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一章 その1

 産声は、ほとんど同時だった。


 (きた)る夜明け。降り頻る雨が植物の茎を束ねて作った屋根を伝う。地面を平らに掘った床に木の柱を立て、(あし)(かや)の茎を束ねただけのみすぼらしいその建物はしかし、このサウザンド族の集落で二番目に大きい住居だ。


 そんな場所で、オウララと二組の夫婦は今まさに、英雄誕生の瞬間にいた。


「なんということだ」


 頭を抱えるオウララ。その場にいた妊婦も夫二人も、戸惑うように視線を彷徨わせる。大賢者の口ぶりから察するに、英雄は一人。しかし、泣き(わめ)く二人の赤子は、その両方が男だった。


「呪術師をーーブンババを呼べ!」


 その一声に夫二人が立ち上がり、躊躇(ちゅうちょ)なく雨の中へ飛び出していった。すぐに老女ーー呪術師ブンババを連れ立って戻る。三人ともずぶ濡れで、夫二人に至っては転倒したのか腹から顔にかけて泥がついていた。ブンババも、普段の豪奢(ごうしゃ)な装飾を身につけておらず、唯一、ホウキョクグマの骨や牙を下げた首飾りだけを揺らしていた。


「ブンババ。どちらだ、どちらが英雄だ?」


 息が整わないうちにオウララに詰め寄られながら、ブンババは二人の赤子を見比べた。裏返すなどして全身隈(くま)なく探ったが、唯一特徴と言えるのは浅黒い肌を持つ者が多いサウザンド族にしては色素が薄いということだった。そしてそれも両方に言えることであり、見かけの区別はほとんどつかなかい。ザルバドは白く、ンィーガはそれよりわずかに黄色い。その程度だ。


「名前は?」


 ブンババが重々しく口を開くと、オウララが答える。この中で他に口を聞けるのはオウララだけだからだ。


「右がザルバド、左がンィーガだ」


「ザルバド、ンィーガ……」


 ブンババは二人の名前を(しぼ)んだ(つぼみ)のような唇で反芻(はんすう)し、その場で右往左往(うおうさおう)する。見た目の判別すらつかないというのに、どちらが英雄かなどわかるはずもない。心のうちを悟られないよう(うつむ)いて歩き回り、それらしい呪文のようなものを口ずさんで思案するふりをする。


 不意に立ち止まって、赤子へ振り返る。目に留まったのはザルバドだった。


「ザルバドじゃ。しかし、神は気まぐれ。ンィーガもともに育てるのじゃ」


 保身のためにそれらしい理由をつけ、呪術師ブンババは追求される前にそそくさと立ち去った。


 同日。太陽が真上に登った昼頃。サウザンド族が暮らす百人規模の集落で、狩りの成功と英雄の誕生を(たた)える儀式が執り行われていた。


 集落を囲む深い堀の外周を、他種族の頭蓋骨(ずがいこつ)や毛皮を(かぶ)った男たちが取り囲んでいる。

 集落の入り口で、オウララが舌を巻いて喉を震わせると、それはリズミカルな雄叫びとなった。男たちは応えるようにオウララを真似て吠え、堀に沿って一斉に走り出す。一体となったその群れは押し寄せる波のようで、波は湿った大地を巻き上げて呑む。


 泥だらけになりながら子供のようにはしゃいで駆ける男たち。沼に足を取られて体勢を崩しても、身を低くかがめて四つ足の獣の如く風を切った。


 同時刻。集落の中では呪術師ブンババとその弟子である中年の女グーグスによってザルバドとンィーガを(まつ)る儀式が行われていた。


 場所は、集落で三番目に大きい呪術師ブンババの家の中だ。薄暗闇を、()かれた炎が煌々(こうこう)と照らし出している。グーグスは普段着であるフクロオオカミの皮を着、手首や胸元を骨や牙、翡翠(ひすい)をあしらった急拵(きゅうごしら)えの簡易的な装飾を身につけるに留まっていた。一方ブンババは白い巻き貝の耳飾りと、赤みを帯びたホウキョクグマの毛皮を着込んでいた。厚みのあるその衣装は支配と権力の象徴であり、ブンババの他には長のオウララしか持つことを許されていない。

