決戦(1)
照り付ける日差しの下、400mトラックの中でも観客席の反対側に位置するこの場所……。3000m走のスタート地点付近には、大勢の選手達が集まっていた。それぞれが緊張した表情を浮かべながらストレッチや準備体操をしており、選手たちの間には張り詰めた空気が流れている。
「金剛寺、とうとうだな」
自分の横に立つ磯貝が口を開いた。ユニフォームを身にまとっているせいもあってか、その表情はいつになく引き締まって見える。
「ああ。それにしても、まさか磯貝と同じ組で走ることになるなんて」
そう言いながら笑顔を見せると、彼もこちらを向いて笑い返してくれた。だが、それは彼が普段見せるような暖かで優しげなものではない。これから始まる戦いが楽しみで仕方がないというような、そんな獰猛を持った笑みだ。
「負けないぜ、金剛寺。なにせお前は俺のライバルだからな」
剥き出しの歯を見せながら力強く言い放つ。その目はまっすぐと自分を見つめており、瞳の奥には闘志が燃え盛っている。思わず気圧されそうになるが、始まる前から気持ちで負けるわけにはいかない。
「それはこっちのセリフだよ。絶対に勝たせてもらう」
想いは言葉にするとより強さを増す。勝利を口に出して宣言したこと、で気持ちが燃え上がり身体中に力がみなぎってくるようだった。自分の言葉を聞き、磯貝も満足げな表情を見せている。
(そうだ。絶対に勝つんだ。磯貝に勝って、必ず入賞してやる)
一人だけで走るより、数人が同時に走って競い合った方が全体のタイムは向上する。ライバルと共に走れば、負けたくないという意志が力になって本来の実力以上の力を発揮できるのだ。個人競技が大半を占める陸上と言うスポーツにおいて、このように大会を開いて記録を計測する意味はそこにあるのではないだろうか。少なくとも、今の自分にはそう思えた。
「えー、それでは1組目スタートしますんで、選手の皆さんは位置についてください」
係員が声を上げ、1組目の走者たちがぞろぞろとトラックへと進んでいく。彼らに続いて自分と磯貝もスタート地点へと向かった
「1組目だなんてラッキーだよな。一番待ち時間が短くて済むんだからさ」
磯貝は歩きながらそんなことをつぶやいた。確かに彼の言う通りだ。待ち時間が長くなればせっかくウォーミングアップで温めた体が冷えてしまうし、今日のような炎天下の場合は体力も余計に消費する。それに、スタート前はどうしても緊張してしまうので、精神衛生的にも早く始まってくれた方がありがたい。その意味では今回のような1組目という順番は理想的だ。
……だが、今日に限って言えばもう少し後の組の方が自分としては嬉しかった。
(伊藤は今頃決勝の準備かな)
1レースに時間のかかる長距離とは違い、100m走などの短距離種目はレースが短時間で終わるため、一回目のレースで上位の記録を出した選手のみを集めて二回目のレースを行うことが多いのだ。いわゆる予選と決勝だが、これには上位の選手どうしを競い合わせることでさらに良いタイムが出やすくなるというメリットがある。伊藤のタイムならば間違いなく決勝へと出場するだろう。
女子100m決勝の開始時間を考えると、12時ごろはウォーミングアップや競技の準備などで最も忙しい時間帯だと思われる。自分のスタートがもっと後だったら伊藤が応援に来てくれる可能性もあったが、1組目では時間的に少々厳しいだろう。だからこそ、自分のスタートの順番を知ったときは落胆してしまった。そもそも時間的な余裕があっても彼女が応援に来てくれるとは限らないが、それでも気持ちが沈むのは抑えられなかった。
(いや、でも別にいいんだ。伊藤が見ていようとなかろうと、俺は俺の全力を出す。ただそれだけだ)
そう思い、青色のトラックに足を踏み入れる。スパイク越しに合成ゴムのぐにゃりとした感触が伝わってきて、これが普段の練習ではなく大会なのだという認識が改めて強くなった。
スタートライン上に自分を含めた12人の選手達が横一列に並ぶ。自分は列の中でも真ん中の辺りで、磯貝はトラックの外側の方に立っているようだった。横目で左右の選手たちの様子を窺えば、皆一様に緊張した表情を見せている。
(ついに、ついに始まるんだ)
選手たちのスタートの準備が整った今、もう間もなく号砲が鳴り響いてレースが開始されるだろう。絶対に失敗できない。ここでいい記録を出せなければ全てが水の泡だ。緊張感が押し寄せ、胃が縮み上がるようにキリキリと痛んだ。
(しっかりしろよ、俺。ここで勝って自分に自信をつけるんだろ? そして伊藤に想いを伝えるんだろ?)
