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「重たい!何だこれ!スゲー!」
蔵の鍵を開け、古めかしい錠つきタンスの鍵をそれぞれ開け、その中から取り出し、進藤に渡したそれは真剣である。
進藤がなにやら喜んでいる重みと言うのは、本物の日本刀と鉄鞘の重みである。
物にもよるのだろうが竹刀の十倍近くは重い。真剣を持った事がない人間にとって、真剣の重みというものが、何かしらの感動を与えるのかもしれない。
「絶対に鞘に納めたまま柄を持って振り回すなよ?刀が痛むかもしれないからな。高いんだぞ。冗談じゃないし、フリでもないからな?絶対に、ふざけて振り回すなよ。本当、バカみたいに高価なんだからな!」
「わ、わかった」
昔、居合の練習で、百万円をたった一回で無残な状態にしてしまった男の念押しは、進藤に無事伝わったらしい。とりあえずは安心だが油断はしない。
俺は父さんと違い笑顔で、すり上げて脇差にして貰おうか。なんて、冗談みたいに言えるほど肝が太くないのだ。
「よし、進藤、じっとしてろ。今差してやるから」
月明かりが僅かに差し込む蔵の中で、俺は手に持っていた帯を進藤の腰にまわして着つけていく。
「え?ハーパンTシャツに刀差すのか?カッコ悪っ」
進藤は文句を言いながらも腕を上げ、体をTの字にして、大人しく立っている。
「うるさい。俺も同じような格好になるから我慢しろ、今から道着を着るなんて面倒くさいだろ」
「ハーパンTシャツに帯とか、そんなのありか?」
「うるさい」
俺はやさぐれていた。今日はもう、なんか、いろんな事が起き過ぎて、面倒くさくなってきたのだ。
しかし、師範が稽古をつけてやれと言うのだから、俺に断るという選択肢はすでに無い。
であれば、さっさと済ませるのが良いだろう。
俺個人としては、稽古をつけても構わないと考えていたのだし、進藤はわざわざ訪ねて来てくれた客人なのだから、誠実に対応する事こそ、家人の勤めと言えるだろう。
進藤はしきりに格好の悪さを指摘するが、稽古において大切なのは経験であって、姿恰好ではない。動きやすい格好であれば何でも良いのだ。
「進藤、刀」
「ん」
真剣を使う稽古は危険だ。本物の刃物を扱うのだから当然の事だ。
だが、危険でない稽古も無い訳ではない。
真剣は、竹刀とも、木刀とも異なる物だ。
真剣を持っているつもりで行う稽古、と、実際に真剣を持って行う稽古は全く別の物である。
その違いを実際に体験する事。これが真剣稽古の初歩である。
「よし、変な感じはしないか?」
進藤の腰あたりに帯を締めて刀を差してやる。きちんとした締め方をしないと鞘がぷらぷら遊んでしまって稽古どころではなくなってしまう。
進藤が新庄夢想流の門下であれば、帯の締め方から指導するのが良いのだが、生憎と進藤は客人であって、家の門下生ではない。
「左側が重たい」
「それ以外で」
「見た目が悪い」
「それ以外だ」
「んー?よくわからん」
「動きにくいとか、邪魔になったりとかは?」
「いや、そう言う感じはしない」
「なら、いいな」
俺は自分で帯を締めて進藤と同じように刀を差す。
緩すぎたり、刀が邪魔になる位置になっていないかを軽く確認し、進藤の言う通り、確かにすこぶる格好悪い居姿だと妙な納得をしてから、蔵を出る。
蔵は道場の裏手側、爺ちゃんが植えたらしい十本もの立派な枝垂れ桜のそばにある。当然道路側からは見えない位置である。
夜といえども、田舎といえども、絶対に車が通らないとは言い切れない。
真剣を持った男が二人向き合っていたら、それだけで警察に通報されても不思議はない。
「よし、やるぞ進藤」
