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短編小説

ニリンソウ


「そんなにゆっくり歩いてたら日が暮れちまうぜ」

「ごめんよ、でも、こんなに自由に外を歩くのは初めてなんだ」

「言われなくても知ってるよ」

 振り返ってみると、トーマの足の運びはさっきよりもずっと遅くなっていた。ちょっとした葉っぱの形、花の色、鳥の声、そんな些細なものに、いちいち気を取られては、立ち止まって、不思議そうに首を傾げたり、微笑んだりしているのだ。

 じれったくなった僕は、トーマの手首を強引に掴んだ。その手首があまりにも細くて、僕は思わず息を呑んだ。

「……早く行こう」

「あぁ、ごめんね」

 僕の動揺には一切気が付いていない様子で、トーマはいつも通り、全く悪びれていない様子で謝罪の言葉を口にした。

 

 トーマは神の子、らしい。

 その人形のような容姿からだけでも、「神の子」という異称がつくのは不思議ではない。しかし、彼には「神の子」と呼ばれる別の理由があった。

 彼の存在は天災に影響を及ぼすのだ。

 彼が泣けば雨が降り、彼が怒れば地震や噴火があちこちで怒り、彼が混乱すれば嵐が訪れる。どれだけ晴れ渡っていた日も彼が泣けば大雨になり、どれだけ荒れていた海も彼が眠れば鎮まり返る――そんな存在だった。

 トーマはそんな自分の力を、当たり前のことだと、思っている。幼い時から、美しい部屋に閉じ込められ、お気に入りの天使のガラス細工を眺めて、人形のように育ってきた、純粋無垢な彼は世間知らずだ。頭が悪い。

 

「ねぇ、」

 考え事を遮るように、トーマが声を発した。

「何」

 振り返らず尋ねると、拗ねたような声が返ってくる。

「腕が痛い。そんなに強く引っ張らないで」

 うるさいな、と言い返したくなるのを堪えて、僕はトーマを引っ張る力を弱めた。トーマはわざとなのか否か、引っ張り返してくるような力を込めながら、辺りを見渡しつつ進む。彼に引き返されている分、僕の足取りは重く辛くなる。

 人の苦労とかがちっともわからないんだ。

 僕はそういう人間が大嫌いだった。だから、トーマが研究室に連れていかれる前に、せめて、一度だけでも外の美しい景色を見せてあげてほしい、と懇願されたとき、反吐が出そうになった。他の人間に頼んでほしかったが、「子供のやったことだから」で許される人間が僕しかいなかった。僕はそういう人間が、というより最早、トーマが大嫌いで仕方なかったから、綺麗な場所に連れていくふりをしてゴミ溜めでも見せてやるかとさえ思ったが、母親の涙の浮かんだ目を見て、しぶしぶ承知したのだった。

 大嫌いだ、トーマなんて。トーマの周りの人間も大嫌いだ。みんなみんな自分勝手で、みんなみんな悲劇のヒロインきどりだ。

 