瞬間、伊藤の笑顔が脳裏に浮かぶ。幼い頃の無邪気な笑顔、いつも教室で見せていた上品な笑顔、河川敷で自分と2人の時に浮かべた花の咲くような笑顔……。その1つ1つが胸の中に溶け、身体中にぬくもりが広がっていくような気がした。
「オンユアマークス」
係員が号令を発し、それまでの思考が中断される。だが、先程感じたぬくもりだけは確かに自分の中に残っていた。400mを越える競技ではセットという号令を飛ばしてオンユアマークスの次に号砲を鳴らすため、スタートまではあと数秒だろう。選手たちが一斉に身構え、決戦の火蓋が落とされるのを待ち構える。
緊張のせいか異様に口の中が乾燥する。ごくりと唾をのみ込もうと……した瞬間にスピーカーから号砲が鳴り響いた。
「っ!」
両隣の選手が前へと走り出し、一瞬だけ遅れて自分もスタートラインを飛び出した。唾を飲み込む間もなく鼻と口から酸素を吸入し、それを消費して脚を駆動させる。
各選手の走るコースが分けられている短距離走とは違って、1500mや3000mなどの長距離走では選手ごとのコース分けは存在しない。つまり、トラックの幅内なら外側を走ろうと内側を走ろうと自由なのだ。だが、もちろんトラックの内側を走った方が一周にかかる距離は短くて済むため、どの選手もスタート後はより内側へと向かおうとする。こうして発生するのがスタート直後のポジション争いだ。
(くっ……)
コースの内側へと入ろうとするが、一瞬スタートが遅れてしまったことが仇となり、既に何人もの選手が自分よりもトラックの内側を走っている。縦一列にびっしりと並んだ彼らはさながら壁のようで、そこ入り込めそうな隙間は無かった。この状態で内側のコースを確保するには、ペースを落として列の後ろに付くか、逆に速度を速めて列の先頭に抜けるしかない。自分より外側を走る選手たちも続々と内側へ向かいつつあるため、もはや迷う時間はなかった。
(ここでペースを落とすなんて論外だ。なら、やるしかないだろ!)
意を決し、地面を蹴る力を強めて一気に加速する。そして列になった選手たちの前方へと躍り出ると、彼らの進路を塞ぐように素早くコースの内側へと入り込んだ。その直後、自分より外側にいた選手のうち2人が自分の前へ出るが、現時点では悪くないポジションを確保できたと言えるだろう。
(よし、いい感じだぞ)
12人中3位で最も内側のコースを保持できた。磯貝も現時点で自分より後ろにいるようだ。無理な加速でエネルギーを使ってしまったのは痛いが、長距離走においては前の選手を追い越すだけでも体力を消費するため、一度ポジションが固まってしまうと中々動きが生まれないのだ。その意味では、多少の体力と引き換えに良い位置を確保できたのは喜ぶべきことだろう。
だが、このポジション争いはあくまでもレースの始まりに過ぎない。いくら最初の位置取りが後のレースに影響するとは言っても、自分たちが走った時間はまだ10秒ほど。距離にすれば50mがいい所だろう。本番はこれからなのだ。
「はぁっ、はぁっ」
組内3位という位置を保ちながらなんとか1週目を終える。ゴールまで残り2600m。まだまだ先は長いが、すでに肺に痛みが走り、両足には重さを感じつつあった。無理もない、スタート直後に加速をして以来、減速することなくそのままの速度で走り続けているのだ。つまり、今の自分は無理をして本来の実力よりも早いペースで走ってしまっている。
(明らかにオーバーペースだ。絶対に後半でバテる……。でも、こうでもしないと結果なんて残せないだろ!)
