間11 悪寒
午前最初の講義が始まっても勝太郎が現れず、良子は焦っていた。
勝太郎が講義を休むなど、良子と正道が知る限りでは一度も無かったことである。
「マサ、何か聞いてる?」
と良子は正道に小声で尋ねた。
昨日も指導力向上会の活動で剣道少年団と合同の稽古があった。
稽古では、勝太郎と正道は一緒にいることがほとんどで、私に知らされていないことが何かあるかもしれない、と良子は思ったのである。
「いや、昨日は何も言ってなかった」
と正道は小声で答えた。
正道は勝太郎の急な休講を、不思議に思っていた。
稽古に参加できないときは、必ず事前にその旨を伝える性分の勝太郎である。
大学を休むという事が事前にわかっていたなら、間違いなく勝太郎から僕か良子かに一言あるだろう。と正道は考えた。
「勝太郎が休むって何事?」
と良子は小声で呟いた。
既に教授が講義を始めているから、大きな声は出せないのである。
「僕は勝太郎が自主休講をする性分とも思えない」
と正道は小声で言った。
良子も正道の言葉には納得できたので、返事は頷くだけに留め、勝太郎が大学に来ない理由を考えた。
事前連絡がなかったという事は、勝太郎にとっては予定外の出来事があった、と考えるのが自然。
予定外の出来事とはなんだろうか、大学に来れないような理由があったはずである。と良子は考えてみたものの、良子には思いつくものがなかった。
「風邪でもひいたのかな?」
と正道が思いついたことを口にした。
季節はすでに秋に差し掛かり、近頃は気温も下がってきていた。
昨日、剣道少年団の稽古の締めにも、老齢の先生がうがい手洗いを徹底するようにと訓示していたことを正道は覚えていたのである。
ははまさか、勝太郎は風邪などひいたことがないと言っていたじゃないか、と良子は思ったが、ふと気が付いた。
生物学的に考えれば、風邪をひかない人間など存在しない。
勝太郎が今まで風邪をひかなかったからといって、これからはわからない、と口にしたのは私である。と良子は思った。
「あの馬鹿、風邪ひいたのか?」
と、良子は言った。
心配と怒りのせいで、良子の声は少し大きかった。
「馬鹿は風邪をひかない、と言いますがね。ですが今のところ、馬鹿はあなたです。講義を聞く気がないのなら、他の学生の迷惑になるので出て行ってくださいね?」
と講義をしていた教授が良子を見つめ笑顔で言った。
良子は羞恥心に耐えながら蚊の鳴く様な声で謝罪し、あの馬鹿、本当に風邪をひいていたら絶対に許さない。と決意した。
午前二つ目の講義が終わっても、勝太郎は姿を見せなかった。
昼食時である。
良子は自分の鞄に納められた勝太郎の分の弁当の重みを感じながら、正道と学生食堂に向かった。
あの件以降、良子は休日以外毎日勝太郎の弁当を用意していた。
「ねえ、マサ」
「なに?」
「勝太郎の家ってどこにあるか知ってる?」
と良子は尋ねた。
時間が過ぎて怒りはどこかへ行ってしまったが、心配は増すばかりだったからである。
「今から行く気?」
と正道は尋ね、良子は頷いた。
「そうか。でも住所は知らないんだなーこれが」
「本当、マサは役に立たない!」
おどけて言った正道を、良子は思わず大声で罵倒したのだった。
学生食堂に向かう他の学生たちが、何事かと思って二人に視線を向けた。
「良子も知らないくせに、よくそんな偉そうなことが言えるな」
「だって、知ってる。みたいな口ぶりだった!」
興奮しきりの良子を他所に、正道はニヤリと笑った。
「まあ、任せろ。わからない事っていうのは、わかってる人に聞けばいいんだ」
と正道は言って、学生食堂ではなく業務棟へと向かった。
「だから、教育学部三年の、新庄勝太郎という学生の、住所を、教えてください」
と正道は、学生課の受付担当者に向かって言った。
「だから、教えられません」
と、昼の休憩時間に入ろうとしていた受付担当者はうんざりした表情で答えた。
