22t12
一瞬、私の見間違いかと思ったけれど、見間違えるはずがない。
彼と顔を合わせて話をする機会には恵まれなかったけれど、彫の浅い幼げな顔つきも、見た事のない不思議な服装も、私ははっきりと覚えていた。
「な、んで?」
彼は言葉がわからない。だから、コルネリア様の制止が伝わらず、一人で治療院から飛び出して行ってしまった。
彼は暴力を好まない人だとコルネリア様が言っていた。そんな彼が、どうして円形闘技場で剣闘をやろうとしているのだろう。
「ちょっとティベリア。どうしたの?」
「クィントゥス剣闘士養成所ってどんな所なの?所長のクィントゥスさんはどんな人?」
「ん?興味出てきた?そうね、一言で言うならローマで一番珍しい養成所ね。クィントゥスさんはとても尊敬できる人らしいけど」
私は前座と言われた剣闘を、すでに見ていなかった。
視線を彼から外す事ができずにいたからだった。
ユリアはとても詳しく説明をしてくれたが、私が今求めている情報は二つだけだ。
所長のクィントゥスは誠実な人で、すごく評判の良い人だと言う事。
剣闘士は全員が自由民で構成されていて、強制的に剣闘士にされた人は一人もいないと言う事。
つまり、彼がクィントゥスに騙されて、無理やり剣闘をさせられている可能性は低い。と言う事がユリアの説明から分かった。
「そうなんだ。じゃあ良かった」
彼はきっと、自分でなんとかできているのだろう。
やっぱり、私なんかの助けが必要になる様な事にはならなかったのだ。
それは、それで、喜ばしい事に違いない。安心した様な、ちょっと悔しい様な、寂しい様な、何とも言えない複雑な気分が湧いてきたけれども、とにかく、彼が無事である事が嬉しかった。
気がつけば、前座はちょうど終わった所で、剣闘士たちがそれぞれの待機所に戻って行く。
次の剣闘士が進行役によって紹介され、ユリアが言う本当の剣闘が始まる。
ユリアはプリニウスさんと楽しげに会話をしながら、これから始まる剣闘に期待しているせいか、鼻息を荒くしていた。
私は、なんだかクィントゥス側の待機所が気になって、苦手な剣闘をあまり見ないで済みそうだった。
十戦目が終わったあたりで彼の様子が変わった。
それまでは待機所から身を乗り出して剣闘を見学している様子だったのだが、他の剣闘士と何かやりとりをすると後ろの方にある木箱に腰をおろして、それから微動だにしなくなった。
本当に、ピクリとも動かない。
「勝者!スパルティコ!」
副将戦の決着がつくと、観客は盛大な歓声をスパルティコに送った。
副将戦は両者満身創痍と言えるような状態になるまで続いた。
負けた剣闘士も観客から善戦を讃えられ、仲間たちに連れられて待機所に戻っていった。
「スパルティコはあえて受ける余裕まであった。やっぱり格が違うわ」
「すごく痛そう」
「まあ、痛いでしょうね。グラディウスで切られてるんだから。さあ次はアキレウスの実力を見せて貰いましょうか」
観客たちがすぐに静かになった。
「この対抗戦はやはり一味違う!引き分けの前哨戦を除外し、ガチンコの剣闘十六組!ここまでにクィントゥス九勝!ガイウス七勝!勝利は目前!優勢の戦局をクィントゥスは読み切っていたのか!?クィントゥスが用意した必勝の切り札!誰かこいつの情報を俺にくれ!こいつは一体どこの誰なんですかー!?女王ペンテシレイアの首を静かに狙う正体不明の男!アキレウス!!」
紹介が始まると同時に、クィントゥス側の剣闘士が、彼の肩を叩く。
彼は一瞬驚いた様な表情をして、剣闘士に促されるがまま、中心へと歩いて行く。
その姿と表情は自信に満ちているように私には感じられた。
彼はやっぱり、心が強い人なんだなと痛感した。私が彼と同じ状況に見舞われたとして、あのように振舞えるだろうか。
「劣勢、だとぅ?この女王様がいればだいじょーうぶ!彼女ならやってくれるに決まっている!アキレウスがなんぼのもんじゃい!!全剣闘士の頂点に君臨する絶対女王!ペンテシレイア!!」
