カクテュス
幼時から父は、僕によく、濁池のことを語った。父は僕を散歩に連れ出すと、濁池を囲んでいるフェンスの前に立ち、僕に濁池を見せた。
「この池を見てみろ。なんでこんなに濁っているか、知っているか?」
「先生が言っていたよ、お侍さんが刀を洗ったんでしょ」
僕は小学校でそう教わっていた。父はフッと鼻で笑うと、
「そういうことはあったかもしれないけど、この池が濁っている理由なわけがないだろ。第一、刀洗って池全体が何百年も濁ったままだと思うか。おかしいだろ。この池はな、千年前と繋がっているんだ。そのことを隠すために神様がこの池を濁らせて底を見せないようにしたんだよ。千年前と繋がる時にだけ濁池は澄んだ池になるんだ」
「お父ちゃんの言ってることの方がおかしいよ」
小学生だった僕にもわかる馬鹿馬鹿しい作り話だ。
馬鹿馬鹿しい作り話、だった。
同級生のミキは実に変わった女の子だ。なぜか毎日サボテンを抱えて登校してくる。そして、机の上に置いては愛らしくそれを眺めている。実に可愛らしい小さく丸いサボテンだ。
この前の昼休み、学生食堂で友達のユウヤが僕に、
「サボテンちゃん(ミキのことを裏ではみんなそう呼んでいる)、時々サボテンに話しかけてるらしいよ」
と言ってきた。僕はミキの生態にも驚いたが、それ以上にユウヤがミキのことをこっそり観察したことに驚いた。
ミキはどのような時にもサボテンを手放すことはなかった。少し前まではクラスの男子何人かでミキのサボテンをからかっていたが、ミキが彼らに対して全く反応しないため、いつからかミキに話しかける人はいなくなっていった。実習中にも実習机の上にサボテンを置いたものだから邪魔で仕方ないと、同じグループの子がどかそうとしていたが、ミキは何も言わずにそれを拒んだらしい。ある実験中にはサボテンに引火しかけたこともあったという。その時のミキの眼力たるや恐ろしかったと同じグループの人が気味悪がっていた。
ミキのことが全くわからない状況の中、僕は困った状況に陥った。コミュニケーションの講義でミキとペアを組まなければならなくなったのだ。前に、同じような状況でとんでもない事態に巻き込まれた人がいたらしい。その時にペアとなった子はミキに話しかけることすらできず、後で担当の柏木准教授から「コミュニケーション能力向上に向けた特別訓練」を個別に指導されたそうだ。
僕はミキと向かい合って座らされた。考えてみると、真正面からミキの顔を見るのは初めての経験だったかもしれない。意外にも可愛らしい顔をしていた。ミキは微笑みながらも手に抱えたサボテンを愛らしく見つめている。僕が困った表情を浮かべているのを見つけた柏木准教授が僕たちの所にやってきて、
「おい、三上。お前は女の子と喋るのが苦手なのか。話しかけなきゃ、アイスブレイクなんてできないぞ」
どうしてコミュニケーション学を担当している教員は揃いに揃ってこうも熱苦しいのだろうか。こんな人の個別指導は御免だ。
「サボテン好きなんだ」
僕は恐る恐る精一杯の勇気を振り絞ってミキに話しかけてみたが、ミキは微笑みながらサボテンを見つめるのみで、僕の言葉は耳にも入っていないようだった。
「サボテン、かわいいね」
沈黙の時間は長かった。これは個別指導行きだと覚悟を決めた、その時だった。ミキはエアコンの音でかき消されてしまうほどのか細い声で、でも、とても美しい澄んだ声で、
「かわいくないよ」
と言った。
「私はサボテンを見てなきゃいけないの。そういう役目なの。カクテュス様からそう頼まれてるの。世界の浄化が起こる時に私はすぐにそれをみんなに知らせないといけない」
「カクテュス様?世界の浄化?どういうことなの?難しい話でよくわからないなあ」
「あなたがそれを知りたいなら教えてあげる。あなたは信用できる。でも、覚悟があるなら」
「教えて欲しいな」
僕に覚悟などなかった。ただただ、柏木准教授の個別指導を逃れたかっただけだ。
「カクテュス様はこの世界を見守って、世界の浄化を止めているお方」
「神様ってこと?」
「違うわ。神様は他にいらっしゃる。三上くんはノアの方舟の話を知ってる?」
「ノアの方舟って、聖書に出てくる?」
