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何事も、終わりよければすべて良し、と言う。
つまりは終わりがダメなら過程が良くても全部ダメになると言う事だ。
予想外の大役に一瞬混乱する。だが、出番が何番目でもやる事は何も変わらないと割り切る。
むしろ良かったと思うべきだ。
余計な事を考える余裕はなくなった。気を抜けば大怪我をするかもしれない剣闘なのだから、半端な考えは捨て、勝つ事に集中するべきだ。
幸い俺の出番まではまだ時間がありそうだから気持ちを落ち着けて待つ。
肩を叩かれてハッとする。
俺の肩を叩いた男は不敵な笑みを見せると闘技場の中心を親指で指した。
集中していたために気がつかなかったが、俺の出番が来たらしい。
見てきた男たちが皆そうであったように、胸を張って堂々と闘技場の中心へ向かって歩く。
そしてふと、俺はどのように紹介されているのか気になったが、相手がこちらに歩いてきたので、そんな疑問はどうでもよくなった。
俺の目前に立った剣闘士は、右手に俺が借りたのと同じような短剣を抜き身で持ち、左手には直径四十センチ程の円形金属盾を持っている。それは良い。そういう剣闘士もさっき見た。
金属製の兜、手甲と脛当てが天辺に到達した太陽光を反射してきらめいている。少し眩しいが、それも良い。
その胸板はさらしに似た布が巻かれている。だが、その下の確かなふくらみは隠し切れていない。
俺は思わず、元来た方向に振り向いた。
「おい!女だぞ!正気か!?」
男たちは真剣な表情で何かを言い、俺を鼓舞する為か、両腕を振り上げ大興奮している。
違う!そうじゃない!今まで女の剣闘士なんて一人も居なかったではないか!
俺は思わず文句を言おうと元の道を戻ろうとした。すると男たちは途端に慌てて、俺に留まるように伝えてきた。
首を落とす仕草も一緒に。
今戻ったら殺されるの?マジで?
男たちの様子は冗談ではないようだった。
男女平等、と育てられた世代の俺でも、流石に女性と剣を交えるのは気が引ける。それどころか女性を傷つけるなんて事はできない、したくない。
それにこれは男女平等がどうとか、そういうことではなく、一人の男として女性を害する行動をとりたくないと言う感情の問題だ。
もし俺の打ち込んだ一撃で、一生消えない刃傷が残ったらどうするのだ!責任なんか取れないし、取りたくもない。
体のあちこちに傷跡がある?すでに傷跡があったらなんだと言うのだ、もう一つ二つ増やしても変わらないとでも言うつもりか、ふざけるな!
剣を持って闘技場に出れば同じ剣闘士?断じて否!
相手は女性なのだ。どんな理屈をこねようが、どう言葉を言い繕っても身体的に異なっている!
覚悟を持って剣闘に臨んでいる相手に失礼?そんな覚悟は俺は知らない。そっちが覚悟を語るなら、こっちにだって女性を傷つけない覚悟がある。
完全に安全な剣道の稽古程度ならば気にしない、実際に勇姫とは何度も稽古をした。面を打つ事にためらいは無かった。胴を抜く事に躊躇する訳が無い。だが防具のない所は絶対に打たないように細心の注意を払う。剣道ならばそれはできる。でも剣闘も剣術も根本からして剣道とは違う。
どれほど自問自答してみても、女性と剣を交える事を容認できない自分がいる事を再認識させられるだけだった。
「どうしたらいいんだ」
逃走は不可能。であれば勝負するしかない。
俺は相手の女剣闘士と正面から向き合って、必死に考えを巡らせる。
相手は俺の行動を不審に感じている様子だが、冷静さを失っている訳ではない。内側からにじみ出る自信が俺の目に映りそうだ。
珍しい女剣闘士、と言うだけでこの場に立っている相手ではない。
落ち着いた静かな呼吸、鍛え抜かれた肉体、隙の少ない立ち居振る舞い。いずれからも確かな実力があるように観える。どのように勝負するかが問題だった。
「―――――!」
進行役の男が短く試合開始の合図を出した。
