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サムライフローマ  作者: いぬっころ
間章 新庄良一郎はこうして生まれた
100/122

間10 撃鉄

 

 最近、母が何かにつけて鬱陶しい。と良子は感じていた。

 二十歳もとうに過ぎた良子の反抗期は既に過ぎていたから、これは人間の精神の成長過程において必要な反発ではなかった。

 巳代は良子と顔を合わせれば、勝太郎君とはどうなの?という内容の、良子からすれば、仲良くしている。以外の答えがない質問を繰り返すのだった。

 母は何か別の答えを期待している風だ。と良子は感じていた。

 巳代は巳代で、うちの娘が鈍感すぎて放っておけない。と親心を発揮しているつもりである。

 その実、昭雄とはお見合い結婚で、いわゆる普通の恋愛という物を知らず、並ならぬ憧れだけを今日まで育んできた巳代である。

 そんな巳代の前に、今までは異性と縁遠い生活をしてきた娘の前に、昭雄も内心では気に入った同じ年頃の異性が、つまりは勝太郎が現れた。

 それも既に娘を思いやって自宅にまでやってくるような間柄であり、しかも夏祭りに出かけて娘が足を負傷してきたとなれば、恋の一つも始まるのではないか、と巳代は母として、一人の女性として、大いに期待を持ったのである。

 蛇足ではあるが、正道は吉田家から見ると、異性の括りには入っていないのだった。

 良子も、巳代が何を期待しているのかは、察していた。

 ゆえに良子は物は試し、と空想する。

 私と、勝太郎が、恋仲になる。


「そんなことある訳ないでしょ」


 と良子はこぼした。


「なにが?」


 と塩結びをとうに二つ食べ終え、手持無沙汰な様子の勝太郎が、あとは食器を下げるだけの状態にある良子に尋ねた。

 夏季休講明けからは学生食堂においても何も買い求めず、弁当持参が常になっていた勝太郎の昼食は、決まって塩結びが二つだけである。

 体つくりの為、と言って沢山食べるように努めている正道の昼食とは、ひどい落差があった。


「別に何でも。勝太郎、私最近思うんだけど、お昼ご飯それで足りるの?」


 以前までの勝太郎は、学生食堂のメニュー内でも比較的安価で、栄養バランスに優れ、ご飯のお代わり自由である日替わり定食を良子と同じく好んで食べていた。

 自分で握っているのであろう少し大きめの塩結びが二つあっても、到底満腹には至らない、と良子は予想したのである。


「足りないことはない」


 と勝太郎は答えた。


「足りないんでしょ」


 勝太郎の言葉選びに微妙な感情を感じとった良子は、自信をもって追及した。


「バイトで賄い飯を山ほど食わせてもらってるから大丈夫」


 と勝太郎は答えたが、勝太郎に何か後ろ暗い考えがある、と良子は直感した。


「なに?金欠?」


 勝太郎は、理由もなく食事を疎かにするような性分ではない事を、良子は重々承知していた。

 事あるごとに食事をきちんととっているのか、と良子に確認する勝太郎である。

 その本人が、いい加減な食事をするなんて、と良子は若干腹立たしく感じていたのである。

 勝太郎本人を見てもわからないが、話を聞けばまさに苦学生である勝太郎が、金欠でやむなく、と言うのならば納得できると良子は考えたのである。


「いや、金欠ってほどでもないけど、節約」


 勝太郎は、言い難い事を言わせられた、というような苦い表情で答えた。


「なんで?」


 良子は即座に理由を尋ねた。

 勝太郎の判断基準が、いわゆる普通一般から大きく乖離している場合があると、良子はよく理解していた。

 夏祭りの帰り道に、良子はいろいろなことを勝太郎に尋ねてみたのである。

 無数に転換した話題の内で、アルバイトは五つ掛け持ちしており、日曜は講義がないから沢山稼げて嬉しい。と聞かされた時の良子の衝撃は、初めてお姫様抱っこをされた時以上のものだった。