「ここで?」
「ここでだ」
「月の下で稽古とか、この格好じゃなかったらカッコ良かったかもしれないな」
「進藤、うるさいぞ」
等しく格好悪い進藤のおふざけをぴしゃりと斬り捨てて、意識を切り替える。
不満げな様子の進藤から程良く距離をとって向かい合う。右手で柄を掴み、左手で鯉口を切る。ついと刃が滑っていつでも抜き打ちできる状態になる。こまめに手入れをしている甲斐もあって、つっかかったり、滑りが悪かったりはしない。当然進藤の差している刀も同じ状態のはずだ。
「よし、進藤。抜け」
「なあ、これ真剣なんだよな?」
「そうだ」
「斬れるのか?」
「良く斬れる刀だ、研ぎに出してから何も斬っていないし、手入れもきちんとしている」
「そうか。剣術の稽古ってのはいつも真剣を使うのか?」
「そんなわけないだろ?真剣は危ないからな、真剣である必要がない稽古には使わない。進藤、そろそろ抜け。扱いは竹刀と大差ない」
竹刀と真剣の扱いは根本からして違う。だが、口を動かすばかりで一向に刀を抜く気配のない進藤を安心させるためにそう言った。
それに、実際に振るうつもりはない。真剣を扱った事もない剣道家相手に、真剣を振るうような稽古はつけられない。
進藤はそれでも刀を抜く事にためらいを覚えている様子だった。
まずは合格である。
進藤の感じているためらいというのは、自分の腰にある物は、本当に人を傷つける事ができる凶器なのだと自覚している証拠に違いなかった。
平気な顔をして抜き放たれては、わざと脅かすような言葉を使ったり、本当なら伝えた方が親切な、この稽古の目的を伝えていない意味がなくなってしまう。
進藤が軽率な行いをするのであれば、問答無用で稽古はお終いにするつもりだった。
「いいか、左手で鞘を掴む。親指を伸ばして鍔にかかるぐらいの位置を掴め。あんまり鍔に近い所を掴むと抜く時に自分の指を斬るぞ。親指が鍔にかかるくらいの位置だ」
進藤は、俺の指示に従って、ゆっくりと左手を動かし始めた。酷く緩慢な動きだが、急かす事はしない。
俺も、初めは刀を抜くのが怖かった。今では慣れた気になっているが、それでも一抹の恐怖を拭いきる事はできない。
もしかすると、俺はこれで人を斬り殺してしまうかもしれない。真剣を扱う時は、そういう恐怖を常に抱えていなければならないと俺は確信している。
「柄は竹刀と同じように掴んで良い」
左手で鍔を抑えながら、進藤はゆっくりと柄を掴む。
月明りのお陰で、進藤の表情が良く見える。
表情は硬い。まさか真剣で稽古をするとは思っていなかっただろう。
怖いと思うのも当たり前だし、やっぱりやめたいと思っていたとしても、誰も馬鹿にはできない。
そう理解していても、俺は言う。
これはそういう稽古なのだから。
「良いぞ進藤。抜け」
数瞬、本当に抜いてしまうのか。という自問自答が進藤の心の内に生まれた事は想像に難くなかった。
困惑が表情に現れている。
刀が抜けないのは、自分が抜きたくないと思っているからに他ならない。本当に抜こうと決心すれば、良く手入れされた刀が、何の理由もなく抜けないなんて事はあり得ない。
意を決したらしい進藤が右腕に力を込めると、ほとんど抵抗なく刀は抜き放たれる。
進藤は、無意識にであったのだろうが、柄を両手で持って、すぐに中段に構えた。
生来の負けん気と、半ば反射の域にまで刷り込まれた稽古の賜物であろう。
初めて真剣を手にしたとは思えない。進藤の堂に入った構えは見事なものだ。
俺も刀を抜いて中段に構える。
「進藤、打ち込んでこい」
「っ」
進藤は浅く息をのんだようだった。
隙など見せない。本気で迎撃する心構えで剣先をぴたりと止める。
