第65話 遺文
……暗い、暗い、真っ暗だ。何も見えない。何も感じない。
一体ここはどこなんだ? 何故ここにいるんだ?
何も分からないが、ただ歩き続けている。
「どこに行かれるのですか? ヒロ様」
不意に後ろから声をかけられる。
……ああ、この声、この口調。間違いない、彼女だ。
振り返る。そこには僕の予想通り、花の姫の名に相応しい可憐な少女――フローラちゃんが優しい笑顔を浮かべながら立っていた。
その姿が何故か嬉しくて、愛おしくて、でも悲しくて、僕は彼女の名を呼ぶ。
「フローラちゃ―――」
しかし、少女は言い切る前に踵を返し、軽やかな足取りで走り始めた。
「!? 待って! フローラちゃん!!」
その後ろ姿を逃したらいけない。見失ったらもう二度と戻ってこない。
そう感じた僕は彼女を追いかける。
どれだけ走っても、走っても、彼女との距離は縮まらない。それどころか、どんどんと離されていく。
闇の中へと小さな背中が消えていく。それが無性に恐ろしく、何度も彼女の名を呼ぶ。
すると、ようやく伝わったのか彼女はその足を止めた。
思わず安堵の息が漏れそうになるが、次の瞬間、僕はその息をぐっと飲み込むこととなる。
立ち止まった彼女の目の前には、いつの間に現れたのか、憎きタッカスの姿があった。その手には血に濡れた剣が握り締められている。奴は今まさにその剣を高く掲げ、彼女を斬り伏せんとしていた。
当然、その光景を見せられて黙っているわけにはいかない。
「フローラちゃん!! 逃げ―――」
少女を助けるために動こうとしたその時、突如手足を何者かに掴まれる感触が走る。いや、四肢だけではない。体中に蛇が這うようなこそばゆい感触が伝わり、指先一つも動かせない。
ほんの五メートル先に彼女がいるというのに、僕は何もできずに見ることしかできないのか……!?
焦燥に駆られ激しく抵抗するも、体は言うことを聞いてくれない。いくら叫ぼうとも、彼女にその悲痛な声は届かない。
そして今、目の前で剣が振り下ろされた。
―――息が荒い。部屋の気温が低いにもかかわらず、寝汗が煩わしい。心臓が跳ね上がるように脈動する。
仰向けの状態のまま目玉だけを動かす。ここは見慣れた自室。カーテンから覗く暗闇から、今はまだ夜中だとわかる。
先程の光景は夢か。そのことを理解すると、頭が冴え記憶が蘇る。
ああ、そうだ。彼女は、フローラちゃんは、もう……
「…………おえっ」
――――――――――
フルーランス王国王女フローラ=カロル・ド・フルーランスの葬儀は亡くなった翌々日に執り行われた。王国に住む多くの人々が彼女の死を悼み、数多くの花々を生前暮らしていた宮殿に手向けた。主を失った宮殿は色とりどりの花に飾られながらも、憂いに満ちていたという。
彼女の葬式には王族のみならず、かつて交流があった者も身分を問わずに集った。その中に僕の姿はない。
当然葬儀に招待はされたが、どうしても行こうとは思えなかった。最期の時まで近くにいたにもかかわらず彼女を死なせてしまった罪悪感もそうだが、彼女の死を認めたくはなかったのだ。もしも、彼女の青白くなった顔を見たら、冷たくなった肌に触れたなら、僕の中にある何かが音を立てて崩れ落ちそうだったからだ。
騎士団は犯行の手口からして、王女殺害の犯人を“殺人坊や”と断定。早急な逮捕のため、より本格的な捜査本部の設置を公表した。
設置された当日、僕は任意聴取のため彼らに呼び出された。今回の事件は何かと情報が足りない。現場証拠、目撃者、犯人につながる何もかもが。だからこそ、フローラちゃんと最後にあった人物として僕が呼び出されたのだろう。