「そう。あれは創作ではなく、実話なの。ノアの大洪水が世界の浄化。あの時多くの動物や人間が犠牲になった。カクテュス様はそれに心を痛められて、神様が世界の浄化を行おうをしている時に私のような巫女にサボテンで知らせてくれるの。だから私はいつもサボテンを見ていないといけない」
「ミキちゃんは巫女さんなんだ・・・。神様はなんで世界を浄化しようと思っているの?」
「神の意向に反して、人間が愚かな生き物になってしまったから」
僕の頭の中は混乱していた。話しかけたのが失敗だったかもしれない。みんなが言う通り、ミキは頭のおかしい奴だったのかもしれない。
これ以降、ミキは何も話さなかった。
「なあサオリ、ノアの方舟が実話だって知ってた?」
サオリはキャベツを切っている手を止め、ソファに横になってテレビを観ている僕の方を向いた。
「ノアの方舟?何言ってんの?あんなの誇張された作り話よ」
サオリはサバサバした女性だった。僕はそう言うところが好きだったが、時に心に刺さることもあった。サオリとは大学が違うからミキのことを知るはずもなく、言っても笑われるだけだと思っていたから、それ以上何も聞かないことにした。
その夜、僕は眠れなかった。正確に言うと、ミキの言葉について考えたくて寝なかった。サオリはそれに気がついて、それまでは僕に背中を向けていたが、徐にこちらを向いて、
「ねえ、さっきのこと考えてるんでしょ」
と言った。サオリは実に勘がいい女性だ。
「うん」
「何か飲み物持ってくるから、続き聞かせて」
サオリが冷蔵庫から缶チューハイを二本持ってくると、僕たちはベッドに腰掛けて、今日の講義中の話をした。
「そのミキって人が巫女だってこと?『君の名は。』とか『天気の子』の観過ぎなんじゃないの、その子?中二病ってやつじゃない?」
サオリの言いたいこともわかる。確かに、新海誠のような世界だ。
「世界の浄化とサボテンって何か関係があるの?」
「サボテンがその時を教えてくれるんだって」
「花が教えてくれるのかな?」
そういえば、サオリは植物に詳しかった。僕は植物には疎いから「サボテンの花」と聞くと財津さんの歌しか思いつかなかった。ミキはなぜか悲しそうな顔をしていた。
次の日は休みであり、僕たちは遅い朝食を済ませると、スーパーに食料の買い出しに出かけた。僕が買い物袋に商品を詰めるのに手間取っている間、サオリは出入口の横でひっそりと売られているサボテンを見ていた。何とか詰め終わってからサオリのもとに近づいてみると、サオリはサボテンの葉を気持ちよさそうに触っていた。
「今、多肉植物って流行っているのよ。私も育ててみようかな」
サオリは棚に並んでいたサボテンの中で一番小さいものを手に取り、もう一度レジに戻った。その日から僕の家でもサボテン観察が始まった。サオリはサボテンを家の本棚の空いている所に置いた。
「僕たちのサボテンも花咲くかな」
と少し楽しみに見つめていると、
「バカなこと言わないで」
とサオリは怒っているような口調で言った。
僕がユウヤの講義が終わるのを大学の前の喫茶店で待っていると、ミキが店に入って来た。「あの人、コーヒー飲むんだ」と思っていると、おそらく意図的にミキは僕の隣に座った。
「やあ」
同じカウンターに横並びで座っていて声をかけないのも失礼かと思い、僕はさりげなく挨拶をしてみたが、ミキは相変わらず無愛想にテーブルに置いたサボテンを見ていた。店員さんにも無愛想にアメリカンコーヒーを注文していた。
「ミキちゃんは講義ないの?」
僕の声は震えていた。
「ない」
ミキは他人には興味がないのだろうか。あっさりとした言い方だった。隣に座ったのはそっちじゃないかと僕は思ったが、これ以上話しかけるのはミキにも迷惑なような気がした。こうして無愛想なミキの姿を見ていると、サオリがいかに社交的かと思ってしまう。ミキもおそらく自分たちと同じような道のりを歩んできたはずだが、思い出の色は異なっているようだった。
「三上、お待たせ」
ユウヤがやってきた。
「なに、二人でお茶してたの?三上、サオリちゃんに怒られるよ」
「ユウヤ、そういうんじゃないから。たまたま、たまたま」
なんで僕はこんなにも必死に今の状況をユウヤに否定しているのだろうか。別にどうでもいいはずなのに。
「行こう」
ニヤニヤしているユウヤの腕を引いて、僕たちは喫茶店を出た。
