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かわいい猫を嫌う理由

 


 初恋の人はある日、俺の妹になった。


 その子は母さんの弟の奥さんの妹の娘。

 小学生が面白半分に口にするような、ちょっとややこしいくらい遠い親戚で一つ下の幼馴染だった。


 彼女が中学三年生の時。

 受験勉強の息抜きにと、夏休みに家族で出かけた遊園地の帰り。

 交通事故に巻き込まれて、彼女の両親と兄貴が死んだ。

 彼女はなんとか一命をとりとめたけれど心が壊れてしまった。

 明るい子だったのに笑えなくなった。


 それが心配だから俺は毎日病室を見舞っていた。

 するとある日彼女は俺を見て、"お兄ちゃんだけでも無事でよかった"と言って笑った。


 だから、その日から俺は彼女の兄貴になった。


 ―――


 どたばたと廊下を走る音が聞こえた。

 俺はベッドの中でいじっていたスマホの電源を切り、あたかも今まで寝ていたかのように目を閉じる。


「お兄ちゃん! 学校遅れちゃうよ!」


 部屋の外で由奈ゆなの……俺の妹の声がした。

 ノックすらせずにドアを開けて、駆けてきた彼女は俺をベッドから引っ剥がす。


「起きてよもう! 毎日毎日大変なんだからね! それに部屋汚い! ()()()()たちに呆れられちゃうよ?」


 俺の部屋。

 漫画やらなんやらが散らかった部屋。

 "兄貴"になるために散らかした部屋だ。


 ベッドの前で仁王立ちになって、ご立腹らしい由奈が俺のことを見下ろしている。

 寝間着の俺に対して彼女の身支度はばっちり。

 すでに高校のセーラー服に袖を通していて、由奈は白い肌と長い黒髪が目を引く美人なので、やはりというかよく似合っている。

 高校でもモテるんだろうなとぼんやり思った。


「朝ごはんできてるよ。ほら急いで急いで。……ていうかなんでさっきからそんなじーっと見てるわけ?」

「妹のセーラー服見て嬉しくなっちまったんだよ」

「なにそれ。だらしないくせにこんな時だけ兄貴ヅラやめてよねぇ」


 ホント仕方ないなー、なんて言いながら由奈は嬉しそうだ。

 彼女の反応を見て俺は一安心ひとあんしんする。


 今日もなんとか由奈を騙せそうだ。


 ―――


 それは本当におかしなことで。

 医者の先生もひたすらに首を傾げていた。


 顔も背丈も違って性格だって全然違う、俺と同い年の兄貴を由奈は俺と誤認していた。


 俺は彼女の兄貴とも小さい頃から仲が良かった。

 昔はよく三人で遊んでいた。

 だけど俺とアイツの共通点なんて同い年であることくらいのものなのだ。


 だから俺のことをお兄ちゃんと呼んで離れたがらない由奈を前に、親戚はみんな困惑していた。

 だけど真実を伝えれば今すぐにでも壊れてしまうのはなんとなく分かっていたので、誰も何も言えなかった。


 そして家が近くて由奈があまり生活を変えずに済むこと、遠縁ながらも親戚で、親同士も仲が良かったこと。

 これらも後押しして由奈はうちに引き取られることになった。


 それ以来俺は彼女が壊れてしまうのが怖くて、少しでも幻を長続きさせようと空回りの努力を続けている。

 少しでも"兄貴"の真似をしようとしている。


「お兄ちゃんのせいで遅れたらどうしよう……」


 二人して歩く同じ高校への通学路。

 住宅街の空気は暖かな日差しでほどよく温まり、なんだか眠くなるような春の朝だった。

 そんなのどかな景色の中、少し場違いに足を急がせる由奈は落ち着かない様子でため息を吐いた。


「…………」


 そりゃあ、俺のせいで出発は遅れたけどまだまだ間に合う時間だ。

 なので俺は彼女の心配を一蹴しておく。


「そんな騒ぐ時間じゃないだろ」


 だけどどうやらそういう問題ではないらしい。

 俺の言葉に由奈はまた心配そうにため息を吐いた。


「違う違う。今日は初めて学校に行く日じゃん。早く教室行かないと友達できないよ……」

「友達って先に並んで袋に詰め込むようなものではないからな」


 冗談でそう言うと、由奈はじとりとした半目の視線で俺を刺した。


「分かってないな……。女子はグループ固まったらもうどうしようもないんだから」

「ああ、そう。ごめんな」


 じゃあ先に行っとけ、なんてことはとても言えない。

 今の彼女は事故のトラウマのせいで俺がいないと通学用のバスに、車には乗れないのだから。