確かに、僕は犯人の正体を知っている。僕が一度その名を呟けば、その真偽を問わず騎士団は動いてくれるはずだ。
だが、僕はあえてそうしなかった。“騎士団に任せる”なんて甘い考えは、奴がフローラちゃんに手を出したその瞬間から消えてなくなった。勇気は僕が殺す。誰にも邪魔はさせない。
騎士団の聴取には、あくまでその日起こった出来事をだけ伝えた。
聴取を終えた翌日、僕のもとにある一報が届いた。内容は“重傷であったアンネさんが目覚めた”というものであった。
フローラちゃんと共に勇気の被害にあった二人のメイド、そのうちの一人、アンネさんは幸運にも一命を取り留めた。しかしながらその傷は深く、下半身の不随と右目の失明、その他諸々の後遺症が残ることは免れぬらしい。
僕とユーリたちはアンネさんの見舞いのために、彼女が運び込まれた病院へと訪れていた。
彼女の個室の扉を開くと、ベッドの上で上半身を起こすアンネさんがいた。そして意外だったのは、その部屋にケイロンさんとお付きにジャンさんとライアさん、そしてエピーヌがいたことだった。
「ケイロンさん! エピーヌ! 何でここに?」
「私は見舞いだ。アンネ団長には新入り時代に世話になっててな」
「“元”団長です。今の団長はあなたでしょう、エピーヌ」
「これは失敬」
そう言って二人は笑い合う。アンネさんの姿は痛々しいものであったが、彼女の笑顔を見れて胸の奥に安堵の感情が湧く。
「俺たちは事情聴取だ。彼女は間近で犯人を目撃した重要参考人だからな。それより、お前たちこそどうした?」
「僕たちもお見舞いだよ、ケイちゃん。アンネさんの目が覚めたって聞いて、いてもたってもいられなくって」
ユーリはそう言いながら、入り口で突っ立っている僕を押し退けて様々な果実が入れられたバスケットを見せる。
その様子を見て、アンネさんは半分だけ包帯に包まれた顔に微笑みを浮かべる。
「お気遣い頂きありがとうございます。ヒロ様、皆様もどうぞこちらに」
「いえ。お邪魔でしたら僕たちは帰りますから」
「いや、お前たちも彼女の話を聞け。近々“殺人坊や”の捜索と逮捕を大々的に行う。その時に情報を知っている者が多ければ、何かと都合が良いだろう」
彼の口から発せられた言葉に、思わず唾を飲む。
“殺人坊や”……剣闘士タッカスの裏の顔にして勇気の本性。
やつに対してなにか情報を掴めるのなら僥倖だ。それに、これは聞かなければいけない事柄だろう。
全員が入りきるかどうかという広さの病室に一歩踏み込む。僕の足音に遅れて後ろから複数の足音がついてくる。狭い病室に来客が全員揃ったことを確認すると、アンネさんはゆっくりとその重い唇を開いた。
〜〜〜〜〜
あの日の夕方、彼が西から歩いてきたことは今でも鮮明に覚えています。雲の切れ間から覗く夕日に照らされた彼の姿は“怪人”と呼んで差し支えないものでした。
彫刻のように筋の深い筋骨隆々の身体。ゆらゆらと逆立つ髪。狼や熊を連想させるような瞳。そして何より、隠す気が微塵もない圧倒的な悪意。
私と私の妹――クライネは相手の感情を敏感に感じ取る固有能力を備えています。そのお陰で彼が敵であるといち早く察知することができました。それと同時に、彼が私達二人より断然強いことも。
私達の体は咄嗟に我等が主を守らんと動きました。護身用に隠し持っていた短剣を手に、溢れ出る恐怖を押し殺して。
「ここは私どもが足止め致します!!」「お嬢様はその隙にお逃げ下さい!!」
私達はフローラ様に逃げるよう促したのですが、お嬢様は恐怖のあまり動くこともままならない状態でした。
二人で足止めできる時間もそう長くはない。そう踏んだ私達はどちらかが彼女を連れ、そしてどちらかが残らなければならないと即座に理解しました。
