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おそらくはローマ。を少し歩いて、街の様子を窺っていると、やはり不自然な事が多い事に改めて気がついた。
まず、言葉が全く分からない事。
ゲームの不具合だと仮定して、言語切り替え機能が実装されていない日本語オンリーの日本製ゲームに、一般的でないラテン語がそもそも収録されているのか。という疑問がある。
もちろんアップデート内容を確認した際、隅々まで暗記するほど読み込んだ訳ではないし、妙な所に異常なこだわりを見せる開発陣である事は知っているので、無いとも言い切れない。
次に、行き交う人々の様子があまりにも自然すぎる事。
忙しそうに袋を背負って歩く男性。露店で買い物をしているらしい女性。遊びまわる子供たち。会話に花を咲かせながら陽気に歩く老人。
走り回る子供の中には転んでしまって大泣きする男の子もいた。その様子があまりにもかわいそうだったので、声をかけたら、さらに大泣きされた上に本気で逃げられ、俺も泣きそうになった。
そんな俺の様子を見て肩を叩いてくれる優しい兄さんもいたし、慰めてくれているらしい露店のおっちゃんもいた。
とにかく人々の表情や行動が多彩で、自然味に溢れている。ゲーム内ではNPCがそのような挙動を見せる事は無かった。そもそも戦闘以外はどうでも良いと考えている節のあるニッチなゲームだったのである。
しかし今では、行き交う人々全員が本物の人間のように見える。
ゲームを賑やかにする為のNPCだとは思えない。
そして、他のプレイヤーがいない事。
これは簡単に分かった。着物を着ている人間、日本語を理解する人間が俺以外に一人もいないのだ。
裏路地を覗き込んでも、目立つ建物を見てみても、ガラの悪そうな人はいても、辻斬りは一人もいなかった。
ゲームの不具合だと仮定して、俺だけがその不具合に見舞われる可能性は、現実的にどのくらいなのだろうか。
そう考えると、俺はまだ眠っていて夢の中にいる。と言われた方がまだ納得できる気がする。
しかし、そう考えると、今度は別の不安が生まれてくる。
死んだらどうなるのか。
ゲームであれば、死んでも半透明になるだけだ。が、もしゲームでないなら。
本当に夢の中であり、俺が死んだら目が覚める。と言うなら構わないが、そうなる保証は誰がしてくれるのか。
もし現実であったらどうなるのか。
そんな事が、あるはずがない。
確かにそうだが、その『もし』の可能性がある間は殺すのも殺されるのも遠慮したい。
俺は剣術を極めたいと願って、身になるかもわからない仮想ゲームにまで手を出してはいる。機会があれば実際に真剣勝負もしてみたい。という憧れの様な感情も持っている。
真剣勝負をする事でしか身につかない極致があるのではないか。と夢想するのは剣術家の業としか言いようがない。
だが、人を殺したい。と思った事は一度も無い。
訳も分からず人を殺したり、殺されたりするのは、当たり前に嫌である。
仮想現実のゲームだから、実際に人が死ぬ事は無いから、だから無遠慮に斬れるのであって、俺が斬りかかって相手が本当に死ぬかもしれない。と思えば、遠慮も加減もする。
大丈夫、ゲームに違いない、夢に違いない、と判断するには、ここにいる人々はあまりにもリアルすぎる。
確かめる気にもならなかった。
もろもろ分からない事は多いが、俺にとって大切な事は定まった。
とにかく、人は斬らない。自分も斬られない。
そう決心し、改めて周囲に注意を向けると、俺は知らぬ間に大通りから外れ、街外れまでぼんやりと歩いて来ていたらしい事に気がついた。
「―――――!」
人もまばらになった薄暗い通りで、大声が聞こえる。当然何を言っているのかは分からない。
分からないが、なんとなく気になって声の主を探してみる。
