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サムライフローマ  作者: いぬっころ
間章 新庄良一郎はこうして生まれた
103/122

間13 二度目は許さぬ

 大家から電話を借りて連絡を済まし、勝太郎の部屋に戻ってきた二人は、積雪を踏み分けて歩いたせいで濡れてしまった衣服と靴とを、石油ストーブの前で乾かしていた。

 大家が善意から全部屋に設置した真新しい石油ストーブは、以前までの勝太郎にとっては悩ましい誘惑の種であった。

 ストーブで部屋を暖めれば、それだけで冬でも過ごしやすくなるし、洗濯物は乾くし、氷のように冷え切った服を毎朝覚悟を決めて着る必要もなくなる。

 しかし燃料の灯油はただではない、と勝太郎は頭を悩ませていたのである。


「乾いた?」


 良子が、ちろちろ揺れるストーブの炎を眺めながら、隣に座る勝太郎に尋ねた。


「まだ」


 勝太郎は自分の裾を触り、乾き具合を確かめてから答えた。


「ひどい天気」


 良子がガタガタ鳴っている外の窓枠を眺めて言った。


「そうだな」


 と勝太郎は答えた。

 服が渇くのを落ち着いた様子で待っているように見えた良子を尻目に、勝太郎は考えを巡らせていた。

 良子がこの部屋に泊まる。という事は、すでに俺にはどうしようもない決定事項であるが、しかし寝具は普段使いの一組しかない。

 人を宿泊させる、などと想定していなかったのだから、何の用意もない。

 勝太郎は、ちらと部屋中を見渡してみるが、自分でも驚くほど、物がないことに気がついた。

 人を泊めて良い部屋ではないな。と勝太郎は思った。


「ふぁ」


 不意に良子があくびをした。


「あったかくて眠くなってきた」


 と良子は言った。


「乾くまで我慢な、そのまま寝たら風邪をひくかもしれない」


 勝太郎は注意を促す言葉を口にしたけれども、内心では確かに眠気を誘われる。と納得していた。


「はいはい」


 気のない返事をした良子は、体育座りのまま膝に頬を預けて、勝太郎の顔を盗み見た。

 何も考えてなさそうな表情ですぐ隣に座っている勝太郎を見て、良子はわずかに腹が立ったのである。

 腹が立ったおかげか、良子の眠気はどこかへと行ってしまった。

 酷い天気だとか、濡れた服がどうとか、風邪がどうとか、そんなことを気にしている場合ではなかった。私は今日、この鈍感大王に引導を渡してやるつもりで来たのだ。それは高望みしすぎにしても、切っ掛けを得るぐらいは、と良子は胸の内にある決意を再確認した。

 お母さんが言う通り、年頃の娘が異性に頼まれても居ないのに。それどころか持ってくるな、とまで言われているのに、それを黙殺して殆ど毎日弁当を作って行く。と言うのは確かに普通ではない。普通ではない事をするからにはそれなりの理由があって、その理由と言うのは、つまり、私が勝太郎の事を好いている。という事である。

 これが初恋、などと自覚すると顔から火が噴きそうな心持になるのだけれども、差し当たっての問題は、私の方には無い。と良子は居直った。

 百歩譲って、弁当の件は私が自覚する以前からの事だから、それで気がつけと言うのは筋違いだと思ってやっても良い。しかし部屋に上がり込んで夕食を作りに来る、通い妻じみた同い年の異性の行動を見て、それに照れるでもなく喜ぶでもなく、ただ困り顔で父親風を吹かすとは一体全体どういう了見なのだ。手を出せとは言わないが、せめて異性として私を見ろ。むしろ、嫁入り前の娘が独り者の男の部屋にそう何度も来るものではない。なんて説教を私にするくらいならば、なぜ私がそうしているのか、という理由を少しは考えてもみろ。と声を大にして言いたい良子である。