 ―――


「大丈夫だぞ、由奈」

「……うん、うん」


 運良く空いていたバスの一番奥の広い席で。

 顔を青くした由奈は俺の手を握りしめていた。


「こんだけ大きいバスならぶつかってきた方がミンチだ。だから大丈夫。……大丈夫だって」


 俺の軽口に、俯いていた由奈は顔を上げる。

 やっぱり顔は青かったけれど。


「なにそれ、おかしいよ……」

「でも相手さんがダンプならちょっと危ないかもな」

「ふふっ……」


 少し笑った。

 調子づいた俺は胸を叩いてさらに軽口を重ねる。


「ま、いざとなったら俺がお前の盾になってやる。安心だろ?」


 でもその言葉を聞いた由奈の血の気が引いた。

 さぁっと音がしそうなくらい、元々白い彼女の肌から目に見えて血の気が引いた。


「やめてよ……冗談でも」

「…………」


 震える声。

 由奈と兄貴と二人の母親。

 彼らは事故の日車の後ろに三人で座っていた。

 彼女の母親は由奈と兄貴を庇って死んだ。

 兄貴の方は守りきれなかったけれど、それでも守られたことは由奈にとって大きな傷だった。


 俺は間違えたのだ。


「……ごめん」


 何も言えない俺に、取り繕うように由奈が謝る。

 俺はあえて謝ることはせず、曖昧にうなずいて小さく咳払いをした。


「…………」


 由奈はずいぶん明るくなった。

 "兄貴"がいるおかげだ。

 それでもやっぱり彼女の傷は深い。


 ちゃんとなりきらなければと、俺は改めて思う。


「ついたぞ、由奈」


 長い長い沈黙を経てバスは学校のそばにつく。

 また俯いて、祈るように両手で俺の手を握っていた由奈。

 細かく震えていたその肩を叩き、手を引いて立たせた。


「は〜やっと降りれた。バス嫌い」


 強がるようにして、由奈は降りるとすぐに口を尖らせる。

 俺はちょっと笑ってバスの運転席を指さす。


「聞こえてるっぽい」

「あっ……ごめんなさい……。違うんです、違うんですよ!」


 内弁慶な子だ。

 基本的には礼儀正しい子なのだ。


 だから慌てふためいて別の意味で顔を青くするが、運転手のおじさんはあまり気にしてないようだった。

 人が良さそうに笑って帽子を掲げるとドアを閉める。


 発車します、と。

 お決まりのセリフを言ってバスは道路の先に消えた。

 気まずそうに顔を歪めた由奈は歩き始める。

 そしてやがて高校に続く一本道、通称『猫道ねこみち』に差し掛かった。

 すると名の通りすぐに猫と遭遇して、彼女は表情を明るくする。


「わ、猫ちゃんだ!」


 語尾を上げて、満面の笑みで、由奈は人に慣れた猫のそばに座り込む。


「…………」


 ここがなぜ猫道と呼ばれているのか。

 それは猫がたくさんいるからだ。


 この道の両脇には桜並木があって……まぁよくある桜トンネルというやつだった。

 それは今のような春にはたいそうきれいなものなのだが、写真を撮りに来る人間が餌を与えるもので猫がたくさんやってくる。


 近隣住民は硝煙弾雨しょうえんだんうのごとく文句を言うのだが猫はそんなこと気にしない。

 その上無責任な撮影客は日向ぼっこする猫という最高の飾り付けを未来永劫手放さない。


 そんなわけでここはもう何年も猫道と言われているのだ。


「かわいいにゃ〜……よしよし」


 にゃあと言って、餌を期待してか寄ってきたしま模様の猫をしゃがみこんだ由奈がなでる。

 彼女は猫派だからここは天国だろう。


 桜の枝がまだらに陽を散らし、ゆらゆら揺れる花びらを振りまいて。

 春の美しさを背に猫と戯れる由奈は、きらきらと光るように笑っていた。


「あっちのぶちもかわいいよ」


 ふと思い立って彼女の背に声をかける。

 するとすぐに顔を上げて、木の根の横で昼寝するぶち猫に目を留めた。


「ほんとだ!」


 嬉しそうに言ってスマホを取り出した由奈が写真を取る。

 俺は彼女に校門では隠しておけよと、没収されるぞと。

 そんなことを言おうとしたのだが、その前に言葉を遮られた。


「あれ?」

「どうした?」


 スマホを下ろし、不思議そうな表情でこちらを見てくる。

 俺は彼女に視線を合わせた。


「お兄ちゃん猫きらいじゃなかった?」

「…………」


 猫好きの由奈が猫を飼えなかったのは、彼女の兄貴が猫嫌いだったからだ。

 忘れていた。


「えっと……いや」


 違和感を覚えてしまっただろうか?