女剣闘士は盾を構えると一気に距離を詰め、盾の影から短剣で突き込んでくる。
初動は見えていた。狙われているのは左肩。
俺は盾の影に隠れるようにして突き込みを小さくかわす。女剣闘士は勢いを殺し、重心を残したまま突いて来ていたから、必ず次の攻撃が来る。大きくかわすと、その二撃目がかわせなくなる。
二撃目は突き終えた体勢そのままから、即座に俺の方へ重心を移し体勢を切り替え、体重を乗せて振り下ろされる渾身の斬り下ろし。まともに食らえば骨まで届く深手になるに違いない。だが三撃目は打てても伸びてこない程度の物になるから、今度は大きく後方へ退く。
二撃目をかわされた事に驚いたのか、三撃目は体勢が悪い中無理に出したおまけ程度の盾による打撃、それは位置的にも、もう届かない。
俺はさらに距離をとって息を吐き出す。
彼我の距離は約十メートル。これだけ離れれば、相手の動きを見逃す事は無いし、不意に打ち込まれても対処できる余裕が持てる。
素直に大した遣い手だと驚いた。
ほんの一呼吸の間に三度打ち込む。と言うのは言葉にする程簡単なことではない。
それも動作一つ一つが常に守りを意識し容易に反撃されないように工夫されている。
もし俺が先ほどの三連撃の隙間を縫って反撃しようとしていたら、蹴りが飛んで来ただろう。
考え事をしながら対処できる様な易しい相手ではない。
まして反撃を封じられているに等しい状況なのだ。
「―――――!!」
俺が退く様子を注意深く観察していた女剣闘士は、俺に剣の切先を向け、険しい表情で何かを叫んだ。
言葉が分からなくても、今言いたいだろう言葉は何となく想像できる。
なぜ剣を抜かないのか。舐めているのか。と言っているのだろう。
怒りに満ちた表情、俺の大小と短剣に向く視線、確かな実力の女剣闘士である事。それら全てが武器も抜かずに勝負をしようとしている俺を責めている。
俺からすれば怒ってくれる分には都合が良い。過度の怒りは冷静さを失わせ、実力を減衰させる。
だが、言い訳をさせてもらえるならば、誓って狙ってやっている事ではない。俺も実際に困っている。
このままではいつまでたっても勝負はつかない。
負ける。と言う選択肢は俺には無い。
これからローマで生きていくには少なからず金が必要になるのは間違いない。老人との契約の細かい部分が不明な以上、骨折り損のくたびれもうけだけは絶対に避けたい。勝てば、恐らく問題ないはずだった。
ならば、可能な限り女剣闘士を傷つけないように勝つしかない。
そうなると、攻撃をかわしながら隙を突き、組み伏せて降参させるしかない。
女性を組み伏せる。など、本来であれば常識を疑うような暴挙と言えるが、剣を交えるよりはずっと良い。はずだ。
もしも女剣闘士が降参しない場合は、締め落とすしかなくなるから、俺としてはやりたくないが他の方法が俺には思いつかない。
女剣闘士は何を言っても武器を抜かない俺の様子に耐えきれなくなったのか、猛然と突き込んできた。
先ほどの突き込みとは違い、必殺の意思が込められている。だが突き込みが荒くなった様子は無い。
この相手は怒りで精彩を欠く様な次元にはいないらしい。
俺はそれを引きつけてから大きく退いてかわす。二撃、三撃と続けて突き込まれるがそのまま退く。
相手の突き込みは勢いを増している。続く四撃目。これは退くのではなく、前に出る。ぎりぎりまで引き付けてから姿勢を低くして、向かい合って左へすれ違うようにしてかわす。浅く右頬が裂かれる。相手の意表を突く為、意図的に後退から前進へとかわし方を変えたのだ。
五撃目が来る。残念ながら予想されていたらしく、相手に動揺は無い。
最初の斬り下ろしとはちょうど左右が逆になった形、盾が視界を遮らない分、相手の表情が見える。
笑っている。勝利を確信している。
今度の斬り下ろしは重心が残っている。これをかわしても六撃目を打ちこまれる。だが、六撃目が打ち込まれる事が無い事を俺は知っている。
