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絵の中に在る  作者: 中野あお
0.好きな人
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日常

 画材の散乱した部屋、その一角にいつものように彼女はいる。誰が入って来ようと気にせず、ただそこでずっと本を読んでいる。その何とも形容し難い美しさは、俺だけでなく見る人すべてを釘づけにするものだ。

 そんな美しい彼女が俺の隣にやってきてはくれないだろうかと何度思ったことだろうか。隣にいてくれるだけでいい、何もしなくていい。


 しかし、彼女は一歩たりとそこからは動かない。

 いや、動けない。


 可哀想なことに彼女はずっと絵の中に閉じ込められていて出ることも動くことも話すことさえできない。初めて出会った時にはすでに彼女はその状態だった。

 もし彼女が動けたとしても、彼女は何も語りかけてくれないだろうし、手に持った本の方ばかりを見ていて俺の方を向いてくれさえしないだろう。

 それでも俺は毎日この部室に足を運び彼女に会いに行く。いつか彼女が出てこられる時を信じて待っている。


「また、そんな馬鹿なことをしているの。」


 いつの間にかやってきていたらしい部長に声をかけられ思考が中断する。気づかないうちに近くまで来ていた部長は俺と彼女の間に椅子を移動させて座った。


「好きな人をいつまでの待っているって素敵じゃないですか。」


 わかってはいるが、いつものようにとぼける。


「何回この問答を繰り返したら、その行為をやめてくれるんだろう。それとも私を悩ませるのが楽しいの。」


 部長がわざとらしく困ったようなしぐさをする。いつもならここで俺が黙って会話が終了するのだが、今日はなぜか俺の口から言葉が出てきてしまった。


「なにも部長が悩むことはないんじゃないですか。何も部長に害はないのですから。」


「珍しく変なことを聞くね。確かに害はないかもしれないけど、恥ずかしさはあるかな。たとえるなら、私の知らない所で私の知らない人に私のパンツを見られているような、そんな恥ずかしさ。」


「その例えではあまりピンとこないのですが。」


 率直にその例えの感想を述べる。部長に伝える気がないような口調にも聞こえるし、俺の知らない情報が絡んでるような気がした。


「他にも理由とか喩えとか考えたけど、理解されたら理解されたで恥ずかしいし、これ以上は特に踏み込んだこと言うつもりはないけど。他の例えも聞く?ギリギリのラインの話しかしないけど。」


「あー、どうしましょう。中途半端に話されると気になってしまいますけど、聞いてもわからないなら続ける必要はないですね。」


 そう告げると部長は椅子ごと移動する。


 俺はもう一度彼女を眺める作業に入った。椅子に腰かけ本を微笑みながら本を読む彼女、どんな本を読んでいるのだろうか、なぜ微笑んでいるのだろうか。何度もその答えを考えてみたが、彼女の美しさの前には理由はいらないという結論に至って終わるだけだった。


 そんな美しい彼女を眺めているだけではもったいなくなってきたので、鞄から筆箱と一冊のスケッチブックを取り出して彼女を描く。数日前から始めたことだ。

 彼女をいつもに増して注意深く観察する。輪郭、表情、仕草、滑らかさ。いつもしっかりと見ていても、実際に描いてみると技術の不足もあって彼女の美しさを再現することができない。


 休憩。

 鉛筆を置く。


 別に俺が絵を描くのが極端に下手だというわけではない。これでも美術部に入ろうと思えた程度には絵は描ける。しかし、今まで人を書く練習をしてこなかった。いや、いくら人物を描く練習を今までしていても、彼女の美しさを再現できるかどうかは怪しい。


 もう一度彼女を見る。彼女を絵に閉じ込めた人の技量がうかがえる。繊細で、丁寧で、それでいてどこか大胆な技量。

 座っていたソファに寝転がる。彼女について思いを巡らせる。彼女を理解することが彼女を描くことに繋がると思って考える。


 いつの間にか寝てしまっていたようで気が付くと、十七時を過ぎていた。まだ四月なので、部室のソファで寝てしまっても風邪をひくことはないが、変な体制で寝たせいで少し、腰が痛い。


「あぁ、起きたの。好きな人と同じ部屋でいつでも寝られるなんて、君はとても幸せな男だね。」


 まだ、寝ぼけているのではっきりとは見えていないが、声からすると部長だろう。というより、こんな冗談をいうのは部長しかいない。二時間ほどたっているのに、まだ部室にいるという事は何かしらの作品を描いているのだろう。