 答えに迷って上手く話せない。

 それは地雷原に迷い込んで足をすくませるのと同じだった。

 下手なことは何も言えない。


「…………」


 そんな俺の気も知らずに、じっとこちらを見ていた由奈はやがてその表情を緩ませた。


「もしかしてやっと猫のかわいさが分かった?」


 安心した。

 気づいていない。

 なにも綻んではいない。


 今はまだ。


「いや…………」


 泳ぐ視線を押さえつけて、俺はまっすぐに由奈を見る。

 そしてなんとか笑ってみせた。


「好きではないけどな。でも、去年から毎日こんなとこ歩いてたらさ……慣れるっていうか……」

「へー。じゃ、卒業する頃には猫派だね!」

「やめろって。縁起でもない、身の毛がよだつ……」


 本当に身の毛がよだっているように見えただろうか。

 そうならいいと思う。

 違和感は修正しなければならない。

 ただでさえツギハギだらけの日々なのだから。


 猫が嫌い。


 胸の中でつぶやく。もう間違えない。


 そうやって俺は少しずつ"俺"を殺していた。

 心を空っぽにくり抜いて"兄貴"で満たすために。


 ―――


 どうやら由奈は上手くクラスに馴染めたようだった。

 帰り道で教えてくれた。


 そして今はそれをキッチンで料理する()()()()に嬉しそうに話していた。


 そんなかしましい話し声を背にして、俺はリビングで()()()()と二人でテレビを見ている。

 だが不意にテレビを消しておじさんが話しかけてきた。


「おい、か……」

「…………」


 おじさんがなにか言いかけた。

 俺はその言葉の先を知っていた。

 だから視線で制した。


「…………」


 重苦しい沈黙が流れる。

 しかしやがておじさんが漏らした軽いため息で破られた。


「ちょっと出よう」

「……うん」


 言葉を交わし、二人とも立ち上がる。

 そしてリビングを出てそのまま玄関から靴を履き外に出た。

 おばさんに向けてちょっとコーヒー買ってくると、そんなことを言い残して。


 俺もおじさんも……いや、もういいか。

 父さんも着の身着のままだが、どうせ行き先は近くの自販機なのだから気にしない。


 虫の音が聞こえるような聞こえないような、街灯が点々と照らす道路を黙って歩く。

 春先だからかまだ少し寒くて、上着を着ればよかったかと俺は思った。


「ほい」

「ありがとう」


 たどりついた自販機で父さんが二人分のコーヒーを買う。

 俺に渡したのは砂糖もミルクも沢山入ってるやつだった。


 由奈が来てからは飲まないようにしていた、アイツの嫌いな甘ったるいコーヒーだった。

 二人で近くのベンチに腰掛ける。

 ふと空を見上げると、星は見えないけど満月がきれいだった。


「なぁ、お前、明るくなったよな」

「そうかな?」

「そうだよ。昔はもっと、静かな子だった」


 そう言って父さんも手に持つコーヒーのプルタブを引く。

 そしてちびちびとすすりながら、やけにしんみりとした様子で口火を切った。


「無理は、してないか?」

「してないよ。してるわけない」

「いつまで、続ける気なんだ?」

「いつまでだって続けるよ。由奈は俺の妹だ」


 そう言うと、思わず語気が強くなる。

 だから俺はコーヒーを口に入れて気を落ち着かせる。

 甘かった。


「あの子は、お前の妹じゃない」


 そんなことを言われた。

 答えようとして父さんを見る。

 こんなに老けていただろうかと思った。


「妹だよ。昔はそうじゃなくても今の由奈はうちの子供だ。だったら……」


 そこまで言った俺の言葉を、父さんが静かに遮る。


「そういう話をしてるんじゃないんだ。分かるだろう?」

「…………」


 答えられなくて黙り込む。

 こうしてまっすぐに踏み込まれると、俺は反論できるだけの道理を持ってはいなかった。


「あの子はお前のことを本当の兄だと思っている。でももちろんそれにはいくつも矛盾がある」


 確かに穴は限りなくある。

 俺の努力で埋まるようなものではない。


 たとえばそうだ、この家の子供は、彼女の幼馴染はどこに行った?


 おじさんとおばさんには子供がいたはずだ。

 由奈は留学しているだなんて言っていたけれど、それは賢い彼女だとは思えないくらいのずさんな屁理屈だった。


 そしてもちろん問題はそれだけじゃない。


 学校でどう誤魔化す? 学年が違うからまだなんとかなってるけれど、それでも友達と出くわしたら?

 公的書類も、身分証も、どうする?

 どうすれば隠し通せる?