正道とのこのやり取りが、すでに三度目だからである。
早く昼食をとりたいに違いない、と良子は思った。
「ダメだ良子。こいつ日本語が通じないぞ」
と正道は言った。
受付担当者の額に青筋が見えるのではないか、と良子は血の気が失せる思いだった。
業務棟には、学生の個人情報を管理する学生課や就職課などの部署があって、良子にとっては馴染みの薄い場所である。
学生課では当然、勝太郎の住所情報も管理されているだろうから、そこで聞いてみよう。という正道の思いつきは、まあ悪くはなかったのではないか、と良子は思うのである。
悪かったのは聞き方と答え方に違いない。と良子は思った。
良子は、新庄勝太郎がどういう人物で、私たち二人が勝太郎とはどのような関係で、どうして住所を教えて欲しいのか、を可能な限り丁寧な言葉で説明した。
すると受付担当者は、本当はダメだけど、と前置きしてから大量のファイルが並べられた棚から勝太郎の学生情報が記入されているらしいファイルを取り出し、住所だけをちぎったメモ紙に書き出して、それを良子に手渡した。
良子は受付担当者に丁寧に礼を述べてから、業務棟を後にしようとしたのである。
「まって、君、指導力向上会の辻正道さん?」
業務棟を後にしようと歩き出した二人に向かって、受付担当者が声をかけた。
「僕の質問には答えないくせに、僕に質問するのか?」
と、正道は顔だけ振り向いて吐き捨てるように応えた。
僕が尋ねても答えなかったくせに、という思いが正道の胸中にはあったのである。
「マサ!」
「ぐっ」
良子は、もうやめて、と心から思って、正道の脇腹を指でつついた。
わざわざ昼食を後回しにして、要領の得ない要求をするばかりの正道を前にして、無視するという対応を選ばなかった親切な人に、これ以上迷惑をかけないで、と良子は思っていたのである。
「刺さったかと思った。わかったわかった。僕が辻ですが」
正道は不満そうな表情をしている良子から脇腹を隠しながら、受付に振り向いた。
「サークル活動の認可申請されてますね、覚えてらっしゃいますか?お願いしていた活動報告書類が、まだ提出されていないのですが?」
「は?」
「あなたが一年の時に、サークル活動の認可申請をしましたよね?一年間の活動実績報告を提出していただき、それから審査があって、本認可となると説明したはずですが、まだ活動報告が提出されておりません。書類を提出していただけなければ次の工程に進めないのですが」
大学のサークル活動には、大別して二種類ある。
一つは大学が公認する、公認サークル。
もう一つは非公認サークルである。
サークル活動を完全に個人の意思で行う非公認サークルは、公序良俗に反しない限りにおいて大学から何の干渉も受けないが、大学の設備や備品を一時的に借用したりすることが基本的にできない。
正道は、指導力向上会を公認サークルにしておいた方が、何か便利かもしれない、と考え、認可申請だけはしておいた事を思い出した。
結局、大学内で活動を行うことはなかったので、そのまま今まで忘れていたのである。
「もういいですよ、別に大学公認にならなくても困らない、ってわかったし」
と正道は答えた。
新しい人材を求めている訳でもなく、稽古場所に困っている訳でもない、そもそも公認を受ける必要性はなかった、と正道は思っていたからである。
「すみません、すぐに提出させます」
良子は、正道とは異なる考えを持っていた。
「いや、だからもう必要な」
「良いから!」
今後一切、正道が思い付きで行動しないとわかっているなら、公認だろうが非公認だろうが、良子も気にはしなかった。
しかし、正道が思いつきで行動しない保証はどこにもないのである。
「書類は家だし、今まで忘れてたから何も書いてない」
「なら今書類を貰って、ここで書きなさい」
「だって大学の体育館を借りる訳でもないのに、必要ないだろ?」
「必要だから、書いて」
正道は、説明、交渉、妥協やすり合わせと言ったことをしない。
