8-3
いつからか部室の空気が変わった。
そんな大それた話ではないかもしれない。
変わったのは千夏と葵だけだから。
彼女たちは出会い方が悪かっただけで、相性の悪いようなもの同士ではない。むしろ、葵と千夏は似たようなところも多く、話せばきっと仲良くなると入部前から感じていた。
あの日、一層と険悪なムードに包まれた後、二人の間に何があったかは知らない。聞けば二人とも答えてくれるだろうが、その過程など気にしても仕方がない。
きっと朝居に関して何かしらの話をして、勝手に抱いていた誤解とかその他諸々を取っ払ったというだけだろう。想像に容易い。
本来ならば私がそのような場をもっと早くセットして、中を深めさせるべきだったのかもしれないし、いつもの私ならそうしていただろう。もっとも手短な方法はそれなのだから。
今回に限ってそうしなかったのは意地が悪くなったのか、皆の言うように面倒くさがりになってしまったのか、また別の理由なのかはわからない。
一つ言えるのは、結果良ければ全て良し。私のスタンスにはそれも含まれているという事だけ。
「あの二人っていつの間に仲良くなったんだろうね。」
缶コーヒーを飲みながら燈子さんは言う。
もう暑さが身を乗り出てきているというのに、どこで買ってきたのかわからないホットコーヒーを飲む姿はこの部室でよく見かける光景だ。
「どの二人のことですか?」
「千夏ちゃんと葵だよ。」
「初めからそんなに仲悪くない気がしますけど。というか、そんなに今仲良いですか?」
もらったトマトジュースの缶を机に置いてからそう答えた。
一限目が始まる前の部室には私と燈子さん以外の姿はない。そもそも、この時間に部室に来る人を他に知らない。
「まあ、そうなんだけどさ。今まで二人とも、どこか余所余所しかったというか苦手って雰囲気で接してたのに、ここ一週間は嘘みたいに打ち解けてるじゃん。」
「入部してから一月以上たちますから、そうなっても可笑しくはないんじゃないですか?」
「いや、可笑しいよ。理由ははっきりと言えないけど、不思議な感じ。ただ単に時間が経ったから仲良くなりましたって流れではない気がするの。歯車が急に噛み合って動き出したみたいな。」
「よくわかりませんが、燈子さんがそう感じるならそうなんでしょうね。」
私の知っている度会燈子という人は鋭い人だ。
人と人との間に流れる空気や機微を読むことが得意で、ちょっとした変化にも敏感だ。今回のように事情を半ば知っている場合には彼女の鋭さがよくわかって少し怖くもなる。
朝の誰もいない部室棟にゆったりとした空気が流れる。
「ところでさ、純花ちゃんさ。」
「何でしょうか?」
ソファーに座る燈子さんがその後ろの椅子にいる私に向けて、まったりとした声で言葉を投げる。
「富貴と付き合ったりしないの?」
丸裸の爆弾みたいな言葉を。
その唐突な言葉に口に含みかけていたジュースを噴き出しかけ、それを防ごうと無理に飲み込んだがために咽る。
背中を丸め、咳込みながら頭の中で意図不明なその言葉を反芻し、話の繋がりを考えようとしたが何もわからない。
「ごめんごめん。そんな反応されるとのは思ってなかったよ。てっきり、『はぁ?』くらで終わるかなって。でもさ、逆に気になっちゃうな。もしかして、富貴のこと好きだったりするの?」
私の背中を燈子さんの手がさする。
「違いますよ。燈子さんが意味わからないこと言うからびっくりしちゃっただけです。何が『ところで』ですか。前に置いてあった所もなにもないじゃないですか。」
言葉が出たのは席も落ち着いて、缶を机に戻した後だった。
「だって、富貴は純花ちゃんの描いた絵が好きなわけでしょ?なら、それを描いた本人のことを好きになってもおかしくないよね。純花ちゃんだって富貴みたいな絵に真剣に向き合う人嫌いじゃないでしょ。」
「とんでもない理屈ですよねそれ。むしろ、それだったら朝居が好きになるのは『少女』のモデルとなった人の方じゃないんですか?」
「それも一理あるけど、彼はそう単純な子じゃないんだよね。」
「私よりも彼のことを知ってて言ってるだとしたら、そっちの方が正しいかもしれないですけど。いきなり付き合うとか飛び過ぎてませんか?せめて『どう思う?』とかそういう話からでしょ。」
自分がいつもになく饒舌になっていることに気づきながら話す。
この問題は私だけの話ではないのだ。
燈子さんが「ところで」と言いながらもどこか根っこの部分で話が変わっていないことも、私を焦らせている要因。
この部室の椅子の不思議な配置のせいで燈子さんの顔は伺えないが、きっと笑っているのだろう。
「じゃあ、どう思うの?」
「少し変わった人だって印象ですね。『あの絵』の作者が私だって気づいた後も私にお礼言うくらいですから。」
「富貴らしいね。」
彼のことを名前で呼ぶとき、普段よりも声が柔らかくなる、本人には自覚がないかもしれないが、それは何を意味するのか。
背中を向けあって話すのが嫌になり、燈子さんの前、葵がいつも座っている椅子に座る。
「逆に聞きますけど、燈子さんは朝居と付き合ったりしないんですか?」
「ないかな。今更そういう感じでもないし、お互い本当に姉弟みたいな感覚でいるしね。」
「でも、朝居がこの大学に入ったり、同じように絵を描いたりって燈子さんへの憧れみたいなものもあると思うんですけど。」
もちろん、これは勝手な想像だ。
でも、少なくとも燈子さんを見る彼の目はそう語っていた。
「憧れというか、道標というか、親戚の中で一番年齢近いのが私だからそういう風にはなっちゃってるかもね。でも、さっきの言葉一つ違うんだよ。」
「さっきの言葉ですか?」
「うん。確かに私が富貴の勉強見たりして、彼はここに来たかもしれないけどさ。絵に関しては富貴が描いてたから私も描き始めたんだ。だから、絵に関しては一切私の影響はないってわけ。」
意外でしょ。と付け足してから笑う。
子供が離れていった親のような寂しさを含んだその笑みに二人の仲の良さを感じた。
「好きなんですね。」
「好き。でも―、いいや、だから、違うの。」
今まで聞いた中で一番柔らかい声。そして、優しい顔。
その余韻をかき消すように、一限目の開始を告げるチャイムが鳴り響く。
浮かべたその表情の中、何を想っていたのか。
きっと私にはわからない感情なのだろう。