 改名でもするというのか。


 無茶だった。

 絶対に無理なことだった。


「……なぁ、かずま」


 もうずっと、家の中では呼ばないようにしてもらっていた俺の名前が呼ばれる。

 思わず顔を上げた。


「いつか気がつくんだよ。そしていつか終わるもののためにお前が身を削るのを、父さんは見たくない」

「…………」


 何も言えなかった。

 多分それが正しかったから。


「それにお前……あの子が好きなんだろう?」

「違う」


 しかしこれには黙り込む訳にはいかなかった。

 だって今のあの子は妹だ。

 その妹を、他ならぬ兄貴がそんな風に見てるなんて知ったらきっと傷つくだろう。


 ましてや由奈にもう彼女の兄がいないだなんてことを突きつけるのは……そんなのは、真っ平ごめんだった。

 だからほとんど反射で違うと口にして、俺はベンチから腰を浮かせる。


「違う? だってお前、小さい頃から……」

「違うって」

「かずま、お前はもっと自分の気持ちに……」

「だから違うって! もうやめてくれよ!!」


 俺がそう叫ぶと、父さんはなんとも言えない傷ついた顔になる。

 それに罪悪感を感じながらも、俺は言葉の続きを絞り出す。


「……由奈が、悲しむだろ」

「…………」


 俺はまたベンチに腰を下ろして、けれど決まりが悪くて父さんからは顔をそらす。


「あの子は、たしかに不憫だった。……でもな、こんな関係、良くないよ。どちらにとっても」

「分かってる」


 俺が一番分かってる。

 結局俺は、由奈が一番辛い目にあう時間を先延ばしにしてるだけだ。


 慰める訳でもなく、支えてる訳でもない。

 血を流し続ける彼女の傷を癒やすでもなく、麻酔で眠らせてただ延々と輸血しているようなものだ。


 でもこれじゃいつか二人揃って失血死だ。

 未来なんかないのは分かっていた。


「それでも、もう少し続けたいんだ。……ごめん、父さん」


 俺が小さくそう言うと、何も言わずに父さんがその大きな手で俺の頭をわしわしと撫でた。

 すると何故だか胸の内側がどうしようもなく熱くなって、俺はそっぽを向いたままぼんやりと灯る街灯を見つめていた。

 泣くのを必死に我慢していた。


「久しぶりに、父さんって呼んでくれたな」


 でもその言葉には耐えられなくて、少しだけ泣いた。


 ―――


 あの日、事故が起こった日。

 それは夏休みの真ん中くらいだった。


 県外の高校に行ってた兄貴が帰ってきて、久しぶりに家族そろって遊園地に出かけたのだ。

 由奈は楽しそうで、アイツと俺は再会を喜んだ。


 遊園地から帰ってきたらまた三人で遊ぼうと約束していた。


 でもそれは叶わなかった。

 あんなことがあって、目が覚めた直後の由奈は酷いものだったらしい。

 俺は見たわけではないが、家族がみんな死んだことを伝えられると由奈はとても錯乱した。

 気絶して、叫んで暴れてはまた気絶するのを何度も繰り返したそうだ。