そう。元々自分には入賞できるような実力は無い。この2週間で集中的にトレーニングを行ったとはいえ、それだけで実力の差が埋まるほど甘くはないのだ。ならば、実力以外のもの……。根性と精神力でその差を補うしかない。戦術としては完全に悪手であり、長距離走者として最もしてはいけないことをしてしまっている。だが、それでもやるしかないのだ。
そうして2週目を終える頃には、既に息は上がりきって心臓が割れんばかりに拍動していた。こんな調子で残り2200mを走りきれるのか。少しペースを落とした方が後のためになるのではないか。そんな弱気が一瞬心を襲う。
(あっ!)
そんな中、背後から息遣いが近づいてきたと思うと、突然視界の端に他の選手の姿が現れた。後ろを走っていた選手の1人が自分の横へと飛び出してきたのだ。苦しそうな呼吸をしてはいるが、その目は前のみを鋭く見つめており、明らかに自分を追い越そうとしている。
(ここで競り合って今の順位を守るか。それとも道を譲って俺は彼の後ろに付くか……)
心の中に迷いが生まれた。楽な選択肢と自分をより追い込む選択肢。既に限界以上の速度を出しているのだから、ここで多少手を抜いてしまってもいいではないか。そもそも、オーバーペースのまま走るなんて間違っている。自分の実力にあった速度で走って、もし終盤に余力があればそこで頑張ればいいではないか。そのように考えて僅かに速度をおと……。
瞬間、心の中に凄まじい自己嫌悪が湧き上がった。
(……ふざけるなよ。そんな自分が、なんでも諦めちゃう自分が大嫌いだから練習頑張ったんだろ! ここで諦めたら、俺はきっと一生変われないぞ。それでもいいのか!?)
いいわけがない! 心の中でそう絶叫し、足のピッチを上げてさらに加速する。すると隣を走っていた選手は視界の後ろへと消え、その息遣いも徐々に遠くなっていった。
(そう簡単に追い抜かせるか!)
心の中で勇ましく叫ぶ。だが、加速した代償として息がさらにれ辛くなり、今まで苦しいながらに安定していた急速に呼吸が乱れ始めた。このまま呼吸が崩れれば足運びも維持できなくなり、速度の大幅な低下は免れないだろう。
(落ち着け。大丈夫だ。普段の練習を思い出せ)
そう思いながら、長距離走における呼吸の基本を思い出す。苦しくなったときは吸うことよりも吐くことを意識しろ。そうすれば自然と肺の中に空気が入ってくる。苦しさから逃れようと浅い呼吸を繰り返すのではなく、深く吸って深く吐くことを意識しろ。そうすれば吸入できる空気の総量はより大きくなる。全て小森から教わった技術だ。
「すぅぅー、ふぅぅー」
呼吸法を意識すると、多少ではあるが苦しさが軽減されたような気がした。同時に、小森に怒鳴られながら走った3年間の日々が思い出され、懐かしさのようなものが込み上げてくる。
(そうだ。確かに本気の本気ってわけじゃなかったけど、俺だって普段の練習で遊んでたわけじゃない。暑い日も寒い日も走り続けて、そうして今ここに立ってるんだ)
桜の花びらが舞う中、やわらかな日差しを浴びながら気持ちよく走った。うだるような暑さの中、汗まみれになって喉をカラカラにしながら走った。落ち葉の舞う季節、迫りつつある冬の気配を感じながら澄んだ秋空の下で走った。雪の降る中、白い息を吐きながら凍った土の上を走った。その全てが積み重なって、今自分はここにいる。様々な思い出が頭を駆け抜け、地面を蹴る脚に力が入った。
苦しさもある段階を越えてしまえば逆に耐えられるようになるものだ。肉体の悲鳴を意思の力で押さえつけながら走っていると、気が付いたときには既に5週目を迎えるところだった。ゴールまで残りトラック二週半、距離にして1000m。とうとう残り3分の1というところまできた。しかし、本当に恐ろしいのはこの後だ。
(ちっ!)
心の中で舌打ちをする。見れば、自分の前を走る2人の選手がそろって加速を始め、その背中が徐々に小さくなりつつあった。それと同時に背後からも足音と息遣いが急速に迫ってくる。
(やっぱり、皆この辺りでスパートをかけてくるか!)