 良子が持つ常識に当てはめて考えれば、アルバイトを五つ掛け持ちし、講義がない日も働いている大学生、というのは普通ではない。それを人は苦学生と呼ぶのである。

 お前はいつ休んでいるのだ、と良子は思ったのだった。

 一人で学費や生活費などを賄っているらしい勝太郎は、それだけぎっしり働いていれば、控えめに分かりやすく試算しても社会人並みに稼いでいる筈である。

 金欠と言うほどでもない、と言いながらも、食費を切り詰める理由が良子にはわからなかった。

 もしかすると、何らかの理由で本当に生活が立ち行かなくなるような段階の金欠なのではあるまいか、と良子は疑ったが、勝太郎が嘘をつくとも思えなかった。


「運転免許の取得費用に、卒業後の新生活用に積み立ててた貯金切り崩したんだ。合宿の話が四月にでて、直ぐ八月にやるって決まっただろ?時間に余裕もあったし、ちょうどいい期間だなって思って。安い合宿とかも考えたんだけど、泊まり込みになると纏めて休み取らないといけないからバイト先に迷惑かかるし。普通に自動車学校に通うと確かに高いけど、泊まり込みのせいでバイトできないのと比べると、むしろ高い料金払った方が安上りだった」

「節約はその補填ってわけ?」

「うん」


 なるほど、しかしなぜ、と良子は思った。


「少しやりすぎじゃない?その理屈なら卒業までには充分稼げそうなんでしょう?わざわざ塩結びだけにする必要があるの?」


 何よりも健康が一番の資本である、と良子は思うのだった。

 規則正しい生活、十分な食事があって初めて、この得難い資本を維持できる。

 勝太郎は、アルバイトを五つ掛け持ちしていて、学業にも真剣に取り組み、サークル活動まで行っているのだから、規則正しい生活など望むべくもない。

 その上で食事事情まで改悪されてしまえば、健康を損なう可能性が高まるに違いない。

 健康を損なう可能性を許容してまで、まるで焦っているかのようにお金を節約する必要があるとは思えない。

 普段から生活には気を使い食事も十分にとっているのに、寝不足一つで倒れる私を見てみろ。と良子は内心で思ったのである。


「塩結びには、たまに梅干しも入れてる。贅沢だろ?」


 と勝太郎はおどけて言った。


「今日は入っていなかった様子でしたけど?梅干しが完全栄養食で、毎日入っているなら、納得してあげても良かったけどね。本当の所は?」


 良子は、本気で心配してやってるのに、ふざけるなよこの野郎。と内心で激憤したが、表情は飛び切りの笑顔で勝太郎に尋ねた。


「いや、なんていうか前まであったお金が今はないと思うと、ちょっと不安で」


 良子の笑顔から、恐ろしい雰囲気を感じ取った勝太郎は、少しひきつった様な、気が進まないような、複雑な表情をして真面目に答えた。


「それで、もし体調崩したらどうするの?」


 いざとなれば使える現金を持っておきたい、という気持ちは良子にも想像できたし、考えてみれば納得もできる。

 しかし勝太郎に、今すぐに無理をしてでも節約しなければならない理由は、本当の所ないのだと、良子は確信した。


「いや俺、今まで風邪とか引いたことないし」


 と勝太郎は言った。


「これからは、わからないじゃない」


 良子は本心から勝太郎の事を心配して、そう言った。


「大丈夫だろ、この食生活にしてからも特別不調は感じないし」


 勝太郎は、しばらくは粗食生活をやめるつもりは無かった。

 本当に急にお金が必要になってしまったら、俺はもしかすると山本夫妻から今も必ず毎月送られてくるお小遣いに、思わず手を出すかもしれない、という恐怖があったからである。

 そのような危険性がある以上、卒業までを目標に気長に貯める、という余裕を持ったは選択を勝太郎は選べなかった。

 勝太郎は、今まで郵送されてきたお小遣いを全額貯金しており、折を見てすべて返却する腹積もりだからである。

 しかし、アルバイトを増やすことは現実的に不可能だった。

 収入を増やせないのに、貯蓄のペースを上げたいと思えば、出費を減らすしかない。

 勝太郎の生活費用のほとんどが削減不可能な必要経費であり、自分の都合でどうにかできそうなのは、食費ぐらいしかなかった。

 勝太郎が勤めているアルバイト先の飲食店店長が気前の良い人で、山ほど賄い飯を頂けるのは本当の事だったから、勝太郎は栄養に関してあまり心配してはいなかった、という事も、勝太郎が粗食生活を始めた理由の一つである。