 そして面会ができるようになった頃の彼女は一切の表情を失っていた。

 包帯をぐるぐる巻いて、人形のようにうつろな瞳で外を見ていた彼女は俺の知らない誰かのようだった。


 家族が死んで、居眠り運転で事故を起こした憎い男も死んで。

 大切な人も恨む相手もなにもかもを失った由奈は抜け殻だった。


 俺も優しかったおじさんとおばさん、それから親友が死んだから悲しかったし苦しかった。

 それでもなんとか由奈を支えなければと、ずっと続けてたサッカーもやめて毎日病院に通っていた。


 するとある日彼女が奇跡のように微笑んで、俺のことを兄と呼んだ。

 もう葬式だってしたのにそう呼んだ。


『お兄ちゃんだけでも無事でよかった』


 どうして裏切れるだろうか。

 俺の恋心など問題ではなかった。

 もう二度と笑ってくれないと思っていたから。

 だから考えるよりも先に嘘をついたのだ。


 あるいはこの言葉を否定すれば彼女は現実を受け入れようとしたのかもしれない。

 それは分からない。

 でもとにかく俺はそれを選ばなかった。


『ああ』


 ああと言った。それが最初の嘘だった。


『心配したんだからな、由奈……』


 それから彼女を抱いて俺は泣いた。

 また笑ってくれたことに安心して、嬉しくて出た涙だった。

 あれからたくさんの嘘をついたけれど、その気持ちだけは嘘じゃなかった。


 ―――


「お兄ちゃん」


 夕日が出ていた。

 街は茜色に染まっている。


 由奈と俺は学校が終わったあとに心の病院に二人で行って、その帰り道を連れ立って歩いていた。

 そして由奈が川を見たいと言ったので少し回り道して土手の道をコースに選んだ。


 すると偶然にも河川敷のグラウンドで、ジュニアチームが野球の練習をしているらしかった。

 だから由奈はそんなことを言ったのかもしれない。


「お兄ちゃんさ、野球しないの?」


 かきーん、と。

 痛快なバッティング音が夕空に溶けていく。

 セーラー服姿の由奈は俺の目を真っ直ぐに見ていた。


「野球?」

「やってたじゃん。エースだったじゃん」

「ああ、そうだな」


 アイツは、"兄貴"は野球の天才だった。

 県下でも有名なピッチャーだった。


 一方俺はサッカー部でレギュラーだったけど、それだけだ。

 アイツはやっぱり特別なやつだったのだ。


「いいよ、別に。うちの学校弱小だろ?」

「ん? さては……」


 俺の言葉にいたずらっぽく由奈が笑う。

 それから俺の脇腹をつんつんとつついてきた。


「野球部の人が頼みに来るの待ってるんでしょ?」

「は?」


 何を言ってるのか分からなくて聞き返す。

 すると由奈はますますにやにやした。


「とぼけないでよ。弱小チームのキャプテンが毎日頼みに来て、ユニフォームを家に届けに来て、試合開始ギリギリにかっこよく現れて入部して、準備運動しないから足つって……」