ミキは何も声をかけなかったが、じっと二人の背中を見ていた。二人が見えなくなると、サボテンに視線を移し、誰にもバレないようにため息をついた。
その夜から雪が降り始め、次の朝目覚めると道路が真っ白になっていた。大学から雪のせいで講義は休講とのメールが入っていた。アルバイト先に急遽今日シフトを入れられないかと電話してみたが、そもそも雪のせいで臨時休業になったと、店長から冷たく言われてしまった。サオリはどうしても休めない実習があるからと、降り頻る雪の中を出て行ったが、結局帰されてしまったそうだ。そして、同様の境遇にあった友人数人と一緒にケーキを食べに行くと連絡が来たきり帰ってこない。そういえば、今晩ライブに行くと言っていたが、それはどうなったのだろうか。
サオリと同棲を始めてからもうすぐ半年が経つ。同棲のきっかけはあまりにも突然だった。その当時僕たちの関係はかなり冷え切っていた。もう別れようかと思っていたところで、急にサオリが同棲しようと言い出してきたのだ。どうせうまくいかないと思っていたが、なぜか半年も持ってしまった。これもひとえにサオリのおかげだ。サオリが家事に長けた女性であることは元々わかっていたが、同棲してからその才能が遺憾無く発揮された。本当は僕も家事をやりたいのだが、サオリは自分でやった方が速く、かつ綺麗にできるとわかっていたため、僕にやらせようとしなかった。唯一僕に任されている仕事は朝のゴミ出しのみだ。この家は元々僕が独り暮らしをしていた家だから、僕が率先してやらないといけないと思ってはいるのだが、なかなか手出しさせてもらえない。今日のように帰りが遅くなる日や泊まりの日などは綺麗にタッパーに詰められた料理が冷蔵庫に揃って入っている。僕だって料理はできるが、一度目玉焼きを作ろうとしてキッチンを煙だらけにしたことがあり、それ以降よっぽどのことがない限り使用禁止となってしまった。調理器具もサオリの好みのものに変えられてしまった。今や、実質この家の家主はサオリである。そのせいなのか、サオリが家にいないと何もできない体になってしまった。
結局、サオリは深夜に帰ってきた。ライブは予定通り行われたらしい。サオリの最大の趣味はライブに行くことだった。週一回は必ず行っている気がする。毎回グッズを大量に買い込んでくるせいで、僕たちはグッズ倉庫の中で生活しているようだった。
こんな雪の日、ミキは何をしていたのだろうか。眠りにつく前に僕はふと考えてしまった。
その時は突然だった。
「咲いた、咲いた、サボテンに花が咲いた!この世界は終わる!」
ミキが講義中にも関わらずいきなり立ち上がり、叫んだ。ミキはサボテンを抱え、小刻みに震えている。
「おい、どうした?大丈夫か?」
柏木准教授がミキの肩に手をかけたが、ミキは思いっきりそれを払うと講義室を飛び出した。
「やっぱり、あいつ、頭おかしかったんだ」
ユウヤが軽蔑色を孕んだ言葉をミキに浴びせかけたが、僕には、絶対、何かが起きるという予感が頭をよぎった。僕の足はミキを追っていた。たとえ、コミュニケーション学の単位を落としてもいい。
“それより感じるんだ、この世界に押し寄せてくる終焉の荒波を。”
講義室を飛び出した時、ミキの姿は見えなかったが、どこにいるかくらいは見当がついた。やはり、ミキは濁池にいた。濁池を囲むぼろぼろのフェンスの穴を潜り、ミキの元に近づいた。ミキは汗だくになりながら聞いたこともない呪文を唱えていた。足元には赤い花をつけたサボテンが転がっていた。
「ミキちゃん?」
僕の声はミキに届いてはいないようだった。ふと、濁池の水面に目をやると、濁池はいつもと異なり実に澄んだ池になっていた。これが・・・。ミキが呪文を唱えると水面から浮かぶ星屑たちがそれに応えた。
突然、地響きのような爆音が起こり、何かが濁池の中から飛び出してきた。大きく地面が揺れ、獣の叫び声であたりを震えた。
「カクテュス様!」
ミキが跪いた。僕の想像ではカクテュス様は女神のようだと思っていたが、実際は紅に輝くツノを持つ鳳凰に似た巨大な鳥だった。
「ミキよ、時が来た」
カクテュス様の声は優しいようで太く、和太鼓を聴いた時のように体に振動を感じた。ミキは水辺で服を脱ぐと、濁池に入って行こうとした。ミキの絹のような白肌に星屑がうつって輝いていた。その時、なぜかはわからないが僕はミキを止めなければならないという使命感が心の中で燃え始めた。