 儀式の内容は、弟子のグーグスが地に膝をついて傷に効く薬草を焚き火の熱で炙り、発生した煙を祈祷(きとう)するブンババがザルバドたちに浴びせるというものだ。


 神聖な熱と蒸気をその身に受けた赤子たちは、泣くことはせず、ただ眼前のブンババを不思議そうに見上げていた。


 場には静寂があり、ブンババのしゃがれた声と枝を()む火の咀嚼音(そしゃくおん)だけが断続的に響く。

 二組の夫婦が家の外で肩を寄せ合って見守る中、その儀式は日暮れまで続いた。



 英雄誕生から十年の歳月が流れた。


 とある日の朝。ザルバドとンィーガは、ンィーガの母方の血が流れた六歳の娘、ロウロとともにンィーガの家の前で遊んでいた。


 二人と違って(つたな)い言葉しか話せないロウロは、談笑するザルバドとンィーガの会話に耳を(かたむ)けるのが好きだった。その日もロウロは地べたに座り込み、長い髪をいじりながら指先で複雑な記号を描いて遊んでいた。


 記号はどこか不恰好(ぶかっこう)で、大きさも(そろ)ってはおらず、見ようによってはミミズが()い回ったあとのようにも映った。


「何を書いてるんだ?」


 ザルバドが(たず)ねる。その声は少し上擦っていた。

 声をかけられたことに遅れて気づいたロウロが(ほう)けた表情で顔を上げる。視線が合いそうになり、ザルバドは目を逸らした。


 ロウロが首をかしげながら答える。鈴虫のように()んだ声音だったが、舌足らずで判然としない。


 それでも、ザルバドは嬉しそうに口元を(ゆる)めていた。その頬に赤みが差していることに、ンィーガは気づかない。途切れていたンィーガとの会話が再開しても、ザルバドは横目でロウロの様子をうかがっては、その癖のない艶めいた黒髪に目を奪われていた。


 ロウロの肌は色白な二人と違ってやや浅黒い色をしていて、ザルバドにはそれが黒くまっすぐな髪と同じように印象的だった。


「ざうばど、いーが」


 三人のもとに間の抜けた顔をした八歳くらいの少年がどたどたと大袈裟(おおげさ)な足音を立てて走り寄ってくる。今にもずり落ちそうなぼろぼろの腰巻を身につけていて、髪にはノミがたかっていた。


「ギャド」


「どうかしたのか?」


 ギャドと呼ばれた少年は鼻の穴に指先を突っ込みながらふがふがと答える。


「おーらら、おーらら」


 鼻に突っ込んでいた指を引っこ抜き、集落でもっとも大きいオウララの家の方向を示す。


「オウララ様がよーでるのか?」


 立ち上がるンィーガの腰巻のすそを小さな手が掴んだ。ンィーガが振り返ると、不安げに指を加えるロウロだった。ンィーガはロウロの頭を()で、家の中へ戻るよう声をかけた。そのやりとりを見ていたザルバドの胸の内に、行き場のないほの暗い感情が芽生える。


「ザルバド?」


 (いぶか)しんだンィーガが声をかけると、ザルバドははっとした顔で立ち上がり、誤魔化(ごまか)すように砂を払い落とした。


「……なんでもない。行こう」


 歩き出した二人の背後で、通りかかった二人の少年ーールキアとバーリアが鼻をほじるギャドを指差して笑っていた。


 オウララの家の前には、武器を持った男たちが集まっていた。そして、その中心に立つオウララの右頬には、辰砂(しんしゃ)で塗り込んだ真新しい赤い紋様(もんよう)が描かれていた。

 二人にはその意味がわかったっていた。サウザンド族の狩りが始まるのだ。



 男たちは集落を出て、湿(しめ)った柔らかい草原の上を裸足で歩いた。先頭にオウララ、その後に大人たち、後方に成人前の若い者たちが続き、ンィーガとザルバドは二人の大人と二つ年上のフーに守られ、最後尾にいた。


 二人の大人たちはンィーガとザルバドの左右に立ち、油断なく周囲を警戒している。二人とも集落の中でも腕に自信のある屈強な男たちで、大柄な体つきをしている。その手には、敵を寄せ付けないための長い木の槍が握られていた。先端には鋭く削った黒曜石が光っている。


 ンィーガたちのそばを歩くフーもンィーガやザルバドと比べると体格が大きく、骨が太かった。サウザンド族の特徴である色黒の肌は焼けていて、健康的な体つきをしている。

 体格が良いとはいえ、フーの身長は十歳のンィーガたちとさほど変わらない。そのため、フーは槍ではなく取り回しやすい短長な石斧を携えていた。


 まだ周囲に他種族の姿はなく、地平線の先に黒い塊が確認できる程度だったが、サウザンド族の大人たちは皆各々が担当する方角を歩きながら注視し続け、決して目を逸らすことはしなかった。それは経験の浅い若い男たちも同様で、彼らの場合索敵を担当する方角が決められていないため、緊張からか全方位に目を泳がせている。


