記憶の中のものたち 05
空から落ちてきた大きな恐怖に身体が動かない。強く何かがぶつかって、後頭部を掴まれた。そこからは身の竦む臭いに震えが止まらず、硬い革紐にただただしがみついている。更に上に下にと激しく揺さぶられ吐き気を催したアピーだったが、高速で建物が流れゆく景色の中、風に乗った匂いに顔を上げた。なんとか薄目に前を覗き見てみると、自分を抑えつける恐怖の塊が、逃げる小さな黒髪の少女の背に今まさに迫っている。
「み、ミギノ、」
数日前に、少女との背丈の差が広がったと気がついた。
同じほどの目線であったが、最近は少女の黒目が話しをすると、自分を常に見上げている。これにアピーは喜びに自然と尾が揺れるのだ。
ーー守らなきゃ。
トライドの森を逃げて、ガーランドの国境線であるトラヴィス山脈を越え警戒しながら先頭を歩くアピーは、オルディオールに支配されていない状態の黒髪の少女ミギノを、振り返り振り返り確認していた。出会った頃より食が細く、なかなか大きくならないミギノは、体力がなくいつも皆の後を必死で追いかけている。
ーー・・・・・・・・死んじゃう。
アピーの居た施設では、食事が少ない小さなものから元気が無くなり居なくなったのだ。
ーー守らなきゃ。
振り返り振り返り、少女の顔色を確認していた。特にここ数日は、空をぼんやりと見上げる事が多くなり、元気が無いことが気になった。人の多い町に出たら、今までの旅同様に、笑顔を取り戻すと思っていた矢先に、恐怖の存在が現れた。
その恐怖が、ミギノの背中にたどり着く。
〈ソートリアから逃げられると思ったの?甘いよね!!〉
(アピーが、守らなきゃ)
アピーの守るべき少女の背中に伸ばされた手。自分を抑えつける恐怖の存在に、腹の底から苛立ちが湧き上がった。震えによりガチガチと合わなかった歯の隙間から、怒りが音となり零れ出る。
〈捕まえた!!〉
ーー「「「ギャンッッッ!!!」」」
〈〈!!!?〉〉
アピーを侮る男が驚愕に目を見開いた。次に鋭く目を眇めて何かを言った。だがそれに怯えることなく、全身が怒りで総毛立つ。
「グルルル、グルルル、グルルル、」
収まらない怒りに牙が疼き、目の前の男の喉元を狙おうと腹から咆哮が迫り上がったが、その前に先手を打たれて強く弾き飛ばされた。
「っ、・・・・・・・、」
空に投げ出されたアピーは、衝撃に頭が呆然となり為す術なく地上に引き寄せられる。流れる景色をぼんやりと見送ることで、訪れるだろう痛みと死の恐怖が一瞬だけ霞んだが、背の高い建物の屋根が目に入り恐怖に身を縮めた。大犬族は、猫族の様に高所からの落下が得意ではない。地面に叩き付けられる想像に両目をきつく瞑り、無駄だと分かっても全身を丸める。
ーー「っっ!!、?」
真下に落下していたはずが、横から強く何かがぶつかり包まれる。トントントンと音がするたびに身体に強い重みがかかったが、想像していた痛みは訪れなかった。
ぶるぶると震えたままのアピーは地面に降ろされる。身を竦ませる少女を見下ろした誰かが顔を覗き込む気配がしたが、恐怖で瞼を開くことが出来ない。怯え震える大きな耳はへたりと下がるが、前髪に留められた翠色の髪飾り、それを優しく押さえるように誰かの温かい手がぽんぽんと軽く触れた。
「!!」
袖口からフワリと香った愛しい匂いに、アピーは髪飾りと同じ色の瞳を見開く。だが目の前には誰の姿も無く、走り寄る靴音と共に聞き覚えのある声が路上に響いた。
〈アピー!大丈夫か!?〉
「・・・・エスフォロスさん、」
抜けた腰に立ち上がることが出来ずに、振り返りきょろきょろと辺りを見回すが、既に求める姿はどこにもない。民家の屋根上から落とされて、衝撃に身を竦めたアピーを横合いから受け止めてくれた人物は、少女が半身だと希う青年だったのだ。
