二メートル弱の小さな個体だったが、他に狙うべき種族がいない。それに、初めて指揮する狩りの成果として、アズマゾウは上出来と言えた。
「幸い敵対種族の姿もない。今日のところはあのアズマゾウを持って帰ろう」
「ザルバド」
合図を出そうとしたザルバドの背に、聞き慣れた声がかかる。浅黒い肌を持つサウザンド族としては珍しい、わずかに黄色がかった色白の肌に、決然と見開かれた褐色の輝きを持つ瞳。ンィーガだった。
「ィーガ」
「今日は空気がおかしい。静かすぎる。残念だが狩りは中止にしよう」
「それを決めるのは俺だ。口答えするな」
初めて指揮をする狩り。先日の集会で受けた、非難の声。ザルバドの英雄としてのプライドが、判断力を鈍らせた。