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「ティベ、リア?あ、違う、これはその!」
ここはどこだろうとか、なんでティベリアがいるのかとか、そんなことよりも、泣いているところを人に見られた。ということが、ひどく恥ずかしかった。
いやいや、まさか、泣いてません。泣いていた証拠がどこにあるというのか、その証拠は今、霧散したはずである。感動物の映画を見た訳でもあるまいし、いい年をした男が、そうやすやすと涙を流すものだろうか、いやない。
頭の中は、混乱の極みにあった。
自分が何を言っているのか、何をティベリアに伝えようとしているのかも、よく理解してはいなかった。
今すぐ、逃げてしまいたい。そうして、気分が落ち着いたら、改めて言い訳したい。
そうだ、今は逃げてしまえ。
逃げるなんて格好悪い。なんて言う風には、俺は思わない。
逃げる必要があると判断したのであれば、逃げるべきなのだ。
すなわちこれは必要に迫られての逃走。いや、一時撤退である。十分に距離を取り、体勢を整え、しかる後反転。という戦術的にも合理的、かつ最も被害の少ない最善策であるに違いない。
考えが定まれば、行動を起こすのは早かった。
予備動作もなく、さっと顔を逸らして、するりと抜ける様に歩き出すが、それはどうやら不可能であるらしい。
もう一段階段があると思って、前に出した足が、空を切るような違和感。
転びはしないが、驚いてしまって体が反射的に硬直してしまう感触。
首だけで振り返って見れば、ティベリアが、俺の手を捕まえている。
おかしな体勢で一瞬固まる。
体は逃げ出していて、腕一本だけが置き去りにされたような変な体勢は、すこぶる具合が悪い。
ティベリアは俺の手を離す気はさらさらないような、無表情にも、決意に満ちているようにも見える表情をしている。
俺は、この場から逃げることを、すっぱりと諦めた。
そのまま、ティベリアを引きずるようにして逃げることは、不可能ではない。むしろ、ローマの女性にしては背が高い方のティベリアを抱えて走る事だって、俺にはできる。
しかしそれでは何の意味もない。逃げたい相手と一緒になって逃げることを、逃げると言って良いものだろうか。
それに、そんなことを考えている余裕もなさそうだった。
体の動きは止まっても、動き出した慣性はなくなったりしない。
方や、ローマの女性にしては長身とはいえ、細身の女性。
方や、剣術ばかりに打ち込んだ、極めて平均的身長の、日本人の、成人男性である。
上背は俺の方が高く、体重差は歴然である。
であれば、どうなるか。
意図せずしてつながった俺とティベリアの腕が、ぴんと張っている。
重く大きい方が引っ張れば、軽く小さい方が引っ張られる。
自明である。
ティベリアが俺に引かれる形で、転びそうになる。
しかし、ご心配召されるな。
伊達や酔狂で剣術に熱を上げているわけではない。
鍛えた体幹でくるりと姿勢を正し、ティベリアを受け止める。結果として俺が引っ張ってしまった訳だから、真正面に構えれば何の問題もなくティベリアを受け止めることができた。
あとは、片足を引き、ぐっと踏ん張れば、このような身軽な女性など冗談半分を交えながらでも余裕で
ぶつりと、やけにもの寒い音が響く。
足が滑って踏ん張りがきかない。ぐらと体勢が崩れる。変に頑張ると怪我をしかねないので、素直に転ぶことを受け入れる。
ティベリアに怪我をさせる訳にはいかないから、抱きすくめるような形になってしまうが、それは謝れば許してもらえないだろうか。
「っ」
ティベリアの体重が、俺の肺を押す。
今度こそは何もなく、ティベリアを受け止めることに成功した。
借り物の服を土埃まみれにしてしまったかもしれないが、他にやりようがなかった状態だったから、仕方がない。
「怪我はない?」