 とにかく勝太郎が鈍感で、まるで気が付く気配がないのが問題だった。

 いや、そもそも勝太郎は鈍感な訳ではあるまい、と良子は感じていた。

『子供は正直である。

 やりたい事はやるし、やりたくない事はやらない。

 やると決めてもやる気の程度は人それぞれで、少年団の稽古に向ける熱意の多寡には明確に差がある。

 剣道がやりたい子、親の意向で稽古に参加している子、大勢で何かをするのが楽しいだけの子も居る。

 剣道がやりたい子にはそれなりの、親の意向で稽古に参加している子にはそれなりの、大勢で何かをするのが楽しいだけの子にはそれなりの、接し方がある。

 指導する立場の者は、それを正しく見極めて、その子のやる気を削がない様に、むしろやる気を引き出すように振る舞うのが、一番重要である。

 やる気がなければ何もできない。というのは真実で、この事は、本人にとってもその通りであるし、指導する立場の人間にとっても同じこと。

 なぜなら、稽古に参加しない、もうやめる、そもそも始めない。という選択肢は、いつでも選ぶことができるからである。

 教わる場に来ない相手に、指導することはできない。

 稽古に参加している時点で、やる気はある。

 やる気の多寡を誰かと比べる必要は全く無い。それぞれ違う思いで稽古に参加しているのだから、指導する人間もそれぞれに合う指導を心がける事が大切である。』

 剣道少年団の稽古において、指導力向上会員で唯一、子供たちへの指導を一部任されている勝太郎に、良子が後学のために、と聞いた話である。

 そんな事を思っていて、その通りに実践し、マサとは異なる方向で多くの子供たちに慕われている勝太郎が、人の心の機微に疎い。つまりは鈍感である、とは良子にはとても思えないのである。

 嫁入り前の年頃の()が、頻繁に夕食を作りに来ることを注意するような良識を有していて、男女間の関係において、そういう事があり得る。と確かに勝太郎は認識しているはずだというのに、しかし自身にはそういう可能性はない。と言わんばかりの態度を勝太郎がとるのには、何か理由があるに違いない。と良子は感じていたのである。

 ()()()()()()が、良子にはあった。

 だから今日、雪が降ることを承知して、風が伴って猛吹雪になる可能性がある事を覚悟して、むしろ今まで何の進展も見せない勝太郎との関係を進める良い機会だと考えて、私も勝太郎も物理的に逃げることができない状況下で、腰を据えて話をする。と良子は決めていたのである。


「ねえ」


 勝太郎に聞こえないように息を吸ってから、良子は言った。


「なぁに?」


 ストーブの熱にあてられて、勝太郎はあくび交じりの言葉を返した。


「聞きたいことがあるんだけど、聞いてもいい?」


 と良子は言った。


「いいよ?」


 と勝太郎は何の気なしに答えた。

 わずかに眠たげな勝太郎の視線は、ストーブの炎に向けられていた。


「保険証、どうしたの?」


 本題はこれではないのだけれど、話の入口にはちょうど良い。と良子は思っていた。

 いきなり本題に入るのは、すでに覚悟を済ませた良子と言えども、少し気が引けたのである。重い話になる、と良子は確信していた。

 勝太郎の視線が一瞬だけ良子の視線と重なって、逃げるようにして離れた。

 勝太郎の様子をじっと眺めていた良子には、それが分かった。


「それなら、どこかにはあると思うけど」


 と勝太郎は言った。

 良子は勝太郎の表情に、違和感を覚えた。

 表情がどこか、ぎこちない。

 ストーブの熱気が誘った眠気も、どこかへ行ってしまった様子だった。

 何より、保険証なんていう大切な物の所在を、どこかにはある。などと言うのは勝太郎らしくないと良子は感じたのである。


「どこかに、ってどこ?この部屋には無いよね」


 と良子は尋ねたが、その答えを良子は既に知っていた。


「えぇ、と?」


 勝太郎が、質問の意図を理解していない。

 もしくは意図的に理解しない様に見せている事を察した良子は、勝太郎がすっかり忘れているか、何かを誤魔化そうとしている事を、私が知っていると知らせる必要がある。と確信した。


「勝太郎は熱出してたから、覚えてない?病院の人に保険証あるなら提出して欲しいって言われたから、私、保険証はある?って勝太郎に聞いたの、そしたら手元には無いって勝太郎は答えた。どこにあるのって聞いたら、たぶん実家にあるって答えた。電話が通じるか聞いたら電話はないって答えた。近くに知り合いの家は、って聞いたら、連絡したくないって勝太郎は答えた。もしかしたら勝太郎の勘違いで、この部屋にあるかもと思って探したけど、勝太郎の言う通り、この部屋にも、勝太郎の持ち物の中にもなかった。保険証があるのに、持ってないっておかしいよね。保険証を無くしたままにしておくのも変よね。保険がきかないと入院費すごく高くなるのに、実家にある、って分かっているのに、連絡はしたくないって勝太郎が言うのは少し変じゃない?」


