決戦(2)
視界の端に、こちらに向かって手を振る伊藤の姿が写った。
(伊藤、どうして?)
彼女は100mの決勝を目前に控え、準備やウォーミングアップで他の選手の応援どころではないはずだ。にもかかわらず、何故そんなところにいるのか。
(まさか……俺のために?)
「金剛寺、根性見せろおぉぉー!!」
瞬間、他の声援をかき消す程の声量で伊藤の声が競技場内に響き渡った。手すりから身を乗り出し、必死な顔をしながら叫んでいる。彼女のその目は、紛れもなく自分を見つめていた。
温かな感情が胸の中を駆け巡り、地面を蹴る脚に力がこもる。目線を前方へと向けて、先を走る磯貝の背中を睨みつけた。
「ラスト200! 頑張れぇ!」
伊藤の声に押されるように速度を上げ、一気に磯貝との距離を詰める。先程までは遥か遠くに見えたその背中が、今やほんの数m先にあった。しかし、後方に近づく自分の気配を察したのか、磯貝の脚の動きが僅かに速くなる。苦し気な息遣いがこちらまで聞こえてきた。
(負けられない、負けられないんだ!)
すでに呼吸は乱れきっており、息を吸おうとしても肺に空気が上手く入ってこない。全身に感じる重さのせいもあって、まるで水中にでもいるかのようだった。酸素不足のためか頭がズキズキと痛み、耳鳴りが止まらない。
磯貝の後ろに付きながら、観客席のすぐ前方、ゴールまであと100mという地点に到達する。この先は直線勝負。磯貝を追い抜くにはもうここしか残されていない。
(くそおぉぉぉ!)
空気が肺に入ってこない中、ほぼ無呼吸の状態で地面を蹴る。今自分の脚を動かしているこの力は、酸素からではなく心の中から生まれているものだ。負けられないという思い、自分を変えたいという思い、そして伊藤の声援が、とっくに限界を超えたこの身体を動かしてくれている。
残り約50m。必死に脚を動かして何とか磯貝の真横についた。目を見開いて前方のゴールラインを睨みつける。あそこに達する前に磯貝を追い越すのだ。
「ふうっ、はあっ」
すぐ隣から激しい息遣いが聞こえ、磯貝の存在を間近に感じた。そう、苦しいのは自分も彼も同じなのだ。だからこそこの先は互いの精神力がものを言う。実力では彼にかなわないかもしれないが、勝利への意欲なら負けはしない。
(勝つ、勝つ、勝つ……! 磯貝に勝つ!)
目をひん剥き、顔は鼻水と汗にまみれている。外から見ればきっとひどい姿だろう。額から垂れた汗が目に入って視界がぼやけ、ゴールラインが霞む。耳鳴りがひどくて音もよく聞こえない。だが、もはやそんなことは気にならない。ゴールまで残り20mほど。今の自分に必要なのは前へと進む脚の力だけなのだから。
「ぐぅぅ!」
隣から僅かにうめき声が聞こえ、磯貝がさらに加速する。視界の端に僅かに見える彼の顔は苦痛に歪んでおり、歯を食いしばる音がこちらまで聞こえてくるようだった。勝利にかける想いは互いに同じ。彼にも背負っている想いがあるのだろう。
だが、こちらとて負けるわけにはいかない。もはや脚は自分の言うことを聞かないが、脚と言うのは腕を振るとそれに連動して自然と動くものだ。両腕を力強く振り、それに加えて上体を倒して前傾姿勢を作る。重心を前方へ移動させてわざと身体のバランスを不安定にすることで、脚を前へと踏み出さざるを得ない状態を作ったのだ。
酸素不足によるめまいの中、再び磯貝の真横に到達する。ゴールラインの白線が間近に見え、3000mに達するまであと数歩……と思った瞬間、突然右脚の力が抜け、地面を蹴りだそうとしていた右の膝ががくんと曲がってしまった。
(なっ!)