上半身を狙った必殺の突きを、低い姿勢ですれ違うようにしてかわせば、俺は相手を見上げる形になり、相手は俺を見下ろす形になる。
俺の頭よりも高い位置に剣があり、見るからに低い位置に居る俺を即座に追撃しようと思えば、攻撃方法は斬り下ろすしかない。
まして、相手にしてみれば、俺は逃げるのだけは達者な訳の分からない不快な男、である。何度も繰り返し距離をとられて目の前をひらひらされるのも、さぞかし気分が悪いことだろう。
であれば、焦る気はなくても、無意識で勝負を急く、ここで攻撃しないという選択肢は相手の頭の中から無くなる。そこに本人が全く意図しない油断が生まれる。
相手の攻撃が正しく予測できれば、かわすのも捌くのも難しい事ではない。当然、反撃もできる。
斬り下ろす為に力の込められた相手の右腕、手首を自身の左手で掴んで、体を開きながら引っ張る。
自ら振り下ろす勢いと、俺に引っ張られる勢いが合わされば予想外の強い勢いが生まれて体勢が崩れそうになる。崩れそうになれば、それを堪える為に足が出る。そのふらりと前に出る足を俺の右足が払うと、相手は顔面から固く踏み固められた地面に突きささる事になる。流石にそれはかわいそうだし、顔が傷だらけになってしまう。
前につんのめった相手の右腕を、今度は俺の体に引き付けるように引っ張る。そして腹のあたりを右手で下から押し上げてやる。流石に左足一本では二人分の体重を支えきれず尻を地面に強打するが、女性の顔を守るためであれば文句も無い。
相手は空中で半回転し背中から地面に落ちる。
背中を襲う衝撃と、何をされたのか、と言う疑問が相手の思考に空白を作る。
その隙に俺は短剣を抜いて、女剣闘士の首筋に突き付ける。
「降参してくれませんか?」
女剣闘士は少しの間、目をしばたたかせていたが、すぐに体から力を抜いて、剣と盾を手放した。
おそらく降参してくれたのだろうと判断して、俺は短剣をすぐに鞘へ収める。
脅しとはいえ女性の喉元に短剣を突きつける。なんて事はもう二度としたくない。
体を起した女剣闘士ががっくり肩を落としている様子が目に入って、俺の気分はさらに沈んだ。
そこで闘技場の様子がおかしい事に気がついた。
今までの様な歓声が上がらない。観客席を見回せば、皆一様に呆然とした表情で停止している。
「え?なに。なんかマズイことした?」
誰かが、小さく言葉を漏らしたようだった。沈黙に包まれた闘技場で、その言葉は嫌に良く響いた。
どんな言葉だったのかは分からない。
しかしその言葉は徐々に伝播していって、すぐに唸り上げるかの様な咆哮へと変わった。
いよいよ様子がおかしい。
これは勝利と健闘を讃える歓声とは異質なものだ。
観客の表情を見れば、怒りと侮蔑が多分に含まれている様な表情をしている。
俺が勝ったのが不満なのだろうか?
食事を共にした男達の方を見る。彼らは笑顔で戻ってくる様に伝えてくれている。
ではこの罵声じみた叫びは一体誰に向けられたものなのか?
女剣闘士の方を見る。
彼女は血の気の失せた顔で呆然としている。
観客たちは親指を下に向け何事かを叫び続けていた。
まさか、そんな事があるはずがない。
気の良い彼らが寸劇で教えてくれたではないか。剣闘で剣闘士が死ぬ事は無い、と。
だが、もし、俺の聞きたかった事が正しく伝わっていなかったとしたら?
大丈夫だから心配するなと言わんばかりに、この頭を、この肩を、この背中を優しく叩いてくれたではないか。
だが、もし、彼らが伝えたい事を俺が勘違いして、分かったつもりになっていたとしたら?
そんな事ある筈がない。彼らが俺を騙しても何の得も無いじゃないか。
だが、もし、俺が、何もかもを勘違いしたまま、自分の都合がいいように納得していたんだとしたら!
「―――――!」
進行役が大きな声を上げると、一転して闘技場は静寂に包まれた。
すると日除け付きの席から、剣闘を始める際に長い口上を披露した男が前に出て、何事かを言った。
「―――――!」
首を切る仕草と共に。
五月二十日、加筆修正