正道が行う提案は、まず正道にとって利益があり、相手にとっても納得できるかできないかは別にして、利益がある。そしてそれを相手も当然即座に理解していると確信しているのが正道という幼馴染である、と良子は理解していた。
圧倒的に言葉が不足しているのである。
きちんと説明をすれば、相手が正道の提案を受け入れるか、断るか、という話にできるのに、正道は説明をしないものだから、何だこいつ、と不審がられ、話自体が上手く進まないのである。
そして、正道の事を不快に思った相手に謝罪をし、きちんとした話し合いをするのは、どうせ私なのだ、と良子は思うのである。
大学公認サークル。という肩書は、この時役に立つ。
大学が公認している、きちんとしたサークル活動である。という印象を無くせば、指導力向上会は名前からして何をしているのかも不明な、謎のサークルである。
手順を踏めば公認される筈なのに、指導力向上会は非公認サークルである。
まともな活動ではないのではないか、などと話相手に疑われてしまえば、色よい返事は望めないに違いない、と良子は考えるのである。
サークル立ち上げ時から一年間、準備のためにあちこちを駆けずり回る羽目になったのは、まさしく正道と、指導力向上会というサークルの信用の無さ故である。
認可申請中です、とすら言えなくなってしまえば、私が余計に大変になるのではないか、なら、さっさと公認にしてもらった方が良いに決まっている、という考えが良子の心の内にあった。
「なに?それとも忘れてしまって書けない?」
と良子は言った。
できるだけ正道を小馬鹿にしているような雰囲気を作り出して、である。
「は?覚えてるに決まってるだろ」
と正道は答えた。
生来負けず嫌いの気が強い正道であるから、煽れば火が付く、という事を良子はよく理解していた。
良子は、正道を馬鹿にするつもりは全くなかった。
こうすると話が早いから、そうしただけであるが、本心では褒められた方法ではないと反省する良子である。
もし、じゃあお前が書け、などと言われても、二年半に渡る活動記録など覚えていない私には無理な話、と良子は思っていた。
正道の質の悪い所は、見栄でも誤魔化しでもなく、本当に覚えている所だ。興味のないことはすぐに忘れるが、興味を持ったことは、どんな些細なことでも、それこそ一生忘れないのではないか、と良子は疑っていた。
自分よりもずっと頭の出来が良い正道を、都合よく利用しているような気分になるから、できるだけ正道を煽るようなことはしない事にしているのだが、今は少し、時間が惜しい。と良子は思ったのである。
正道は、早く昼食をとりたいと思っているに違いない受付担当者から白紙の書類を受け取って、すぐにすさまじい勢いで空白を埋める作業を始めた。
正道が記入している書類の完成までには時間がかかるだろうと判断したらしい受付担当者は、では、と一言だけ残して、カウンターに昼休憩と書かれたパネルを立て、立ち上がった。
「お手数をおかけしました」
と良子は軽く頭を下げながら言い、受付担当者は良子の方へ顔だけ振り向いて、ひらひらと手を振って、退室した。
良子にはその手振りと表情が、お前さんも苦労するな、頑張れ。と言ってもらえたような、温かい気分になったのである。
正道は一心不乱に書類の空白を埋めている。
日付を入れ、活動内容を記入する。それだけの作業だが、二年半分ともなれば、容易な作業ではない、と良子は正道を見ながら思うのだった。
「やればできるのに」
思わず口を突いて出た、と良子は言ってから思った。
「お前、最近言ってることが僕の母さんそっくりだぞ」
と正道が手を休めず答えて、誰がお母さんか、と良子は思った。
それと同時に、あの優しい正道のお母さんが、私と全く同じような苦労をしているのだと察して、少し悲しく、そして心強く思ったのである。
「じゃあ、頑張って」
「わかった。ま、僕にかかればこんな単純作業は一時間もあれば余裕だ」