 良子は、勝太郎の保険証が、彼の実家にあると本人の口から直接聞いていた。

 勝太郎を病院に運ぶために同行していた巳代が、それでは支払いが大変だろうと気を利かせ、治療費を肩代わりすると言い出したのであった。

 勝太郎は後日、昭雄に治療費を全額支払ったが、その後勝太郎が保険証の提出をするために病院に行ったという話も聞かなかったし、おそらく保険証は、今も勝太郎の実家にあるのだろう、と良子は予想していた。

 勝太郎はストーブの炎を見つめながら、何も答えなかった。


「帰省も、しないよね」


 勝太郎が年末年始も、盆も、それどころか休みという休みの殆どを、学業と指導力向上会の活動とアルバイトに割り当て、今までただの一度も帰省していないことを良子は知っていた。

 勝太郎は何も答えようとしなかった。


「ねぇ、勝太郎はどうして、家に帰りたがらないの?」


 勝太郎はうつむいて、ため息を一つついた。

 良子にとって、勝太郎の保険証の話は、ただの入口に過ぎない。

 勝太郎が帰省するも、しないも、良子は大して興味もない。

 良子が知りたいのは、その理由である。

 私の予想が外れていたら良いな、と良子は思っていた。

 私の予想が的外れなのであれば、勝太郎は何の理由もなく、ただただ天然な鈍感大王だ。という結果で納得できるし、この初恋を成就させるのに、手間も時間も余計にかかるかも知れないけれど、そっちの方が勝太郎にとっては良い事に違いない。

