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顔合わせの翌月曜日の夕方、私はなんとなく部室へと足を運んでいた。
月曜日だから純ちゃんは来ないだろうし、いたとしても二回生の誰かだろう。新入生はもしかしたら朝居くらいは来ているかもしれないなとか、それなら千夏ちゃんもいるかもしれないなと軽く考えながら部室棟へと向かう。
単科大学であるK教育大学の敷地は総合大学と比べると広いとは言い難いものの、千名ほどの学生が通うには十分な大きさであり、各運動部がそれぞれの競技場を持ってもまだ余裕のある敷地を徒歩で移動すると時間のかかるものだ。講義を受ける建物と部室棟とは少し離れており、歩く速度が遅くも早くもない(と思っている)私が歩いて十分弱といったところだ。
下宿をしている学生や部室の遠い運動部、一部の文化部に所属するような学生は自転車で移動しているものの、学校に登録料年千円を払ってまで乗ろうという気が私は起きてこない。
それに駅から近い距離にあるこの大学に通っているとあまり自転車は必要がない。駅前も何かがあるとは言い難いものの駅前から離れても離れるだけ何もなくなって住宅街へと変わるだけである。それならば普通に電車で市街に出てしまった方が良いというものだ。
最初の頃は遠いと感じた部室と教室との距離も慣れたもので歩いているうちに到着してしまう。部室棟Cは特に教室から近いという事もあるが行くのが楽しみな場所は早くつくのだろう。
AからEまでの部室棟の中でもC棟は古い建物だ。学校自体が新しくはないのでどの建物もピカピカというわけではないがC棟はまだ戦後すぐに造られたという木造の部分が残っている。
もちろん建てられた順番に番号が振られているので築年数だけで言えば3番目なのだが、AとBの部室棟は改修工事がなされているため見た目は明るくきれいなのだ。
そんな古い建物の階段をゆっくりと上る。建物にはもちろんエレベーターもついているのだが、私はいつも階段だ。理由はない。ただ単に若者だからなんてことにしているが本当に何となくだ。ただのこだわり。それだけのこと。
ぼーっとしながら歩いて美術部の扉のまでたどり着く。三年も通った道だ、覚えていて当然。前に来ると中に誰かがいるのがわかる。まあ、誰かしらはいると思っていたことだ。驚きはない。
「お疲れ様です。」
いつ頃からか体に馴染んだこの挨拶をしながら部屋に入る。
グルっと見回してみて二人いることがわかる。本棚の前に七海、ソファーの上に和ちゃんという予想もしていなかった組み合わせだ。
「お疲れ。」
「お疲れ様です。」
各々が挨拶をする。
「七海珍しいじゃん。部室で間空けずに会うの何ヵ月ぶりってレベルじゃん。どうしたの?」
「どうもしてないけどさ。顔合わせ終わったけど、しばらくは顔出しておかないと新入生に覚えてもらえないってことが去年わかったから今年は積極的にアピッていこうかなって。」
「じゃあ、和ちゃんとももう話した感じ?」
「まだ少しだけ。何話していいかわからない。」
「最初は他愛もない大学についての話とか授業についての話とかそんなんでいいんじゃないの?」
「それやったら同じことを色んな人に聞かれるわけやろ。それは申し訳ないなって思って。」
「あぁ、それわかるかも。一回生の時とかこの話するの何回目だろって思う事とかあったもん。」
顔合わせが終わっていつも通りの画材だらけの部屋に戻った部室の真ん中のあたり、荷物置きと化しているテーブルの上に鞄を置き、私自身は小学校の理科室の椅子みたいな椅子に座る。少し低いが私はこれがお気に入りなのだ。実を言うとこの椅子、楽器らしいのだが座り心地が良いのでなんでもいい。
「だからといって美術についてあれこれ話すってのも変だし、そもそもそこまでの知識が私にはないからさ。」
「まあ、確かに名前もまだ覚えてないような段階で急に色々言い出したら『この先輩何なの?』って思われるかもしれないし。」
「ちなみに和ちゃんは私の名前覚えていてくれたけどね。ありがとう。」
「いえ、皆さんを早く覚えられるように頑張ります。」
急に話を振られた和ちゃんが本から顔を上げて返事をする。手に持っている本はおそらく技法所の類だろう。
「めっちゃいい子やろ。美人で慎ましくて先輩に対して丁寧とか好感度しか持てないわ。」
「七海が和ちゃんの何を知ってるっていうのさ。」
「見た目の可愛らしさに関してはもう語れるくらいには観察したで。」
「ただの変態やん。」
杉下和、確かにこの子は美人だ。それも十人に聞いたら十一人が美人だと答えるような、それほどの美人だ。放っておいたら同性からは嫉妬の対象にされるであろうほどに整った顔に細身の身体。これでもう少し体にメリハリがあったらとんでもない女の敵である。それを抜きにしても絵に描いたような美人だ。