しかし、それはどちらかは確実に人柱になるということ。死は免れない。
「アンネ!! お嬢様を!!」
先にそれを口にしたのは妹でした。
私は当然認めようとはしませんでした。けれど、妹の覚悟を決めたその瞳を見た途端、私は何も言えなくなってしまいました。
そうこうしているうちに彼はゆっくりとこちらに近づいてきている。私にこれ以上考えている余地はありませんでした。
私は彼をクライネに任せ、お嬢様の腕を掴み走りました。振り向かず、脇目も振らず、ただ広い公園の出口をめざしひたすらに走り続けました。
途中、私は女性の断末魔を聞いたような気がしましたが、それでもお嬢様を助けるために足を動かし続けました。
異変に気付いたのはすぐでした。どれほど走ろうと、どれだけ走り続けようと、一向に公園の出口に辿り着けなかったのです。私もお嬢様もその公園に行くのは初めてではありません。迷うなんてことはありえないのです。
しかし、その時は何度も同じ場所へ出てしまったり、通ったこともないような道を駆けていました。
ついにお嬢様の体力が切れ、件の剣のモニュメントで立ち止まったその時でした。
「逃げても無駄だぜ。特殊空間魔術“迷宮入り”。一度発動したが最後。俺が解除するか、この魔道具を破壊するまでこの公園から二度と出れねぇ、一生逃げ出せねぇ」
後ろから低い男の声が聞こえてきたのです。瞬間、私の脳裏には嫌な思考が幾つも駆け巡りました。全身から脂汗が溢れ出し、お嬢様の小さな手の平を握る手に力がこもるのを確かに感じました。それと同時にお嬢様の手が震えていることにも。
意を決し振り返ると、そこにはさも当然のように彼が立っていたのです。片手に例の魔道具と思しきペンダント型のアクセサリー、もう片手に使い古した人形のようになった妹を掴みながら。
血と肉の塊と化した妹の惨状に、その男の恐ろしさに、私は思わず絶叫しそうになりました。
しかし、私はそれを飲み込み、彼を打倒せんがために短剣を手に取りました。
彼はそんな私の姿をじっと見つめると、頬が裂けたかのようににっかりと笑いました。
「……素晴らしい。そうだ、それこそが。俺という圧倒的な恐怖に対面し臆してもなお、剣を取り抗おうとする、その姿こそが! 人間の美しき、素晴らしき、最も称賛されるべき美徳……“勇気”だ!!」
「一体何を……?」
「挨拶が遅れたな。俺は“七つの美徳”の一人、勇気。悪ぃが、ある目的のためにテメエらには生贄……いや、餌になってもらうぜ」
彼と話してみて、そこでようやく気付きました。彼に対話による相互理解は到底不可能だと。
対話など無駄。戦っても勝機などない。そのことを頭の中で巡らせるたび、何度絶望の淵に突き落とされそうになったか。
しかし、勝機はなくとも、お嬢様を逃す術ならある。彼の持つ魔道具を破壊すれば、この迷宮から解放される。あとは私が決死の覚悟で彼の足止めを行えば、お嬢様だけでも助かる。それしか道は残されていませんでした。
視線を彼――勇気に向けたまま、お嬢様に逃げるようにハンドサインを送る。お嬢様が私の意図に気付いていることを信じつつ、私は少しでも多くの時間を稼ぐため再び彼との対談を試みました。
「……餌、と言いましたね。それはつまり、私達が目的ではなく、他の誰かを誘き寄せることが目的だと」
「ま、そういうことだな」
「それでは、お嬢様だけでも見逃して貰えませんか? 餌というならば私と妹だけで十分でしょう」
