風を切る
ウォーミングアップから抜け出して林の中の小道を進むと、木々に遮られていた視界が開けてすぐに陸上競技場が見えた。その周りに広がる芝生にはたくさんのテントが立ち並び、各校の選手たちが大勢行き交っている。林を抜けた瞬間に強い日差しが顔に照り付け、思わず目を細めた。
「はぁっ、はぁっ」
息が上がり、心臓が早鐘のように脈打っている。だが、送り出してくれた磯貝のためにも絶対に間に合わなければならない。その思いを胸に足を前へと進める。
自分などが応援に行って意味はあるのか、彼女はそんなことを望んでいるのか。そういった疑問がぽつりぽつりと泡のように心に浮かんできた。だが、そのたびに伊藤の寂しそうな顔を思い出すのだ。今朝自分が応援に行けないと言った瞬間に浮かべた、彼女のあの表情を。
(伊藤、待ってってくれ! 必ず行くから!)
そう心の中で叫びながら、競技場へ続く道を駆け抜けた。道行く他校の選手たちが怪しがるような目線をこちらに向けるのが分かるが、気にせずひたすらに全力疾走する。見れば、競技場のゲートはすぐ目の前だった。各校の部員や観客の声援がこちらまで聞こえてくる。
「先輩! 頑張ってくださーい! 応援してますよー!」
「伊藤ファイト! ぶっちぎっちゃえ!」
それらの声援に交じって、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。自校の女子部員たちの声だ。彼女らは口々に伊藤の名前を叫んでいる。
(嘘!? まさかもうスタートしてる!?)
間に合わなかったのだろうか。無念さが心に押し寄せ、動かしていた足が急に重くなる。
(でも、それでも……!)
伊藤に声援を送りたい。彼女を元気づけてあげたい。その思いはこんなところで諦められるほど軽いものではないのだ。ゲートの横にある階段を勢いよく駆け上がり、そのまま観客席へと走り込む。
「はぁ、はぁっ」
階段を上り終えると同時に、鮮やかな青色の400mトラックが目に入る。100mのスタート地点に目をやれば、選手たちがクラウチングスタートの体勢を取りつつあり、まさにスタートしようとしている直前だった。そして、その中の一人に自校のユニフォームを身にまとった選手が見える。
「間に……あった……!?」
スラリと伸びた手足、日焼けした小麦色の肌。間違いない、伊藤だ。下を向いているため表情はうかがえないものの、その全身からは張り詰めたような緊張感が伝わってくる。
スタートに間に合ったという安堵感が身を包むが、それでもゆっくりはしていられない。短距離走のスタート時には係員が選手に号令を出すのだが、その号令に声援が被るとスタートに支障をきたすため、スタート直前に声援を入れるのはマナー違反となっているのだ。今はまだ大丈夫だろうが、もう数秒もすれば各選手の準備が整い、それに伴って声援も止んでしまうだろう。
伊藤に伝えたいことはいくらでもある。だが、それを整理する時間がない。何か気のきいたことを言えればいいが、この短い時間では思いつきようがなかった。……だから、もう自分の正直な気持ちを出すしかない。躊躇している時間は無いのだ。走った直後で息が整わない中、鼻から全力で空気を取り込む。
「伊藤! がんばれぇぇぇ!」
肺の中の空気を全て吐き出すように、力の限り叫んだ。その声は他の声援を打ち消して広い競技場に響き渡り、青い空へと吸い込まれていく。突然の大声に驚いたのか、観客席にいる人々がこちらに目を向けたのが分かった。しかし、伊藤はクラウチングスタートの姿勢のままピクリとも動かず、相変わらず表情はうかがえない。
(声、届いたのかな……?)
