20t10
私とユリアが円形闘技場に到着した頃には、観客席は人で埋まっていた。
日除けの赤い天幕が張られた特等席に案内され、二人で並んで座る。
「確かに前よりも小さい闘技場だけど、すごい活気ね」
「第十四区で初めて作られた闘技場だから、住民の期待の表れでしょうね。立ち見でぎっちりになったら五千人位は入りそう。想像してたのよりずっと立派だわ」
「そう言っていただけると、私も頑張った甲斐があると言うものです」
不意に後ろから声を掛けられて、私は少し驚いた。
ユリアは全く動じていない。ゆっくりと優雅に立ちあがって、お手本のように挨拶をする。
私も座ったままでは失礼にあたる。不自然にならない程度に急いで立ちあがった。
「このような素晴らしい機会に、私どもを招待して頂けるとは思ってもみませんでした。感謝いたします」
ユリアは堅い言葉で声の主に応えた。声に少し緊張が混ざっている。
声の主は初老に差しかかった男性で、長い髭が印象的だが、見るからに温和そうな雰囲気がある。
私はユリアが、どうして私が見ても分かるくらいに緊張しているのかが、分からなかった。
「いいえ、私の方こそ、まずは感謝を伝えさせてください。私の招待を受けてくださって本当にありがとうございました。そしてご安心ください。私は確かにユダヤ人ではありますが、ユダヤにもいろいろな者がおります。ローマの人々が思っている様な、人を選び、ユダヤで無い人々を内心では蔑視したりする事を私は行いません。私は真にユダヤの教えを守るユダヤ人であると同時に、ローマを理解しローマの為に尽くすローマ市民でもあるのです。無論あなた方にも、最大限の敬意を持って接し、誓って無礼な真似をしないと約束いたします」
「ご丁寧な挨拶痛み入ります、私はユリア・カエサル。こちらはティベリア・リイヌムと申します」
「私はサウロス・タルッスス・パリサイウスと申します。本日は存分に剣闘を楽しんでいただければ、それ以上の幸福はありません」
そう言った男性は、少し離れた席に腰を下ろした。
観客たちのざわめきが一層大きくなってきているせいで、ユリアが何事かを呟いたのを、私は聞き洩らしてしまった。
「どうしたの?」
私は声がきちんと聞こえるようにユリアの耳元で尋ねてみた。
ユリアも私の耳元で、私にだけ聞こえるような小さな声で言った。
「多分あの人が今回の主催者よ。さっき話したでしょ?お金持ちのユダヤ人」
「そうなんだ。思ったよりも優しそうな人ね」
「もっと緊張感を持ちなさい」
「どうして?」
ユリアは険しい表情でたしなめるように言った。
緊張しなければならない理由がどこにあるのだろう。
「あの人、ユダヤ人なのよ?」
「それがどうかしたの?」
ユダヤ人とはつまり、ユダヤ教を信じる人たちの事を言う。ユダヤという地名もあるが、必ずしもユダヤ生まれの人間を示す言葉ではない。
ユリアが言っているのはユダヤ教を信じる人、の方だと察しがつく。
「ユダヤ教は一神教、ローマの神々を認めていない。つまり私たちローマ人とは信仰の根本から対立する関係にある。ローマはどんな神でも大抵は受け入れてきたし、誰がどんな神を信仰してても構わないって思ってるけど、向こうに歩み寄る気が一切無いんじゃどうしようもない。昔教わったでしょ?絶対変よ。ユダヤ人が剣闘を主催して、ウェスタの巫女を招待するなんて」
「ユダヤ教は知っているけれど、そんなに変な教えだとは思わないけれど?無礼な事は何もしないって誓ってくれたし」
確かに彼らの教えはローマの信仰とはかなり異なっている所もある。
彼らは選民的で秘密主義な所があると言われていて、ローマの人は気味悪がっていたりするが、悪を慎み、誠実に生きなさい。というほぼ全ての信仰に共通する教えがあるのもまた事実で、私の知る限りでは特別誰かに迷惑をかけているような人々ではない。
「口ではなんとでも言えるわ。まあ私たちに何かする、とは確かに思えないけど。そんなことしたら皇帝もローマの民も黙って無い、破滅するのは向こうの方」