私がここでやれることは何もない、と考えた良子は正道に声援だけを残し、メモ紙に書かれた住所を確認してから、学生課を後にした。
何の問題もなく目的の住所にあるアパートに到着し、勝太郎が借りているらしい一階の一〇二号室は、良子の目前にある部屋で間違いなかったが、良子は途方に暮れていた。
決してアパートの襤褸さ加減に驚いたわけでも、勝太郎の住居に対する無関心っぷりに呆れた訳でもない。
ドアをノックしても、ドアチャイムを鳴らしてみても、近所迷惑にならない程度の大声で呼び掛けてみても、勝太郎からの返事がなかったからである。
良子は、もしかしたらドアが開くかもしれないと思ってドアノブに手をかけてみるが、きちんと施錠されており、ドアが開くことはなかった。
つい先ほど会釈を交わした老婆が、さっさと掃き掃除をしている音が、良子をやけに物悲しい気分にさせていた。
せめて在宅か不在かを知りたいと思った良子は、アパートの裏手に回って、窓から室内を覗いてみることにした。
もし勝太郎が不在なら、急用で出かけているのだ、と自分を納得させて大学に戻る事ができると考えたのである。
触れば、がたがたと音がしそうな古い窓枠と、少し曇った薄そうなガラスに改めて驚きながら、良子は室内を覗き込んだ。
室内は暗かった。
時間はまだ正午から一時間も過ぎていない、太陽の明るさに慣れた良子の目で室内のすべてを覗き見るには、少し時間がかかった。
部屋中をざっと見まわして、何にもない部屋だ、と良子は思った。
最低限の水場には、まともな食事ができるとは思えない数の食器と、鍋が一つ置かれていた。仕切りすらない簡素な間取りのせいで、壁にまな板と包丁がかけられているのが丸見えである。
部屋の中は、小ざっぱりとし過ぎていてテレビもなく、小さな卓袱台と布団がやたらと目についた。物が少ないのは、らしいと言えば勝太郎らしいような気がする、とも良子は思ったのである。
収納は押入れが一つきりで、襖が開きっぱなしになっていて、布団は敷きっぱなし。何となく、勝太郎らしくないな、と良子は思った。
毎日弁当箱を洗ってから返そうとするような(面倒だからすぐに返せと良子がその場でふんだくるのだが)マメな男が、布団を敷きっぱなしにするだろうか。
毎日起きてすぐに、いそいそと布団を畳んでいる方がずっとらしいのではないか、と良子は思ったのである。
時間は正午過ぎ、こんな時間まで布団が敷きっぱなしなのはおかしい。もしや本当に寝込んでいるのではないか。と良子は考え、今度は注意深く敷きっぱなしの布団を見た。
「あ」
居る。と良子は思った。
窓を叩いて勝太郎が気が付くかを試そうとして、薄いガラスが割れるかもしれないと思った良子は窓枠に手をかけた。
良子は窓が開くかもしれないと思ったが、施錠はきちんとなされているらしく、窓枠がやかましく鳴るだけである。
音を立てても、勝太郎は気が付かない。窓も開かない。ドアも開かない。けれども、勝太郎は寝込んでいるのかもしれないと思った良子は、全身から血の気が失せるのを感じた。
「な、何をしているのかしら?」
箒を両手に握りしめた老婆が、良子に声をかけた。
緊急事態につき窓の破壊も辞さず。と覚悟を決めかけていた良子は我に返って、老婆に事の事情を説明する羽目になったのである。
勝太郎は、暖かい布団にくるまれて、ぼんやりとしていた。
たった今、目が覚めた所である。
「バイト」
と、なぜだか寝坊したような気がした勝太郎はつぶやいた。
大学生活も三年目ともなれば、生活のリズムはとっくに確立されていて、勝太郎は決まった時間に目が覚めるのである。
目が覚めたという事は、今は早朝に違いなく、まずは顔を洗って、支度をし、新聞配達のアルバイトに行かなければならない。と勝太郎は考えていたが、体がやけに重く感じ、起き上がることができなかった。
「何がバイトか、寝てろ馬鹿」
と良子が言った。