 歌うように滑らかな声で下らないことを口にする由奈。

 それを聞いて俺は噴き出す。


「足つっちゃだめだろそれ」

「でもマウンドに崩れ落ちたいでしょ?」

「崩れ落ち方くらい選ばせろ」

「じゃあ寝坊でもして崩れ落ちる?」

「間に合わないならただの応援しに来た人じゃん」


 ユニフォームまで着た熱心な。

 勝ったら川に飛び込みそうだ。


 呆れて笑う。

 なによりまたこうして話せるのが楽しくて笑った。


 すると唐突に由奈が俺の背中を平手で叩く。

 いい音がして、結構痛かった。


「っ! なにすんだよ!」

「あんまり、私のこと気にしなくていいんだよ」


 由奈は泣き笑いのような顔をしていた。

 俺は何も言えなかった。


「でもごめんね。いまだに病院通ったり、バスだって乗れないし、心配だよね」

「……当たり前だよ。まだ一年も経ってない」

「違うよ。もう一年だよ。お兄ちゃんの高校生活は三年しかないのに」


 やめろよ。


 耳を塞ぎたかった。


 お前がそんなこと言うなよ。

 俺はどうすればいいんだよ。

 何も知らないだろ。知ってほしくもないんだよ。

 黙って頼ってくれよ。


 俺なんてどうでもいいんだよ。

 好きでやってるんだよ。好きだからやってるんだよ。


 拳を握った。立ち止まる。

 由奈も止まって、遠くを見ながら言葉を紡いだ。


「ねぇ、お兄ちゃん覚えてるよね? ほら、昔三人で遊んでた……」


 息が止まるかと思った。

 こんなふうに由奈が"俺"のことに触れたのは、ほとんど初めてだったから。


「覚えてるよ」


 声が震えた。

 答えられたのは、奇跡だったと思う。


「留学してるんだよね。あの人……あれ?」


 そこまで言って由奈は言葉に詰まる。

 そして困ったように俺の方を見て微笑んだ。


 まさかと思う。

 取り繕うようにして由奈は話を続けた。


「あの人……あの人は、お兄ちゃんが野球してるの大好きだったよね」

「…………」

「留学する時にさ、ほら……大リーガーになれって……」


 それは本当のことだ。

 でも少し違った。


 アイツは高校が県外の野球の名門校に決まってたから、だから離れることが決まってたから。

 中学出たら地元を離れると言われた時、俺がアイツに言ったんだ。


「大リーガーになんてならなくてもいいよ。あの人もそうだと思う。でも、お兄ちゃんの可能性を私が奪うのは辛いよ。……私も頑張るから、ね?」


 一番辛いのは彼女だ。

 親も仇も頼りになる兄貴も、何もかも失って。

 辛くて仕方がないから現実から逃げたはずなのに、それでも誰かを気遣える。


 ……健気だった。

 俺は彼女のこんなところが好きだった。


 だけど俺は、今は何より気になって仕方がないことが一つあった。


「あのさ……」

「うん?」


 聞くのが怖かった。

 口の中がからからに乾く。

 三度深呼吸して、俺はようやく彼女に聞けた。


「そいつの名前、覚えてる?」


 おそるおそる聞くと、由奈は困った顔をする。

 そして曖昧に笑ったあと、小さく呟いた。


「あんなに仲良かったのに……なんでだろ……」

「…………」

「顔も、思い出せないや……」


 死にたいと思った。


 心が痛くて痛くて仕方がない。

 とめどなく血が流れる。

 でも俺が始めたことだ。


 流した血で、空回りの、その場しのぎの輸血が続けられるなら。


「そういうことって、あるよな」


 ようやっと絞り出したのはそんな言葉だった。

 自分がどんな顔をしているのか分からなかった。

 多分。笑っている。

 必要なのは"兄貴"で、いらないのは俺の方だ。


「……どうしよう。私、おかしいのかな? 今度先生に」

「大丈夫だよ」


 俺は不安げな由奈を抱きしめる。

 そしてかすれた声でなんとかささやく。


「心配しなくていいから。大丈夫だから」


 そう言って彼女を慰める。

 あるいは自分に言い聞かせた。


 大丈夫。


 ―――


 アイツは昔から輝いていた。

 野球に限らずなんでもできた。

 俺なんか、遠い親戚で家が近くなかったら親友どころか友達にもなれてなかったと思う。


