第53話 陰陽の双児宮
時は少し遡る。東の森では剣戟と銃撃の音が混じり合い響き渡っていた。
そして今、二つの銃弾が銃口から放たれる。
「……フッ」
だがそれを仮面の女、イルザは常軌を逸した身のこなしで避けてみせる。そしてすぐさま攻撃に移る。
短剣による素早い連続攻撃に翻弄されるアンジェラ。自身の武器で何とか耐え忍ぶものの、それも長く続かなかった。
手に持っていた銃が弾き飛ばされる。それによってアンジェラの胴が丸裸にされる。
(しまっ―――)
イルザはこれを見逃さない。
アンジェラが腕を戻すより早く小さな腹に強力な蹴りを見舞う。
「カフッ……!」
乾いた声が漏れる。
直後、アンジェラの子供のような体は後ろへ吹っ飛び、木の一つにぶつかる。
そのまま彼女は背中を木にもたれさせ、震える足に無理を言わせなんとか立ち上がった。
「ツッ……。中々良い蹴りなのです。それでもキッドちゃんには劣るのですけれど」
「お褒めの言葉として受け取っておきましょう。貴女もかなりの頑強さと素早さですね。面倒なので早々に死んでほしいのですが」
「生憎、“ハーフリング”は他の種族と比べ腕力が劣る代わりに、すばしっこさと耐久力には自信があるのです。そう簡単に殺せると思わないことなのです」
「そうですか。ではこれならどうでしょう? ―――グジュラ・グジュリ サバラ・カバリ ディルグィリガガンナハ!」
イルザが謎の言語を唱える。
すると彼女の手の平の上に暗い紫色の煙の球体が出現する。
「……“暗黒煙霧”」
彼女は仮面の奥からその球体に息を吹き掛ける。
吐息に押し出された煙は坂に置かれたボールのように最初はゆっくりと、そして次第に加速していく。
危険を察知したアンジェラは体にむち打ち、回避行動を取る。しかし、あと少し間に合わなかった。
煙が彼女の左足を包む。
瞬間、アンジェラは苦悶の表情を浮かべ、隠すことなく叫びを上げる。
「アアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!!」
聞くに耐えない甲高い悲鳴。
痛みにもがく様は誉れ高い聖十二騎士であることを忘れさせ、代わりに見た目相応の幼女のそれを想起させる。
「どうです? 皮膚が爛れる感触と鋭い針で串刺しにされる感触が同時に襲ったように感じるでしょう?」
「ッ……ク。こ、これは禁じられた呪法……いや、“闇魔導”か!?」
「ご名答です。四大属性のどれにも当てはまらない、原始よりの属性“闇”。魔法の祖となる属性です。その性質は未知、永遠、そして破壊と負。貴方達、光の当たる空間でしか生きられない者達が禁忌とした属性魔導です」
この世の始まりは光と闇であった。その中で産まれた人類は光を善しとし、闇を悪しとした。
闇は未知。無限にも思える深淵である。
それを探究することは、強力な力を得る代わりに心も闇に染まるということ。心を闇に染めた者は神に仇なし、光に生きる者の敵となる。
そのような危険を孕んだ魔法を人々は忌避した。
「闇魔導は使用すること、いや、その詳しい概要を記すことさえご法度だ。それ故、とうの昔に喪われたもんだとばかり思っていたんだがな。……てめえ、一体どこでそんな魔導を覚えた?」
「魔界です」
「……中々オモシロイ冗談だ。ピエロ辞めちまえ」
「それも宜しいかもしれませんね。他に良い仕事はご存知で?」
「ああ、ピッタリなのが一つ。“囚人”ってのはテメエにお似合いだ。三食昼寝付きだしオススメだぞ?」
「申し訳ありませんが、三食昼寝くらいはうちでも付いていますので。……さて、このくらいで時間稼ぎは十分でしょうか?」
「……ああ。テメエが話し上手なお陰で、なッ!!」
アンジェラが二丁の拳銃を構え、引き金を引く。
二つの銃口は特大の炎を吹きながら銃弾を打ち出した。
彼女が話している間に袖の下で装填した銃弾は特製のマグナム弾。
通常の火薬の代わりに高濃度の火の魔石の粉を大量に使い、且つ弾頭にも同じ火の魔石を使うことで殺傷能力を高めた一発だ。
初速は通常の弾の比にならないほど速く、弾着時には爆発を引き起こす。貫通力、殺傷力ともに申し分ない一品である。
彗星の如き弾丸のその威力たるや厚さ十五センチの鉄板にも風穴を開けるほどだ。
その彗星が今、炸裂する―――!
