水切り(1)
あの日の夜、伊藤と二人きりで話してから5日が経った。頭上には太陽がさんさんと輝き、強い日差しが練習を終えて疲れきった部員たちの肌を焼いている。
「はぁ、疲れた……」
あまりの疲労から思わず言葉が漏れてしまう。顔の汗をぬぐい重い脚を引きずるように歩いていると、後ろから声が掛けられる。
「よっ! 金剛寺、今日もお疲れさん」
振り返ると、そこには汗まみれになった磯貝が立っていた。練習が終わったという開放感からかその表情は晴れ晴れとしており、日の光に照らされてきらきらと輝いて見えた。
「あ、磯貝もお疲れ様」
そう返すと、磯貝は歯を剥き出しにして満面の笑みを浮かべる。
「今日の3000m走、最後の追い上げ凄かったじゃないかよ。俺も抜かれそうでひやひやしたぜ」
声の端々から嬉しさが滲み出ており、本気で自分のことを称賛してくれているのだということが伝わってきた。友人でもあり同じ種目のライバルでもある磯貝からの素直な誉め言葉に、胸が暖かくなるのを感じる。しかし……
「ありがとう。でも、まだまだだよ。県大会に進むためにはもっと力をつけないと」
そう。褒めてもらえるのは嬉しいが、自分にはまだまだ力が足りていないのだ。今日自分たち長距離組が行ったのは大会当日を想定した練習。部員それぞれが自分の種目の距離を全力で走り、タイムを計測するというものだった。そこから自分の課題や調整箇所、最終的なペース配分などを考え、本番までの最終調整に役立てるというわけだ。
そんな中、自分の3000m走のタイムは10分06秒だった。この記録は今までの自己ベストより20秒以上も早いものであり、陸上競技場ではない土のグラウンドで出したタイムと考えれば大健闘といえるだろう。レース後半の持久力を強化するという練習の方針が報われた結果でもあると思う。
(でも、このタイムじゃまだ県大会には進めない。最低でもあと10秒は縮めないと……!)
伊藤との一件があってから、心のわだかまりが無くなったのか前よりも練習に身が入るようになった。だが、それでもあともう一歩足りない。伊藤に良いところを見せるためにも、自分に自信をつけるためにも、こんなところで止まってはいられないのだ。そのように思っていると、磯貝がこちらの顔を見つめているのに気が付いた。
「金剛寺。お前、なんか変わったよな。面構えがしっかりしたっていうか、なよなよっとした感じが抜けた気がするぜ」
「え? そうかな」
先日伊藤と話したことで、これまで自分が知らなかった色々なことに気付かされた。そのお陰で確かに内面的には変化しただろう。ただ、そういった変化は表情にまで現れるものなのだろうか。
「そうだよ。俺には分かる。詳しいことは知らねぇが、良かったな、金剛寺」
そう言ってにかっとした笑みを浮かべる。彼の声には嘘の気配は一切なく、ただ温かさが感じられるのみだった。そんな様子を見て心に歓喜が染み渡る。
「そうそう。変わったと言えばさ、最近伊藤も調子良さそうだよな。昨日なんてグラウンドで自己ベストタイを出したってみんな騒いでたぜ」
「ああ、それなら俺も聞いたよ」
ここ数日の伊藤の様子を一言で言い表すなら、絶好調という言葉が最も適切だろう。あの一件があってからというもの、彼女は教室でもどこか上機嫌であり、表情は晴れやかであり、走りも以前のようなぎこちなさが消えてさらに磨きがかかったものへと進化したように思える。
「お、噂をすればだぜ」
そう言って磯貝がグラウンドの中央を指さした。見れば、練習を終えたのか、短距離組の女子たちがぞろぞろと歩きながら談笑している。その中心にいるのは伊藤だ。
(伊藤、笑顔が自然な感じになったな)
今の彼女が浮かべている笑みは、自分と二人きりの時に見せるような底抜けに明るいものではなく、上品でおしとやかなものだ。しかし、それでも悩みを抱えていた頃の笑顔に比べれば遥かに自然であり、作り笑いではなく感情のままに笑っているという感じがする。
(俺のしたことは……無駄じゃなかったんだ)
そのように考えながら伊藤を見つめていると、彼女もこちらに気が付いたのか、互いに目が合った。
「あ、お疲れ様ー!」
おしとやかな微笑みから一転、花が咲いたようなまばゆい笑顔を浮かべてこちらに手を振っている。女子部員の中にあって伊藤一人だけが光を放っているようだった。その可憐さに一瞬言葉を失ってしまうが、すぐ我に返って手を振り返す。