「部長は何を描いているんですか。」


「夏の展示会用の絵の下書きみたいなものだよ。部長だから二枚は出そうと思ってるからね。それに、ほら、三回生ともなるとテキトーな作品を出すわけにもいかないからね。」


「なら、俺はあと二年はテキトーに出していいという事ですね。」


「それを見られて恥ずかしくないならね。」


 そう言った部長は少し笑っていた。表情ではなく声が笑っていた。

 こうやって、いつものように部長としょうもない話をするこの時間は彼女を眺めている時間に負けず好きな時間だ。こういう時、このサークルに入ってよかったと思える。


「今日はもう、他の部員は来ないんですか。」


「どうだろうね。千夏(ちなつ)ちゃんくらいは来るかもしれないけど、この時期は活動日でも、例会以外には来ない人多いしね。君みたいな変わり者を除いてはね。」


 そう言い終えると部長は鉛筆を持ち、再び線画を描き始めた。なので、俺も鞄の中からもう一冊スケッチブックを取り出して、夏展用の作品を考えることにしたが、何を描けばいいのかわからなかった。アイデアやモチーフなんて芸術的な意味ではなく。


「部長、集中されているところ申し訳ないのですが、夏展のテーマって何でしたっけ。」


「What are you like? だよ。一回生には明後日の例会で伝えるつもりだったから、朝居はまだ聞いてなかったと思うけど。」


 ありがとうございますと言ってテーマについて考える。


 好きなものというのは難しい。Loveあれば恋する人を描けば良いが、Likeはあまりにも多すぎる。それを作品にして表すとなると限られてくるようでなかなか思いつかない。部内批評と修正を考えると作品に取り掛かるのは遅くとも六月下旬、つまりあと一か月半ほどは時間がある。なんとかなりそうだが、早く取り掛かるに越したことはない。


 好きなもの。彼女はLoveだからダメ。部長を描くのは恥ずかしい。読書は好きだが、それは絵にならない。

 思考が行き詰ったころ、ガチャっと部室の扉があいた。


「こんにちは。純花先輩しかいないかもと思ってましたけど、お二人はいるんですね。やっぱり、お邪魔でしたか。」


「いや、気にしなくていいよ。千夏ちゃんも来てくれて嬉しいくらいだよ。」


 五限目の授業が終わったのか、芹沢(せりざわ)が部室にやって来た。いつも思うが、彼女には量産型女子大生という言葉が似合う。

 そんな彼女は俺と部長がよく一緒にいるというだけで、色恋沙汰と結び付けて話をするような、恋バナが好きな女子大生といったところだ。最近はめんどくさくなってきて俺も部長も否定しないので彼女の中では確定事項として語られている。


「いいですねぇ、私も彼氏とかほしいなって思わされます。」


 彼女は俺たちを見ると、決まり文句のようにそう言う。彼氏とかというのは彼氏以外に何を含んでいるのか気になるが、経験上、彼女の一言一言を深く追及はしないほうがよいと知っているため何も触れない。

 そんな挨拶を済ませると芹沢は鞄を置き、それが自然とばかりに俺の隣に座った。


 俺の座っているソファーは二人で座るには少し肩がぶつかる程度のサイズであるのに、何も気にしないかのように座る。広いとは言えない部室にまだまだ、椅子も机も空きがあるにも関わらず。


「千夏ちゃん、なんでそこに座るの?」


 部長が反応する。演技がかった普段より少し低いトーンの声。


「たまには数少ない同回生と交流しようかと思いまして。」


「彼はそんなこと望んでなさそうだけど。」


 部長が持っていた鉛筆を置いて俺たちの方をしっかりと見る。


「そんなことないですよ。天邪鬼だから表には出してませんけど、私と交流したいと思ってますって。今もこうやってると私のことをすごく意識してるようですし。」


「それは本人に聞いてみたらわかるんじゃない?」


 いつものことだが、この二人は仲がいいのか悪いのかわからない。お互いが来るのを楽しみにしているようで、来たら来たでこのありさまだ。

 そして、たまにこのように俺を巡って争っているような寸劇をやってはいるが、別に三角関係というわけではないと思う。どちらからも二人だけの時には好意を示されたことがないし、他の部員が多くいるときはこのようなことはしてこない。