すぐに街の雰囲気が変わっている事に気がついた。建物が丈夫そうな煉瓦造りの物から、見るからに貧相な木製の簡素な物に変わっているせいだ。
先ほどまでの通りでは簡素だが清潔そうな衣服を身につけている人が多かったが、ここいらではお世辞にもきれいとは言えない格好をしている人が多いのも原因の一つだろう。
大声は途切れがちながらも聞こえてきているから、声の主を探すのはそう難しい事ではなさそうだ。
「―――――!」
道幅が狭い通りを進むと、少し開けた所に出た。交差路に小さな人混みができている。
中心では大柄な男が、ぼろきれを身にまとった細身の男に向かって何事かを喚き散らしているようだった。
大柄な男は頭に血が昇っているのか顔を真っ赤にしていて、今にもぼろきれの男に殴りかかりそうな、嫌な雰囲気。喧嘩、という風には見えない。
反対に、ぼろきれの男は静かに言葉を返しているから、大柄な男が一人で喚いているように見える。
その落ち着いた様子が余計に気にさわったのか、大柄な男はついにぼろきれの男を殴った。
嫌な音が俺の所まで聞こえてくる。
「―――――!」
ぼろきれの男は殴られた衝撃で背中から倒れ込んだが、すぐに上半身を起し、落ちついた様子で言葉を発する。殴られたせいで唇か、頬の中が切れたのか、口の端から血が僅かににじんでいる。それでも何でもなかったかのように喋りだしたから、俺は少し驚いた。
「―――――」
それを聞いた大柄な男は、ぼろきれの男に飛び掛かった。
正確には、飛びかかろうとしたがやめた。
人混みの中から大柄な男を止めようとして、間に割って入った人がいたからだった。
大柄な男は、ぼろきれの男を殴り飛ばす程には興奮していても、誰かれ構わず殴る様な状態ではないようで、間に入った人と言葉を交わすと、多少落ち着きを取り戻したように見えた。
「―――――」
だが、立ち上がって喋りだしたぼろきれの男の言葉を聞いて、また頭に血が上ったのか、大柄な男は間に入った人を力任せに押しのけて、ぼろきれの男をまた殴り飛ばした。
「―――――!」
ぼろきれの男が放った言葉がよほど頭にきたのか、大柄な男は激しく喚き立てている。
間に入った人は、乱暴に押しのけられたせいで尻もちをついている。
二度殴られた男は、変わらない様子で静かに言葉を発していて、大柄な男も、落ち着く様な気配は無くなった。
乱暴に押しのけられた人は、それでも間に入って止めようとしている。
良く見れば、その人は老人と言ってよい年頃に見えた。
近くに居る他の人々は、どうやらただの野次馬のようで、この騒動に介入するつもりは一切ないらしい。
言葉が分からないせいで、事情はさっぱり分からない。
しかし、このままぼろきれの男が一方的に殴られるのを見ているのも、気分が悪い。
止めに入ろうとしている老人が巻き込まれて怪我をしてしまうかもしれないと思えば、見て見ぬふりをするのも後味が悪い。
またしても間に入ろうとしているらしい老人を左手で制して、また殴りかかろうとしている大柄な男の手首を掴んでその勢いを殺す。
「その辺で良いんじゃないですか」
言葉は分からないにしても、雰囲気だけでも伝わればと思って、可能な限りやわらかく声をかけた。
「そっちのボロ布を纏っている人も、殴られるのは嫌でしょう?ほら行った行った」
さっさと逃げろ、という意味を込めて追い払うような手振りをする。これくらいは伝わるだろう。
「―――――!」
「あー、言葉が分からないんですよ。ごめんなさい」
大柄な男は一瞬呆然と立ち尽くしたが、またすぐに喚きだした。
興奮した様子で拳を振り上げ、また殴りかかろうとするので、間に入ってやめるように説得する。
「二発も殴れば充分でしょう?満足してください」
まあまあ、とやんわり大柄な男を抑えていると、急に後ろから両肩を引っ張られる。何事かと思って肩越しに後ろを見る。
「―――――!―――――!」