「この森を抜けた先に何があるの」

 トーマが興味津々そうに聞いてきた。

「綺麗なところだよ」

「どれくらい?」

「うーんと……」

 答えようとしたとき、頬に何か落ちてきた。あっ、と思って上を見上げると、やはり、鈍い色をした雲から雨粒が降ってきている。

「ほら! トーマがのんびりしてるから雨が降ってきた!」

「雨なんて。何か面白いことを言ってよ。それで止むから」

「君を笑わせるので必死になるくらいなら雨に濡れてやるさ」

「雨が好きなの?」

「そうじゃない」

「変だよね、君は」

「君に言われたくない!」

 地面がぬめりを増して、一層歩きづらくなる。薄暗い森の中を、トーマを引きずるようにして歩くだけでもつらいのに、これだとより苦しかった。

「ねぇ、腕が痛いってさっき言ったよね」

 すると苛立ったような声がする。その声に共鳴して雨が激しくなり、一瞬にして土砂降りになった。

「トーマのバカ! イライラするなよ!」

「痛いのに強く引っ張るからだ」

「君が歩くのが遅いんだよ! いいかげんにしろよな」

「君はいつも強引だよな」

「君こそいつもわがままだ」

 僕らはそうやって口喧嘩をしながら、森の中を駆け抜けた。流石に激しい雨の中では、トーマもいちいち立ち止まったりはせず、ちゃんと走ってくれた。それでも随分と遅い足だし、たまに躓いたりもするのだが、そこは僕も我慢して走った。

 

 トーマと口喧嘩できるのなんて君くらいだねぇ――定期的にやってくる研究者が困ったように僕に言った――でも少しは節度、というものを身につけてはくれないものかね。トーマが本当に怒ったらどうなるかわからないんだからね。君はもう、適当に聞き流して、適当にニコニコすることくらい出来る歳だろうに。


 その時は心底から腹が立って、その研究者に殴りかかりそうになった。節度というものを身につけるべきはトーマだ。変な力を持っているからって、ちやほやされて、大事にされて、何でもかんでも大目に見てもらって。腹が立つ。

 

「あ――」

 トーマが何か言おうとして、ぜぇはぁという息遣いへ変わった。体力の限界が近いらしい。まだそんなに走ってもいないのに。

「あと少しだから。頑張って」

 返事はなかった。手首を引っ張ってやると、今度は素直に付いてきてくれた。抵抗する気力もないのだろう。本当にお人形のような奴だ。

 

「ほら、あの木を越えた先」

 僕はそう言って、トーマの手を引き、もう片方の手で少し遠くの木を指差した。うん、とトーマが少し頷く。

 雨は少しだけ弱くなった。

 服の袖で顔を拭うが、袖も濡れているので、微妙な気持ち悪さを感じただけだった。身体が弱いトーマは、もしかしたら風邪でも引いてしまうかもしれない。そうしたら色々な意味で大惨事が起きそうだ。そう思うとどっと疲れがきて、その場に崩れ落ちそうになる。

 あぁ、やっぱりゴミ溜めを見せとけばよかった。

 そう思いながら、木の葉を掻き分け、枝を踏み降り、念願の場所に出る。

「ほら、」

 とだけ言って手を離してやれば、後はもう言葉は要らなかった。

 しばらく森を駆けた先に広がっているのは、小さく、真っ白な花――ニリンソウの花畑だった。一面が真っ白に染まり、ニリンソウが揺れている。

 とはいえ、雨が降っているから、晴れた日に比べれば、少々残念な景色ではあった。

「お花畑だ。初めて見た。きれい……」

 それでも、トーマは嬉しかったらしく、彼がそう言った途端、雨がぴたりと止んだ。普段僕に対して腹の立つことしか言わないトーマがそんな素直な感想を漏らしたのが嬉しくて、僕は顔が綻ぶのを抑えられないまま、肝心の事を言った。

