序章
ここではないどこか。人類の、原初の時代。
川に囲まれた大きな円形の大地。マーミアと呼ばれる地の、広大な湿地の平原。その中央に位置する小高い丘に他種族の皮でできた腰巻を纏う男たちがいた。浅黒い肌に乱れた長い黒髪を生やし、褐色の虹彩を輝かせる彼らは、サウザンド族。
ある男は、砕いて削り出した鋭利な石を括り付けた石斧を。またある男はその石を長い木の棒の先に縛りつけた槍を。さらにまた別の男は分厚い皮で持ち手を包んだ黒曜石のナイフを携えていた。手にした得物や背格好は違えど、男たちは皆一様に最前列に立つただ一人の男の背中を見、沈黙を続ける。
最前列に佇むその男、オウララ。彼だけは他種族の牙や爪に穴を穿って通した首飾りを身につけている。そして、朝日に照らされた右頬の顔料、辰砂は牙とも涙とも取れる独特な赤い紋様を描いている。
齢三十に満たないその男は、地平線の上に点在する塊に視線を走らせる。その中にこの地に住まう種族、ツノブエを見とめる。ツノブエはオウララたちの気配を知る由もなく、呑気に水を飲んでいた。
「近くにホウキョクグマやフクロオオカミは見えない。あの群れを狙おう」
呟くと、オウララは指示を待つ背後の仲間たちへ振り返り、口内で舌を巻いて声帯を震わせる。軽快かつリズミカルな、言葉にならない歌のような声が響き渡る。それを受け、男たちは得物を点高く掲げて一斉に走り出した。先行するのは石斧を携えた男たちだ。
背の高い木々がほとんどないぬかるんだ地面を裸足で踏み、男たちは疾走する。一帯に漂う清廉な雨の香りを肺一杯に吸い込み、地面に浅く沈んだ足を蹴り上げて泥の匂いを混ぜ込む。
散りばめられた黒い塊でしかなかったツノブエの姿が、徐々に仔細になる。
体高約150センチ。黒い蹄を生やした四足の足に、鞭のような尾と扁平な鼻梁。頭部からは左右に筒状の角が伸びており、サウザンドの襲撃に気付いた一頭が口をつぐんでそれを鳴らした。全身に及ぶ体毛が朝日に煌めく。
角の中の空洞を震わせて高音が轟いた。緩慢な動作で水溜りの水を飲んでいた群れは一斉に顔を上げる。
たちまち逃げ出す雌と子供たち。残った雄達はサウザンド族に立ち塞がる。
オウララは先頭を走る石斧を持った男たちに舌打ちで呼びかけ、顎でリーダー格と思われるもっとも大型の個体を示した。それを受けた男たちは散開して、そのツノブエを取り巻く群れの中に割り込み、各々でそばのツノブエの額に石斧による痛烈な一撃を加えた。重量のある石で頭部を殴られたツノブエたちは判断力を失って激昂する。野太い笛の音があちこちから上がった。
石斧を持った男たちが開けた口を手のひらで叩きながら上擦った声で煽る。怒り狂ったツノブエは鼻息を荒げて一心不乱に追い立て、陣形は見る間に崩れた。
その好機を逃さず、オウララは遠吠えのような声を上げて先陣を切った。その手には先端に黒曜石を縛りつけた鋭い槍があった。速度を緩めず身体をひねって深く振りかぶり、狙い澄まして投擲する。
槍は目論み通り丸々と肥えた雌のツノブエの尻に命中し、転倒した雌の巨体に後続のツノブエたちが巻き込まれた。オウララに続く男たちは笑うように吠え、歓声を上げる。
直後に第二、第三の槍が風を切り、いくつかがツノブエの背を捉えた。仲間たちの断末魔に怯え、ツノブエたちは錯乱してその場で逃げ惑った。槍が命中したツノブエは流血して弱り、次々にその場にへたりこんだ。
サウザンド族に取り囲まれると、ツノブエたちは尻尾を鞭のようにしならせて威嚇したものの、後列にいた男たちが黒曜石のナイフを携えて現れ、その喉を手際よく掻っ切った。血飛沫が上がり、力無く横たわる。男たちは自らその血を浴び、全身に塗りたくった。熱気を孕んだ強烈な匂いが、雨と泥の香りに混じって生温い粘り気を生む。
ぬらりと鈍い光沢を帯びた真っ赤な人影が赤に侵された大地に立つ様は異様で、独特の迫力を纏っていた。
血の匂いをかぎつけた敵対種族フクロオオカミたちが集まり始めても、赤く染め上がった男たちは気にもとめない。