彼が中心部に至る前に、進行役の男はペンテシレイアの紹介を始めた。誰も彼もがこれから始まる大将戦への期待で、平常心を失う程に興奮しているのだろう。
冷や水を浴びせられたように冷めているのは、きっと私だけ。
ペンテシレイアが闘技場へと向かって歩き出す。
すると、彼の表情や態度から、一瞬にして頼もしさが消え去った。
観客の誰もが、その事に気がついていない。皆ペンテシレイアに夢中だった。
彼は急にあたふたと慌て始めて、待機所の方を振り返ったり、顔を青くしたりと忙しない。
彼はペンテシレイアの方へと向き直ったが、一向にグラディウスを抜き放つ様子がない。
「どうしちゃったんだろう?」
「なに!?聞こえないわ!!」
思わず口を突いて出た言葉をかすかに聞き取ったのか、ユリアが大声で聞いてくるが、首を横に振って答えるだけに留めたのは彼の様子が尋常でなかったからだ。
にわかに闘技場が静かになる。
「大将戦!開始!」
大将戦が始まった。
彼は動かない。
ペンテシレイアが先に攻めた。
それは私の目では追いきれないほどの早業で、私は思わず息をのんだ。
どうか、彼が怪我をしないで済みますように、と女神ウェスタに祈ってしまう。
彼はペンテシレイアの攻めをかわし、ちょうど特等席側を向いて後退した。
かなり距離を取っているが、不思議な事に、まだグラディウスを引き抜いていない。
私はその時に、初めて彼の右腰にもう一本グラディウスがある事に気がついた。
「腰のグラディウスは飾りか!抜け!!」
ペンテシレイアの怒号が、彼女の早業に驚いてざわついていた観客を全員黙らせた。
彼は、黙ったまま困った顔をしている。
彼は言葉がわからないんです。
そう教えてあげたい気持ちでいっぱいになった。
一向にグラディウスを抜かない彼に腹を立てたのか、ペンテシレイアはすぐに突撃した。
観客が一斉に騒ぎ出す。
彼は後ろへ後ろへとかわして行く。
かわしてばかりの彼に対して口汚い言葉を投げかける観客もいるようだった。
ペンテシレイアの攻撃は私にはよく見えない。
彼がペンテシレイアの右側に見えた気がする。
するとペンテシレイアは宙を舞って背中から地面に転がり落ちた。
彼の背中に隠れてペンテシレイアの様子は見えないけれど、盾と剣を持つ両手は彼の両側から見えていたから、おそらく仰向けに倒れている。
「はぁ!?何今の!?ティベリア今の見た?」
「良くわからなかった」
「プリニウス!あんたは見えた!?」
「まさか本物のアキレウスだとでもいうのか?」
興奮したユリアに声をかけられたプリニウスさんは、闘技場の二人に集中しているのか、ごく小さな声で呟いた。
「なに!?聞こえないわ!」
「あ、いえ、アキレウスはペンテシレイアが斬り下ろしをした際に腕を引っ張って転ばせた。ように見えました」
「それだけで女王が転ぶ訳ない!」
「しかし実際に倒されています」
「あの男、一体何をしたのよ」
ユリアは訝しげな表情で彼を見ていた。
観客たちがどよめきだす。
ペンテシレイアはグラディウスと盾を手放したようだった。
武器を手放すのは降参の合図だと言う事ぐらいは私でも知っている。
もう観客のどよめきすら聞こえてこない。
彼はすぐに立ち上がってグラディウスを右腰の鞘に納めて、周囲の様子を窺っていた。
良かった。
彼は勝った。
しかも、ペンテシレイアには怪我一つ負わせずに。
身体を起したペンテシレイアは、負けた事が信じられないのか、項垂れている。
闘技場内は不気味なほど静まり返っていた。
「―――――?」
彼が何かを口にした。言葉は分からないが、ひどくうろたえている様子が表情にありありと現れている。
「殺せ」
誰かが言った。私じゃない。ユリアでも、プリニウスさんでもない。
その言葉は不思議なほど闘技場に染み渡っていく。
「そうだ、殺せ」
「殺せ!」
「弱い女王はいらん!殺せ!」