轟音が耳の奥に鳴り響く。爆炎が視界を覆う。硝煙の匂いが鼻を刺激する。
目の前には大きな焚き火のように轟々と燃える火柱。イルザの姿は炎と黒煙に遮られて確認できない。
(……私が今持てる中でも最強の二発なのです。殺す気で撃ったのですが、これでも生きていたらもう打つ手がほとんど無いのです)
炎と煙が消える。……否、消えたのではない。闇に飲み込まれたのだ。
何もない空間にポッカリと開いたその割れ目に炎と煙が吸い込まれていく。
そして一分もしないうちに赤と黒は全て暗黒に呑まれ、残ったのはその暗黒とイルザのみとなった。
「今のは流石に焦りましたよ。直撃していれば私もただでは済まなかったでしょう」
「その割には余裕綽々じゃねえか。もう勝った気でいるんじゃねえだろうな?」
「ええ。実際に、勝利の布石は置き終えましたので」
イルザはそう言ってアンジェラの足元を指差す。
指した先には紫色に妖しく輝く魔法陣がアンジェラを中心に描かれていた。
「いつの間に!?」
「貴女が隠れて弾を換えている間に、私も少々仕掛けさせて頂きました。どうやって張ったかは企業秘密ということで」
「チィッ―――!」
「逃げようとしても遅い。“暗黒天球”!」
魔法陣が発動する。魔法陣から泥とも煙とも取れる障壁が出現し、すぐさまアンジェラを半球の中に閉じ込める。
半透明だった天球は夜の帳をおろしたかのように暗闇に覆われ、中を確認することは不可能となった。
直後、中から叫び声が響く。先程より大きく、そして悲痛を帯びた声はその天球が消え去るまで続いた。
――――――――――
そして場面は現在へ。
アンジェラはボロボロの身体を無理に起こし、両手の拳銃をイルザに向けている。
対するイルザも短剣を構え、殺気を惜しむことなく発していた。
「……正直驚きですよ、双児宮の騎士。先程の攻撃を受けてもなお立ち上がることができるとは」
「言っただろ? 俺達“ハーフリング”は銃に頼るほど力や魔力のステータスが低い代わりに、堅さや魔法への耐性は高いんだよ。つまり、この程度の闇魔導で倒せると思うなってことだ」
「そのようですね。この技は私のとっておきだったのですが……残念です。残念ついでに貴方達の種族への認識も改めましょう。“ゴキブリ並みのタフさとすばしっこさを持つ種族”だとね」
「……へえ? 俺の種族を馬鹿にするたぁいい度胸じゃねえか。なら今度は出し惜しみせずに全力で潰させてもらうぜ」
「どうぞ。まあ、たとえ全力で挑もうとも貴女では敵いま―――」
その瞬間、イルザはあることに気が付く。
その視線はアンジェラの手元へと向いている。
「貴女、もう片方の銃はどこへ?」
「「気付くのが遅えんだよ、バカヤロウ」」
直後、イルザの前後から声が飛び込む。
咄嗟に振り返る。そこにいたのは前方のものと全く同じ貌の幼女の姿だった。
その幼女の手には見失っていた筈の拳銃の片方が握られていた。
危険を予知したイルザが飛び退こうとした瞬間、幼女が引き金を引く。
乾いた音と共に撃ち出された銃弾は彼女の肩をほんの少し抉り取った。
肩から鮮血を流しながらイルザは二人から距離を置く。そして相手の姿を再び凝視した。
それでもやはり結果は変わらない。二人は完全な同一人物。違うことを敢えてあげるなら、纏う雰囲気が違うことだけだろうか。