前傾姿勢を作っていたことが仇となり、急速に全身のバランスが崩れる。上体が傾いて青色の地面が視界に迫ってきた。左脚を踏み出して体を支えようとするが、間に合わずにコース上に倒れ込みそうになる。
「金剛寺!」
耳鳴りの中、背後にある観客席から伊藤の声が聞こえた。胸の中で諦めてはならないという気持ちが熱く、大きく燃え上がる。
(まだだぁ!)
完全に体が倒れきるより前に、地面に両手を着けて上体を支える。合成ゴムの柔らかな感触とぬくもりを手のひらに感じた……と思った瞬間、転倒の衝撃が両腕を襲い、手首に嫌な痛みが走る。だが、それを噛み殺しながら、転倒したはずみの力で体を起こし、再び地面を蹴り始めた。前を向けば、磯貝の背中は再び遠くなっており、既にゴールラインを越えたのか急速に減速している。
(……負けた……のか?)
その考えが頭をよぎった瞬間、自分がトラック上の白線のようなものを踏み越えたことに気が付いた。3000m走のゴールライン。自分はとうとう走りきったのだ。
「はあぁぁぁ、はあぁぁぁ! げほっ、ごほっ!」
ラインを踏み越えて数歩歩くと、あまりの苦しさと疲労感に膝から倒れ込んだ。息を吸うと同時に空っぽだった肺に一気に酸素が流入してきて、思わずせき込んでしまう。呼吸をするごとに肺と心臓に刃物で刺されたような鋭い痛みが走り、無意識に手で胸を抑えた。
「はあっ、はあっ」
顔から垂れた汗が地面に落ちて、トラックに染みを作る。肩を上下させて荒い呼吸を繰り返しながら、心の中には様々な感情が駆け巡っていた。ようやく終わった。苦しくてつらかった。こんなに頑張れたのは初めてだ。きっと実力以上の力を出せただろう。正直よくやったと思う。
(……でも、磯貝には勝てなかった)
走りきったという達成感を押し出すように、もやもやとした気持ちが心の中を占めていく。久しく感じていなかった、どこか懐かしい気持ち。どうしようもなくむず痒く、居ても立ってもいられなくなるような、そんな感情だ。この感情は一体何という名前だっただろうか。思い出そうと頭を働かせるが、凄まじい倦怠感と心肺の痛みが邪魔をして上手く思考がまとまらない。
顔を下に向けていると、突然自分の前に誰かが立った。はっと驚いて見上げれば、磯貝が苦悶の表情を浮かべながらこちらを見下ろしている。
「ぜぇ、はぁ、はぁ……。金剛寺、いい……走りだったぜ」
息も絶え絶えにかろうじて聞き取れるようなか細い声でそう言うと、顔を歪めて歯をむき出しにし、満面の笑みを浮かべる。そこには傲慢さや勝ち誇ったような態度は一切感じられず、本気でこちらを称賛しているのだろうということが伝わってきた。勝者が敗者に向けて余裕を見せつけているのではない。自分をライバルだと認め、自分の戦いに敬意を示してくれているのだ。小柄なはずの磯貝の姿が、何故かとても大きく見えた。
「はぁっ、はぁっ……。磯貝こそ……やっぱ流石だよ」
そう言いながら笑顔を見せ、互いに微笑みあう。
「ほらよ」
「ありがと」
磯貝がこちらに向けて手を差し伸べるので、その腕をぐっと掴む。すると、彼は力強く自分の身体を引き上げてくれた。ゴール後にいつまでもトラック上にとどまるのは後続の選手の邪魔になってしまう。磯貝がコースから外れようとトラックの外側へ歩き出し、自分もその後を追った。
風が競技場を吹き抜け、汗まみれの身体がひんやりとした感触に包まれる。そんな中でふと上を見れば、真っ青な空に白い入道雲が輝いていた。足や肺の痛みが一瞬だけ遠のき、すがすがしい気分が心を満たす。だが、その晴れ晴れとした気分は長くは続かず、すぐに先程感じたようなもやもやとした感情が心を覆っていく。その感情の正体が何かも分からないまま、自分は額から垂れる汗を手で拭った。
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