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足し算

作者: 本田捏造

挿絵(By みてみん) 

 他人の恋が実る瞬間は、いつだって人知れぬ処で振る舞われるものだ。秘密の時と場において二人は戯曲の登場人物となって、心を開く。その時の二人は、先刻の二人と少しも変わらないのに、互いが目にする相手の姿はまったく別のようである。仲間達は、二人の関係が昨日とは異なる距離であることを知り、驚くのである。私は、その驚嘆の渦の中に、何度か潜ったことがある。それから、渦から遠く離れた、もうわずかな螺旋状も見えない場処で、二人の事実を知ることも何度もある。その時とは、二人は新たな関係に慣れ、周囲も順応した、ほとぼりが冷めた状態であり、届いた情報は、大分熱気を失っているのである。このように、我々は大きな渦に飲まれたり飲まれなかったりするのだが、いずれにしても、渦の生まれる瞬間、即ち渦中に出会ったことはない。

 中には、その瞬間を目撃した人だっているだろう。衆目の中で、相手に意中を明かす人もいないことはない。しかしこれは例外に過ぎない、相対的に数少ないことだろう。それにまるで催し物のようで、二人の関係性の変化を記念するにしては、少しも私的ではない。私的ではないことが悪いと、必ずしも言いたいわけではないのだが……。

 私が関心を抱くのは、ささやかな雰囲気の中で演ぜられる特別な瞬間である。そこに他者の介入はなくていい。極めて密室的な状況を求めている。私の指定する瞬間は、他者が目撃することが難しい。偶然見つけて覗き見るしか手段はなさそうだ。

 ところで私は、これまで執拗に追究した、恋の実る瞬間を、この目で見たことがある。とは言ってみたものの、正確には恋の結実の瞬間ではなかったかもしれない。また、私が今までに細かく限定した条件からも、いくらか外れている。一つ確実なのは、私がその瞬間を見て、少しの日々が過ぎてから、二人が渦となって、周囲に波紋を広げたことである。あの二人が心の波を立たせるまでには、いくつかの決定的な事件があったに相違ない。その事件の一つには、私が見た、あの夕刻の出来事が含まれていると、私は信じているのである。その出来事は、実にささやかなものであった。


 私が高校一年の時である。入学が早くも遠くへ流れ去ったように感じた、あるいは感じもしなかった、五月のことだ。我々は入学して最初の試験を終え、安心して、やや暑くなってきた季節の中、通学路を辿って行ったものだ。

 文化祭が間近に控えており、一年生は、モザイク写真を展示するために、毎日放課後になると、教室で作業をしていた。小さな正方形に刻まれた種々の色の折り紙を、画用紙の適切な箇所に糊で貼り続けるという、単純な作業だった。生徒達は、延々と小さな紙を扱うと同時に、手を乾いた糊で塗りたくることに、半ば飽きつつも、仲間と共に談笑しながら時間を過ごすことに、決して嫌な心持はしなかった。私は、談笑はもちろん、作業も好きで、とても楽しんでいた。そのため、教室に居る人数が次第に減っていっても、構わず紙と糊を手にして机に向かい続けていた。終いに教室には、私を含めて二、三人しか残っておらず、先生に促されて、ようやく自分の鞄を持ち上げるのである。

 教室に最後まで残っている人は、毎日同じというわけではなかった。各々の偶然の都合が、その日の居残りを決めていた。日によっては、私が早くに帰ることもあった。

 ある日、やはり熱心に作業を続けていると、教室には私と二人の男女しか残っていなかった。二人共に、私のよく知る人である。男の方は、私が当時仲良くしていた仲間達の一人だった。もう一人とは、同じ中学校に通っていて、入学式の日に何げなく選んだ椅子に座った時、隣から声を掛けてきたのが彼女だった。この時私は、彼女が私と同じ高校に入学したことを知ったのだった。彼女との間柄は、深くはなかったが、浅くもなかった。教室の席が近かったこともあって、私達はよく言葉を交わし、互いにそれを楽しんでいたと思う。

私達三人は、静かになった教室で、特に誰への遠慮もないのに、騒がしくならない程度の声でしばらく話し合っていた。そこへ先生がやって来て、私達に帰宅するように言った。室の伝記は消されたが、五月の太陽は、私達をほのかに照らすのに、少しも衰えていなかった。

 私は大人しく帰ろうと、机の上に置かれた鞄を手にした。その時彼女は、誰に向けてというわけでもなく、

 「ねえ、あれやりたい」

 と言った。

 「あれ」だけでは何のことか誰にも理解できないため、彼女は続けて、自分のこれからしたいことを説明した。私は彼女の言葉を凝然として聴いていたはずなのに、何を言っているかよく判らなかった。しかし不思議にも、彼女が何をしたいのかは理解できた。

 彼女の提案に対して、反対する者はいなかった。彼女は黒板に立ち寄り、黒板の中央に大きく「+」と書いた。それから、大きく空間を空けて、右隣に「=」と書き、そのすぐ右にハートマークを描いた。すべてがチョークで大胆に表された記号だった。彼女がこれからしたいのは、男女が「+」の両隣の位置に立っている様を写真に撮ることであった。彼女が言うには、これが今流行っているそうなのだが、私は全然知らなかった。

 彼女がこれを提案したからには、彼女が「+」のどちらかの側に立つのは明らかだった。問題は彼女と共に誰が写るかということである。先生がそれを訊ねた。

 「誰がお前と撮るんだ?」

 「…………」

 「谷澤か」

 「えーヤだ」

 彼女は軽々と拒んだ。そこには何の悪意も込められていない、純粋な拒絶だった。私は黙って彼女と先生の会話を聞いていた。そこへ、私と同じくほとんど無言だった彼が、暗示の指名によって、黒板へ動かされることになった。それに連れ、彼女も黒板に向かった。黒板までの距離は短かったが、彼の緩慢な動きに対して、彼女はあまりに飄然としていた。

 間もなく二人は黒板を前に立ち止まった。左には彼、右には彼女が立つ。二人とも黒板を至近距離に見つめているため、私達には二人の表情が見えなかった。

 カメラを持っていたのは二人の内のどちらだっただろうか。先生は手渡されたカメラを構え、黒板を背景に、背中を見せた男女を撮影した。振り向いた男女は、特にこれといった表情を浮かべていなかった。教室にいる誰もが何の表情も有っていなかった。室内に流れた沈黙は、一秒一秒をも大人しくさせた。静かな時と場だった。その静かさを破ったのは、鞄の持ち手に腕を掛けた私だったかもしれない。

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