「……なるほど、“分身”ですか」
――――――――――
「―――分身?」
「ああ、そうだ。通称“陰陽の双児宮”ことアンジェラ・ツウィンの固有能力は分身、“二重複影”だ」
森を駆ける馬の上でユーリとケイロンはそのような会話をする。
二人を含めた騎馬隊は巨巌竜へと向かうため全速力で走っていた。
「お前が危惧した通り、アンジェラさんは聖十二騎士の中でも弱い部類に入る。そもそもハーフリングは冒険心や勇気はあっても、人間と同等以下の力しかないからな」
「それじゃあやっぱり今すぐ助けに戻らなきゃ!」
「待て、まだ話は途中だ。確かに彼女は弱いが、それでも聖十二騎士の一員だ。そう簡単にはやられない」
その言葉を聞いてユーリは焦燥に駆られた表情を少し和らげる。
それを確認してケイロンは話を続ける。
「あの人は力もなければ魔法を扱う魔力もない。あるのはそれを補うためのタフさと唯一の攻撃手段である銃、そして……」
「さっき言ってた分身能力だね。でも分身したところでステータスは同じなんだよね? それのどこが強いわけ?」
「銃は剣や弓、魔法と違い、当てることができれば当人の力に関係なく一定のダメージを与えることができる。とはいえ、高レベルの人間やモンスターなら躱されたり、そもそも銃弾が通らないことは多々あるがな。そこで例の分身だ」
「あ、そうか分かった! 分身して二人になれば攻撃力が二倍になるんだ!」
「違う。それならまず銃を二丁持っている時点で攻撃力が二倍になっているだろ。アンジェラさんが分身するのは、敵を撹乱し追い詰めるためだ。
我々騎士は大体人間相手の任務が多い。特にギャングとの抗争に首を突っ込んでいるあの人なら余計にな。人間どれだけ鍛えようと、音速で飛んでくる小石をまともに受ければその体に穴が開く。攻撃が通らない心配がないのならあとは当てるだけだ」
「えーと……つまり?」
「当てるために分身するんだ。彼女の分身には二つの役割がある。近接で相手を引きつける役と狙撃で敵を牽制する役だ。一人が銃に付いている刃で近接戦闘に持ち込み自前のタフさで時間を稼ぐ。そしてもう一人が正確な射撃で敵の動きを封じ、戦闘している敵の隙を撃ち抜く。分身同士には感覚が共有されているため、寸分の狂いなく息を合わすことができる。
陰と陽双極の戦い方、これ以上ないほど完成された“コンビネーション”、これが“陰陽の双児宮”であるあの人の強みだ」
――――――――――
舞台は戻って東の森。
戦況は先程と一転してイルザが押され始めていた。
(クッ……! 一人から二人に増えた程度と侮っていましたが、これは中々に手強いですね……!)
飛来する銃弾を紙一重で躱し、迫り来る斬撃を皮膚を裂く直前でいなす。
しかしそれでもイルザの褐色の肌に傷が増えていく。
「どうした? どうしたぁ!?」
「先程の威勢はどこへ行ったのです!?」
「このっ……!!」
アンジェラの攻撃を無理矢理にでも弾く。
それにより彼女に大きな隙が生じた。
「おっ?」
(今……!)
イルザが短剣を逆手に持ち替え、アンジェラの胸へと振り下ろす。
それに対してアンジェラは不気味な笑みを浮かべていた。
(こいつ、何を?)