「献身的だねぇ。だが駄目だ。そもそも標的はお前さんの後ろで震えているそのお姫さんただ一人。お前さんたちの場合は口封じと俺の気晴らしだ。勇気ある者との戦いはいつも、いつでも、何度でも、血沸き肉踊る! そして“勇気ある死”はそれ以上に尊い!!」
「……破綻者め……」
「そうかぁ? 誰でも憧れると思うんだがなぁ。英雄譚の主人公、その姿、生き様に」
「これ以上の問答は不要のようですね。私は“紅薔薇の騎士”の元団長、アンネ。この名にかけて、我が祖国に仇なす者を、何より我が主を脅かす者を許しはしないッ!!」
「……勇気ある者に偉大なる死を。勇気なき愚者に死の罰を。全ては正義に満ちた世界の為に」
決意を胸に、私は彼の懐へと飛び込みました。
その時です。私が心の恐怖を体験したのは。
それはあまりにも異常でした。
彼の皮膚はその下に数多の蛆虫でも蠢いているかのようにピクピクと脈動し、蝶の幼虫が蛹を経て成虫に孵化するかのようにその身は異形と化したのです。身体は筋肉と硬質化した皮膚の鎧に覆われ、右腕は全てを粉砕できそうな巨大な大剣となりました。
次の瞬間、その大剣が振り下ろされ、身体に強い衝撃が走ったのを覚えています。
〜〜〜〜〜
「―――その後の記憶は……すみません、どうにも朧気で」
「いや、十分だ。十分すぎるほどの収穫だ」
「お役に立てたのなら何よりです。しかし、これだけは言わせて下さい。彼は恐ろしく強い。私が抵抗しても傷一つ付けられないほどに」
場の空気はこれ以上ないほど静まり返っていた。
アンネさんの話から解った事は三つ。一つは例の連続殺人機“殺人坊や”の正体が勇気であること。二つ目は、奴は体を変形させる能力持ちであること。最後に、奴はとても強いということ。
「……元とはいえ、お二人は並の強さではなかったのよね? エピーヌさん」
「その通りだ、アリス殿。お二人は我が近衛騎士団の団長と副団長であった。今の私でも相手するには苦戦を強いられるだろう。その二人が正面から戦って完敗するなど……」
「残念ですが、これは事実ですエピーヌ。私達二人は万全の状態で戦って、そして負けたのです」
アンネさんの言葉に、一同は再び黙り込む。
なんとも重苦しい空気が病室を包む。誰もが放つ言葉を見つけあぐねていた。何を言ったとしても、それは無意味なものとして消えていくことを無意識のうちに理解しているからだ。
しかし、その中であろうと“彼女たち”は諦めの意思を心の中に宿してはいなかった。
「大丈夫! どんなにその勇気ってやつが強くても、皆の力を合わせたら絶対勝てる!」
「……ああ、その通り、その通りだ。このまま見過ごすわけにもいかない。やってやろう! 私達で勇気を斃すのだ!!」
ユーリとエピーヌが高々と自信に満ちた声を上げる。
人によっては『なんと無責任なことを』と思われるかもしれない。しかし、この二人が言うと、不思議と胸の不安が晴れていく。
流石は勇者候補の二人と言ったところか。彼女たちには人を元気付ける才能があるのだろう。暗い顔をしていた皆もいつもの明るさが戻っている。
「よし、良いこと言った! 勇者は言うことが違うぜ!」
「いや〜」
「それほどでも〜」
「そこの二人の言ったことに根拠など到底ないが、的は射ている。怪物のような相手であろうと人間は人間。数で圧倒すれば勝機は見えてくるだろう。そうと決まれば……」
ケイロンさんはジャンさんから外套を受け取ると、それを羽織りながら病室の扉へと近付いていく。
「お帰りになられるのですか?」
「ああ。聞きたい情報は聞けた。それに基づいて、俺たちは部隊の再編成を行う。お前たちも夜間の外出の際は必ず複数人で行動するように」
「分かりましたわ。それではお気をつけて」
ケイロンさん達が部屋を出る。