体高80センチ。灰色の体毛を纏ったフクロオオカミたちは喉元から垂れ下がる皮を左右に揺らし、その距離をじわじわと詰める。しかし、ある一定の距離まで近づくとそこでピタリと動きを止め、それ以上進むことはせず、低く唸るだけに留めた。口から涎を垂らしながらも、フクロオオカミは横たわるツノブエを遠巻きに見つめ、サウザンド族が立ち去るのをただじっと待つことしかできない。
体高90センチを超える大型の個体でさえ、数で勝るサウザンド族の大人たちを侮ることはしない。そこには、大自然の絶対的な摂理があった。
それを知る男たちは無防備に天高く武器を掲げ、絶命したツノブエたちを周回した。時折、サウザンド族の、言葉ではない甲高く短い鳴き声があちこちから上がる。それは彼らなりの祈りであり、ツノブエや、散っていった同胞たちへの追悼でもあった。
解体が終わる頃には雄のツノブエたちの注意を引いていた石斧の男たちも戻って来て、腰に巻き付けていた縄でツノブエの肉を縛って手際よく槍に結びつけていく。言葉もなく二人一組のペアが出来上がり、肉をぶら下げた槍の両端を肩に担ぎ上げた。
そしてオウララの高らかな叫び声を合図に列を成し、歩き出す。赤い足跡は後続の者によって平され、鮮血が泥水の中に煙のように広がっていった。
意に返さず、男たちは高い音階で機嫌良く歌う。意味などなく、言葉ですらなかった。ある者は力強く、ある者は野太く、またあるものはたおやかに喉を震わせる。一見ばらついたそれらは絵の具のように溶けて、ただ一色の重厚な音色となった。
景色は草原から林に変わり、ついに森の入り口に着いた。オウララは男たち一人一人と目を合わせた。目があった者から順繰りに片膝をつく。舞い降りた静寂を、オウララが破った。
「大賢者様のもとへ行く」
それだけ呟いて、オウララは深い森の中へ足を踏み入れる。続く者は無く、オウララは振り返らずに草木を分け行った。
森の中はツノブエたちを狩った沼地の草原よりもいくらか乾燥していて、湿った地面にわずかな足跡を残す程度だった。十分ほど歩き続けると、大気に含まれた湿り気が増していき、苔むした木々が目立つようになった。地を這う木の根にまで及んだ苔を踏み締め、オウララは深く深く、森の最奥まで入り込んでいく。
頭上を覆う大木の葉から漏れていた木漏れ日は失せ、薄暗いじめじめとした領域に達する。光はほとんど届かず、木の幹や根からは苔に代わり、色素の薄いキノコが小規模に身を寄せ合っている。
やがて、断層のずれによって生じたと思しき段差が現れる。オウララはその段差の前にひざまづき、頭を垂れて瞑目する。
「大賢者様。サウザンド族の長、オウララ、参りました」
『心得ている』
その言葉は空気を震わすことなく、オウララの中に響いた。頭からではなく、左胸の内部、心臓から全身に伝わる。
オウララは頭を下げたまま平伏する。そのそばに、蹄の音が近づく。
大賢者の顎から垂れた長い髭が、オウララの後頭部に触れる寸前で止まる。
四足で地に降り立ち、隆起した喉笛を膨らませて息を吸い込み、吐き出す。その正体は灰色に近い濃緑の体毛に覆われ、頭部から枝分かれした細く長い左右一対の角を生やした他種族であった。
体高一メートル超ほどの種族。その前に、サウザンド族の長は平伏す。ガラス玉のような丸い眼球から注がれる眼差しを受け、オウララは沈黙を続ける。
『オウララよ。遠くない未来、マーミアの地に災厄が訪れる』
「災厄、でございますか?」
『一言で言えば嵐だ。天からのものではない。強いて言えば、この大地に生きとし生けるものから生まれる、渦巻く混沌。我々はそれを、《嵐》と呼ぶ』
「ハザード? サウザンド族は?」
『壊滅する』
オウララは驚愕のあまり顔を上げる。大賢者の荘厳な両目が、鈍い輝きを放っていた。オウララは息を呑み、すぐにまた額を地につける。
『案ずるな』
大賢者は右の前足を浮かせ、オウララの背後を指した。その先には、サウザンド族の集落がある。
『夜明けだ。次の夜明けに、ある赤子が生まれる。その赤子こそ、《嵐》を退く英雄とならん。祀る儀式をし、成人した暁には、一振りの剣を与えるのだ』
「剣?」
『岩を長く削り出した刃を持つ棒のことだ。英雄はその諸刃で、《嵐》を断ち切るであろう』
オウララは、深々と頭を下げた。大賢者の蹄の音が、完全に途絶えるまで。