第121話 希望の罪/徳
エレーナ・イヴァノヴナ・アレクサンドロヴァには人生において許せないものが二つある。
一つは自身を侮り、正当に評価しない愚か者。
そしてもう一つは、自分自身の不出来だ。
最も美しく、最も気高い存在。それがエレーナが自身に下す評価だ。
だからこそ、自身に触れるものは自身が認めたものでなければならないし、そしてそれに触れる自分自身もその存在に見合う者でなければならない。
故に、自身が認めた者が敵であった、なんてことは許されない。
裏切った人間は当然として、そんな人間を引き込んだ自身の判断が許せない。
今、自身の目の前にいるのは、そんな自身の過ちそのもの。完璧なはずの自身の人生に落とされた一点の染み。
それを、エレーナは許すべくもなかった。
「イナーヴァ……!!」
「イナバ、でありんすえ」
目前の裏切り者は己の名前を訂正する。そんなことは至極どうでもいい。
今、重要なのは、目の前にぶっ飛ばすべき敵がいて、手元に自身の制御下にある狂戦士がいるということだけだ。
要は―――
「バルザーク! イナーヴァを轢き潰しなさいッ!!」
バルザークの背中から飛び降りながら、エレーナが命を下す。
狂戦士は獣の如く吼え猛り、爆発のような脚力でその場から飛び出す。その姿はまるで砲弾のよう。
肉の砲弾はあっと言い終わる前に、イナバの眼前に迫る。
(勝った―――!)
「―――鈍い」
……まるで、すり抜けたかのように、イナバはバルザークの背後に飛び上がっていた。
滞空していたのは僅か一瞬。それでもその一瞬が、ふわりと浮かんだ薄い羽根が地上に落ちるまでのように、ひどく長く感じた。
そして彼女の着地と同時に、バルザークの肉体から血飛沫が飛び散る。
「っ!? バルザーク!」
なんだ、何が起こった?
バルザークは紛うことなく最強の英雄。怪物レベルの能力値を持つ怪物殺し。それは武闘祭やこれまでの戦闘から見ても明らか。
それが、なぜ……っ!?
「よほどの死闘をしてきたようでありんすな。武闘祭の時ほどのキレがない」
「っ……!」
イナバのその言葉に、頭の中で絡まっていた紐がすぅっと解ける感覚に襲われた。
そうか、そうだ、そのとおりだ。バルザークは既に満身創痍!
少し冷静になれば誰にでも理解できることだ。どれだけ優れた競技者であろうと、激しい運動を続ければ疲労が溜まり、パフォーマンスは劇的に落ちる。それこそ、能力の劣る相手に後れを取るほどに。
バルザークは既に、原初の亜竜との戦闘を終えた後。肉体に傷こそないものの、それは彼の頑強さ故。完全に叩き潰すまでに、かなりの時間を要した。その時間を要した分、彼の疲れは溜まっているはず。
なぜ気付かなかった! なぜ気付けなかった!? 彼の呼吸、彼の脈動、彼の体温を一番近くで感じ取っていたのは自分だろうに!!
「……クソッ!」
不出来だ。
完璧ではない。思う通りではない。そんなの、許せない!
どうする、どう挽回する?
バルザークはまだ動ける。しかし、今のままではイナバに後れを取るだろう。
一撃……一撃でも当たれば、脆い人間種の肉体では為す術もなく粉砕できる。だが、敏捷性ではイナバに軍配が上がる。どうにかしてイナバの足を止めれば―――
「遅い」
脱兎のごとく、たった一蹴りの跳躍でイナバが目と鼻の先まで迫る。完全に間合いの内側に入ってしまった。
今、イナバの左腰に差した鞘から、鈍色の光が一筋煌めいた。
これは、避けられない―――!
―――ガキィンッ!!!!