「不甲斐ない剣闘士は殺せ!」
「殺せ!」
「血も流さずに降参するなんて!」
「無様な敗者には死を!」
「殺せ!」
「ペンテシレイアを処刑しろ!」
気がつけば闘技場全てが怒りと侮蔑に満ちていた。
観客たちの絶叫が闘技場を揺らしている。
「ユリア!何これ!?皆どうしたの!?」
呆然としているユリアの両肩を捕まえて怒鳴るようにして聞く。そうしないと聞こえないに違いなかった。
ユリアは、はっとした様子になって、私に抱きつくようにして耳元に口を寄せてきた。
「あれはダメよ。あんなにあっさり降参しちゃったら。処刑を求められても仕方がない。アキレウスが強すぎたのよ、きっと地面に転ばされて、勝てない相手だと察して思わず降参しちゃったんでしょうけれど。観客たちはすっかりその気になっている。主催者のサウロスは観客の望みを叶えるでしょう。ペンテシレイアはローマで一番の剣闘士。養成所に支払う補償金は莫大な額になるでしょうけれど、その金額の大きさはむしろサウロスにとっては資金力を見せつけるための良い宣伝になる。ペンテシレイアは処刑される」
ユリアはすっかり身体の力が抜けてしまっていた。
ペンテシレイアが処刑される事がユリアの気力を奪ってしまったのかもしれなかった。
「そんな事で!」
腹が立って思わず言葉が出た。
金払いの良さを見せつける為に、人を殺させるなんて信じられなかった。
そんな事の為に人が殺されて良いわけがない。
「こんな事!普通は起こらないのよ。だってペンテシレイアは剣闘士の女王とまで呼ばれる腕利きよ?処刑を求められる様な無様な負け方をする訳ないの!剣闘は命がけの催し物だけれど、剣闘士だって死にたくないし、殺したくないと思ってる!それがわかってるから、スパルティコは格下相手でもわざと傷を受けて接戦に見せた!だから副将戦ではどちらも生き残った!でもアキレウスはそうしなかった。腕前は確かなのでしょうけれど、剣闘士としては新人以下よ!あのバカ!きっと初めからペンテシレイアを殺す気で戦ったんだわ!全部あいつが悪い!何がアキレウスよ!ふざけた名前!」
ユリアは小さく震えながら、振り絞るように叫んだ。
「違うの!彼は言葉がわからないの!きっと剣闘の事だって詳しくは知らないんだわ!」
私はどうしても我慢できずに言った。
治療院でコルネリア様が言った事が真実なのではないかと思っている。
だから、ユリアの言い分を認める訳にはいかなかった。
彼が悪意を持って剣闘に臨んだなんて事は認めたくなかった。
「なにそれ、どういうこと?何でティベリアがそんな事わかるのよ。待って、あの男良く見たら昨日の話の」
「私が治療院に連れていった人なの!」
「うそ、そんなことあるの?」
ユリアは呆けた表情で彼と私を交互に見た。
特等席に座っているサウロスさんが、おもむろに立ち上がって進行役に何か指示を出した。
「皆さんお静かに!お静かに!今回の興行主であるサウロス様から皆さんにお言葉があります!お静かに!」
進行役が右手を掲げて声を張り上げると、一転して闘技場は耳鳴りがしそうな程の沈黙に包まれる。
サウロスさんは特等席から数歩前に出て、観客から良く見えそうな位置で立ち止まって右手を高く掲げた。
「処刑だ!!」
親指を立て、首元を左から右へ。
その直後闘技場は熱狂に包まれた。
私に抱きついたままのユリアは涙を流している。
「ユリア!どうにかできないの!?ペンテシレイアさんが」
「無理よ!すぐに処刑人がやってくる!観客はすっかり女王の処刑に夢中!私たちが何を言っても聞こえないわ!」
「そんな」
私は言葉を失う。
ユリアの言葉はその通りかもしれなかった。こんなに近くにいるユリアの声すら、観客の絶叫に呑みこまれて聞き取りにくい。
目の前で彼女が首を切られるまで、なにも出来ずに座っている事しかできないのだろうか。
不意に彼がどうしているのか気になった。
彼は、今どうしている?