 そして俺たちはいつも神社の奥のすすきの野原、丈の高い草に隠されたそこに秘密基地を作って集まっていた。


 猫がいつも糞をしていて、猫がいつも隠したおやつを奪っていて。

 だからアイツは猫が嫌いだった。


 懐かしいと思う。

 事故がなければとも思う。


 そうすれば彼女は幸せなままだった。

 俺と彼女の関係も違ったものだったろう。

 それになによりみんな苦しまずに済んだはずだ。


 ……今はもう、そんな『もしも』は繰り言にすぎないけれど。


 ―――


 俺と由奈はずいぶんと懐かしい道を歩いていた。

 国道沿いに山の方へ。

 高校とはちょうど反対の、とある神社への道だった。


「ねぇ、秘密基地。覚えてるでしょ?」

「ああ……あったな、そんなの」


 あの堤防の道でのやり取りから数日後。

 夕食のあとに突然だった。

 おばさんとおじさんにお兄ちゃんと出かけてきますと、そう言って由奈が俺を連れ出したのだ。


 由奈は車に乗るのも怖がるが、車がたくさん通る道も苦手だった。

 だからか国道沿いを歩きながら俺の手を固く握っていた。


「…………」


 俺は適当な長袖のTシャツとズボンを履いて。

 由奈は淡い青色のワンピースにカーディガンを羽織って。

 特に洒落っ気のない格好で、それは特別でも何でもない外出だった。


 そして俺は複雑な気持ちだった。

 彼女はあそこで何をするつもりなのだろうか。


「あのさ」


 口火を切ったのは由奈だった。

 俺の疑念が伝わったのかもしれない。


「あの人のこと、思い出したいの。秘密基地に行ったら、思い出せそうな気がして……」

「…………」


 まだ八時くらいだから、国道線上では車が盛んに行き来する。

 びゅんびゅんと立つ音の隙間を由奈の声が通り抜けてきた。


「思い出さなくていいよ」


 "俺"はそう言った。

 由奈は悲しそうな顔をした。


「お兄ちゃん、またそんなこと言って。親友だったじゃん」

「そうだな」


 "兄貴"がそう言った。

 由奈は笑った。


「そろそろだ!」


 国道を抜けると由奈はさっさと手を離す。

 そして軽い足取りで先に進んだ。


「おい、サンダルだろ。足くじくなよ」

「お兄ちゃんこそ足つらないでよ」

「ネタが分かりにくいよ」


 ぐだぐだの会話を交わしていると、やがて俺たちは神社にたどり着く。

 石段を登って境内に入り、目的地は神社の奥のすすき野原だ。


 ずんずん進んでいく。


「お賽銭入れない、お兄ちゃん?」

「いいな。由奈、お前払えよ」

「お兄ちゃん銀行から借りれますか?」

「俺は由奈には融資しません」


 倍返しするからー、とか意味違うよなとか。

 そんなこと言って笑ってくだらないこと話しながら、俺たちはようやく秘密基地を探し当てた。


「ここだー」

「懐かしいな」


 小学校の後半には足が遠のいて、中学に入る頃には完全に行かなくなっていた。

 だから必死こいて踏みならしたはずの秘密基地はもうすすきに埋もれていた。


「う〜ん。手がかり、手がかり……」


 由奈が草をかき分け秘密基地を探る。

 確か団員の札、的なノリで名前を書いた小さな板があったはずだ。


 俺もそれを探す。

 先に見つけたら隠すつもりだった。

 由奈が先なら運命に任せようと思った。


「……あった! これこれ……」

「…………」


 先に見つけたのは由奈だった。

 小学校の用務員さんにもらった三枚の小さな板だ。


「私とお兄ちゃんと」


 言いつつ由奈は二枚の板をカーディガンのポッケにしまう。


「持って帰るのか?」

「せっかくだし……」


 照れたように笑って由奈が頭をかく。

 俺は頷いて、由奈が板を見るのを待った。


「…………かずま」


 名前を読むと由奈は笑った。

 とても嬉しそうに笑った。


 心臓がばくばくと音を立てる。

 どうなるのか分からなかった。

 どうして止めなかったんだろうと今さらに後悔する。


「思い出した。優しかったんだ。あんまり喋らないけど、でも、優しい人だった……」


 由奈が板を宝物のように胸に抱く。

 そして口を開いて、すすき野原の向こうを見つめた。


 俺の心臓は破れそうだった。



「また会えるかな」