瞑った瞼の向こうから、金属同士がぶつかり合う音が響いた。
ゆっくり開くと、構えた自身の両腕の間から、三本の剣が交じり合う光景を捉える。
「お嬢様! ご無事で!?」
「ボサッとしないで! 早く下がって!!」
自身に向けられた声色から、イナバの凶刃から間一髪救ってくれたのがシヴァステャンとイリスだと知る。
「あ、あなた達……!」
「お嬢様、無礼を承知で申し上げますが、姫様の言う通りかと。この者、只の武芸者にありません! これより先、私がお守りできるかは保証しかねます……!」
「っ……、でも――」
「く……っ! バルザーーーぁクッッ!!!!」
シヴァステャンが血を滴らせながら身動き一つしない木偶の名を叫ぶ。
「貴様ッ! それでも戦士か!? 一度でも忠誠を誓った主君を危険に晒すなど、言語道断ッ!! 貴様は“狂戦士”なのだろう!? その誇りすら、獣のそれと化したかッッ!!!?」
木偶は動かない。命を与えられない限り、動けない。
「ならば我が主君に代わり貴様に命じよう! バルザークッ!! 己が主君を守り通せッ!!」
与えられた命令により、戦士の体がピクリと跳ねた。
そして、逃げる蝦の如く後向きに大きく跳ね上がる。
その巨体はシヴァステャンらの頭上を軽々と通り越し、着地とほぼ同時にその太い腕がエレーナの細い肉体を掴んだ。
「キャァッ! ちょ、ちょっと!」
可愛らしい悲鳴をあげ、必死の抵抗を見せるが、エレーナは捕まれたまま抜け出すことはできない。
肉の牢獄と化したバルザークは、そのままエレーナを守るための鉄壁の城塞となったのだ。
「……よし」
「過保護でありんすなぁ。ま、戦えぬ者にさしての興味もなし。それよりも、私と斬り結ぼうえ?」
「せっかくのお誘い痛み入りますが、こちらも急ぎのものですのでね。手短に終わらせる!」
シヴァステャンとイリスは息を合わせ、同時に己の剣へと力を込める。
ハン族二人の膂力、これを抑えるほどの力はイナバには無い。
押し返すよりも受け入れるほうが易しと、自身の刀とともに弾き飛ばされる。
「ほう……これがハン族。打ち合った刀がまだビリビリと震えているようでありんす」
どこか恍惚とした声色で刀を見つめるイナバ。
そんな彼女を放っておいて、シヴァステャンはサーベルの切っ先をイナバに向けながら、イリスのもとに寄る。
「姫様。状況は?」
「この奥に勇者候補たちが捕まっている。助け出すにはあの兎剣士を倒さなければならない」
「勇者候補らが……? それは真ですか?」
「真だとも! なにせ此処は勇者候補含め拉致してきた人間どもを格納するために俺が作った部屋なんだからな!」
二人の会話に突然介入する男の声。
その場にいる全員の視線は、部屋の入り口に簀巻きのまま放置された男へと向けられる。
「知恵……あなた、何故ここに? それに、その無様な格好は何……?」
「久しぶりだな希望! いや、今はイリスと呼ぶのが正しいか! あとこの格好はそこのジジイが縛ったままの俺を投げ捨てたからだ」
「……知恵。貴様、我々をここに誘い込んだのは何が目的だ? イナバに我々を討たせる腹づもりだったか?」
「いーや。そもそもこの状況は予見できていた。その上で案内させたんだ」
「うぃずだむ殿。よもや、そなたまでも裏切ったのでありんすか?」
「それも正確ではないな。厳密には『敗北した結果、捕虜となり、仕方なく情報提供しただけ』だ。……よし、その他に質問等はないようだな! さあ、戦闘を続けろ続けろ!」
身を捩りながら、早く早くと喚き散らす知恵。その様は、地上に投げ出された魚を彷彿とさせた。
三人は僅かな間、互いを見つめ合わせ、結果、同じ結論に辿り着く。
(((こいつは放置してて問題ないな)))
再び、切っ先が向かい合う。
「シヴァステャン、分かってると思うけど気をつけて。この女、剣士の中でも上澄みの一人だ」
「ええ、理解しておりますとも。ですので―――」
「そうね―――」
二人の白い肌が赤みを帯びる。薄い青に染まっていた虹彩は、紫を通り、次第に血の紅へと変じていく。
「「速攻で決める!」」
―――紅艶血相!
「おお、これが……! かのハン族が誇るという超強化の秘技! それが二人もッ! これは武芸者として、血湧き肉躍るという―――」
言い終わるよりも早く、赤く灯った瞳孔が四つ、残光が軌道を描きながらイナバへと襲いかかる。
左右から迫る白亜の大剣と銀の湾刀。逃れる道はない。
「―――剣技、」
しかし、この程度の窮地は、“剣豪”イナバにとって日常の茶飯と相変わらぬものであった。
「“居合・八重裂”」
瞬く間に、八度。鞘から必殺の剣撃が放たれる。
ほぼ同時に放たれた魔力によって形成された剣閃は、八つに重なりイリスとシヴァステャンへと襲いかかる。
(同時に八回の斬撃!)
(これは―――)
((避けられない!!))
だが、受けるハン族の戦士らも只人ではない。
避けられないと判断するや否や、踏み込んだ足の力を制動のための力に変え、無理やりに軌道を変えた剣の動きで、迫りくる八つの斬撃のうち各々三つを相殺する。
そして残る二つの斬撃を己の武器で受け止めることで、なんとか直撃を避けた。
しかし、受け止めた衝撃までは防ぎ切れない。彼らは衝撃に身を任せ、敢えて後方へ吹き飛ばされることでダメージを限界まで抑えた。
「……ほう。流石」
「…………」
「ッ……」
僅かな静寂。
それも束の間、再び剣戟の音が不規則な曲を奏でる。
息もつかせぬ攻防。言語として表現するには、あまりに時間が足りない。一つの打ち合いを語り終わった時点において、既に二つ三つ後の打ち合いが始まっているほどだ。
その高速の戦闘を眺め、エレーナは思わず息を零す。
「すごい……。ハン族二人相手にここまで戦えるなんて……」
「当然だ。イナバは戦闘面では現時点において正義に次ぐ強者。その実力は前任の“勇気の徳”に匹敵する」
突如としてかけられた声。驚いて声のした方を振り向くと、縛られた格好のまま恐らく転がってきたのであろう知恵が得意そうな面をエレーナに向けていた。
「まあ、その実力も当然っちゃ当然だな。なにせ、補欠とはいえ奴も“勇気の徳”の資格を持っている。当人はただの死にたがりだと言い張ってはいるがな」
(コイツ、ここまで転がってきたのかしら……?)「……何が言いたいの?」
「単純な話だ。この勝負、どちらが勝つかは分からないってことさ」
「…………」
ならば何故、という言葉をエレーナは喉の奥に抑え込んだ。
知恵の意図が読めない。自分たちをここまで誘い込んだのは、イナバに処分させるため?