「ダメだ!行っちゃダメだ!」
僕は何も知らないバカな男だ。でも、わかっている。これからミキがどうなるかということくらい。誰かが犠牲になって守られる世界なんて、僕にはいらない。
「少年よ。ミキは選ばれし者。そして、これがミキの使命なのだ。我が肉体の一部となり神を止めるのだ」
「わからない!誰かが犠牲にならないといけないなんて!世界を守る?だったら、アンタ一人でやってくれよ!」
「無知で無礼な少年だ」
僕はその場に泣きながらうずくまった。ミキは濁池から戻り、僕の頭に手を当てた。
「三上くん、これが私の運命なの。わかって。カクテュス様は私たち人間の味方。私たちのことを思って守ってくださるの」
「わかんねえよ。何が世界の浄化だよ。そんなこと起こる訳ねえじゃねえか。今見てるのも全部夢だろ?」
「夢じゃない。これは現実よ。前に言ったでしょ。私は巫女。カクテュス様に従うのが私の仕事なの」
「何がカクテュス様だ。あんなやつの言葉なんか聞くな!ミキだって、本当は嫌なんだろ?」
「いいえ。三上くん、あなただけは私を気味悪がらずに話しかけてくれた。ありがとう。嬉しかった」
ミキが妙に淡々と喋っている気がしたが、僕が顔をあげると、ミキは少し涙ぐんているのが見えた。
「ミキ、人間だって、そんな悪い生き物じゃない」
僕は涙を止められなかった。その涙をミキはそっと指でさすった。
「ミキよ、そなた、もしやその少年に恋しているのか。何を戯けたことを。我が肉体となりうるのは純白な人間と決まっている。そなたは自らの運命に逆らった。その罪は重い」
ミキはカクテュス様の方を向くと、今まで聞いたこともないような大きな声で、
「私は人間として生きていきたい!」
と叫んだ。
「戯けたことを・・・」
東の空から聞こえる激しい大地の唸り声が濁流の如く二人を飲み込んだ。
「始まる。ミキ、最後だ。本当にいいのか」
カクテュス様は戸惑っているようだった。おそらくカクテュス様の長い歴史の中でミキのように逆らう人はいなかったのだろう。
想像をはるかに凌駕する強烈な光が遠くの方で光った。カクテュス様は咆哮すると、ミキのことを諦めたのか、独りで東の空へと飛んでいった。
「私、とんでもないことをしてしまったのかな・・・」
ミキは小刻みに震えながら転がっているサボテンを呆然と見つめていた。
「いいんだよ。これで」
僕はミキを後ろから抱きしめた。淡い星屑のような光たちが濁池から浮かび上がっては東の空へ向けて飛んで行った。星屑が飛んで行けば行くほどミキの身体に向こう岸がだんだん写ってきている気がした。ミキはそんな身体を見つめ、
「これが、カクテュス様に逆らった罰なんだ」
と言った。
「そんなことはない。ミキは正しいことをしたんだよ。間違っているのは向こうだ。生きよう、今からでも普通の人間として」
ミキは僕の腕を頬でさすり、そっと目を閉じた。ミキの目から宝石のように輝く涙が流れ、僕の腕を伝った。
「私、思ったの。三上くんに話しかけられた日に、たまたま喫茶店で会った日に、私は人間だって。カクテュス様のためじゃなくて、私のために生きてゆきたいって。でも、私、結局、何も抵抗できなかった…」
ミキの身体からも淡い光が出ている。それらも東の空に飛んでいった。再び咆哮が聞こえた。その瞬間、ミキの身体が、消えた。
「ばかやろー!」
東の空へと僕は思いっきり叫んだ。しばらくすると、東の空の光が少しずつ穏やかになっていった。
あれからどのくらいの時間が経ったのだろうか。僕が気がついた時、家のベッドの上だった。何だか、部屋がきれいになったような気がした。何もわからない。ただ、今、僕は生きている。
サオリがキッチンで誰かと話しているのがわかった。あの声は柏木准教授だ。様子を見に来てくれたのだろうか。
「サオリ・・・」
声がうまく出せない。だが、サオリは気がついて、こちらに来てくれた。手を握ってくれたが、うまく力が入らない。
「目が覚めたんだね。よかった。
そうだ、あのね、私たちのサボテンにも花が咲いたの・・・」
作品に登場する濁池は愛知県に実際に存在する池です。
「カクテュス」を書き始めた時、私は「ファイナルファンタジーⅩ」にのめり込んでいました。作品にどこかFFの香りが入り込んでしまったのはそのせいです。