勝太郎が目を覚まして安心したことをきっかけにして、突然の事態に気が動転しすっかり消沈していた怒りが、良子の心の内で再燃してきたのである。
「でも新聞が」
良子の声が聞こえた勝太郎は、ベッドで横になったまま答えた。
「もう午後よ」
言葉が子供を諭すような柔らかいものになってしまったのは、きっと勝太郎の舌足らずな喋り方のせいに違いないと良子は思ったのである。
聞いているようで聞いていない、考えているようで何も考えていない。
勝太郎の焦点の合わない言葉を聞いて、良子の怒りは急速に萎んでしまっていた。
ベッドで横になり解熱剤入りの点滴を打たれている勝太郎は、どこをどのようにみても病人そのもので、まともに思考が回っていないような相手に怒りを向けていてもどうにもならない、と良子は考えていたからである。
「お医者様が言うには流感(※ここではインフルエンザのこと)じゃないかって」
「流感ってなに?」
「流行性感冒。風邪のひどい奴だって」
医者にかかったことがない勝太郎には、聞き覚えのない言葉だった。
良子とて流行性感冒について詳しいわけではなく、体力の衰えた老人や、子供などは、時に命を落とす危険がある。と、先ほど医者から説明を受けた際に、その名前と危険性を知ったのである。
「医者」
「ここは病院。部屋で勝太郎が布団から起きなくて、熱がすごくて、慌てて大家さんから電話を借りて家に電話してお母さんに車で来てもらって、急患で受診よ」
「病院」
「そしてここは勝太郎が入院する病室」
「入院」
「頭働いてる?」
単語をオウム返しするだけの勝太郎は、良子の目から見ても、尋常な様子ではなかった。
四〇度近かった高熱と、そのまま長時間気絶したままだったせいで引き起こされていた脱水症状。それらを緩和するための点滴は今も勝太郎のそばにあった。
すぐに回復するわけがない、と考えた良子は、勝太郎に事情を説明することを諦めた。
「わかんない」
「そう。じゃあ、また寝なさい」
今はとにかく勝太郎を休ませることを優先しよう、と良子は決心した。
「バイト、行かなきゃ」
「それはダメ」
「クビになったら困るし」
「じゃあ、私がアルバイト先に電話してあげるから、番号教えて」
「俺の鞄の中に手帳が入ってる」
「鞄はどこに置いてあるの?」
「押入れの所」
「わかった。きちんと連絡しておくから、あんたはゆっくり寝てなさい」
何よりも先にアルバイトの心配か、と良子は思ったが、今は勝太郎に何を言っても聞ける状態ではないのだからと割り切って、勝太郎が寝入ったのを確認してから、良子は病院を後にした。
良子は激怒した。
良子は巳代に車を廻してもらい、勝太郎の部屋で手帳と、着替えなどの入院に必要になりそうなものを適当に見繕って確保して、吉田家に戻ってすぐに勝太郎のアルバイト先に電話を掛けるために手帳を改めた所、アルバイトは五件掛け持ちである、と聞いていたのに、実際は七件も掛け持ちしていたからである。
「あの馬鹿、絶対許さない」
勝太郎のアルバイト先への連絡を済ませ、改めて病院へと向かう車中で良子は言葉を噛みちぎるようにして言った。
嘘をつかれたことが腹立たしかったのである。
「良子はなんでそんなに怒ってるの?」
と巳代が自家用車を運転しながら尋ねた。
鈍感すぎる娘に自覚を促す良い機会かもしれない。と考えたのだった。
「つまらない嘘をつかれたら誰でも腹が立つでしょう?」
と良子は言った。
「そう?嘘なんか誰でもつくじゃない」
本当の理由は、嘘をつかれたことではないだろうに、と巳代は思った。
「それで風邪ひいて寝込んだのよ!?馬鹿みたい!普段嘘なんかつかないくせに、自分の事はいい加減で、周りにいい顔ばっかりして!なに?電話先でクビにするだのなんだのって話なんか一回も出なかったわよ!みんな、勝太郎君は大丈夫?何かあったんじゃないかって心配してたんだよね、とか、仕事の事は上手く回すからしっかり休むように伝えておいて、とかそんな話ばっかり!自分の状況もろくに把握できないぐらい体調悪いのに目が覚めたら、バイト行かなきゃ、とか、あいつ頭おかしいんじゃないの!?自己管理もできないのに一人暮らしとか正気じゃない!」
