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意識がおぼろげながら覚醒すると、考えなければならない事がある。と思い出した。
勇姫の事と、先日お見合いしたばかりの川上亜麻音さんが、今日道場に来る事だ。
上半身を起して頭をがりがりかく。それをやれば大抵はっきりと目が覚める。
目を開けると、見た事も無い光景が広がっている事に呆然とした。
俺は全く見覚えの無い所で寝ていた。石造りの建物の中に居る。自然光が豊富に取り入れられている特徴的な建物だ。柱には彫刻が施されており豪勢な印象を抱かせる。
我が家は古い日本家屋であるから、ここは我が家ではない。当然だ。
周囲を見てみれば、ここは広い部屋のようで寝具が十台程度用意されている事がわかった。その内の二、三台は人が横になっている。
忙しそうに行き来する人も数名いる。
その内の一人が俺の方に近づいてきた。白い布でぐるりと体を覆った女性だった。
「―――――」
その女性は日本人の顔つきをしていなかった。ふっくらとしているが彫の深い感じ。細かい見分けはつかないが、間違いなく外国人だとわかる。
それと、何事かを話しかけられたようだが、何を言っているのかさっぱり理解できなかった。
英語は得意ではないが、英語ではない事はわかる。大学で第二外国語として受講したドイツ語とも違うように思う。
「―――――」
おそらく同じ言葉を繰り返されたと思うのだが、それすらも本当にそうなのか怪しい。特徴的な巻舌と早口な言語である事だけは分かった。
「すみません。言葉が分かりません」
意味が伝わる訳も無い。が、この女性にとって聞き覚えの無い言語しか分からない。という事が伝わるかと思って日本語でゆっくり答えた。
女性は少し驚いた様子で、小さくうなずくと俺の元から離れていった。
意外と伝わるものなのかもしれない。と思いながら女性の後ろ姿を注視した。
女性の体を覆うひらひらとした白い布が揺れていて、妙に目を引く。
見覚えの無い服装だと思った。
いや、本当にそうだろうか。見覚えがある様な気がしてきた。
寝起きのせいか頭が上手く働いていない気がする。気合を入れて両頬を叩いてみる。
わずかな痛みが頭を覚醒させる。
腕の下でゆらゆらしているのは、薄墨色の見慣れた着物の袖だ。
着物?着物は道着ぐらいしか持っていない。道着の袖は白色だ。では見慣れた着物は一体どこで見慣れたのか。
ゲームの中に決まっている。
そう言えば昨日はいろいろあり過ぎて寝落ちした。であれば、ここはゲームの中であろうか。
ログアウトはできない。メニューが展開しない。と言うよりも、寝落ちした場合は自動で覚醒するように作られている。その場合、見慣れた古い木造りの部屋が見えるはずだった。
そしてあの女性の放った言語はどう考えても日本語ではなかった。ゲーム内のキャラクターであれば『どうした!』に代表されるように、たとえ古代ローマ人の設定でも日本語で再生されるはず。
「ゲーム上の不具合?」
木製らしい固いベッドの上で胡坐をかいて考える。
それが最もありえそうで、らしい考えのように思えた。
だが、ログアウト不能の不具合などフィクションの中でしか聞いた事が無い。
しかし黙って考えていてもしようがない、不具合であればその内修正されるだろう。と両手で膝を叩いて、立ち上がる。
勢いがあったせいかパンっと派手な音がして、忙しそうにしている女性たちが驚いた顔でこちらにを見ている。叩いたせいでじんじんと痛む膝を労わりながら、愛想笑いを浮かべて頭を下げる。
「すみません。静かにします」
どうせ伝わらないだろうが、頭を下げて謝罪する。
枕元に並べて置かれていた大小をいつものように腰に差し、なんとなしに建物から出る。
改めて自身の格好を見直すと、いつもの見慣れた浪人姿である。薄墨色の着物を着流しにして、腰には飾りっ気のかけらも無い黒鞘の大小差し。
物の見事に初期装備である。今まで不便を感じた事も無い。
ずっとこの格好だから、見慣れもする。それが何だかほっとした。
建物の外には立派な広葉樹が一本、建物を覆うように折れ曲がって生えている。その木の下に隠されるように石造りの立派な建物が建てられていて、幻想的な雰囲気を醸し出している。丈の短い植物も芝生のように生えているが、人通りのありそうな所は土が見えていた。
この建物は川の中州に立てられたものらしく、川の両岸とは石造りの橋がかかっていて通行できるようになっている。
片方は城壁の様な物が、くの字に折れ曲がっている川に沿って延々と続いている。反対側には城壁はなく雑多な印象を受ける建物が大量に建てられている様子だった。
人通りはそれなりに多く、ゲーム内で見た覚えのある格好をしていた。
「となると、やっぱりゲーム内。ローマのどこかだな」
ローマだとすれば、言語はラテン語のはずだ。現実ではキリスト教関係の聖職者が使用する事がある、程度の言語で、一般には使用されない。俺は当然知らない言語である。
少なくない通行人が、ちらちらと俺の事を盗み見している。
着物が珍しいのかもしれなかった。
通行人はさっきの女性と同じように布を巻いた格好か、簡素なシャツとパンツ姿で、俺以外に着物を着用している人は誰もいない。
ここに居ても、変に視線を集めるだけの様な気がする。
目立っても良い事が起きた試しがないので、とりあえず周囲をぶらついてみて状況を確認してみる事にしよう。
幸いなことに道は二つしかない、それほど迷わなくてよさそうなのが救いだった。
城壁がある方へ行ってみるか。それとも反対側に行ってみるか。
城壁の通用門らしい場所には槍をもったローマ正規兵の様な格好をした人が立っている。言葉も通じそうにない状況で声を掛けられても困るので、あちら側には行きたくない。
では反対側に。
「―――――」
後ろから声がしたので、気になって振り返って見る。
先ほど俺に声をかけてきてくれた女性が慌てた様子で駆け寄ってきていた。
「―――――」
女性は俺の前で立ち止まって、なにか早口で喋っているが、何を言っているのかは分からない。
言葉が分からないのは不便だな、としみじみ感じた。
言葉が分からない事を察してくれているのか、身振り手振りを交えて話してくれるが、それでも何を伝えたいのかは、いまいち分からなかった。
「気をまわしてくださってありがとう。とりあえず、向こうの方へ行ってみます」
俺も身振り手振りを交えて伝えてみる。伝わっているかは分からないが、できる限り丁寧に言って、頭を下げる。
親切にしてくれた人には丁寧に、知らない人にも丁寧に応対するのが俺の性分である。
女性は疲れたような、諦めたような表情で俺を見ている。
「―――――」
城壁の無い、雑多な印象がする方向に向かって歩き出すと、女性が何事かを呟いたが、何を言っているのかは、やはり分からなかった。
五月二十日、加筆修正