**
竜騎士となる者は目が良くなければならない。視力の劣る者は、眼鏡で補うか医療により矯正を軍より命じられるのだ。上空から、地上を歩く小さな人々も個別識別出来るかが、竜騎士を目指すものの基本である。
(・・・黒髪の貧相な子供、見た目に間違いない。あれはオゥストロ隊長のメイだった)
第三の砦部隊エミュスの率いる班は、攫われた天上人の少女の追跡に先行したが、当の本人が率先して逃走した事により、捜索は難航した。
〈ヴォルッ・・・、見つからない、〉
あと少しで手にできた目標だが、獣人の少女の邪魔が入った。煩わしさを思い出し、苛立ちに少女を叩き落とした下方を見てみたが、辺りには他の竜騎士の姿が増えている。
〈エミュス副分隊長、第二砦の連中も来ました!大聖堂院の四十五番はラタが追跡中!〉
〈・・・天上人の巫女をトライドの森から攫った首謀者は、大聖堂院の四十五番、そしてエスクランザの神官将、トラーが首謀者であるよね〉
〈?、はい、?〉
〈だけど僕の手から逃げたのは、あの小さな黒長鼠本人だったっていうことは?〉
一年程前に第三の砦の運動場で、毎朝隊員たちに走らせられていた小さな姿は、走技場の半周も完走できずに立ち止まっていた。もたもたと必死に走る姿を、周囲の隊員たちはなにが面白いのか応援し、到達点にたどり着いては喜んでいた事を思い出す。それと同じく浮かぶのは、トライドの戦場で、ガーランドの黒竜将とファルド騎士団長の一騎打ちに、無謀にも飛び込んだ白礼装の小さな姿。
〈間違いない。我が国の天上人、オゥストロ隊長のメイには、未だファルドの英霊オルディオールが宿っている〉
〈・・・!?、ということは?〉
〈能無しだね。ということは?オゥストロ隊長の巫女を攫った首謀者が、その英霊だということだ〉
〈!?、まさか、ファルドの英霊オルディオールが、我が国から和平交渉の象徴である天上人の巫女を、奪おうとしているって事ですか!?〉
〈あの英霊は、真に東大陸の停戦なんて、望んでいたのかな?〉
******
夜明け前、青黒い波にゆらゆらと揺れる船の上、ヒエは隅に置かれた体温を発する網草袋から、気付かないふりで通り過ぎると漁師と会話をする。出航し沖に出た頃、少し離れた縁に腰掛けると、不審な荷物に気付かれないように息を潜めて見つめていた。
船が停泊すると、数人の男たちが海から網を引き上げたり、先端では竿で魚を釣り始めた。南方行きの荷物が積まれた船尾では、荷の隙間、網草袋の隙間から、男たちの漁を覗き見ている不審者は、ヒエの注目に気付かずに音を立て始める。
「・・・、・・・、」
人では聞き分けられない微かな音は寝息。それを聞いたヒエは、船の軋む音と漁師たちの声に乗り、波の揺れと共に立ち上がった。そして慎重に網草袋の背後に回り込む。
〈・・・・・・・・〉
気配を殺し、網草にすっぽりと覆われたものの正体を覗き見る。完全に閉じられた瞼を確認すると、少しずつ袋をずらしてみた。
(無人の・・・、子供?)
ずれた袋から現れたのは、苦悩し青ざめた白い顔。ほんのり色付いた、赤い小さな唇が何を不満に思ってか引き下がっていた。それを見て、あることを思い出したヒエは身震いした。
(黒髪、不満げな顔。なんか、昔エスクランザの市で見た、魔除けの子供の人形に似てるかも・・・?ん?、あれ?、なんだ、この匂い、?、!?)
ざわざわと、身の内から湧き上がる高揚感。初めての体験に、ヒエは自身の症状と学んだ知識を照らし合わせる。
(ぞわぞわする、発情に、似ているような、似てないような、でも違う。なんだろう、この、体の奥から感じる、もやもや、?)
少女の身体から微かに発せられる匂いに、ヒエは生まれて初めての緊張感に包まれた。
(・・・・・・・・まさか、)
西方の番人として、古くから伝えられる口伝。そして膨大な書物による知識。体験として記されたものは僅かだが、全ての真存在に関わる重要な文献は、今はお伽話として信じる者が少なくなっている。
ーーこれが、ログラム・ノイ?