無様な打ち込みをして見せるようなら斬り捨てる。
俺がそういう考えでいる事は、進藤にも伝わっているはずだ。
気勢、気迫、剣気、殺気。呼び方は無数にあるが、ある程度の腕前になれば、相手のそういう気配が感じ取れる。
真剣を向き合わせている状態でのそれらは、まさに抜き身の殺気と言ってよい。
互いに竹刀や木刀を持ち、防具を身に包んでいる状態であれば、まず怪我はしない。その事は誰もが知っている。
だが、本物の日本刀を手に、防具もつけずに向き合っている今の状況は、手に持っている物が真剣になっただけで、普段の稽古と大した変わりはない。と言うのはあまりにも乱暴だと、誰もが思うだろう。
斬れば、相手は必ず怪我をして。
斬られれば、自分が必ず怪我をする。
もしかすると、死ぬ可能性もある。
それらの事を理解して、なお俺から目線を外さないのは、流石の胆力である。
俺と進藤は、互いに、命のやりとりができる凶器を持って向かいあっている。
その精神的重圧は、全く経験がないであろう進藤には酷く重たいに違いない。それこそ、腕が振りあげられないくらいに。
進藤の足が僅かに前に出た。
言われた通りに打ち込んでやると言う気持ちの表れだろう。大した肝の太さだと素直に驚く。俺が初めて真剣を抜いた時は、一歩どころか、ぴくりとも動けなかったはずである。
俺は進藤の動きに応じて、剣道の中段構えから右半身を引き、剣道にはない構えをとる。
剣道の八相に近いが、刀は立てず剣先を相手に向ける。剣道の常識で考えれば致命的に不利な構えである。
右利きの進藤からすれば、最も威力のある打ち込みをしやすい右側面に無防備に背中を曝されていて、容易に打ち込めるように見えるはずだ。
俺からすれば、防御もしにくく、攻めもしにくい構えである。
利点は格好よさぐらいの物であるが、今のお互いの格好を顧みれば、それすらも損なわれている。なのだから、何一つとして利点がないと言う事になる。
つまりは、遠慮なくここに打って来い。というわかりやすい挑発だ。そういう誘いである事はわかるから、全く役に立たない、と言う事はできないが、見慣れない構えである事には違いがあるまい。
進藤は完全に動きを止めた。
打ち込むべきか悩んでいるらしい事は進藤の表情を見ればわかる。
でたらめに打ち込めば、俺が突きで応戦する気なのだと察したのだろう。
この構えでまともに打てるのは突きくらいしかない。
面だろうが、胴だろうが、小手だろうが、無理に打とうと思えば、必ず初動が一拍遅れる。
つまり、余程の力量差がない限りは、俺が先に斬られると言う事だ。
であれば、当然、突きで返すのが最も合理的である。
突きが来るとわかっていれば、対処のしようはあるけれども、当たれば当然大怪我をする。真剣においての突き技という物は、まさしく必殺の威力が否応なく込められている。
どう見ても必殺の返し技を狙っている様子の相手に、自分から打ちかかるのは、剣道の試合でも怖いものだ。まして真剣を持っている状態であれば、その恐怖は比べる事すらバカバカしいと感じるほどには、違う。
俺からは打ち込まない。
進藤の表情は強張っていた。額から汗が一筋流れ落ちそうになっていて、じりじりと下へ下へと流れて行く。
額を這う様に流れる汗が不快だろうに、拭いもしない。そんな余裕もないのだろう。
進藤は今、二つの恐怖に心を攻め立てられている。
このまま打ち込まなければ、俺がしびれを切らして、先に打ち込んでくるのではないのかと言う恐怖。
先に打ち込んだ結果、どちらかが、もしくは両者が怪我をするのではないかと言う恐怖だ。