ただこの子が今まで許されてきたのはその性格故なのだろうと短い付き合いでも感じる。自分を知ってか知らずか、大人しく謙虚、それでいて人当たりの良い。性格まで美人と来たら男も女も彼女を放ってはおかない。新歓でも色々と声をかけられたと言っていたが、結局入部したのはここだけらしい。
そう考えながら和ちゃんを見ていると顔を上げた彼女と目が合う。彼女は少し照れたように笑いながら首をかしげる。その動作だけで並の男を射抜けそうなほどの破壊力を持っていた。
「でも、確かに和ちゃんは美人だよね。」
「ありがとうございます。美人な先輩にそう言っていただけるととても嬉しいです。」
「葵も美人やろ。今でも正統派美人って感じやけど一回生の頃はもっと大人しくて、それこそ和ちゃんみたいな感じやってんで。髪も今の和ちゃんくらい長くて、染めてない黒髪やって、コンタクトが怖いからって眼鏡かけてたんよ。それにまだ大学に慣れてなかったのか大人しかったというかびくびくしていたというか、それこそあの絵の中の少女のようやってんから。」
「あの絵って隅に飾られてる絵ですか?綺麗な絵なのに隅っこに飾られててもっと目立たせてもいいのにって前に見た時に思ってましたけど。」
顔合わせの片づけが終わって部室の隅に再び飾られた絵を指して質問する。元に直す際に塔子さんが無理矢理真ん中の方に持っていこうとしていたのを止めて今まで通り端に飾ることになったのだが、そのいきさつは和ちゃんの知れるところではない。
「そうそう。『本を読む少女』って簡単なタイトルがついてる絵やねんけど、この前の顔合わせの時に由々さん―四回生の人が朝居君に質問してた絵がこれ。」
和ちゃんは本をソファに置くと立ち上がり、部屋の隅、その絵の前まで歩く。ただそれだけのことでも、背筋をピシッと伸ばして歩くと綺麗なのだと感じた。
「ちゃんと見るの初めてですけど、本当に綺麗な絵ですね。水彩画なのにリアルで、ここにこの女の子がいるみたいに感じます。」
「そういうところが評価されたって話だけどね。」
「この絵を描いたのも部員の方なんですよね?というか、この絵のモデルってもしかして部長さんですか?」
「私からは答えられないから葵どうぞ。」
それはもう答えなのではないだろうかと思いながらもキラーパスを受け取る。
「一応、この絵に描かれてる少女は私。でも、これって結構美化してあるから七海の話を真に受けちゃだめだよ。二年前の私もこんなに綺麗じゃなかったし、こんな物憂げな表情も作れないし。別に描いた人の腕が悪いんじゃなくて、むしろ上手だから本物よりも綺麗に描かれてるんだけどね。」
いくらモデルを請け負って飾ることも了承したからと言って、自分がモデルだと肯定することは恥ずかしい。描かれてるのが私だとわかっていてもこの絵の少女は美しく見える。ただ、そんな美化の中にもしっかりとモデルである私の面影を残しているのが上手なところで、それ故にちゃんと見れば私だと気づけるようになっている。
「そうなんですね。目とか輪郭とか部長さんそっくりだなって思ったんです。モデルにしてこんなに映えるなんてさすがです。まるで元々絵の中の人みたい。今の部長さんも美人ですけど、この頃の部長さんも違った美人だったんですね。」
「和ちゃん、それは君にも言えることだと思うよ。本当に座ってるだけで画になるし、絵にしても映えると思うんだけど。あの頃みたいなモチベーションがあの子にあったらモデルになってほしいって頼まれそうなくらいに。」
「この絵を描いた人ってまだ部にいるんですか?」
絵の前に立ったまま私の方を向いて尋ねる。
「いるよ。見えづらいかもしれないけど、絵の右下の方にサインもしてあるよ。」
和ちゃんが少しかがんで飾られた絵の右下を見つめる。
「何か書かれているのはわかるんですけど、筆記体読めないんでなんて書いてあるかわからないです。」
「確かに結構崩して書いてあるから元知らなかったら読めないかもね。」
「本人の許可なしで絵を描いたのが誰かは言えないけどね。一発で誰が描いた絵か当てられたら教えてあげる。ヒントは顔合わせの時にいた人。」
そういう約束になっている。私も同じ。私の許可なしではモデルが私だと断言してはいけないことになっている。ぼかすのはありかと言われると避けてほしいところではある。
和ちゃんが少し唸るように考える。答えにたどり着けるかどうかは五分五分だ。
彼女が答えにたどり着いたような顔をすると同時にガチャっと扉を開ける音がして一斉にみんながそちらを振り向く。
「お疲れ様です。」
それはあまり良いとは言えないタイミングで千夏ちゃんが部室に入ってきたことを知らせるものだった。