勝太郎君の事を良く知っているなぁ。と巳代は内心で感心した。
そして、勝太郎君はそういう人か、と納得もした巳代である。
「なるほど、つまり良子は勝太郎君の事が心配な訳だ」
巳代は、要点を言うだけに留めた。
今、良子に何を伝えても、冷静に受け止めることはできないだろう、と考えての事だった。
「なんでそうなるの!?」
と、良子は巳代の言葉に噛みついた。
「例えば正道君が講義に出てこなくて、風邪で休んだんだと後で知ったとして、良子はそこまで怒るかしら?」
巳代は、良子がどのように答えるか、予想がついている質問をした。
「別に怒らないけど。だって風邪は、ひく時はひくものだし、マサだし」
良子は、私は勝太郎が風邪を引いたこと自体を怒っているわけではない。風邪は誰でも引くことがある。そんなことはわかっている。私が怒っているのは、勝太郎が普段はつかない嘘までついて、食費を切り詰め、風邪をこじらせ倒れてまで、アルバイトの事ばかり考えている所なのだ、と考えて、ふと疑問に思った。
「ほら、それはおかしいもの」
巳代は、良子の答えが予想通りなうえ、正道の扱いがぞんざいなのが面白く感じて笑いながら言った。
「なにが!?」
巳代に馬鹿にされたような気がした良子の頭の中から、先ほど浮かんだ疑問が霧散した。
「なんで同じようなことなのに、正道君には怒らなくて、勝太郎君には怒るの?」
「それは」
良子はすぐに反論しようと思ったが、言葉が出なかったことに驚いた。
言われてみれば、確かにそれはおかしい、と良子は自覚してしまったのである。
思わず巳代の横顔を見て、涼し気な訳知り顔でいる母に対して、良子は腹が立ってきたのを感じた。
私にもよくわからないのに、何がわかると言うのだ。と良子は思った。
「なんにでも理由があるのよね。良子にも勝太郎君を怒る理由があるし、勝太郎君にも何か理由がある」
「病気してでも働かなきゃならない理由って何なの」
「さあ?何かしら」
良子は、勝太郎の理由とやらを考えてみた。
勝太郎は生活に困っている訳ではない。
学費などの諸経費を差し引いても生活できるだけの収入があって、貯蓄の為に無理をしている。と勝太郎の口から、私は確かに聞いたのだ。と良子は思い出して、やっぱり勝太郎の行いが気にくわないし、納得できそうにない。と思うのであった。
巳代は、今の話で自分が怒っている理由ではなくて、勝太郎君の理由を気にするあたり、良子と勝太郎君は似た者同士に違いない、と思った。
「なに、私は怒っちゃダメなの?お母さんは勝太郎の好きにさせろって言いたいの?」
良子は考えるうちに、自分が頑固で狭量だから勝太郎の行いが気にくわないだけなのではないか、と思い至って、お母さんははそれを私に自覚させるために責めているのだろうか、と気になって尋ねた。
「怒って良いんじゃない?良子がやめさせたいなら、やめさせれば良いと思う」
と巳代は答えた。
「何なの!?お母さんが何を言いたいのか全然わからない」
良子には、巳代がどのようなことを伝えたいと考えているのか、さっぱり理解できなかったのである。
「良子は、どんな理由で、怒っているのかしらね?」
「またそれ?わかった。認める。認めます。私は勝太郎が心配だったから、その反動で怒っています」
良子は勝太郎を診察した医者から流行性感冒の説明を受けた際の衝撃を忘れてはいなかった。
勝太郎は老人でも小さな子供でもない、命の危険はほとんどなかった。という事は、医者が言うのだから、そうなのだろうと、良子は理解していた。
でも万が一、という事もあったはずである。もし今日私が気まぐれで勝太郎の部屋に行かなかったら?もしあのまま勝太郎が目覚めずにずっと気絶したままだったら?