「こ、こ、金剛寺ィ……」
伊藤に手を振っていると、突然磯貝が奇妙な声を出した。凄まじい怨嗟がこもった、地の底から響くような重々しい声だ。見れば、その顔には思わず身構えてしまうほどの敵意が表れている。
「伊藤とお前。最近二人とも雰囲気が変わったと思ってたが、ま、まさか……」
そう言う磯貝の瞳には、めらめらという擬音が聞こえてきそうなほどに妬心の炎が燃え盛っている。先程、伊藤は明らかに磯貝ではなく自分に対して手を振っていた。遠目から見れば自分達二人に向けて手を振っていたように見えただろうが、自分のすぐ隣に立つ磯貝には、彼女の笑顔と視線が自分にだけ向けられていることが分かってしまったのだろう。
「金剛寺ィ……。抜け駆けか? 抜け駆けなのかァ!? この俺を差し置いて!」
「ち、違うよ! 誤解しないでってば!」
大慌てで弁明するが、彼の嫉妬の炎は収まる気配を見せず、むしろその激しさを増しているようだ。
「畜生ぉぉ! うおおおおおお!」
「えっ!? 磯貝、どこ行くの!?」
とうとう耐えきれなくなったのか、磯貝は情けない叫び声をあげながら背を向けて走り出した。部室の方向に向かっているのを見ると、そのままの勢いで帰るつもりなのだろう。長距離組の練習は既に終わっているため問題はないのだが、果たしてあれを追いかけるべきなのか。
「まぁ……いいか。明日になったら忘れてそうだし」
様々な考えが交錯するが、最終的には問題ないだろうという結論に至る。何か嫌なことがあっても翌日にはけろりと忘れてしまう。良くも悪くも、彼はそういう人間なのだ。
(それに、やらないといけないこともあるしな)
そう思いながら、再び伊藤の方へと目を向けた。家が近いということもあって、あの一件以来練習後は彼女と一緒に下校している。少しでも彼女と仲良くなりたいという下心と、彼女に昔の性格を出させて息抜きさせてあげたいという想いが合わさってこちらから誘ったのだが、伊藤も快く承諾してくれたのだ。元々自分たちの家の方向に帰る生徒は少なく、下校するときはお互い一人きりだったため、その寂しさを埋められるというのも大きい。今までならば一緒に帰ろうなどと誘うのは到底不可能だったので、お互いの関係が進展している証ともいえるだろう。
練習後の帰り道、自分と伊藤は二人で土手の上の道を歩いていた。比較的早くに練習が終了したためまだ周囲は明るく、気が滅入るような暑さも健在である。周囲に蝉の鳴き声が響く中、他愛もない世間話をしながら家へと向かう。今日の給食のメニューはどうだったとか、練習の調子はどうだったとか、そんなしょうもない会話だ。だが、そんな様子でも自分は彼女と一緒に居られるだけで幸せを感じられた。
「ねえねえ。そういえばさっき磯貝君が叫んでたけど、一体何だったの?」
今までの会話を切り上げ、伊藤が唐突に尋ねてきた。
「あー。まぁ、ちょっと色々あってね……」
思わず言葉を濁してしまう。自分と伊藤の仲を磯貝が誤解し、それに嫉妬してあのようになってしまった。などと正直に言えるはずがない。
「ふーん」
伊藤は僅かに怪訝そうな表情を見せたが、それも一瞬で、すぐに興味を無くしたように元の顔へと戻る。
(伊藤は俺のことをどう思っているんだろう?)
唐突にそんな疑問が浮かぶ。思えば、伊藤に好かれたいという気持ちはあっても、彼女が具体的に自分のことをどう思っているかはあまり考えたことが無かった。
疎遠になってしまった時期はあったものの、お互いに付き合いが長く、先日の一件では本音を言い合って和解することができた。それからは教室でも会話することが増えたり、毎日こうして二人で下校したりと、互いに接する機会がかなり増加したのだ。少なくとも、ただのクラスメイトというラインは越えている……と思いたい。
だが、彼女が自分に恋愛感情を持っているのかと言われると、それも違う気がする。確かに、自分と二人でいるとき彼女は楽しそうであり、表情も生き生きとしている。だが、それは自分と一緒にいるのが楽しいというよりは、本来の彼女を出せるのが嬉しいからではないだろうか。
(結局は幼馴染止まりなのかな……)
心が暗く沈む。ここ最近、自分としてはかなり伊藤との関係を深められたと思っていた。いや、実際に間違いなく以前より親密になっているだろう。だが、それでもまだ十分ではないのだ。
(そもそも、伊藤は俺の気持ちに気付いてるんだろうか?)