アンジェラが頭を横へ傾げる。その先にはもう一人の彼女が両手で銃を構えていた。
近接戦を行っていた彼女はあくまで陽動。自身の体を使って視界を阻む幕となっていたのだ。
もう一人の彼女が銃を撃つ。弾丸は音速を超えイルザに向かう。
既に攻撃のモーションを起こしていたイルザはこの反撃に対処できない。為す術なくその腹部に小さな風穴を開けた。
「グアァッ!!」
如何な戦士であろうと、腹に穴を開けられて平然としていられる者は殆どいない。イルザも同様だ。
彼女は短剣を手放し、声を殺しながら銃創を抑え蹲る。
それに対して、アンジェラは二人とも彼女の頭に銃口を突きつける。
「グッ……貴女への認識を再度改めましょう。分身による無間の連続攻撃、お見逸れしました。そしてその連携、元は一人の人間とは言え、余程の信頼がないと成せない技とお見受けしました」
「なーんか勘違いしてねえか? オレは元は一人の“人格”。一人に対して連携も信頼も無いだろ」
「私はよく間違われるのですけど、“二重人格”ではなく“二重性格”なのです。思考も感覚も同一のものを使用しているのです。それは分身しても同じなのです。どちらかといえば“分裂”なのです」
「……そういうことですか。それなら先程の戦闘にも納得が……クッ!」
イルザは肩を揺らしながら大きく息をする。時に身を捩らせて自身の痛みを表現する。
この様子だとこれ以上の戦闘は不可能だろう。
「見たところ、既に戦闘不能のようだな。闇魔導を使う恐ろしさに反して、身体は柔なんだな」
「“オレ”、一度戦った敵とはいえその言い草はないのです。さあ、イルザ。これ以上抵抗せず大人しく捕まると言うなら命までは取らないのです。投降するのです!」
「“私”の裏を返せば、抵抗すりゃその頭は潰れた柘榴みてえになるってことだ。そんな夢見の悪いことはゴメンだから、オレとしても投降してくれりゃ助かる。さ、どうする?」
「……私は―――」
その時、地を揺るがす轟音が走る。
轟く重低音は氷河が崩れ落ちるような、はたまた大瀑布から流木を伴って水が落ちるような自然の大きさを感じさせた。
そのような音を前に、アンジェラは覚えず視線を音が聞こえた方に向ける。それがいけなかった。
「なんだ。巨巌竜が鳴いたのか」
「もう巨巌竜があんなに近く……。早く助太刀向かわないと」
「……! “私”! イルザは!?」
「! しまったのです!」
彼女達の感覚、視覚は同一のものを使用している。それは視界が二つあることと同義だ。
しかし、それでも死角は発生する。特に同時に同じ方向を向いていたら尚の事だ。
二人が視線をイルザのいた方向に戻す。
そこには裂けた空間の中に無限に続く闇と、そこに首まで入り込んだイルザの姿があった。
「怠慢ですね、双児宮の騎士。私の上司が見たら即刻怒られますよ」
「チッ! この……!!」
“オレ”と呼ばれたアンジェラが数発銃弾を撃ち込む。
しかしそれよりも速くイルザは闇の中へ隠れてしまった。
放たれた弾は彼女に掠ることなく闇の沼の中に飲み込まれた。
それでも彼女は諦めず、否、腹の虫が収まらないのか銃を撃ち続ける。
既に裂けた空間は戻り始め、数秒もしないうちに闇は完全に消え去った。
「“オレ”! もう無駄なのです! 彼女は、イルザはもう逃げてしまったのです」
「……チッ。悪い、オレのミスだ」
「いえ、二人同時に目を離してしまったのが原因なのです。……反省するよりも今はケイロンちゃんの助太刀に行くのが先決なのです。一度一人に戻るのです」
「あいよ」
二人が一人になる。
戻ったアンジェラは指を咥え、高い指笛を鳴らす。
鳴らし続けて暫くすると、彼女の愛馬であるポニーが森の奥から現れた。
ポニーはアンジェラに擦り寄り、甘えるように『ブルルッ』と鳴く。
「よしよし。よく逃げていたのです。さ、それじゃもうひと頑張りしてもらうのです!」
アンジェラはポニーに跨り走り出す。
その行き先は巨巌竜ただ一つ。覚悟を胸に更に走らせる。
多くの者が剣をとり、戦場は一層激しさを増す。
その誰もが眼に敵を写し、戦場を駆け、力を振るう。
“巨巌竜を打倒する”、その唯一の目的のために―――。
――――――――――
巨巌竜頭部。そこでは二人の男、ヒロと節制が戦っていた。
ヒロは“黒漆甲”を発動し漆黒の武者姿で幅広の短剣を振るう。
これに対し、節制はその小太りな体型に反して身軽に跳ね回り、鞭を縦横無尽に操ることで攻防を仕掛ける。