 何を言っても、勝太郎は粗食を止める気がない、と良子は察した。


「一応聞いておくけど、あんたまさか朝食も塩結び二つだけ、とか言わないでしょうね」


 良子は勝太郎の懐事情を一から十までよく知っている訳ではなかった。

 勝太郎が行いを改めないのであれば、強く言えるような筋合いでもない、とも良子は思っていた。

 だからこの発言は、少し悪くなりそうな気配があった雰囲気を一掃するために発した、良子なりの冗談であった。

 そんなわけないだろ、と勝太郎が返して、そう、なら良いのよ、仕方ないわね、と私が言えば、このお話はお終いである。と良子は思っていた。

 勝太郎は答えなかった。


「勝太郎君?勝太郎くーん?」


 たっぷり十秒は待たされたので、良子は笑顔で勝太郎に呼び掛けた。


「まあ、俺がやりたくて勝手にやってることだから、気にしないで」


 と勝太郎は言った。

 必殺のあなたには関係ないでしょう攻撃である。

 実際にそういうことを言っても不思議ではないような、家族や恋人といった特別な関係ではないから、良子には反撃する方法がなかった。


「ご、ちそうさ、までした。うっ」

「そう、そういう事を言うのね」


 良子の唸るような呟きは、体つくりの為に食事量を増やしている正道の言葉に覆い隠され、勝太郎には上手く聞き取ることができなかった。

 カチン、と良子の心の中で撃鉄(ハンマー)が上がった。




 翌日の事である。

 カーン。

 と午前最後の講義終了を知らせた鐘の音が、良子の心境的に試合開始の合図であった。

 真面目に講義を聞いていた者も、居眠りをしていた者も、等しく学食か、各々が具合の良い昼食スペースに向かって動き出した。

 指導力向上会の三人もその流れに乗り、学生食堂へと移動した。


「じゃあ、俺は場所取りしてるから」


 と言った勝太郎の後ろに、良子は付いて行った。

 正道は、勝太郎の発言を聞いて、すでに長蛇の列となっている戦場へと突撃した。

 やはり、食生活を改めるつもりが勝太郎()にはないらしい。と良子は確信した。


「良子は今日は弁当?珍しいな」

「ええ、今日はお弁当を用意してみたの、これからは毎日お弁当にしようかと思って」

「へぇ、料理できたんだ?」

「なに?できないと思ってたの?」

「いや、何となく、うん、ごめん。できないのかなって思ってた」

「別にいいけど、後で吠え面かくと良いわ」

「ごめんごめん」


 三人で座れそうな空席を探しながら、軽口の応酬をする二人であるが、その心境は全く違う様相である。

 勝太郎は、昨日の事など何も気にしていない。もう済んだ話だと思って忘れている。

 程よい空き具合の窓際席に、二人は腰を下ろした。

 二人とも弁当を取り出して包みを広げた。正道を待つことはしないのが指導力向上会の流儀である。


「どんなもんよ?」


 つい先ほどの勝太郎の言葉に、内心でひどく自尊心を傷つけられた良子は、堂々と弁当を披露した。

 良子には、こそこそと振る舞う理由が一つもなかった。会心の自信作である、むしろ見てもらわなければ困る。と良子は思っていた。

 勝太郎は塩結びの包みを剥がしながら、良子の持ってきた弁当を、言われるがままに見た。


「おお、手が込んでるな。美味そうだ」


 主食であるご飯、肉や魚などを使った主菜、野菜などの副菜。派手さはないが副菜多めの、栄養バランスに気を使ったことが見た目からわかる、良子らしい弁当だ、と勝太郎は思った。


