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サムライフローマ  作者: いぬっころ
第一章 気がつけばローマ
29/122

29

 声を聞いた周囲の人間は、全員ぴたりと動きを止めた。兵士たちも、観客も、誰一人として動く事ができずにいる。

 動かないならば都合が良い。その間に声の主を探す。

 居た。

 あの人だ。

 日除けの付いた席から一人、俺からも見える位置に歩み出てきた。

 確証はないが、今この闘技場内で動きがあるのはあの人だけだった。


「―――――」


 真っ白な美しい衣装に身を包んだその人は、今度は落ち着きを感じさせる声で何かを言った。

 すると立派な髭を蓄えた男性が何かを言う。

 良くわからないが、険悪な雰囲気である事だけは二人の声色から理解した。

 周りの人間は、まだ動かない。

 女剣闘士を連れて逃げだせるかを考えてみる。

 無理だ、兵士たちは動きを止めているが、出入り可能な場所は全て塞がれてしまっている。仮に兵士を無力化し、脱出路を確保したとして、女剣闘士がついて来てくれるだろうか。

 無理かもしれない、言葉が通じないのだ。でも女剣闘士だって死にたい訳は無いのだから、五分五分、といった所かもしれない。

 女剣闘士を抱えて走るのはどうだ。

 申し訳ないが筋肉質な女性を一人抱えて走っても、逃げ切れるとは思えない。筋肉は重いのだ。

 では兵士全員を無力化するか。

 今なら五人くらいは一息に無力化できるかもしれない。しかし、どう考えても焼け石に水である。

 この停止した状況で、俺が動いてしまって良いのか、悪いのか、判断がつかないのが何よりももどかしい。

 せめて、あの二人が何を言い争っているのか理解できたら良かったのだが、それも無理な話。

 と言うよりも、冷静に考えてみれば、状況は詰んでいる。

 俺一人で百人はいそうな兵士を相手取る。へたり込んだ女剣闘士を守りながら。

 無理だ。

 もし、女剣闘士を見捨て、兵士を斬り殺してよいとするなら、可能性はある。

 人間は思いのほか頑丈にできているが、急所をつけば一撃で絶命させる事は決して不可能ではない。

 だが殺さずに無力化するのは存外難しい。武器を奪う、大怪我をさせる、気絶させる。方法が無い訳ではないのだが、いずれにしても一撃で殺すよりも手間がかかる。数で劣る以上、その時間差が致命的な差になる筈だ。数の暴力は本当に恐ろしい。

 だから、一撃必殺で突き進み、死山血河を築く。というのは案外生存率が高い方法なのである。

 でも、それは仮定であって、現実的な事ではない。

 俺は女剣闘士を見捨てたくないし、人は斬らないと決めている。

 格好をつけて刀を抜いてはみたものの、現実的に二人とも生き残れそうなのであれば、それに意地でも食らいつく心づもりでもある。生に執着してこその実戦剣術なのである。

 だから俺は、あの口論が俺と女剣闘士を助けてくれないか、と期待している。

 状況的にはありえそうな事なのがまた悩ましい。

 完全に無理だと判断できれば、妙な話だが決心がついて、好き放題に暴れてやる。という気分になりそうなのに。

 あのタイミングで声をあげた人がいて、周りはそれを聞きいれたのか、止まった。

 そして、それを不服に思った髭男が反論している。

 そう考えれば、筋が通る。

 俺にとって都合よく考え過ぎだろうか。

 口論は未だに続いている。

 あの男は、処刑を指示した人で間違いない。つまりは、おそらく偉い人だ。偉い人に女性が突っかかっている。

 いや、見た感じは逆だ。偉い人が女性に突っかかっているように見える。

 観客がざわめきだす。

 もう一人、真っ白な衣装をまとった女性が出てきた。

 その女性が喋りだすと、観客たちはすぐ静かになり、女性の声だけが聞こえるようになった。内容は、依然としてさっぱりわからないが、誰もが女性の声を聞いている。

 不意に大声をあげた者がいて、俺は思わず声がした方を向いた。

 俺を連れてきた老人だった。

 驚いた。本当にやめてほしい。こっちは生き死にがかかってるんだぞ。

 俺は周囲の兵士たちに意識を向けながら、腹をくくった。

 どうせ聞いていても、わからない。なら聞いている意味はない。

 であれば、兵士たちが襲いかかってくるその瞬間を、絶対に見逃さないために集中する。今は兵士たちも動く気配はないが、それがいつまで続くのかは俺にはわからない。

 そっと左手を脇差の柄にかける。これでいつでも抜ける。

 邪魔な音が消えた。

 今後ろの方で兵士の一人が左右の重心を入れ替えた。話を聞く体勢のまま、楽な体勢に組み替えたのだろう。

 邪魔な音だけが聞こえなくなって、自分にとって必要な音だけがやけに響く。

 剣術の稽古をしている時に、こういう感覚に陥る事が稀にあった。

 極限まで集中できている証しだと思っている。

 頭と身体が冴えきって、妙な万能感すら感じる。最近では久しく感じる事の無かった感覚。

 百人同時にかかって来たとしても、今なら返り討ちにできると思える。

 さあ、いつでも、どこからでもかかってこい。

 でも、できればかかってくるな。


 動いた。兵士のほとんどが一斉に動く。

 だが、俺に向かってくるのは僅かな数のようだった。

 十七人。厳つい鍛えられた男。浮かれた雰囲気。ん?


「なんだ?うわっなんだ!?やめろ!来るな!」


 笑顔の、むさくるしい男達が駆け寄ってきていた。思わず腰が引けて、感覚がどこかへ行ってしまう。

 怪我をしている者もいる。同じ馬車に乗った剣闘士の男たちだった。


「―――――!―――――!」

「やめろ!危ない!刀をしまうから待ってくれ!」


 男達はお構いなしに俺の頭や背中、肩をばしばし叩く。

 そのせいで、一気に気が抜けてしまった。


「縮む!やめろ!痛い!」


 なんとか刀を納めた俺は、楽しげなむさくるしい男たちに担がれて、待機していた場所へ運ばれる。

 兵士たちはぞろぞろと出ていく最中で、観客たちは少しずつ立ち上がり、闘技場から出ていっている。

 そうだ、女剣闘士はどうなった。

 気が抜けたせいで、一瞬失念していた。

 担がれながらも、なんとか視線を闘技場中心へと向ける。

 どうやら女剣闘士も俺と同じような状況になっている。

 女剣闘士はまだ呆然としている様子だが、仲間たちに囲まれているようだ。


「良かった、無事だった」


 どうやら知らぬ間に命の危機から脱していたらしく、俺は心の底から安心した。

六月七日、加筆修正

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