そう思いながら、横目でちらりと彼女の顔を見る。高い鼻にくっきりとした茶色の目、相変わらず端正な顔立ちだ。加えて、晴れ晴れとした明るい表情がその魅力をさらに増幅させている。
彼女は人のことをよく見ており、他人の気持ちを察するのが上手い。実際、先日の夜に二人きりで話した際にもまるでこちらの気持ちを見透かしているかのようだった。そんな彼女だから、自分が向けている好意にも気が付いている可能性はある。そのように考えながら、あの日の夜の会話を思い出した。俺は昔の伊藤も今の伊藤も大好きだ、と思わず言ってしまったあの時のことだ。
(うーん、あの時は完全におちょくられたよな)
あの時、彼女はこちらをいじるような態度をとった。もし彼女が僅かでも自分に対して恋愛感情を持っていたら、あのような態度はとらないのではないだろうか。
(やっぱり異性としては認識されてないのかな……)
さらに気持ちが沈んでいく。だが、そんな中でふと以前の伊藤の言葉を思い出した。何か一つ、譲れないものや頑張れることがある人はかっこいい。夕暮れのグラウンドで彼女が言っていたことだ。その言葉を胸に抱いて、彼女に魅力的だと思われる人間になろうとここまで練習を頑張ってきたのだ。
(そうだ、そうだよ。伊藤にいいところを見せて気を惹く。そのために練習してきたんだろ)
まだ終わりではない。大会で結果を残せば、きっと伊藤もこちらを振り向いてくれるはずだ。だから……
(大会で16位以内に入って入賞したら、伊藤に想いを伝えよう)
心の中で、改めて自分自身にそう誓う。彼女が振り向いてくれるのかは分からない。だが、それでもこの想いだけは……。彼女への恋心だけは絶対に諦めないと、あのときに決めたのだ。
固めた決意を飲み込むように、顔をぐっと上へ向けた。透き通るような空には白い雲が幾本もの筋となって流れており、青と白が美しいコントラストを描いている。雲間から覗く太陽の眩しさに思わず目を細めた。
「あっ」
空を見上げながら歩いていると、突然伊藤が立ち止まって声を上げる。何事かと思い横を向けば、彼女は視線を足元へ向け、そこに落ちている小石を凝視していた。
「この石、うーん……」
伊藤は身をかがめてしげしげと小石を見つめる。自分も目を凝らしてみるが、特に変わったところのない、手のひらほどのサイズの平たい石ころだった。彼女はそんなものの一体何を気にしているのだろうか。もしこれで水切りでもしたらよく跳ぶのかもしれないが……
(あ、まさか……)
そこまで考えて、伊藤が何故その石を気にしているのか分かった。見れば、彼女は石を拾い上げて横に流れる川と石を交互に見つめている。そうして視線を何往復かさせると、突然こちらに向き直って自分の顔の前に石を突き出した。
「えぇ? 本気?」
困惑したように問いかけると、伊藤はそれ肯定するようににやりとした笑みを浮かべる
「こんないい感じの石を見つけちゃうとねぇ。童心に返るのもたまには楽しいよ!」
この自分本位でぐいぐい引っ張ってくる感じ。まさに昔の伊藤だ。しかし、不思議と不快な感じはしない。
「それに、最近練習続きで根が詰まってるんじゃない? 息抜きだって必要だよ」
そう。彼女としてはこちらを気遣って息抜きを提案してくれているのだ。そういった気持ちが分かるからこそ、無下に断ることはできなかった。
「中学三年生にもなって水切りかぁ」
「誰も見てないから大丈夫だよ。それに、俺の前では昔の伊藤でいてくれ~とかカッコつけてたのは金剛寺でしょ」
「うっ。それはそうだけど……」
そのようなことを話しながら、伊藤の後に続いて河川敷へと降りていく。
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