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ここ数日の葵は少し落ち着いているように見える。
新勧の調子が良いのもあるが、考え方の変化が一番大きいのではないだろうか。
本人の精神的余裕というのは成功につながりやすい。逆に切羽詰まっていて思い悩んでいるような状態で成功などはありえない。
だから、私はこう言うのだ。
「やらなくていいことはやらない。やるべきことは手短に。」
それが心の余裕、ひいては成功にもつながる。
そんな当たり前のことを信条にしている私が何かを成功しているかと聞かれると怪しい。失敗こそ避けているものの大きな成功を掴むことには至っていない。
こういうタイプのやり方は慎重すぎると自覚はしている。しかし、神経質な葵にはこれくらいがちょうどいいと思うのだが、彼女は行動よりも先に頭ばかりが動き過ぎるみたいだ。損しそうな性格だ。
朝居と千夏ちゃんに関するフォローも考えるだけでなく、実際にもっと動くべきだと私は思う。
二人が昔描いた絵は見せてもらったが、入部して以降描いている現場を見たことがない。まだ遠慮してしまっているだけかもしれないが葵はそれを気にしているのだ。
私としてはまだ絵を描くような心の余裕がないだけではないかと思う。
少しずつ馴染んできているとはいえ五月にもなっていない。大学というものに慣れるだけで精いっぱいな時期にサークル活動まで手が回っていないだけなのではないだろうか。二人と美術専攻ではないため、感覚を保つために描き続ける必要があるわけでもない。
気になるなら葵が直接聞いたらいいじゃないか。「慣れた?」とか「自由にしていいんだよ。」とか言ってあげるだけのことでもいいのだと思う。
葵がやらないというのなら、副部長である私の仕事になってしまう。
やりたくないわけではない。ただ、手短に。
「どう?もう大学には慣れた?」
部室にいた朝居に聞いてみる。
「ぼちぼちですかね。」
曖昧な返事が返ってくる。
「まあ、そうとしか答えられないよね。サークルの方はどう?」
「部室に来るという事には慣れましたけど、まだ先輩方の顔と名前が完璧には一致しない段階ですね。」
「ちなみに私の名前わかる?」
「戸田純花先輩ですよね。さすがに副部長さんくらいは名前覚えてますけど。二回生の先輩とかが怪しくて。」
まあ、この段階で部員全員の名前を覚えていたら驚きだが。
「まだ会ってない人もいるでしょ。来週には顔合わせあるんだし、それまでに何人か覚えていたら上等って感じがするけどね。」
「そうですかね。」
少しの沈黙が挟まる。
私が聞きたかったのはそういう話ではなかったはずだ。
「サークルには慣れた?よく来てくれてはいるけど、あまり絵を描いてるところを見ないからどうなのかなって思って。まだ部室で絵を描くことってためらいとかある?」
直球勝負。
「いや、そういうわけではないんですけど。何と言いますか、まだ上手い人たちの中で描く勇気みたいなものが出なくて。先輩みたいな美術専攻の人のいる時には特に。」
「なるほど。みんな最初はそういうけど描いてたらそのうち気にしなくなるよ。別に美術専攻の人の方が必ずしもうまいとは限らないし。一定のレベルは保証されているだろうけど、私たちは美大生ではなくて美術教員になるためのコースなんだからずば抜けて上手いとかそういうわけじゃないと思うな。それに絵だけで大悪受験したわけじゃなくて、ちゃんとセンター試験も受けてるから、逆に言えば絵だけではやって行けない私みたいな人もいるわけだし。」
実技の方に配点が多めに振ってあるとはいっても、国立大であるため幾分か以上の学力は必要とされるわけだ。だから勉強もしながら、絵の練習を予備校に通ったりして行ってきた。その点で本当の美大生に比べると劣っていたりするのだ。
私の回答に彼は黙る。
「そんなに深く考えなくて大丈夫だよ。」
何も言わない彼の代わりに続けて話す。
「私も葵も他のみんなも新入生のことを大事に思っているからもっとリラックスしてほしいかな。まだ慣れなくて緊張するのもよくわかるけどさ。」
ちなみにここまでの言葉の半分くらいは私の言葉ではない。葵が私に漏らしていた心配事の代弁でしかない。
「ありがとうございます。なんか心配かけてしまったみたいで。」
「大丈夫だって、千夏もずっとそんな感じだから。新入生は毎年こんな感じだし、最初から馴れ馴れしかったり図々しく来るよりはこういう方がこちらとしてもやりやすいし。」
「芹沢はだいぶ慣れてるように見えますけどね。」
「そうかな?」
「そうですよ。僕とか部長とかにさらさらと話しかけたり、冗談を言ったりしてますし。」
それは朝居といる時だけではないかと思うがどう伝えたものか。それに半分冗談ではないと思う。
「千夏は私の高校の後輩なんだけど、照れてたり緊張してる時ほどよくしゃべる子だよ。どっちかというと素は寡黙な子だから、馴染んできたら黙々と作業するようになるよ。だから、あの子はあの子でリラックスできていないってこと。」
「先輩とよく話してるのを見かけるのはそういう関係だったんですね。」
「そうそう。だからあの子が馴染んできても、口数が減っても仲良くしてあげて。」
「別に仲が悪いわけではないですよ。同じ専攻ですから話す機会も多いと思いますし。」
「それなら安心。」
葵の心配事にも手を付けられたし、後輩の手助けもできた。だから安心。
朝居についてはもう少し別の心配事があるものの今はこれでいいのではないだろうか。
今回もやるべきことを手短にやれたかな。