 心臓が、落ち着きを取り戻す。

 体の中でうるさいほど響いていた心音が消えた。

 止まってしまったのではないのだろうかと思う。

 いっそ止まってしまえばいいのに。


 会えないよ、きっと。


 "俺"はそう言おうと思った。

 でも由奈が悲しむと思ったからやめた。


「会えるだろ、普通に」


 "兄貴"がそう言った。

 由奈は嬉しそうに笑った。


「今度は顔も思い出したいな。ねぇ、帰ったらアルバム貸して?」

「ないよ。前の家から引っ越す時に……学校のも、家族のも……荷物になるから捨てちゃったし」

「そっ……か」


 とっさに口をついたのは、あまりにずさんな嘘だった。

 でも簡単に騙されてくれた。

 それ以上の追求もなかった。

 まるで無意識に真実へ迫るのを避けているかのように。


 だから見られる前に隠しておこうと思う。

 だらだらと続けてしまった初恋と一緒に。


「なぁ、由奈」

「なに?」

「おじさんとおばさんのこと、『お父さん』と『お母さん』って呼ばないか?」


 俺がそう言うと由奈は黙り込む。

 でも少しして泣き笑いでうなずいた。


「……そうだね」


 笑う由奈の頭を撫でて、俺は秘密基地に背を向ける。

 それから彼女に声をかけた。


「帰るぞ、由奈。父さんと母さんが待ってる」

「うん!」


 返事を聞き届け、俺は由奈に追いつかれないよう早足で歩き始める。

 涙がこぼれたら隠し通せる自信がなかったから。


「…………」


 結局、嘘をつき続けることを選んだ。

 でもそれは先延ばしのためではない。


 いつか由奈の傷を埋めてくれる人が現れるまで、血を流す彼女を支えるためにするのだ。

 兄貴のままでは彼女の傷を癒やすことはできないし、兄貴をやめれば彼女は痛みを思い出す。


 だからそうすることにした。

 不毛な輸血をいつまでだって続けるのだ。

 どうか麻酔が切れませんように。

 血まみれの心でそう祈った。


 癒やされる日まで、どうか彼女が痛みを忘れられますように。

 もうこれ以上悲しい思いをしないで済みますように。


 それさえ叶うなら、俺はいつか血が尽きてしまってもいい。

 二度と恋なんかせずに生きよう。

 もう由奈が笑ってくれるならそれだけでいい。

 どんなことも耐えられる。

 我慢できる。辛くもない。

 改名だってなんだってやってみせる。

 ずっとこの嘘を守り続けると決意した。


 でも……それでも由奈に恋人ができたらぶん殴ってやろうと思う。

 兄貴なんだからそれくらいしたっていいはずだ。


 石段を降りる。

 しかし涙でぼやけて転びそうだったから足を止める。

 目元を拭うと、同じく泣いていた由奈が追いついてきた。


 そして俺の顔を覗き込むと噴き出す。


「泣いてるの?」

「お前こそ」


 また手を繋ぐ。

 帰ったら、今までの詫びを兼ねて父さんと母さんをちゃんと呼ぼう。

 おじさんやおばさんなんて呼ばずに。

 由奈と一緒に。


「あ、猫だ」


 石段を降りると、電柱の下で黒猫がこちらを見ていた。

 備え付けの細長い明かりに照らされて、スポットライトを浴びているようだったからすぐにわかった。


「かわいいな。ちょっと触っていこ」


 たしかにかわいい。

 だけどそんなことを言う由奈の頭を、俺はコツンと軽く小突く。


「なにすんの、お兄ちゃん」


 目を丸くして驚いた彼女に意地悪な笑みを向ける。

 アイツがそうしていたように。


「俺が猫嫌いだって、お前知ってるだろ?」


 ふんぞり返ってそう言うと、俺の妹は呆れたように笑った。

 それから前を向くとスポットライトの猫は姿を消していて、だから俺たちはまた手を繋いで歩き始める。




 かわいい猫を嫌う理由・了



ご読了お疲れ様です。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公が不憫で、由奈ちゃんがわるいわけではなくて、誰も悪いことをしていないのに皆何かを堪えているのが切なかったです。この先、みんな幸せになれば良いのに、と思います。
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