プロローグ 『憧憬の代償』
――部屋の隅にあるクローゼットを開くと、そこには異世界が広がっている。
誰もが一度は憧れる、剣と魔法の世界。
そこには現実では決して手に入れることができない、自由と非日常が確かに存在している。
それは、見たこともないような大きな城であったり、強大な敵との命の駆け引きであったり、迷宮に隠された金銀財宝であったり、選ばれた者にしか引き抜くことができない剣だったりと、無数の可能性を秘めている。
その中でも、七色に輝く鱗を持ったドラゴンの背に跨り、澄み渡る大空を翔る記憶が一番のお気に入りだと、いつかの彼女は言っていた。
しかし、それはあくまで空想だ。
愛用の枕に住み着いた、淡い幻想でしかない。
夢は夢であるが故に美しい。非現実が現実になった時、それは悪夢でしかないのだから。
自由なんて曖昧な権利の下で生きるよりも、危険が少なくなるよう統治された社会で生きる方が余程幸せだ。力を得る必要もなく、争う必要もなく、いつかやってくる死を自覚することもなく平和に生きて行ける世界。それはとても退屈な物かもしれない。それでも、下手にスリルを求めるよりも、臆病でいる方が賢い生き方だと思う。誰だって、時が経てばそう気づく筈だ。
しかし、気づいたところで後の祭り。
そう易々と生き方を変えることはできない。
僕を取り巻く環境が、それを許さない。
「――――――――――ッ!」
大地を揺るがす咆哮が、僕を現実へと引き戻す。
どうやら、ただ呆然と立ち尽くして逃避することは、これ以上許されないらしい。
視界を覆う砂煙が段々と晴れていくに連れて、現状を再度正しく認識する。
地に倒れ伏した仲間達。流れ出る赤黒い血液。永遠に慣れることはないと思っていた、やけに濃い鉄錆の匂いが鼻につく。けれど、その生死を確認する余裕は無かった。
未だ目の前に存在する砂煙の中で、派手に地団駄を踏む巨大な影。それは一対の翼を大きくはためかせ、周囲に蔓延る砂煙を一瞬にして吹き飛ばした。
クリアになった世界に現れたそいつの、黄金色の双眸が僕を捉える。
等しく、僕もそいつの姿を認めていた。
瞳と同様に黄金色に輝く鉤爪と牙、クリスタルのように透明な美しさを宿す鱗、そして天井を埋め尽くす魔光石の光りを受け、薄く七色を帯びた翼。
受け入れたくはない。けれど……
「……嗚呼、本当にこれは――」
どうしようもない、現実だ。
――[【財宝喰い】ファフニール Lv.187 ]
〈能力看破〉が僕に見せる事実は酷く無情なものだった。
種族は巨龍。それも【財宝喰い】の称号持ち。まともに動けるのは僕一人だけだ。つまり行動不能になった四人の仲間に注意が向かないよう立ち回り、この巨龍を退けなければならない。……いや、無理だ。勝てる訳がない、こいつに。
相次いで脳裏に過ぎる情報と可能性。それに結論が出たことで、一時的に散漫となっていた注意力が回帰し、気づいた。――対峙しているファフニールの口が開かれ、そこに魔力が集約されていることに。これは、まずいっ。
瞬間、世界が白く染まった。
炎でも稲妻でもなく、ただ純粋な魔力を叩きつけただけの大雑把な攻撃。しかし、人間の持つ魔力よりも膨大かつ濃縮されたそれは、巨龍族が持ち得る最大の攻撃。即ち、息吹だ。
それが僕に直撃する刹那、〈自動防壁〉が発動する。けれどその程度で防げる筈もなく――僕は魔力の奔流に吹き飛ばされ、岩壁に激突した。
……いったい、僕は何をしているんだ?
重力に従い、まともに受け身をとることもできずに地面に落ちる。体が鉛のように重く、上手く動かすことができない。低レベルのプレイヤーだったら、跡形も無く消し飛ばされていたであろう攻撃を受けたのだから当然だ。
感じるのは地面の刺すような冷たさと、口の中に広がる乾いた砂の味。そして、体から流れ出る温かい血液。命が溢れ出て行く感覚。それが自棄に心地良い。
このまま死んでしまいたい。
心から、そう思う。
死んで仕舞えば、この恐怖から解放される。
死んで仕舞えば、この世界から解放される。
死んで仕舞えば、生きる辛さから解放される。
死んで仕舞えば、すべてが無に帰して、やっと〝自分自身〟から解放される。
――死んで仕舞えば、もう二度と、彼女に会う事は叶わない。
「――っ!」
僅かに感覚が戻り、地に手を突いて体を押し上げる。
……おい、何してるんだよ。
まだ、目的を果たせていない。……そんなの、どうだっていい。
まだ、やれることがある筈だ。……何もないよ。行き着く先は、どうせ同じさ。
それでも、まだ生きている。……やめてくれ。僕はもう、疲れたんだ。
出血箇所を〈鋼血〉で止血して、〈品物箱〉から万能薬を取り出し服用すると、完治とまではいかないまでもだいぶ体は楽になった。
これでまだ、戦える。
……どうしてだ?
立ち上がり、額にまで引き上げられていた『万視のゴーグル』を正しく目元に装着する。すると、こちらに気付いたファフニールが大きく翼を広げ、巨大な二つの魔法陣を展開した。右翼は火属性を示す赤い輝きを、左翼は水属性を示す青い輝きをそれぞれ放ち、その魔力によって発生する輝きの強さが双方の殺傷能力の高さを物語っていた。
それに対抗するために、こちらも魔法陣を展開する。
「――魔法陣配置」
魔力の消費を抑えるために詠唱という代償を払い、その結果生まれる現象は、神の力を模した偽りの奇蹟。
それがファフニールの魔法陣に対峙するように二つと、その頭上に一つ。前者は緑の輝きを宿す風属性、後者はファフニールが展開している物と同様の火属性。規模も威力もファフニールの物と比べると大きく劣る、計三つの魔法陣。しかし、これが現時点での自分の全力。だから、その弱さを受け入れた上で戦いに望む。――畏怖すべきは相手の強さではなく、心の中で燻る己の弱さなのだと、そう教わったから。
……どうして、お前は戦えるんだよっ!
泣き叫ぶ、弱い僕の声が聞こえた。
生物全般にとって、弱さとは偉大な物だ。いつだって側にいて、自身の限界を知らせてくれる。これまで幾度となくそれに救われてきた。けれど、今その指令を聞き入れることはできない。
今までは生きるためにその指示に従ってきた。生き残るため、生きて目的を果たすため、失意の底から這い上がり、前へと進み続けてきた。それを他でもない〝俺〟が、終わらせていい筈がない。
諦めてなるものかっ。此処で立ち止まってしまったら、もう二度とこの先の景色を見ることは叶わない。
決して忘れるな。死んで無に帰するのは俺、佐柄蓮一個人だけではないということを。
思い出せ、あの日胸に刻んだ誓いを。
『ねぇ、冒険は嫌い?』
酷く懐かしい、彼女の声を思い出す。
口元に薄く微笑みを湛え、首を傾げながらそう訊いてきた彼女に、俺はいったいどんな答えを返していたのか? 今となっては、もう覚えていない。
けれど、自から歩み寄ることも、差し伸べられた手を取ることもできずに終わった、そんな冒険の一ページ目を書き替えるために、俺は今此処に存在している。それだけは確かだ。
さあ、君が憧れ、愛した冒険を始めよう。
向こう見ずに突き進み、己の持てる一切を賭けて――
――すべては、失ったものを取り戻すために。