不安感が襲い掛かってくる。酸素の不足からか一瞬だけ眩暈を感じ身体がふらつくが、脚を踏ん張って姿勢を保った。
「オンユアマークス。……セット」
周囲が静まり返る中、こちらまで号令の声が聞こえてきた。不安に加えて緊張感が心を包み、胃にキリキリとした痛みが走る。
「頑張れ、伊藤……!」
そう呟いた瞬間、スタートライン付近のスピーカーから号砲が鳴り響いた。選手たちが一斉にスターティングブロックを蹴り、勢いよく前方へと飛び出す。
「おおっ!」
思わず声が出た。スタート直後でどの選手もほぼ横並びになっている中、列から一人だけ突出している走者がいたのだ。
「いいぞ! 伊藤!」
観客席の手すりから身を乗り出し、無意識のうちに叫んでしまう。圧倒的な初速で他を引き離した伊藤は、スタート時の前傾姿勢を維持したまま、小さい歩幅で地面を蹴ってさらに加速する。そして、そのまま10mほどの距離を進んで速度が乗りきったところで、上体を起こして徐々に歩幅を広めていった。
(あっ)
上体を起こしたことで、伊藤の顔が良く見えるようになる。その両目は前方を鋭く睨んでおり、全身に力を入れているためか歯も食いしばられていた。しかし、口の端には僅かに笑みが浮かんでおり、その顔は日の光に照らされて晴れやかに輝いているように見える。走るのが楽しくてたまらないといった、そんな表情。その走りからは以前のようなぎこちなさは一切感じられず、一歩一歩の感触を体全体で噛み締めているかのようだった。
(楽しそうだな、伊藤)
トラックを疾走する伊藤を見て、昔の彼女を思い出した。小さい頃、自分や友達と一緒に校庭や河川敷で遊んでいた伊藤。顔を輝かせながら、風を切って駆け回っていた伊藤。それらの姿が、今眼前でトラックを疾走している彼女に重なったのだ。
髪を風にたなびかせ、凄まじい速さで駆け抜けていく。他の選手を置き去りにしながら風を切って走るその姿は、無人の野を征くが如くだった。やがて彼女は観客席にいる自分の前を通り過ぎ、その背中はどんどん小さくなっていく。そして、ゴールラインの白線を踏み越えた瞬間、脱力したように両腕をだらりとぶら下げ、急速に減速していった。同時に、ゴールライン付近にある電光掲示板に1着の選手……すなわち伊藤のタイムが表示される。
「ま、マジ……?」
思わず目を見開いてしまう。周囲にいる観客や選手からもどよめきがあがった。見間違えか何かかと思って目をこするが、表示されている数字に変わりはない。
「じゅ、12.21秒……」
自分の記憶では、確か県の女子100mの歴代最高記録は12秒台ギリギリ前半くらいだったような気がする。とすると、もしかしたら、今自分は県内新記録誕生の瞬間に立ち会っているのではないだろうか。歴史的快挙をこの目で見ることができた。その事実に身体が震えてしまう。
ただ見ていただけの自分ですらこんな様子なのだ。では、その大記録を打ち立てた張本人は一体どんな顔をしているのか。そう思ってゴール付近を探すと、観客席に向かって手を振っている伊藤の姿が目に入った。恐らく後輩の女子たちの方を見ているのだろう。あれほどの記録を出した直後だというのに、狂喜乱舞しているような気配はない。ただ、やりきった、走りきったという満足げで穏やかな笑みを浮かべているだけだ。記録のことなど一切気にせず、純粋に走ることに楽しさを感じているようだった。
(伊藤。君って、すごい奴だよ……)
そう思いながら伊藤を見つめていると、彼女が自分の方に視線を向ける。その目はまっすぐとこちらを見つめており、これだけの距離があっても自分のことを注視しているのだと言うことが分かった。彼女は満面の笑みを浮かべながら、こちらに向かって親指を立てる。
(俺のこと、気が付いてくれてたんだ)
自分の声援が伊藤に届いていたのかがずっと心配だった。だが、彼女の明るい笑みを見てその憂いは消し飛んだ。あの笑顔は、単に観客席に知り合いを見つけたからといって浮かべるものとは違う。それよりももっと色々な感情が込められたもののように思えた。
こちらも伊藤に向かって親指を立て、お互いに微笑みあう。物理的な距離がありながらも心が繋がっているように感じられた。いつまでもそうしていたい気持ちに駆られるが、次のレースの準備のため、少しすると彼女はレーンから外れてトラックの外側へと歩いていってしまう。その姿はやがて観客席の陰に隠れて見えなくなり、心に名残惜しさが広がった。だが、その気持ちを遮るかのように競技場内にアナウンスが鳴り響く。
「えー。男子3000m走に出場される選手の方々は、間もなく招集時間となりますので招集場所にお集まりください」
それを聞いて思わずはっとする。腕時計に目をやればその針は11時20分を指していた。伊藤の元へ行って何か言葉を掛けたいという気持ちがあったのだが、招集に遅れるわけにはいかないので、もうすぐにでも出発しなければならない。
「伊藤に負けてられないな。俺も頑張らなくちゃ……!」
そう口に出して、名残惜しさを断ち切ると共に自分の戦意を高める。競技開始まで残り40分ほど。そこで入賞し、伊藤にいいところを見せるとともに、これまでの自分から生まれ変わるのだ。
(入賞して自分に自信がつけば、きっと伊藤にも想いを伝えられる。だから頑張るんだ。最後の最後まで)
その思いを胸に抱き、観客席を後にして招集場所へと向かった。
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