 だって、家に帰りたくない理由なんて、私には一つしか思いつかなかった。

 家に何があると言うのか、誰が居ると言うのか、そんなのは


「家族に会いたくない?」


 という理由以外にないではないか。と良子は思い至っていたのである。

 勝太郎が顔を上げて、良子の顔を見た。

 二人の視線が合って、勝太郎の表情を、良子は見た。

 良子は、初めて勝太郎の心底から困っている表情を見たような気がした。全く良い気分はしなかった。


「やっぱり、聞いちゃダメ。って事にしてもいい?」


 と勝太郎が言った。

 だから良子は、自身の予想が正しい事を確信した。

 良子が知る限り、勝太郎が嘘を吐いたのは、夏祭りの時。良子を気遣った時だけである。

 それ以外では、嘘そのものを嫌っているのか、まるで嫌な物を遠ざけるかのように、論点を誤魔化すのが勝太郎の常套手段である、と良子は知っていた。

 勝太郎は言外で、家族に会いたくない、という事を肯定したに等しかった。


「覆水盆に返らずとも言うわよ?」


 勝太郎が家族に会いたくないと思っている。という事だけが発覚しても、何の意味もない。

 その理由を聞きたいのだ。と良子は思っていた。


「また水を注げば、良いと思うんだよ」


 勝太郎は、意味のない言葉を良子に返した。

 答える気はない。という意思表示のつもりである。


「吐いた唾は吞めない、とも言うわよ?」


 良子は言葉を変えて、勝太郎に追及した。

 勝太郎の()()()()()は、嘘に限らず、恋愛に限らず、すべてにおいて発揮されているような気がする。と良子は気が付いた。


「必要なら、吐いた唾でも飲み込むよ、俺は」


 勝太郎の答えを聞いた良子は、案外すべて家族の事が原因なのではないか、と思った。


()()()話せないの?」


 良子は、万感の思いを込めて、言った。

 自分でも不安になる言葉だ、と良子は思って、体育座りのまま抱えている膝が震える思いがしたけれども、それは必死で抑えた。

 勝太郎が大学生になってから、一番多くの言葉を交わしたのも、一番長い時間を共有したのも、心中を晒しあったのも、きっと私であるはずなのだ。と良子は思っていた。

 そんな私に話せないのなら、勝太郎はこれから一生の間に、誰に話せるというのだろう。

 誰にも話したくないと思うようなことを抱えるのは、どれほど重いだろう。どれほど辛いだろう。どれほど泣きたくなるだろうか。

 人に話せば楽になる。という事はある。

 実際にあったのだから、疑いようがない。

 あの時の私が、勝太郎の言葉に救われた気がしたのは、気のせいなんかじゃないのだ。

 それは、あの時に芽生えたに違いない私の恋心が確かに証明しているに決まっていた。

 だから、今度は私が聞く番なのである。

 私が、勝太郎を救われた気にさせてやる。

 好きだの嫌いだのは、今は良い。

 勝太郎が恋愛感情を知らない、今はそれどころではないと言うのなら、それも仕方がないのかもしれない。

 私に話して、解決する話ではないかもしれない。

 隠している事を私に話す事自体が、苦痛なのかもしれない。

 聞いても私には何もできないかもしれない。

 不安はある。自信は欠片ほども持ってはいない。

 でも、受け止めるという私の覚悟だけは、勝太郎にだって、否定などさせるものか。

 恋もできないほど重たい思いが心中に留まってあるのなら、一度私に向けて吐き出して、身軽になってみれば良いのだ。

 まだ恋人などではないけれども、少なからず、親しい友人ではあるに違いない私にも、それをさせてもらえるくらいの権利がある。

 と良子は思っていた。


他人様(ひとさま)に言って聞かせる様な話じゃないというか、聞かないでくれると助かる」


 と、良子の心中を知りもしない勝太郎は言った。


「は?」


 勝太郎の、ふざける様な、曖昧な、ふやけた笑顔のような誤魔化しの表情と、吐いた言葉の意味とが、良子の堪忍袋の緒を、確かに引き裂いた。


「何それ」

「?」


 良子は顔を伏せながら激怒した。

 誰かに聞かせることを考慮していない言葉は、率直な良子の思いだった。


「何それムカつく。ムカつくというか、悔しい、というか、何か、よくわかんないんですけど」


 最低でも友人であると、それも特に親しくしていると確信していた相手が、私の事などなんとも思っていない。

 友人だと思っているのはお前だけだと、つまり勝太郎はそう言ったのだ。と良子は勝太郎の言葉を受け取ったのである。

 私は、お面で隠していたとはいえ、みっともない泣き姿までさらして、勝太郎からかけて貰った優しい言葉を宝物のように大切に胸の内で持ち続けてきて、その時ですら確かな友情を感じ、あまつさえこの男は私に恋心まで植え付けたくせに、お前なんか他人だと、舞い上がって滑稽な友情ごっこ恋愛ごっこに現を抜かしていたのはお前だけだと、お前になど、俺の苦悩を話す相手には相応しくない。

 と勝太郎は言ったのだと思うと、悲しいのだか、悔しいのだか、腹が立つのだか、何が何だかわからないような気分に良子はさせられたのである。

 とにかく勝太郎の口にした言葉が、良子にとって極めて不快な言葉であることには違いがなかった。


「えぇ、と?」


 勝太郎は、急に俯いた良子の独り言を聞いて、混乱していた。

 不快な気分にさせてしまったらしい事は理解できたのだが、自分の発言のどこが悪かったのか、と言う所は勝太郎にはわからなかったのである。

 勝太郎の口から洩れた意味のない言葉を聞いて顔を上げた良子は、勝太郎の顔を見た。

 勝太郎の顔を見た良子は、なんにも理解していなさそうな、空とぼけたような表情をしていやがる。と思った。

 自分だけが問題を問題と捉えていて、当の本人は、問題を問題とすら思っていない。

 大元からすれ違って、噛み合っていない。そのことが良子には寂しかったし、腹が立ったし、なぜか無性に泣けてきそうになった。

 良子は一つ息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出し、努めて冷静に、勝太郎の言葉を噛んで含めるように吟味した。