「ただ綺麗なだけじゃないぜ」

「え?」

「ここは出逢いの場所なんだよ」

 きょとん、としているトーマの鼻先に人差し指を伸ばす。

「お母さんとお父さんの」

「……そうなの」

「そう」

「ここで出会ったんだ……」

「なんか不思議だよねえ。そこで出会ってないと、こうして僕ら二人はここでこんな風に花畑を見つめてたりなんかしてなかったわけだもの」

 研究者たちが血眼になってトーマの身体をいじくりまわすこともなかった、と内心で付け加える。

 トーマはそんなことには全く気付いていない様子で、「わぁ」と一つ、感嘆の声を上げた。

「奇跡だね」


 それはごくごく当たり前のことであった。

 花畑で会おうがゴミ溜めで会おうが、人間が二人出逢い、そして結ばれ、子供を産むことは、奇跡だ。

 だけど、トーマはそんな奇跡の一つを、心の底から嬉しそうに、ぽろりと口にした。

 そして、僕は突然眩しさを感じて、咄嗟に目を両手で覆った。からりとした風が吹き、どこからか歌うような鳥のさえずりが聞こえてくる。さっきまで辺りに充満していたじめじめした雰囲気が一瞬で失せたのを感じて、僕はおそるおそる目を開けた。空は雲一つない青空になっていた。真っ白な鳥が二羽、連れ立って青い空を気持ちよさそうに横切っていく。頭上に輝く太陽はぽかぽかとして優しく、僕の冷えた身体を暖める。さっきまで雨に打たれていたニリンソウは、太陽光に当てられてどことなく嬉しげに見え、花弁についた水滴が光を反射してキラキラと輝いていた。


「綺麗だね」

 トーマが嬉しそうに声を上げる。

「綺麗だ」

 僕は何気なく返事をした。自分が思っている以上にまぬけな声が出て、少しだけ笑ってしまった。

 するとそんな僕を見て、トーマも少しだけ笑った。

 そして僕らは顔を見合わせ、思う存分、声を上げて笑い合った。

 

 次の日、トーマは研究所に連れていかれることになった。

 

 見送りは母と父が行った。僕は自分の部屋で、明日の学校の為に、宿題をしていた。少しだけ鼻風邪を引いていた。朝に一瞬顔を合わせたトーマも、鼻をずるずる言わせていて、僕らは少しだけ口喧嘩をした。今日は朝から雷が鳴って、しかし、それ以上の大事になる前に、迎えの車が来たから、僕らは口喧嘩を止めた。雷は一度しか鳴らなかった。トーマが準備を済ませ、車に乗って、家を出ていくまでの間、僕はずっと部屋で宿題をしていた。

「泣いてるの?」

 扉を開けて、母が心配そうに尋ねてきた。

「鼻風邪だよ」

 実際そうだった。両目は乾いていたし、涙が出そうな予感もなかった。

「トーマはもう行ったの?」

「えぇ……酷い話よね」

 母は少しだけ責めるような口調で言ったが、僕にそれを言っても仕方がないとすぐに気づいて、うわべだけの笑顔を浮かべ、手に持っていた何かを僕に差し出してきた。

「何それ、花?」

「ニリンソウよ」

「ニリンソウ」

 受け取ってみて、しかし、僕は首を傾げた。

「ニリンソウなのに一輪しかないけど」

 ――ニリンソウというのは、一本の茎から二輪の花が生えている、つまり二輪草、なのである。それが最大の特徴であり、だからこそ名前にもなっているはずなのだけれど、渡された「ニリンソウ」は一輪だった。

「もう一輪は自分で持っておくんだって」

 母はそれだけ言って、耐え切れなくなったように、僕の部屋を出て行った。パタン、と扉の閉まる音を聞きながら、僕はニリンソウの片割れを見る。

 昨晩に摘んだのだろうか。それにしては、随分生き生きとしている。そこまで考えて、僕はふと確信した。この花は枯れないのだ。根拠はなかったが、不思議とそんな気がした。

 しばらく、その小さな花を見つめていると、かすかな雨音が聞こえてきた。窓の外を見つめると、細い雨が静かに降っていた。

 寂しがるなよ、と呟いた僕の声は雨の音と溶けて消えた。

去年の12月頃に書いたものです。気に入っているので、せっかくだし、と思って投稿させていただきました。

この兄弟の話を書こう、花畑を見つけよう…と思って、白い小さくて可愛い花で森の奥にたくさん咲いていそうなのを、と思って探したら、たまたま二輪草のことを知りました。この二人にぴったりで、小さな奇跡だな~と感じました。そういう点でも心に残っている作品です。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 花が意味を持つ小説もいろんな「愛」をテーマにしたものも好きですし、とても読みやすいのでまた読みたいなって思いました。この話好きです。
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