「でもそんなに食べれるのか?」


 勝太郎は、良子が普段食べる量よりも、明らかに量が多い弁当を指さして尋ねた。


「はい」


 と言って、良子は弁当箱を勝太郎の前へと押しやった。


「なに?」


 勝太郎は、良子が何をしたいのかが、よくわからなかった。

 俺の前に寄越されても、良子が食べにくいだけだろうに、と思った。


「それは勝太郎の分。こっちのちょっと小さいのが私の」


 良子はもう一つ、明らかに勝太郎の目前に置かれた弁当よりも、小さな弁当を取り出した。


「は?なんで」


 と勝太郎は尋ねた。


「気にしないで。私がやりたくて勝手にしたことだから」


 良子は昨日から、このセリフが言いたくて仕方がなかったのである。




 今朝の事である。

 良子は常よりも一時間早起きをした。


「良子、良子、何作る?どんなのが良いと思う?見て見て!このクマさんハンバーグ、目がハートで可愛いわ!男の子相手なんだし、やっぱりお肉は入れないとね!おっきなクマさん焼いちゃう!?お弁当箱にどーんって!良くない?いいよね!?そうしましょう!」


 嫌に陽気だ。と思った良子は、台所でフルカラーのレシピ本を見ながらはしゃぐ巳代の言葉を、半分以下に聞いていた。

 巳代は昨晩、夕食の片付けも済んだ台所で、良子が何事か作業をしていた事に気が付いていたのである。

 我が娘は家事の手伝いを常からしてくれる、とてもよくできた娘だが、はて、なにをしているのか、まさかっ!

 と、巳代は良子の行いの真相を、すっかり察したつもりになっているのである。

 良子が手元に欲しかったのは、可愛らしい盛り付けや見た目の素晴らしいメニューが掲載されている洒落たレシピ本ではなく、栄養価を重視したレシピ本、もしくは栄養学の専門書である。

 可能ならばメニューごとに栄養価が記入されているような、一目でわかりやすい物があったなら良かったのだが、吉田家にそういうレシピ本が存在しないことは昨晩確認済みで、何を作るかも既に熟考し、朝の時間を慌ただしく過ごしたくなかった良子は、弁当作りの下準備を済ませていたのである。