それらの恐怖は、極々当たり前の感情であり、真っ当な精神を持った人間であれば、程度の違いこそあるかもしれないが、必ず感じるに違いない。
そして、それを乗り越えて打ち込むのはとても難しい。
進藤は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「無理だ。打ち込めない」
そう言うと同時に剣先を下ろす。
「どうした?稽古をつけろと言ったのは進藤だろう?」
俺は刀を鞘に納めて、進藤に尋ねる。別に意地の悪い事を聞きたい訳ではない。大切な事なのだ。
「いや、そうなんだが。刀を向けるのも、向けられるのも、こんなに肝が冷える事だとは思わなかった。俺には剣術は無理だな」
進藤は見よう見まねで、ゆっくりと刀を鞘に納めてから、Tシャツの短い袖で額の汗をぬぐった。
苦笑としか言いようのない、疲労感に溢れた笑顔をしている。
「いや、そうでもないぞ。進藤、合格だ」
「何が?」
何も理解できていない進藤の疑問に答えよう。そしてこれは、過去に俺も爺ちゃんと父さんにやられたネタばらしでもある。
「お前は真剣をもっても大丈夫な人間だと、はっきりわかった」
「は?」
「真剣は人を斬れる。剣術は人を殺せる技術だ。でも殺さないと決心して真剣を持ち、殺さないと決心して技術を修めるのが剣術家だ。人を殺してしまったら、ただの人殺しだからな」
進藤は疲労感もどこかへ行ってしまったのか、ぽかんとした表情で俺を見ている。なかなか教え甲斐のある男である。
「進藤、あれで良かったんだ。初めから平気な顔をして刀を振り回せる奴がいたら、そいつは異常だ。
持っているべき倫理観が欠如している。
そんな奴に真剣を持たせるなんて危ないだろう?
そんな奴に剣術を教えるなんて不安だろう?
だから、実際に真剣を持たせて、本当に大丈夫なのか確かめる。
それが今の稽古の本当の目的だ。恐怖に慣れさせるという目的もあるが、それはおまけでしかない。
進藤。お前は人間として正しいと俺は思う。
そして正しい人間である事が剣術を修める為の条件だ。
才能があるとかないとか、そんな事は本当はどうでも良いんだよ」
進藤に俺の言いたい事がどの程度伝わるのかは、わからない。
わからないが、進藤なら理解するだろうとも思っている。
「剣術ってのは、すごいものだな」
しみじみとした様子で、進藤は言う。それが、照れくさい。
「いいや、剣術はただの技術だ。すごいのは、それを伝える人だと俺は思う。さっきの言葉は全部爺ちゃんと父さんからの受け売りだからな」
剣術を修めた。と俺は断言できない。まだまだ修行中の身で偉そうなことを言ってしまった。
「なんだ、そうだったのか」
「でも、爺ちゃんも曾爺ちゃんにそう言われたって言ってたし、その前も誰かから誰かに伝えられたんだろうと思う。それは剣術だろうが、剣道だろうが多分同じ事だ」
「そうか」
「もし、剣術を学びたいのなら、いくらでも稽古をつけてやる。俺でも良いし、父さんにもそう言っておく。稽古としては物足りなかっただろう?今日はもう遅いから、次の機会にしよう」
俺は急かすよう進藤の刀を預かって、自分が腰に差していた物とあわせて蔵に戻す。帯を返して貰って母屋に帰る。
進藤は汗を流すために、本日二度目の風呂に向かった。
その間に蔵の鍵を父さんに返しに行くと、父さんはすでに寝ていた。無責任か。無性にムカついたが、鍵を紛失しても困るので、わかりやすい場所に鍵を置いて、音をたてないよう静かに居間に戻る。
客人を放っておく訳にもいかず、居間でぼんやりと待つ。
受け売りを偉そうに言うのも照れくさいが、自分の言葉をありがたい言葉のように素直に聞かれる方が余程恥ずかしいのだと、俺は初めて知った。