ティベリアを先に立たせながら、上半身を起こし、日本語で聞いても通じる訳がない。と気が付く。
ラテン語では、どういう風に言えばいいのだろう。怪我、というラテン語は知らない。
体に悪い所はありませんか。という意味になりそうな言葉で通じるだろうか。
謝罪を交え、試しに言ってみると問題なく通じたらしく、ティベリアはこくりと頷いてくれた。
ティベリアが自分一人で立てることを確認してから、胡坐をかいて草鞋を見る。
草鞋の足首を固定する部分が、切れてしまっていた。
底の部分も大分痛んできている。いつまでも使えるとは思っていなかったが、こんなに早くダメになってしまうとは。
替えの草鞋なんて、持ってはいない。
足首を固定できないと、いざという時に困ることになる。
足の皮の厚さには自信があるが、出来れば裸足で歩くというのは遠慮したい
だが、新しい履物どころか、藁の一本だって買うお金はない。
思わず肩が落ちて、ため息が出そうな気分だった。
お金だ。
お金が欲しい。
自由に使える、胸を張って自分のだと言えるお金が欲しい。
ただでくれと言うわけではない、きちんと働くから、その対価として、誰かお金をください。
「サンダルとしてなら、使えなくはない、か」
鼻緒の部分は、まだ無事そうに見えたから、履物としてはまだ使えそうだ。それだけが救いだった。
「サンダ、リア?」
「そう、サンダ、あ?」
ティベリアは前かがみになって、俺の草鞋を指さしながら見ていた。
あまりに情けないことを考えていたせいで、何も考えずに日本語で答えてしまった。
だというのに、何となく意味が通じたような気がした。
「サンダリア」
ティベリアは白い服の裾を片手で少しだけ持ち上げて、片足を前に出し、自身の履物を指さした。
革製のサンダルを履いている。
「さんだりあ?え?サンダルってラティーネなの?きゃんゆーすぴーくいんぐりっしゅ?」
サンダル、は英語由来の言葉なのではないか。
まさか、ローマで一か月以上も過ごして英語が通用する可能性に気が付かないだなんて、もしかすると
「?サンダリア。ゲラエカエ」
「ぐらー?」
「ゲラエカエ」
ティベリアはしゃがみ込み、指で地面にGRAECAEと書いた。どうも、俺の英語もどきは理解できなかったのか、聞き流した様子だった。
月明かりに照らされた、細く白い指先に土がついてしまうのではないか、と申し訳ない気分になる。
しかし、そうか、ゲラエカエ。
さっぱり、わからない。
ゲラエカエ、が何なのかは不明だが、とりあえずラテン語でも、英語でもないのは間違いなかろう。状況から察するに言語の名前だろうか。
サンダルはティベリアの言う、ゲラエカエ語?が、語源になっているのかもしれない。
俺は、サンダルが英語由来の言葉だと思っていた。ローマ人もアルファベットは当たり前に使っているから、もしかすると通用するか、と思ったのだが。
考えてみれば、まあ、当然。なのかもしれない。
日本語に翻訳すると長い言葉になったり、そもそも翻訳できないような言葉は、外国語のままで日本語に組み込まれて使用されることもある。
ラテン語や、ゲラエカエ語を語源とする言葉が、日本で日常的に使用されていたとしても、おかしいと言うことはない。
サンダルという名詞が、たまたま、ティベリアが知っている言葉由来の単語だった、というだけのことだ。
「ま、だよな。そんな都合の良い話はない、かぁ」
俺の英語力は、人並み以下であるから、仮にローマで英語が通用したとしても、大して役に立たないのは目に見えていた。
でも、一度期待してしまったせいか、やけに気分が沈んでゆくのを感じた。
やはり、堪えるものがある。
ここは日本ではない。当然日本語も、英語も、ドイツ語も、通用するしないを別にしても、何の役にも立たない。
頼れるのは、必死になって覚えたラテン語のみだ。
その頼みのラテン語だって、せいぜいが喃語を卒業した幼児と変わらない程度の、頼るにも頼りない習熟度なのだ。