二人の力量はヒロがやや劣るか。レベル差や経験は勿論、武器のリーチ、身のこなし、その他諸々において節制の方が一歩上回っている。
ヒロが勝っている点を上げるとすれば、膂力と体力のみだろう。その二つを持ってしてここまで節制に食らいついている状態だ。
「……いい加減しつこいですネェ。大した力もないのニ、まだ諦めないのですカ」
「これ以上続けたくないのなら、大人しくその“貪食の紐”とかいう鞭を寄越して捕まることだな!」
「お断りでス。それにしてモ、アア、鬱陶しイ。その諦めない姿勢も鬱陶しいですガ、何よりそのヨロイが鬱陶しイ。影魔導の応用ですカ。鞭で跡をつけてもすぐに再生すル。これでは操ることもできなイ」
節制が零した不意の一言に、影の兜の奥のヒロの瞳が何かに気付いたように光った。
「もしかして……その鞭による洗脳の条件は鞭の跡を付けることか? 鞭に刻まれた無数の極小の“ルーン”を判子みたいに押し付けることで発動するのか!?」
「ほウ? 既にこの鞭についてかなり調べたようですネ。……そうカ。いつか試験用にと野盗共に渡したことがありましたガ、その時の試作品を解析したわけですカ。これはこれハ、ワタシも単純なミスを犯したものですネェ」
「答えろッ!!」
「そう猛らないで下さイ。エエ、アナタの言う通りですヨ。この鞭でルーンの跡をつけれバ、アラ不思議、その者の意思とは関係なく身体を操れるようになるのでス。因みニ、この巨巌竜グラン・ガイアスには約千五百のルーンを刻み付けてあります。そのお陰デ、ほらこの通リ!!」
節制がその場で鞭を振るい、地面と見間違えるような巨巌竜の頭に叩き付ける。
直後、『ズブッ!』というような音が聞こえる。
ヒロはその音がした方を向く。そこは自身の腹部だった。
ヒロの背中から脇腹にかけて岩の槍が貫いている。
血の染みが広がると共にじんわりした痛みと生温かさが傷から広がっていく。
その光景にヒロは叫び声を上げることもできず、水滴が落ちるように僅かな声を零し掠れた呼気を吐く。
節制が再び鞭を振るうと岩の槍はヒロの腹から引き抜かれる。
同時に鮮血を撒き散らし、彼は倒れた。
「ウッ……カ、ハ………」
〔しっかりしろヒロ!! 傷は私の影で塞ぐ! 気をしっかり保て! 絶対に死ぬなよ!!〕
「……ぁ……ぅぅ………」
ヒロは既に虫の息。
それもその筈。彼の体からは多くの血が流れ出していた。
更には腹に大きな穴を開けられている。その痛みは相当のものだろう。
霞のような意識を痛みに苛まれ、血の水溜りに身を浸す。
その中でヒロは微かに、消え入りそうな声を発する。
「……ぐれ、ん……」
〔ヒロ! しっかりするんだ! おい! ヒロ!!〕
「今回……マジで、ヤバイ……から。たの……みが、ある」
〔何だ!!? 頼みとは一体―――ッ!!? 君、まさか……!?〕
「ああ……僕は………」
彼の命は風前の灯火。これが最後の決断にして、一か八かの賭けになるだろう。
その決断とは―――
「……人間を辞める」
「……オヤオヤ。案外呆気ないものですネ。天帝竜を率い勇猛にワタシの前に立った割にハ、どうにも実力が見合わなかったよウ。
……さテ、死体に話しかけても無駄というもノ。無駄はワタシの最も嫌うとこロ。早々に騎士共を蹴散らシ、都を落とすとしましょうカ」
節制は踵を返し、前方に広がる騎士団の群れ、そしてその先にある霞かかる帝都キャメロスを睨む。
既に彼の頭からはヒロのことなど消えかかっていた。
その時だった。
…………ザリッ
地を踏みにじる音が聞こえる。
その音に反応し、節制は首が捩じ切れるかのような勢いで振り向く。
そこには、先程まで確かに満身創痍のはずだったヒロが立っていた。
影の鎧は既に解かれ、その姿は顕になっている。
その様相はただの少年だったときと何か違う。
纏うオーラは少年、人間のものとはまるで違う。それは異形の化け物を思わせる。
そして何より、先程貫かれた腹が何事も無かったかのように塞がっていた。これは明らかに異様だ。
「アナタは……?」
節制が思わず問う。
それに反応して、彼は顔を上げる。その顔は到底人とは思えないものだった。
額には小さな二対の角が生え、大きく見開かれた黒い目には爛々と紅い眼が輝き、目元の隈取はより恐ろしく変容し、口は耳に届きそうなほど裂け、そこから覗く歯は虎や獅子のように鋭く尖っていた。
その姿は人と似た化け物、“鬼”と形容するに相応しかった。
鬼は節制の質問に答えるべく、口を開き声を出す。
「俺は、ただの村人だよ」