 勝太郎が自分に関わる事に関しての言葉を渋りたがるのは先刻承知の事。私の理解が足りないのかもしれないと、良子は考えたのである。


「え、なに?つまり勝太郎は、赤の他人様(たにんさま)である、私には話せない。と、そう言うの?」


 良子は数秒を費やして改めて勝太郎の言葉を理解し、油断すると溢れて来そうな涙を押しとどめる為に、勝太郎を睨みつけながら尋ねた。


「あ、いや、そういう事ではなく」


 勝太郎の答えは、歯切れが悪かった。

 良子の尋常でない表情と、今にも零れてしまいそうな涙に気が付いた勝太郎は、自分の言葉が良子に何か誤解をもたらしたらしい事にも気が付いて、狼狽えたからである。

 じゃあ、どういう事なのか。と良子は勝太郎を問い詰めたかったのだが、涙が零れそうだと気が付いてやめた。泣いている場合ではない、と思ったからだった。


「良子に、とかではなく、誰にも、言えないと言うか」


 自分の考えが正しく伝わるように、と考えて、言葉の節を切って勝太郎は言った。

 それは同じことだ、と良子には感じられた。

 新庄勝太郎にとっては、その他大勢と吉田良子には、何の差もないという事だ。と良子は理解した。

 それでは困る。吉田良子は、新庄勝太郎の特別になりたいのである。


「ええと」


 何の反応も返さない良子に、何か言うべきだと勝太郎は感じたが、何を伝えるべきなのか、勝太郎にはわからなかった。

 良子には、ここで諦める、という考えは一切合切なかった。

 勝太郎が何と言おうと、何を考えていようと、拒絶されようとも、嫌われようとも、聞くべきことを聞くのだと決意した。

 もう、友人でなくとも、恋人でなくとも別に良い。と、内心大泣きしたい気分だが、今決めた。

 今この機会を逃せば次は無い。

 勝太郎の事だから、次は機会すら作らせてもらえなくなるのだろうと簡単に予想がつく。

 しかもそれは私にとっての機会ではなく、新庄勝太郎という一人の人間の、何かの機会が失われるに違いない。と、良子は直感した。

 腹が据われば、勝太郎が何を言おうが、何を思おうが、私には何の関係もないと良子は気が付いた。

 考えるべきことは一つだけ。

 今私が心底から望んでいるのは、このクソ融通の利かない馬鹿な鈍感大王の腹を掻っ捌いてでも、その内を開いてみて、知ることだ。

 吉田良子は思い出す。

 剣道でもなんでも、勝とうと思えば、まず自分が何ができて、何ができないのか知ることだと、勝太郎は子供たちに教えていた。

 何を知っていて、何を知らないのかを、認めることだとも言っていた。

 私にできることは多くない、特別優秀でもない、特別な経験がある訳でもなく、特別誇れる美点も残念ながらない。他人が当たり前にできることは、せいぜい人並みよりは少しだけ少ないくらいが関の山。それだけ分かっていれば、きっと十分だ。

 そうして自分の事が分かったら、次は相手の事を知ること。

 新庄勝太郎という人物の核となる部分が分からないから困っているのだが、部分的にならば分かることも確かにある。

 勝太郎が口にした言葉、とった行動、それらを一番知っているのは、間違いなく私だ、私以外に勝太郎の特別になれる他人など居ないに違いない。

 つまり要約すれば、問題を明確にし、その対応策を用意することができれば、相手にも、自分にも勝てるのだ。

 話の肝はどこか、何が問題なのか。

 私にとって、勝太郎にとって、何が問題になっているのか。

 そんな事、勝太郎が口にしていた、ただ一点。

 全てはそこが問題だった。

 問題は一つに集約された。

 しかし、その問題をどう解決するのかが、私には分からない。

 哲学的難問の気配。卵が先か鶏が先かという類の話。

 その問題は、私には解決できない事だろうか。

 解決できないと考えてはならない。解決できると確信をもって、張りぼてでも構わないから自信をもって考える。

 常識にとらわれず、柔軟な発想で。

 どんな問題でも、基礎となる知識が物を言う。小難しい応用の知識も経験も、基礎と発想があれば、今は無くても構わない。

 全ての応用は基礎から生じた。そのように考えれば、難問とは、いずれは解決可能な問題の別名でしかない。

 では要点は私に基礎が有るのか、無いのか、という所。

 無いわけがない。

 私は自分の事を知っている。

 私は勝太郎の事を知っている。

 これは本質的には勝太郎の問題の話だが、今は私たち二人の関係を問い、正すための問題だった。

 そう、断じて二人の問題なのだ。

 と、そのように考えて、不意に良子は答えを見出した。

 それは、悪魔的閃きによる、逆転の発想である。


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