すると後に続くようにエピーヌも立ち上がる。
「私もここらでお暇しよう」
「エピーヌ、もう帰っちゃうのか?」
「随分と長居してしまったからな。それに、仕事が少々残っている。早く帰らんと、また王子にお小言を貰ってしまう」
「そっか、じゃあ仕方ないな。元気でな」
「そちらも。また今度会おう、ヒロ。それにユーリも」
「うん。またねー、エピーヌ!」
エピーヌはアンネさんと僕たちに会釈した後、少し小走りで帰っていった。
「そういや、エピーヌと面識あったんだな」
「まあね。勇者候補同士だし」
「ふうん、そっか」
「はいはい、お喋りは終わり。帰るわよユーリ」
持ってきた見舞いの品を病室に設置された机の上に置き、アリスはそう言った。
その言葉にユーリは不満の表情を曝け出して、当然のごとく意見する。
「ええー!? まだ来たばっかだよ!? もうちょっと居てもいいじゃん!」
「ダーメ。お話をするのはまた今度よ。……あ、そうそう。ヒロは残ってなさい。大事な話があるんでしょ?」
「なんでヒロだけー!?」
ユーリの抗議の声を適当にあしらいつつ、アリスは僕の心を見透かしたような顔で目配せする。
何でもお見通しか。流石は我が頭脳担当。なら今はその言葉に甘えさせてもらおう。
小さく首を縦に降る。僕の意思を確認すると、次にアリスはゴウラとクリスにも目配せする。二人もこれに了解の意を示すと、ユーリを宥めながら外へと連行していった。
三人が出ていったことを確認し、アリスは最後にアンネさんに顔を向ける。
「じゃ、そういうことですから、後はごゆっくり」
「ええ。お気遣い痛み入ります、アリス様」
「気にしなくていいですよ。それでは、また別の機会に」
手を軽く振り、彼女は部屋を後にする。
残されたのは僕とアンネさんの二人きり。先程まで狭く賑やかだった病室は、一気に閑静なだだっ広い空間に変わる。
僕は無意識にベットのすぐ近くにある椅子に腰掛ける。
僕の目の前には、包帯で身を巻かれ、腕から管を伸ばし、死に装束のような病衣を纏った、見るに耐えない姿の女性が横たわる。
思わず目を背けそうになる。だが彼女の宝石のような瞳に覗き込まれていることに気付くと、それさえも出来ぬほど体が硬直してしまった。
さて、何を言ったものか。……いや、言うべきことなどとうに胸の中で決まっている。しかし、どう切り出そうか、それを決めあぐねていた。
金魚のように口をパクパクとしていると、アンネさんはふっと笑い、ある一言を放った。
「今日は来てくれてありがとうございます」
……違う。僕は、感謝されるような人間じゃない。ここへ来たのも、ユーリたちに誘われたからだ。僕一人じゃ、来ようとも思わなかった。
だって、それは、怖かったんだ。僕の因縁に彼女たちを、フローラちゃんを巻き込んだこと。そして、守れなかったこと。それを弾劾されるのが、恐ろしかったんだ。
僕は立ち上がり、頭を深く深く下げ、用意していた言葉をぶつける。
「ごめん、なさい」
「……何に対して、謝るのですか?」
「気付いているでしょう。やつの、勇気の目的は僕です。僕を誘き寄せるために、やつはあなた達を傷付けた。あなたがこんな酷い目に遭ったのも、フローラちゃんとクライネさんが死んだのも、全て僕のせいなんです。赦してもらうつもりはありません。責められる覚悟もできています。ただ、謝らせてください。巻き込んで、ごめんなさい」
僕の謝罪に帰ってきたのは沈黙のみだった。
今、アンネさんがどのような表情をしているのか? 頭を下げているせいで分からないが、少なくとも安心できるような顔ではないだろう。
静寂が僕を苛む。だが、僕はそれを甘んじて―――――アイタッ!