 二人が何をしたいのかはわからない。ただ、この会話を楽しんでいるだけのような、それでいて、どこか本気のようなよくわからないテンションで話す。

 それにしても、ここまで芹沢が近づいてきたのはさすがに初めてだ。女の子独特のいい香りというか、肩が触れた時の柔らかさというか、女らしさと言うか、そんなものが伝わってくるような距離だ。意識をするなといわれる方が難しい。


「ほら、何も言わないってことは嫌がってないってことですよ。」


「まだ、何も言ってないのに勝手に決めつけるのは良くないな。」


 このよくわからない会話と寸劇の時間は俺が好きな時間を大きく奪っていくものであり、どうも好きにはなれない。別に芹沢のことが嫌いだからというわけではない。普段の芹沢との会話はむしろ好きな時間だ。

 ただ、俺は相手の意図の著しく読めない事態が嫌いなのだ。


「どうしたの、千夏ちゃん。今日はやけに真剣になって。私をからかうだけならそこまで朝居(あさい)に近づく必要はないよね。もしかして、彼のことと好きだったりするのかな。」


 また、演技っぽいわざとらしい台詞を言う。しかし、いつもと違って、本気の怒りや不快の込められたような思い言葉だった。


「部長さんこそ、何を焦っているんですか。もしかして、まだ、彼氏とハグもしてなかったりするんですか。それで、先を越されるとか思って、取られるとか思ってヤキモチ妬いてるんですか。」


 返す芹沢の方もまくしたてるような、喧嘩を本当に売りに行くような口調だ。

 いつもにない緊張感が少しだけ漂う。彼女らの演技の成長に少し驚く。


 ピピピピッ、とアラームの十八時十五分を知らせる音が鳴る。これがいつもの寸劇終了の合図。本来は例会の日だけ、その開始時刻に鳴るようになっているはずだったが、設定を間違えていて毎日鳴るらしい。


 …おかしい、『ちゃんと活動を始めましょうか』といういつも台詞が聞こえてこない。それに芹沢も俺の隣から去る気配はない。妙な空気が流れ始めているこの部室で俺は何をすべきだろうか。


 その空気に拍車をかけたいのか、芹沢が俺の方に体を半分向けて、肩に手を回してきた。そして、抱き着くかのように俺の方に体重をかける。

 部長は何も言わずにただ、怒ったような表情でこちらを見つめている。

 一歩間違えれば爆発しそうな雰囲気の中、俺は何もできずにただ、女の子の柔らかさに意識を取られないように気を保つことに集中をしていた。


 誰も動かない。

 時間がゆっくり感じる。


 誰か部室に入ってきてくれないだろうかと願う。

 誰も助けが来ない。


「そろそろ、ちゃんと活動しましょうよ。」


 ふいに後ろから、副部長の声が聞こえた。


 それを合図に部長と芹沢がそれぞれ気を緩めるのを感じる。気配というよりも表情がそう感じさせるのだ。

 部長は元の場所に戻る。


「ありがとうございます。それにしても、いつからいたんですか。」


 ふいに緊張が解けたことへの安堵よりも、別のことへの驚きが先に出た。


「朝居が寝ている間に部室に来て、後ろの椅子にずっと座っていたよ。まさか、気づかなかったなんてことはないでしょ?」


 この人は一つ一つの動作が静かすぎるせいで存在に気づけない時が多いが、さすがに今回は静かすぎた。いや、気づけなかったのは芹沢に気を取られていたからだと自分に言い訳する。その前からいたらしいが、気にしない。


 それよりも気になるのは、この人がわざわざ止めに入ったという事だ。面倒くさいが口癖な副部長が止めに入ったということは、いつも通りの会話ではなかったという事だろうか。それとも、収拾がつかなくなった俺たちを見かねて助けてくれただけだろうか。

 なんにせよ助かったことには変わりはないので、あとで感謝を伝えることにした。


(じゅん)ちゃんがそういうなら、遊びはここまでにして活動でもしますか。」


 部長も安堵したかのような表情でそう宣言する。

 こうして、なんとかいつも通りの雰囲気に戻ってきた気がしたわけだが、このあとしばらく芹沢は隣からは離れてくれなかった。


 この時、もう少し考えていればよかった、

 日常は日常のまま、気づかないうちに、こじれていくんだって、あとから思った。

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