喜色満面。と呼ぶにふさわしい表情をしたぼろきれの男が、何事かをまくし立てている。
「は?逃げろよ。なんでまだ居るんだよ」
「―――――!―――――!」
「なに?なんでこっちまで興奮してるの?」
詰め寄ってくる勢いの男二人に前後を塞がれ困惑していると、今度は右腕を何者かに掴まれた。
「今度は何!?」
俺の右腕を掴んでいるのは、先ほど二人の間に入った老人だった。何か気になる所があるのか、熱心に俺の掌を眺めている。
「え?なに?何なのこの状況?」
全く想定していなかった事態。つまりは見知らぬ男三人に詰め寄られると言う、人生初の経験は俺の冷静さを失わせるのには充分な精神的衝撃を与えた。
よくわからない言葉の嵐を聞きながら、どうしたものかと考えをめぐらす。
腕を引かれ、肩を揺らされ、罵声じみた大声を聞かされていては、考えも纏まらない。
すると、急に大柄な男が走り出して逃走し、すぐに角を曲がって見えなくなった。
一体どうしたのだろう。と思って周囲を見ると、野次馬たちがすっかり居なくなっている事に気がつく。
大柄な男が走り去った方向と反対の方から、槍を担いだ兵士らしき格好をした二人組が走ってきている。
なぜか興奮している様子のぼろきれの男と、俺の右腕を掴んで離さない老人は気付いていないのか、気にしていないのか。全く動じた様子は無い。
おそらくは、騒ぎを聞きつけてこの場所にやってきたのだろう。
あの二人が巡回兵なのだとしたら、それが仕事なのだろうから当然の事である。
しかし、俺は酷く動揺した。駆け寄ってくる二人組の男の格好が、あの『ローマ正規兵』にそっくりだったからである。
特別やましい事はしていないのだから、動揺する必要はない。と言う事は理解している。
理解してはいるのだが、ゲーム内では対処が面倒な為に忌み嫌っていたNPCに酷似した格好をしている事、言葉が通じない現状。それと、付随して思い出されるアルケミストの不条理な火炎攻撃が頭をよぎるせいで、絶対に顔を合わせたくない。と思ってしまっても仕方がないと思うのだ。
しかも、俺は今なぜか体を拘束されているに等しい状態で、身動きが取れない。力ずくで二人を振り払う事も出来るだろうが、そうすれば、本当に兵士に追いかけられる理由が生まれてしまうかもしれない。
そうこう考えている間に、正規兵そっくりの格好をした二人組が近くまで来て大きな声を出した。
「―――――!」
言葉はまったく分からないが、きっと『どうした!』とでも言っているのかもしれない。
俺を捕まえていた二人が手を放して、兵士の姿を確認すると、ぼろきれの男も老人も今までの様子が嘘だったかの様に落ち着いた様子で何事かを話し始めた。
兵士は話を聞きながら、うなずいたり、言葉を返したりしている。
俺は言葉も分からないから、ただ大人しくしていた。
ここで逃げたら、きっと追われるに違いないと考えたからだ。
四人の話を分からないながらに大人しく聞いていると、唐突に兵士の一人が、俺の事を指さして、何かを口にした。
「―――――」
「―――――」
「―――――」
「―――――」
老人が少し慌てて話す。兵士は不審そうな表情で聞いていたが、すぐに言葉を返した。
すると老人は懐から何かを取り出して、二人の兵士にそっと差し出して何かを言った。
兵士は嬉しそうな表情になって、ゆっくりと立ち去っていった。
一体何だったのだろうか。言葉が分からないのは本当に不便だ。
老人はぼろきれの男に話しかける。それを聞いてぼろきれの男は俺の前で手を組んで、静かに何事かを口にして、どこかへ行ってしまった。
「―――――」
老人は俺の顔をじっと見つめてから、手振りを交えて何かを言って歩き出し、振り向いて立ち止まった。
「付いてこいってことですか?」
老人は俺が歩き出すまで黙ってこちらを見つめている。
良く分からないが、どうも、そういう事らしかった。
五月二十日、加筆修正