頭頂部に衝撃が走る。思わず顔を上げれば、手刀を構えたアンネさんの姿があった。
「……え? これは一体、どういう……??」
「“オバカ”なことを考える子供にお仕置きしただけです。まったく……いいですか。今回の一連の出来事について、あなたが気負う必要はありません。それに、お嬢様をお助けできなかったことに関しては私も同罪です。あなたはこんな私を断罪いたしますか?」
「……そんなわけ……」
「つまりはそういうことです。私はヒロ様を責めるつもりはありませんよ」
アンネさんの顔は優しく笑いつつも、どこか哀愁漂うものだった。
そんな顔を見せられてはそれ以上何も言えなくなってしまった。
「言いたいことは言えましたか?」
「……はい」
「なら、次はこちらの番ですね。お手数ですが、その机に置いてある手紙を取ってもらえませんか?」
アンネさんは机の方に視線を送る。
視線の先にある机には、先程持ってきた見舞いのバスケット。そして、その横に封蝋で閉じられた上質な手紙が置かれていた。
立ち上がってそれを手に取り、アンネさんに見えるよう持ち上げヒラヒラと振ってみせる。
「これですか?」
「はい、それです。それでは、中身を読んでください。黙読で構いませんので」
僕は言われるがままに封蝋を無理やり砕いて開ける。
懐かしい香りとともに中から出てきたのは、美しい文字が書き連ねた可愛らしい薄い桃色の恋文だった。宛名には僕の名が書かれてある。
親愛なるヒロ様へ
まずはじめに、私自身このような手紙を書くことが初めてで、拙い文となりますことをお詫びします。
さて、話は変わりますが、私達が初めて会ったときのことを覚えておいでですか? あれは夏から秋に変わる季節でした。アンネとクライネとはぐれてしまった私の前にあなたは現れました。
あのときの私は知らない外への不安で押し潰れてしまいそうでした。あなたに助けを求めたのも、私がもう限界だったからだと告白いたします。
ですが、あなたは嫌な顔一つせずに、名も身分も知らぬ私に手を差し伸べてくれました。“困ったときはお互い様” あなたが言ったその言葉は、今も私の胸に刻み込まれています。
その時からでしょうか。私の心にあなたへの恋情が生まれたのは。月日を重ねる毎に、共にいる時間が一秒ずつ増えていく度に、あなたへの思いは大きくなっていきました。
私を助けてくれたあなた。エピーヌを救ってくれたあなた。強敵に挑む勇ましいあなた。強く、強く私の手を引いたあなた。そのどれもがひどく愛しい。
叶うならば、最期のその時まで私の隣にずっと寄り添ってほしい。勿論、様々な障害や壁が私とあなたの仲を阻むことでしょう。しかし、私は如何な壁を乗り越え、茨の道を突き抜ける覚悟です。
それほどまでに、私はあなたを愛しています。
フローラ=カロル・ド・フルーランスより愛をこめて
読み終えたと同時に、頬に熱いものが伝わる。落ちた雫が手紙を滲ませることにも気付かないほど、視界が歪む。
拭っても、それは止めどもなく溢れる。
「……あの日、お嬢様は手紙ではなく、自身の言葉で告白をなさるおつもりでした。その手紙はお嬢様が幾つかの恋文の中で最後に書いたものであり、最良の出来のもの。それをエピーヌに持ってきたもらったのです。……フローラ様は、あなたをお慕いしておりました」
少年は力なく膝をつく。大切な手紙が己の涙で濡れ、クシャクシャになってしまうことも構わず、まるで彼女がそこにいるように手紙を顔に寄せる。
病室には抑えた嗚咽が響き、いつしかそれは哀しき慟哭へと変わった。