勝太郎は命を落としていた可能性はゼロではないのではないか、と良子は確かに肝を冷やしたのだった。
そして勝太郎はすぐに目を覚ましたけれども、第一声はバイト、である。
肉体的な疲労もあっただろうし、栄養バランスの偏りも、原因の一つにはあるかもしれない。風邪は貰う時には貰うのだし、運が悪かったのも、確かにあったかもしれない。
自分が高熱で朦朧としているというのに、その原因の一つかもしれない行動を改めようともしなかった。そのことが一番大きな、良子が頭にきた理由である。
「あら、そうなの?じゃあ良子は、どんな理由で、勝太郎君が心配だったのかしら」
と巳代は言った。
「講義に来なかったから」
と良子は答えた。
わかり切った事だ、と思っていた良子の言葉には迷いがなかった。
「それは事の切っ掛けであっても、理由ではないでしょう?同じ状況でも正道君の所には行かないものね」
「心配して顔見に行くかもしれないでしょ」
「それ、行かないって言ってるからね。よく考えてみて?」
考えてみてと言われても、と良子は思った。
巳代は、もう一押しかな、と思っていた。
「今でもお弁当を毎日作って行ってるわよね?」
と巳代は良子に確認した。
良子は何も答えなかった。
答えるまでもなく、巳代は良子が毎日弁当を作る所を見ていたからである。
「勝太郎君は、もう改めるから弁当を持ってこないでくれ。って言わなかった?」
なぜその秘密を、と良子は思った。
良子は誰にも話していないし、昼食を共にする正道も、わざわざ人に言いふらすような性格ではない。
違うのだ、普段冷静な勝太郎が本当に困ったような表情をしていたのが何だか面白くて、私が勝手にしていることだからと言ってしまって、辞め時がどこかに行方知れずになってしまって、お弁当作りもなんだか楽しくて、私が倒れた時のお礼みたいなつもりもあって、勝太郎は節約が続けられるし、別にやめなくてもいいかなと思っていただけなのだ、と良子は胸中で言い訳した。
「それ、普通はしないことをしてる、って気づいてる?」
と巳代が言ったが、そうだろうか、と良子は内心で反発した。
少し早起きするのはすっかり慣れたし、少し家の食費は増しているだろうけれど、一食のお弁当分の食材費なんて誤差の範囲内だと思うし、それでもお小遣いから毎月お母さんにお弁当にかかる費用をざっくり概算して多めに渡しているし、調理だって手際が良くなってきたのが実感できて楽しい。そしてなんだかんだ言っても勝太郎は美味しいと言って完食してくれる。
それが良子の中では、当たり前の事になっていた。
「正道君、食事量増やしているんだってね?」
「うん、体作るのに必要だからって」
「正道君にはお弁当作ってあげよう、とは思わないの?」
「思わない」
「どうして?」
だって、わざわざマサにそんな事をしなくたって、勝手に好きなようにやるだろう。私が世話を焼いても無駄になる可能性の方が高い。と良子は考えたのである。
「なるほど、わかった」
と良子は言い、巳代はその言葉を聞き、大いに期待した。
次に娘が発する言葉を、万が一にも聞き逃してはならない、と巳代は姿勢を正した。
「私は、勝太郎の事を」
巳代の期待は、思わずハンドル操作をおざなりにしそうなほどである。
「放っておいたら死ぬかもしれない。と思っているんだ」
そして巳代は落胆した。
勝太郎君は野良猫か何かか、と内心で思う巳代である。
「勝太郎は一人暮らしで、近くに頼れる人もいないようだし、基本的にはきちんとした人だけれども、自己管理に関してはちょっと、いや大分信用できない所があると証明されたわけだし、なるほど、死にそうな人がいたら心配するに決まってる」
良子は一人で納得したように言って、助手席側の車窓から、代わり映えしない街並みをぼんやりと眺めた。
思うような言葉を聞けなかった巳代は、だから、何で死にそうだったら心配なの?という言葉も、きっと意味がないのだろうな、と考えて、運転に集中することにしたのである。
だから巳代は、助手席側の窓から目的もなく街路を見る良子の頬が赤みを帯びていることには、ついに気が付かなかったのである。
六万PVありがとうございます!
サムライフローマは百話の大台を、前回超えました(汗。
すべて、読んで頂ける読者様方の存在あってこその事です。
本当にありがとうございます。
早速で恐縮なのですが、執筆ペースが上がりません。
間章が終われば物語は終盤に入ると言うのに、中々結末までペースよく進めることができず、申し訳ないです。
タイトルにローマと入っているのに、今しばらく日本での話が続きます。
完結に向け、サムライフローマ、これからも更新してまいります。
お付き合いいただけたなら幸いに思います。