もう、どうしたらいいんだ。
日本に帰る方法もわからないし、言葉も、よくわからない。
食べ物や衣服、住居だっていつまでもテルティウスさんのお世話になっている訳にもいかない。
草鞋からサンダルに降格してしまった物が視界に入る。
一層、気分が落ち込む。
「ロー?ーーーーー」
ティベリアが心配そうな声をかけてくれるが、俺に呼び掛けている、ということ以外はよくわからない。
情けなく弱り切った、人に見せられるような表情をしていない自覚があったから、今はちょっと顔を上げることもできそうにない。
ティベリアは、改めてどこか悪い所があるのか?と俺にもギリギリ理解できる言葉を選んでくれた。
「ペス?ベントリ?マニブス?」
どれもティベリアが教えてくれたラテン語だ。ゆっくり話してくれるおかげで、耳慣れないラテン語も何とか聞き取ることができる。
でも、違う。別にどこも痛めていない。俺は大丈夫だ。
だが、黙っていては、ティベリアはいつまでも心配してしまうのだろう。
それは俺の本意ではない。
平気そうな、何もなかったような、そういう表情を意識して、顔を上げる。
心配そうな顔をしたティベリアと目があった。
あとは、大丈夫だ。と、悪い所はない。と、そう言えばよいだけだったが、一瞬、きちんと伝わる言葉の選択ができているだろうかと、不安に感じた。
そんなことを考えている間に、ティベリアの表情が一層深刻そうなものになって、先を越されてしまった。
「カプト?」
頭が悪いの?と聞かれ、俺は思わず噴き出しそうになった。
聞き取りようによっては悪口の類に聞こえてしまいかねない言葉だが、ティベリアが、頭を怪我したのか。と尋ねたいのだということは理解していた。なにせ、細やかな表現など、俺にはできないのだから、こういう言葉選びになってしまうのは、ティベリアの優しさに違いなかった。
でも、そんな心配そうな表情で、頭が悪いのか。と聞かれると、ギャップがやばい。
ぽかんと呆気にとられたティベリアを置き去りに、俺は下を向いて口を押え、数秒の間、笑いの奔流に流されてはならない、と必死に耐えた。
口から、鼻から、押えた手の隙間から、どうしても息が漏れる。
だって、俺は、確かに頭がおかしいのかもしれないのだ。
訳の分からない状況に立たされて、正気を失ったとしか思えない行動を、俺は今晩だけでいくつしたのだろう。
それを指摘されるという奇跡のような確率の偶然。なんか、笑える。
そう思うと、ついに耐えきれなくなって、本当に笑ってしまった。顔をうつむいたままにしたのは、せめてもの礼儀だ。こんなに俺のことを心配してくれているティベリアのことを笑うだなんて、なんだか、間違っているような気がする。
必死に笑いを追い散らして、どこも悪くないと伝えようとして顔を上げた。
だが俺の口から、大丈夫だ。という言葉が吐かれることはなかった。
なにか、名状しがたい柔らかな何かに、すっぽりと包み込まれてしまって、口を動かすことができなかった。
何も見えない。
ただ、柔らかで、あたたかい。
良い匂いもした。ひどく心が落ち着くような、どのように表現したらよいのか見当もつかない、そんな匂いだった。
少し上の方から、ティベリアの声が聞こえる。
ささやくような、聞かせることを度外視した、聞き取りにくい言葉だった。
おもわず零れたようなラテン語は、俺には理解のしようがなかった。
頭の後ろの方を何かが這う。
いや、違った。這うというほど無遠慮ではなかった。
髪の毛のすれる音が聞こえそうなほど慎重な、優しさすら感じさせるような感触がした。
この状況は、一体なんなのだ。
なにが起きたというのか。
※58話の誤記入を修正いたしました。
草鞋、と記入すべき所を草履、と誤って記入しておりました。
正しくは草鞋、わらじ、でした。
ここまでお読み頂いている読者様方に、深く謝罪いたします。
本当に申し訳ありませんでした。