 そのため、狩りをしたことがないンィーガとザルバドは集団から酷く浮いていた。他種族の姿が見えないため周囲を警戒するべきという危機感がなく、前や隣を歩く友人の顔しか見ないのだから、当然である。小声でこそあったが、二人は他愛もない話で暇を潰した。


 不意に、何かに気づいたザルバドが地面にしゃがみこむ。


「どうかしたか?」


 ンィーガが(のぞ)き込むと、ザルバドの手には拳大の石が握られていた。


「拾った。武器にはならないだろうけど、まぁ無いよりはマシだ」


 ザルバドは早くも石が気に入ったらしく、歩きながら手の中でもてあそんだり、空中に軽く投げては(つか)んでを繰り返して遊んだ。


 石斧は十歳の子供が扱うには重く、軽いものでは他種族相手にほとんど意味をなさない。かといって軽量な黒曜石を用いたナイフや槍は簡単に指が切り落とせるほど鋭利だ。そのため、遠目から見学するだけで狩りに参加しないンィーガとザルバドは今回、これといった武器を与えられていなかった。ンィーガはザルバドが(うらや)ましくなると同時に、心細くなった。歩きながら足元をキョロキョロと見回して、石を拾う。ザルバドのものよりも小さかったが、他に手頃な石は見つからなかった。


 直後、前方左側を歩く男が遠吠えのような声を上げた。周囲の男たちもあとに続いて真似、あっという間に集団全体に波及する。驚いたンィーガたちは左へ振り向いて目を凝らしたが、まっさらな地平線があるだけだった。


 しかし、大人たちは同じ景色の中に他種族、アズマゾウを見た。黒い小さな点としてではなく、アズマゾウの体色である茶色や、湾曲した白い牙までもがうかがうことができる。それはアズマゾウの群れが警戒すべき距離まで迫っていることを示していた。


 オウララの指示ですぐに進路を変更。アズマゾウの進行方向を考慮し、右に迂回する。その後も敵対種族である白く厚い肌と同色で大ぶりの角を持つ四足の敵対種族オオシロを避けて左に迂回(うかい)。小規模なフクロオオカミの群れも発見されたが、こちらは危険ではないと判断され、比較的近距離を横切った。


 最後尾を歩くンィーガたちには距離の問題でオウララの言葉が聞き取れなかったため、二人からすれば左右に逸れながら進む道程(どうてい)は長く退屈なものに感じられた。


 代わり映えのしない平原を歩き続けること一時間以上。いつの間にか、遠目に見えていた小高い丘にたどり着いた。傾斜が(ゆる)かったため、ンィーガとザルバドにはあまり坂道を登っている感覚がなかったのだ。


 先頭のオウララが丘の頂上に立ち、眉の高さに手のひらの側面を当てて目を細める。そのまま少しずつ上半身を捻って、地平線に沿って水平に視線を流していく。


 最後尾にいるンィーガとザルバドからは人垣のせいでオウララの姿が見えなかったが、空気が変わったことを敏感に感じ取った二人は口をつぐみ、緊張した面持ちで指示を待った。

 索敵を終えたオウララはそばの大人たちに何事か呟くと、巻き舌でリズミカルに声帯を震わせる。音程の高いその声はンィーガやザルバドにもはっきりと聞こえるほど大きかったが、言葉ではなく発声(はっせい)でしかなかったため、意味はわからなかった。


 サウザンド族の多くの大人たちは言語を話せず、理解すらできない者もいる。そのため、大人たちはオウララのように歌うような声で意思疎通を行う。

 よってこのときもすでに、ンィーガとザルバド以外の全員が向かう方角や標的とする種族を理解していた。


 安全に狩りを行うことができると踏んだオウララは、ンィーガとザルバド、そして二人を守るために屈強な男二人と同世代の少年フーを小高い丘の上に残し、サウザンド族の男たちを連れて走り出した。


 それはまさしく風の(ごと)き疾走であった。足元が湿ったやわらかい草原からぬかるんだ湿地の地面に変わっても、走る速度が落ちる者はほとんどいない。大人たちの誰もが、泥の中を駆け抜ける足捌(さば)きを熟知していた。

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