スパートとは長距離走などにおける追い込み期間のことであり、残り1500m、800mなど選手によってスパートをかけ始める地点は異なっている。だが、残り1000mというのは非常に分かりやすい区切りで、ここを目安に最後の追い込みを始める選手は非常に多いのだ。実際、自分も磯貝も普段は残り1000mでスパートをかけ始めている。
(俺も加速するんだ。今こそ練習の成果を見せろ!)
そのように考えながら、ここ2週間で行っていた練習……インターバル走のことを思い出す。低酸素の状況下における持久力とスピードを強化する練習。レース後半、苦しくなってからの粘りと速度を出すための練習だ。自分はレース後半に非常に弱く、前半はペースよく走っていてもゴール際になると一気に崩れてしまうタイプだった。だからこそ、それを改善しようと努力してきた。
(うおぉぉぉ!)
脚に込める力を強め、歩幅を大きくとって一気に加速する。口の中に血の味が広がり、肺には一呼吸ごとに嫌な痛みが走った。心臓は悲鳴を上げるかの如く激しく脈打ち、その拍動が頭の中まで響いてくるかのようだ。今までなら、自らこの苦しさの中に飛び込むなど到底不可能だっただろう。体力的にも精神的にも負荷に耐え切れず、ペースを落としてしまっていたと思う。だが、積み上げてきた練習が、背負っている想いが、弱い自分の背中を押してくれるのだ。
だが、そんな中で再び視界の横端に選手の姿が現れる。小柄な体に坊主頭……それは磯貝だった。目を見開き、顔中を汗まみれにしながら素早く脚を動かしている。そして、競り合うべきかと思案する間もなく、一気に速度を上げて自分の前方へと飛び出してきた。
(くそっ! 速い!)
追い越されたと思ったのも一瞬、磯貝の小柄な背中がどんどん遠ざかっていく。彼の恐ろしいところはこうしたレース後半の追い上げと粘りなのだ。前半や中盤で負けていようと、最後の最後で全ての力を出し切って相手に競り勝つ。単純だが、何よりも強靭な精神力が必要となる走法。それを毎回のようにやってのけるのが彼という人間なのだ。
自分も必死に脚を動かすが、磯貝との速度の差は埋まらない。それどころか、さらにもう1人が後方から自分の前へと出てきて、進路を阻むかのように立ちふさがる。12人中3位だったのが12人中5位にまで落ち込んでしまった。やはり自分の実力では無理だったのだろうか。心の中を絶望感が満たし、全身から力が抜けていきそうになる。
(……ふざけるな、ふざけるな!)
再び湧いてきた弱い気持ちを捻じ伏せ、ぐっと歯を食いしばる。足運びや走法などを気にしている暇はない。とにかくがむしゃらに脚を動かして強引に加速し、前方の一人を再び追い抜いた。視界を塞いでいた選手の背中が後方へと消え、僅かばかりの開放感が身を包む。
「ふうぅー、ふうぅー」
前方まで視線が通るようになったが、見れば磯貝の背中はまだ遠くにあった。無理な加速のせいで呼吸が乱れ、一気に苦しさが増す。既に全身は疲労の限界を超えており、酸素の不足と苦しさのせいか、頭にもやがかかったように思考がぼんやりとする。もはやこの状態から呼吸を立て直すのは無理だ。理性ではなく直感がそう叫んでいた。
(あと少し、あと少しなのに……!)
ゴールまでは残り400mほど。だが、脚はもはや自分の意思通りに動かなくなりつつあり、心臓は爆発しそうなほど激しく拍動している。これまで経験したことのないほどの苦しさが、痛みが、自分の全身を襲っていた。磯貝に勝ちたい。彼に勝っていい記録を出したい。しかし、その気持ちに身体が追い付かない。これが自分の限界なのか……。そう思った瞬間、視界の端に信じられないものが写り込んだ。
(え……?)
観客席から誰かがこちらに向かって大きく手を振っている。着ているのは自分の学校のジャージであり、その髪型や仕草から、遠目でもその正体ははっきりと分かった。
(伊藤、どうして?)
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