ずるっ、「っ、」
雲間からこぼれ落ちる朝陽は薄紫、橙、桃色と白い波間に散り輝く。鼻水を手の甲でおさえた少女は薄目を開けて、荷物の隙間から燦めく光りをぼんやりと眺めていた。
「・・・ん?」
少し大きな波に船が乗り、揺れ動いた船内に少女は睫毛を瞬く。
「・・・やべえ。寝ちまった?」
〈良い朝だね〉
「?、!!」
〈動くと落ちるよ、そのままそのまま〉
「・・・・・・・・、」
〈天上人、メイ〉
「!」
初見で正体を見抜かれた事に危険を感じた。オルディオールは中身の少女が出て来ないように、胸元を強く握りしめる。そして逃げ場の無い船の縁、臨戦態勢に目の前の獣人を見続けた。だが青年は、荷物に乗せた片腕、指は顎や口元に触れたまま、何をするでも無く少女を〈うーん〉と観察し続けるのみだった。
***
ーーー南方大陸プルムの港。
〈なんだ?その子?おい、どっから乗った?〉
「・・・・」
〈兄ちゃんのつれ?〉
〈ってことは、猿族?・・・あれ、でもこんな感じの鼠族もいなかったか?〉
〈鼠族?、だとすると、密航者か?またかよ、〉
密かに船に乗り込んでいることがある、密航者に多いのは鼠族だ。それに頭を悩ませていた船員たちは、現れた見知らぬ乗船客を怪しんだ。
「・・・・・・・・」
船着場の桟橋、青年に連れられた不審な子供。密航者かと疑う船員たちが通りすがりに集う中、荷下ろしに忙しく動き回る周囲から、大きな声がかかった。
〈あれ?もしかして、この前の子か?〉
笑顔で現れた北方人の男は、一年前に会った事があると、不審な子供に笑顔で近寄ってくる。
〈この子はアレだよ、西端から来る、旅するアレ〉
〈ああ、北方の、鼠だか猿だかって、あの連中か〉
〈見た目は小さいからまんま鼠っぽいけど、猿族なんだよな!親元から離れて旅するあの子たちだよ!鼠猿族だよな!大きくなって!〉
「・・・・・・・・?」
返事は無い。そして困惑に片方の眉を上げた顔に、船乗りはそうかそうかと頷き始める。南方大陸ではなく、遥か昔に北方大陸の西側に住み着いた南方人の中に、成人のために幼少期に親元を離れて旅をする種族がいる。小さな姿でひとりぼっちで長い旅をする。そんな鼠猿族と出会うと、彼らの成長の旅路を、北方人は昔から少し離れて見守っていたのだ。
〈良かったなぁ!もう旅は終わったのか?一年前に、船で会っただろ?俺のこと、覚えてないか?〉
「・・・は?」
片方の眉を上げたまま、生意気な表情の子供は、知るわけないと怪訝に船員の男に目を眇めた。その様子を無言で見つめる猿族の青年に、今度は彼と交渉した漁師が矛先を変える。
〈兄ちゃん、連れも一緒なら、次からは、先に言ってくれよ。子供でもな。別料金。〉
〈・・・ごめんね、言うの忘れてたんだー。この子の分も、僕が払うよ〉
「・・・・・・・・」
〈いやー、ホントに良かったなぁ!〉
身体の大きな漁師たちに取り囲まれて緊張しているのか、無愛想に口を引き結んだまま、黒目は支払いのやり取りを見つめている。だがその中、子供好きの船員の一人が、小さな頭を撫でようと手を伸ばした。
[おい!やめとけ!!]