彼は呆然と立ち尽くしていた。
闘技場の端から二人の処刑人が歩いてくる。
彼は首だけ動かして周囲を見ているようだった。
口元が僅かに動いている。
何かを喋っている。
処刑人がペンテシレイアの元に到達し、彼女を跪かせる。
彼は右手を弱々しく出している。
彼ですら、何もできないでいる。
なら、私に何ができる?
処刑人がグラディウスをペンテシレイアの首元に添えると闘技場内は不気味なほどに静かになった。
サウロスが号令をかけるのを待っているのだ。
「っ」
今なら、私の声が皆に聞こえる。そう思って息を吸い込んだ。
「やめて、ティベリア。ダメよ。いくら私たちが止めようとしても、観客は不満に思う。その不満はいつか私たちに返ってくるわ。自殺用地下房がどんな時期に使われたか、使われやすいか知っているわよね?」
カンプス・セレイタスは過去に数える程度しか使用されていない。なぜなら、本当に罪を犯した巫女はほとんどいないからである。
ウェスタの巫女は、ローマの安寧を守護する存在である。
故に、『政治が腐敗するのも、蛮族に敗戦するのも、食糧が不足するのもウェスタの巫女が勤めを放棄しているか、許されざる罪を犯した事の証である』と民衆の不満をそらすための方便として、権力者たちに利用される事があった。
そのため、カンプス・セレイタスは、ローマ国内の情勢が不安定な時期に使用される事が多い。
だから、ウェスタの巫女は自分たちを守るために、より一層厳しい掟を自らたちに課したのだ。
決して、権力者たちの使いやすい生贄にならなくて済むように。
「我慢して、ティベリア。無理に処刑を止めては観客が納得しない。私たちは僅かな口実も与えてはならないのよ。私とあなただけの問題では済まなくなる。姉さまたちや妹達まで危険な目に会わせたいの?」
「でも」
「でもも何もないの!」
闘技場がざわめきだす。
ユリアの大声に反応した訳ではなかった。
観客は皆闘技場の中心を見ている。
彼が、ペンテシレイアを跪かせた処刑人を投げ飛ばしたからだった。
ざわめきは最早悲鳴に変わっている。
冥界の船渡しに扮したもう一人の処刑人が、彼を叩きつぶそうと近付いている事に気がつくと、すかさず近付いて、振り下ろされた大金鎚をかわす。
彼が何を行ったのかはわからなかったが、大金鎚の柄が切断されたらしい事。尻もちをついた処刑人が気絶したらしい事だけは、私にもわかった。
彼は黒いグラディウスを右手に持って、周囲をゆっくりと見渡した。
先ほどまでの憔悴した様子が嘘のようだった。
艶やかな黒髪、不思議な灰色の服、白銀にきらめく見た事のないグラディウス。それぞれがまるで絵画のように調和のとれた姿でそこにある。
「私の剣闘大会でこのような無法は許さぬ!二人を捕え処刑せよ!!」
サウロスが叫ぶ。
それに応えて剣と槍と盾とで武装した集団が闘技場内になだれ込み、彼を囲う。
数えるのも億劫なほどの集団だった。百人近くはいるかもしれない。
このままでは彼もペンテシレイアもなぶり殺しにされてしまう。
でも、私に何ができるのだろう。
彼は、どうしている?
百人からなる完全武装の兵士に囲まれ、私のように何もできるはずがないと、心が折れているだろうか。
それとも、今の私のように、この場から逃げ出してしまいたいと願っているのだろうか。
彼は、笑っていた。
絶体絶命の危機に気がふれたのだろうか?
違う。
あれはそういう後ろ向きなものじゃない気がしてならない。
もっと前向きな、何か大きな決意を感じさせる、そういう凄絶な笑顔だった。
今の彼の表情から幼さなど感じない。先ほどまでの慌てた様な、憔悴した様な気配など欠片も無い。
どうしてそんな表情ができるのだろう。
どうして、私にはできないのだろう。
私の腕の中では、ユリアが言葉を失って静かに彼を見ている。
ユリアは、ダメだと言ったけれど、本当にそうだろうか。
私にできる事は何もないと思っていたけれど、本当にそうだろうか。
「大将戦の中止を要求します!!」
ああ、やっぱり、やってしまった。
五月二十二日、加筆修正




