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声を聞いた周囲の人間は、全員ぴたりと動きを止めた。兵士たちも、観客も、誰一人として動く事ができずにいる。
動かないならば都合が良い。その間に声の主を探す。
居た。
あの人だ。
日除けの付いた席から一人、俺からも見える位置に歩み出てきた。
確証はないが、今この闘技場内で動きがあるのはあの人だけだった。
「―――――」
真っ白な美しい衣装に身を包んだその人は、今度は落ち着きを感じさせる声で何かを言った。
すると立派な髭を蓄えた男性が何かを言う。
良くわからないが、険悪な雰囲気である事だけは二人の声色から理解した。
周りの人間は、まだ動かない。
女剣闘士を連れて逃げだせるかを考えてみる。
無理だ、兵士たちは動きを止めているが、出入り可能な場所は全て塞がれてしまっている。仮に兵士を無力化し、脱出路を確保したとして、女剣闘士がついて来てくれるだろうか。
無理かもしれない、言葉が通じないのだ。でも女剣闘士だって死にたい訳は無いのだから、五分五分、といった所かもしれない。
女剣闘士を抱えて走るのはどうだ。
申し訳ないが筋肉質な女性を一人抱えて走っても、逃げ切れるとは思えない。筋肉は重いのだ。
では兵士全員を無力化するか。
今なら五人くらいは一息に無力化できるかもしれない。しかし、どう考えても焼け石に水である。
この停止した状況で、俺が動いてしまって良いのか、悪いのか、判断がつかないのが何よりももどかしい。
せめて、あの二人が何を言い争っているのか理解できたら良かったのだが、それも無理な話。
と言うよりも、冷静に考えてみれば、状況は詰んでいる。
俺一人で百人はいそうな兵士を相手取る。へたり込んだ女剣闘士を守りながら。
無理だ。
もし、女剣闘士を見捨て、兵士を斬り殺してよいとするなら、可能性はある。
人間は思いのほか頑丈にできているが、急所をつけば一撃で絶命させる事は決して不可能ではない。
だが殺さずに無力化するのは存外難しい。武器を奪う、大怪我をさせる、気絶させる。方法が無い訳ではないのだが、いずれにしても一撃で殺すよりも手間がかかる。数で劣る以上、その時間差が致命的な差になる筈だ。数の暴力は本当に恐ろしい。
だから、一撃必殺で突き進み、死山血河を築く。というのは案外生存率が高い方法なのである。
でも、それは仮定であって、現実的な事ではない。
俺は女剣闘士を見捨てたくないし、人は斬らないと決めている。
格好をつけて刀を抜いてはみたものの、現実的に二人とも生き残れそうなのであれば、それに意地でも食らいつく心づもりでもある。生に執着してこその実戦剣術なのである。
だから俺は、あの口論が俺と女剣闘士を助けてくれないか、と期待している。
状況的にはありえそうな事なのがまた悩ましい。
完全に無理だと判断できれば、妙な話だが決心がついて、好き放題に暴れてやる。という気分になりそうなのに。
あのタイミングで声をあげた人がいて、周りはそれを聞きいれたのか、止まった。
そして、それを不服に思った髭男が反論している。
そう考えれば、筋が通る。
俺にとって都合よく考え過ぎだろうか。
口論は未だに続いている。
あの男は、処刑を指示した人で間違いない。つまりは、おそらく偉い人だ。偉い人に女性が突っかかっている。
いや、見た感じは逆だ。偉い人が女性に突っかかっているように見える。
観客がざわめきだす。
もう一人、真っ白な衣装をまとった女性が出てきた。
その女性が喋りだすと、観客たちはすぐ静かになり、女性の声だけが聞こえるようになった。内容は、依然としてさっぱりわからないが、誰もが女性の声を聞いている。
不意に大声をあげた者がいて、俺は思わず声がした方を向いた。
俺を連れてきた老人だった。
驚いた。本当にやめてほしい。こっちは生き死にがかかってるんだぞ。
俺は周囲の兵士たちに意識を向けながら、腹をくくった。
どうせ聞いていても、わからない。なら聞いている意味はない。
であれば、兵士たちが襲いかかってくるその瞬間を、絶対に見逃さないために集中する。今は兵士たちも動く気配はないが、それがいつまで続くのかは俺にはわからない。
そっと左手を脇差の柄にかける。これでいつでも抜ける。
邪魔な音が消えた。
今後ろの方で兵士の一人が左右の重心を入れ替えた。話を聞く体勢のまま、楽な体勢に組み替えたのだろう。
邪魔な音だけが聞こえなくなって、自分にとって必要な音だけがやけに響く。
剣術の稽古をしている時に、こういう感覚に陥る事が稀にあった。
極限まで集中できている証しだと思っている。
頭と身体が冴えきって、妙な万能感すら感じる。最近では久しく感じる事の無かった感覚。
百人同時にかかって来たとしても、今なら返り討ちにできると思える。
さあ、いつでも、どこからでもかかってこい。
でも、できればかかってくるな。
動いた。兵士のほとんどが一斉に動く。
だが、俺に向かってくるのは僅かな数のようだった。
十七人。厳つい鍛えられた男。浮かれた雰囲気。ん?
「なんだ?うわっなんだ!?やめろ!来るな!」
笑顔の、むさくるしい男達が駆け寄ってきていた。思わず腰が引けて、感覚がどこかへ行ってしまう。
怪我をしている者もいる。同じ馬車に乗った剣闘士の男たちだった。
「―――――!―――――!」
「やめろ!危ない!刀をしまうから待ってくれ!」
男達はお構いなしに俺の頭や背中、肩をばしばし叩く。
そのせいで、一気に気が抜けてしまった。
「縮む!やめろ!痛い!」
なんとか刀を納めた俺は、楽しげなむさくるしい男たちに担がれて、待機していた場所へ運ばれる。
兵士たちはぞろぞろと出ていく最中で、観客たちは少しずつ立ち上がり、闘技場から出ていっている。
そうだ、女剣闘士はどうなった。
気が抜けたせいで、一瞬失念していた。
担がれながらも、なんとか視線を闘技場中心へと向ける。
どうやら女剣闘士も俺と同じような状況になっている。
女剣闘士はまだ呆然としている様子だが、仲間たちに囲まれているようだ。
「良かった、無事だった」
どうやら知らぬ間に命の危機から脱していたらしく、俺は心の底から安心した。
六月七日、加筆修正