「お母さん、一応言っておくけど、お母さんが考えているような理由ではないから。あと、何を入れるかはもう決まってるから」

「わかってるわかってる。お母さん邪魔しないから、見てていい?」


 何をわかっているのだろう、それは勘違いだ。と良子は思ったが、口よりも手を動かすことを優先した。

 巳代は、手慣れた様子で調理を開始した良子を、終始にまにましながら見守っていたのだが、弁当作りに集中していた良子は、そのことには全く気が付かなかったのである。




 勝太郎は今朝の吉田家で、そんなことがあったとは全く知らないのである。

 しかし、良子が自信にあふれた表情で言い放った言葉には聞き覚えがあるような気がして、勝太郎は数秒考えこんだ。

 そしてそれが、昨日自分が言った言葉と全く同じ意味合いであると、理解したのである。


「さあ、遠慮なくお食べ?」


 と良子が再び勝太郎に弁当を勧めるが、勝太郎が、はい頂きます、なんて簡単に納得するとは良子も思ってはいなかった。


「いや、でも」


 と勝太郎は否定の意味だけが伝わる短い語句を発したけれども、後に続く言葉はなかった。

 勝太郎は、状況を理解しきれずにいたのである。

 昨日、感じの悪い言葉を吐いたのは俺である。それに関して謝罪もしなかったのは、確かに悪かったかもしれない。

 だが、だからと言って意趣返しの為かどうか知らないが、手作りの弁当を渡されても対応に困るのだ。

 弁当だってタダでは作れない。お金がかかる以上は、この美味そうな弁当を良子の望むまま俺が頂いたなら、そのお礼を、俺は良子にしなければ筋が通らない。

 であれば、この弁当を受け取ってしまえば結局、貯金のペースは上がらないのだ。

 と勝太郎は考えていたが、上手く断る方法はさっぱり思いつかなかった。

 良子は、さながら恋する乙女のように淑やかにお弁当を渡すために昨日から準備し、早起きしたわけではなかった。

 良子は今日、勝太郎()に勝つために、お弁当(実弾)を用意をしてきたのである。

 勝太郎が考えそうなことなどは、何となくわかる気がする良子である。

 良子は、静かに息を吸った。

 良子は心の中で、昨日から上がりっぱなしの撃鉄を落とすため、引き金を引いた。


「いらないなら、捨てるわ」


 良子はトドメのセリフを吐いた。


「な」


 なんてことを言うのだ、と勝太郎は言ったつもりだったが、良子の言葉に聞き未だかつてない衝撃を受けたせいで、言葉が途切れた。


「だって食べないのでしょう?私は自分の分があるから食べきれないし、正道もきっと無理でしょうね。まあ勿体ないけれど、お弁当なんて日持ちする物でもないし、勝太郎が食べたくないというのなら、他に仕方がないでしょう?いいの、気にしないで、私が勝手に持ってきて、勝手に捨てるだけよ」


 良子は、早口でまくし立てた。


「昨日の事で気を悪くしたなら謝るから」


 と勝太郎は言った。

 食べ物には何の罪もない。

 その米も肉も魚も野菜も、懸命に育て上げた生産者がいる。

 それを一口も食べずに捨てるだなんてことは、何に変えても阻止しなければならない、俺が頭を下げて良子が納得するのなら、何度でも頭を下げる。と勝太郎は思ったのである。


「謝罪は結構。このお弁当は私が勝手に用意した物だから、勝手に捨てても、誰にも文句を言われる筋合いはないはずよね?」


 良子は勝太郎の言葉をばっさりと切り捨てた。

 良子が求めているのは謝罪ではなく、勝太郎の頂きますの一言である。

 まずは調子に乗って馬鹿なことを始めた勝太郎に、まともな物を食べさせることが良子の目的なのだった。

 昨日の勝太郎の発言や態度に関して良子が抱いていた怒りは、謝罪は結構、と言いながらも、勝太郎の狼狽えた態度を見て、跡形もなく、どこかへと流れて行ってしまっていた。


「さあ、遠慮なくお食べ?それともこのお弁当はゴミ箱行き?」


 と良子は最後通牒のつもりで言い渡した。

 勝太郎は、困惑し絶句していた。


「珍しい、僕を待っててくれたのか?」


 トレーに大量の食べ物を積んできた正道が言った。

 正道は席に座って、頂きますと言ってから、食事を始めた。


「ふう」


 と良子はこれ見よがしにため息をついて、勝太郎の前にある弁当箱に手を伸ばした。

 食べない物をいつまでも出していても仕方がない。という風に見えるようにである。


「まって」


 と勝太郎が言った。


「何?」


 と、良子は言った。

 内心では、笑いを堪えるのに必死である。


「食べます。食べさせてください」


 勝った。と良子は心の内で一人喝采を上げたのだった。


「いただきます」


 勝太郎は、おずおずと弁当に箸をつけた。

 勝太郎の口から時々小さく漏れる、ちくしょう美味いな。という言葉を肴にして、良子も弁当をつつき始めた。

 良子は、初めから、こういう方法で攻めれば、必ず勝太郎が折れて弁当を食べるであろうことは予想していた。

 だから、食べないなら捨てる、と言ったのはブラフである。良子も、そんなもったいないことはできない、と思っていた。

 しかしそのように言えば、勝太郎は必ず弁当を食べてくれるに違いない。という確信にも似た信頼が、良子の心の内には確かにあったのである。

 二度あることは三度あると言う。ならば一度も二度も同じだし、ともかく最初が肝心なのである。

 今日食べてしまった弁当を、明日はいらないと断れるだろうか、毒を食らわば皿まで、である。

 勝太郎が食生活を改めるまで、これが毎日続くのだ。

 と良子は、最も困難であった筈の最初の一歩(一食)を踏み出した勝太郎が、きれいに空にした弁当箱を見て、明日からが楽しみだ、と内心でほくそ笑んだのである。


「ふむ」


 正道は大量の食べ物相手に奮闘しながら、二人の様子を観察していた。

 勝太郎をいじめて良子がご機嫌だ。と正道は思ったが、口の中には食べ物が詰まっていたので、言葉にはならなかった。


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