〈なんだよ、別に小突きやしねーよ〉
〈じゃなくて、北方では、そいつらはあんまり触ってやるなと言われてるんだ〉
〈え?なんで?噛むのか?〉
〈それもあると思うがよ、とりあえず触っちゃだめなんだって!〉
口をはさまず周囲のやり取りを見ていた青年が、〈あ、鼠猿認定なんだものね〉と頷き呟く。そして〈そうだよねー、頭はやめてー〉と適当に相づちをした。
「・・・・」
〈行こう、メイ〉
***
ーーープルムの港町。
(・・・どういうつもりだ、こいつ)
ガーランドは冬の気候で肌寒かったが、少し南に移動しただけで湿度が上がり息苦しい。更に観光客の為に用意された出店の熱気に温度も上がり、しっとりとした空気にオルディオールは余計に苛立っていた。
(真存在の猿族。書物での記憶しかないが、猿族には、あまり善い印象が無い)
天教院や子供向けの読み本に描かれる獣人の猿族は、人に害をなす敵として描かれる事が多い。縄張りから出ることはほとんどない彼らは頭が良く、罠を用いて人の子供を攫って喰うとされていた。
(創作である読み本を丸ごと信じてはいないが、現状、猿族の意図が分からない)
船では周囲の漁師に見つかり騒がれないように、自分が壁になり庇ってくれた。そして下船してからは船の料金を肩代わりし、付いてこいと先を歩く。
(さっきの漁師もそうだが、天上人としてのメイの認知度によるものか、・・・いや待て。漁師はメイを獣人だと勘違いしていたか?)
疑問は深まるが、天上人であるメイに、手を貸す理由を突き止めなければならない。
(全国的に、天上人メイは指名手配されている。それは南方大陸でも周知のはずだ。メイを南方大陸の中枢に導けば、こいつの行く手には地の部族の長であるエイグが居るはずだが)
北方人にもガーランド人にも悟られずに、天上人であるメイを南方大陸に連れ込む事が目的ならば、森には踏み込まずにプルム港内を逃げればいい。だが別の懸念を想定したオルディオールは、今は猿族の青年に従うことにした。
(・・・・ここは、)
破落戸たちの交渉の場にも使用されるが、個室飲食店の利用は性的目的が最も多い。暗黙の了解に家族連れは閉鎖的な雰囲気の店を避けるのだが、小さな少女を連れた青年を、入り口の門番は怪訝な目で見つめた。
同じ様に不審者を見る目で青年を見上げる黒目だが、我関せずに中に踏み込み案内係の後を追う。建物は防音となっているのか、全て強固な分厚い石造りとなっていた。
(犯罪者が屯している雰囲気じゃねえが、)
破落戸が常に出入りするような娼館宿のように、華美すぎる装飾やむせ返る香の臭いはない。だが長い渡り廊下の先にある、意味深に母屋から離れた一角に、オルディオールは周囲を警戒に見渡した。
〈少しここに寄るからね〉
たどり着いた部屋の前、振り返った青年の好意的ではない観察の瞳。行動は常に天上人とされるメイを助けているが、金色の瞳には油断ならない陰りを灯す。係のものが開いた扉の先、その場に慎重に踏み込んだオルディオールだったが、室内の人物を見て余計なメイがしゃしゃり出た。
『かっぱちゃん、・・・久しぶり!』
部屋の窓辺に寄り掛かり、外を眺める銀色の長い髪。蛇魚族とは一目見て分かったが、背が高くスアハよりも筋肉質な背筋に、どう見ても共に旅をした少年とは別人に見えた。だがオルディオールの今までの警戒を無にしたメイは、見知らぬ男に無防備に走り寄る。
(どこをどう見たら、こいつがスアハに見えるんだ!!!)
メイの感情が優先される身体の主導権の交代。強く言い聞かせる場合は出て来ないのに、言い聞かせなければここぞという間の悪さで現れる。怒りに呟いてはみるが、やはりオルディオールの感情による身体の支配権の入れ替わりにはならないのか、当の本人は見知らぬ蛇魚の目の前に走り寄り、へらへらと笑顔で初対面の他人を見上げている。そんなメイに無力感のため息を吐き、その場をぼんやり眺めていると、怪訝な表情の蛇魚の青年が背後に話しかけた。
〈・・・・・・・・ヒエ、これ、〉
『え?』
〈・・・・・・・・〉
『・・・・・・え?』
〈〔アッパテャン〕て、何?〉
〈なんだろうねー、〉
『・・・・・・・・』
〈ねえこれ、お食事用じゃないよね?〉
(なんだと?)