しかしユダヤ人たちは、ユリアの言う通り、ローマに住みながら、積極的にはローマと関わり合いを持たないようにしているのも事実で、ユリアの考え方が一般的なローマ人の考えに近いのだろう。
何を考えているのか分からない。分からないのは気味が悪い。そう考えてしまっても仕方がないのかもしれなかった。
「サウロスさんの招待をクラウディア様は大丈夫だと思って受けたんでしょう?」
「クラウディア様は慎重な意見をお持ちだった」
「じゃあなんで私たちここにいるの?」
「私、たまたま居合わせてね。こんなアツイ剣闘見逃せないでしょ!絶対に行くって言ったのよ」
「えぇ?」
「クラウディア様ったら、私一人じゃ心配だから、もう一人連れて行け。なんていうのよ?失礼しちゃうわ」
クラウディア様の判断はウェスタ神官長として正しい上に冷静だ。
ユリアにダメと言っても勝手に観戦に行くに違いない。他の巫女なら心配ないだろうが、剣闘に並みならぬ情熱を持っているユリアを一人で行かせるのは確かに心配だろう。それならば勤めに併せて剣闘観戦をさせた方が安全だ。
「それで私を連れてきた訳?」
「そうよ?ほら、はじまりそうよ、進行役が来たわ」
「やっぱりユリアは剣闘の事になるとちょっと変。剣闘に何か思い入れでもあるの?」
「ダメよティベリア。進行役が話し始めるわ。静かにしているのが礼儀よ」
誰かと一緒に行かせれば、ユリアはお姉さん風を吹かすに決まっている。そうすれば多少は歯止めになるだろう。というクラウディア様の読みは、全くその通りに当たっている。
私はどう考えても貧乏くじを引かされた事になるのだが、こんなにも楽しそうにしているユリアはなかなか見る事ができない。
であれば、昨日のお礼に剣闘観戦ぐらい付き合ってあげるのも親友の務めだろうと、私は諦めて口をつぐんだ。
サウロスさんは立ち上がると、観客が静かになるのを待ってから、口上を述べる。
内容は見に来てくれた観客への礼から始まり、興行を許可してくれたネロ帝に対する礼、今回招待に応じた私たちに対する礼を熱烈に語ると、今度は亡くなられたブッルス様への追悼の言葉を引き出しにしてローマの繁栄を願う言葉をたっぷり披露した。
あまりにも長い口上にユリアがうずうずと身体を揺らし始めた所で、サウロスさんは締めの言葉を発した。
「では、これより剣闘を開始する!」
サウロスさんは歓声に応えるようにしながら席に戻る。
「始まるわよ」
ユリアはもう前のめりになっている。
闘技場の中心を見る横顔からは、隠しきれない興奮がにじみ出ていた。
にわかに歓声が止む。
ユリアが進行役と言った男性が高らかに右手を上げたのだ。
そうすると観客は即座に静かにするのが、礼儀なのだろうか。
「長らくお待たせいたしました!この剣闘大会を始めるのに相応しい二人をご紹介しましょう!まずはガイウス剣闘士養成所所属!顔良し!性格よし!剣闘も強し!この男の欠点は一体どこにあるのか!ガリアからやってきた長髪の色男!ケルティル!」
進行役の男性がとても良く通る大声で叫ぶと、闘技場は歓声に包まれる。
闘技場の方では左手の方から一人の剣闘士が歓声に応えながら中心に歩み出て行く。彼が、ケルティルという剣闘士なのだろう。
ケルティルが中心近くに至ると、進行役の男性はさっと右手を上げる。
「続いてクィントゥス剣闘士養成所所属!その流れるような動きと甘いマスクは巷のご婦人方の熱視線を独占し、男達からの嫉妬の視線もすらりとかわす流麗なる剣闘士!ちくしょう!俺もその位モテてみたい!とにかく当たらない男!デオドロス!」
闘技場は先ほどと比べても負けないほどの歓声に包まれ、今度は右手の方から一人の剣闘士が歓声に応えながら中心部へ向かう。デオドロスが中心に至り、二人の剣闘士が向き合うと、今度は自然と歓声が止んだ。
隣から喉が鳴る音が聞こえる。
ユリアだ。ユリアはすっかり剣闘に集中しているらしく、こちらに視線を向ける事もない。
「養成所対抗戦、前哨戦!始め!」
五月二十二日、加筆修正