いや、それならばタイミングがおかしい。知恵が未だに“七つの美徳”に対して協力する意思があるのなら自分たちを迷わせて、イナバとイリスの戦いが決着してから案内させるべきだ。それくらいの時間の予測はこの男なら可能なはず。
だとしたら、本当に自分たちの味方をするためか? そうだとしても、わざわざ五分の状況で戦わせる意味も分からない。
知恵は依然、ニヤニヤとした笑みを浮かべ戦闘を眺めている。まるで、自身の思い通りに事が進んでいるかのように。
(……いや、コイツに関して考えるのは止そう。どうせ何も理解できない)
諦めとも取れる判断を下し、エレーナは知恵の視線の先を追うように戦闘へと瞳を動かす。
戦況に変わりはない。シヴァステャンたちが追い立て、イナバがこれを躱す。まるで白狼二匹相手に弄ぶ狐の姿を見ているようだ。
三匹の獣を取り囲むように、銀色の燕のような三本の刃が空気を裂き、ひらりひらりと舞う。そのどれもに真紅の色は塗られていない。これほどまでの激しい戦闘においてなお、誰も傷を負っていないことの証左だった。
これが剣豪同士の戦いなのかと、エレーナは思わず息を呑む。
「スキル―――」
「スキル―――!」
「剣技―――」
激しい戦闘の中、生まれた僅かな間隙。ここを剣豪たちは見逃さない。
一拍にも満たない刹那の時間。しかし、スキル発動の力を溜めるには十分な時間であった。
「“千刺蛮行”!」
「“乱れ斬り”ッ!」
「“弑垂・紅彼岸”!」
三者三様の剣技が発動する。
イナバの素早い動きを抑え込むため、イリスは無数の刺突のスキルを選択する。
その予備動作をいち早く察知したシヴァステャンは、刺突の隙間を埋めるように斬撃の乱舞を繰り出す。
これに対して、イナバはまるで初めから見透かしていたかのように、上段から足元へ、唐竹の瀑布を幾度も叩き込む。
今再び鳴り響く金属が激突する轟音。それは先程よりも濃密に、鼓膜を突き破りかねないほど。
二人のハン族が繰り出す無数の斬撃や刺突は、その全てが叩き落されていた。
(……やはり)
(これは、能力か!)
二人は戦いの中でイナバの秘密に気付いていた。
恐らくは斬撃を増やす類の能力。そうでなければ、唐竹割りなどという遅い動作で無数の剣撃を叩き落とすことなど不可能。
それも、生来のものではない。正義によって賜った外付けの能力に違いなかった。
(単純! 故に厄介極まりないッ!)
(ただでさえ避けにくいイナバの攻撃が、同時に複数回……。本当に面倒!)
一際大きな金属音が鳴り響き、無限にも続くかと思っていた剣戟の嵐がピタリと止んだ。
三者は共に動こうとしない。
「おんや。どうかしたのでありんすか? すっかり息が上がっているようで」
イナバの指摘通り、イリスとシヴァステャンは息を切らし、苦しそうに荒い呼吸を繰り返していた。
紅艶血相の代償、タイムリミットがすぐそこまで迫っていた。
(目測を見誤ったか。この女、ここまでできるとは……)
(クソッ……、思考がまとまらない……。このままじゃ……)
膂力のみで語れば、イナバは完全に劣っていた。
しかし、それでもハン族相手に優位を取れていたのは与えられた能力の他にもう一つ。それは動きのキレ、敏捷性が格段にイナバが勝っていたからだ。
大剣使いのイリスや剛剣の使い手であるシヴァステャンが一度剣を振るう間に、イナバは二度振ることができる。そこに加えて、“斬撃を二倍に増やすアビリティ”によって、イナバは一息の間に四度の斬撃を浴びせることができた。
さらには、イナバ本来が持つ剣士としてのセンス。これにより、絶対の破壊力を持つハン族の斬撃をいなし、攻撃を避けるに至る。
絶対的な相性不利。これが勝負の決定打であった。
「善き死合でありんした。ここまで心が躍ったのは何時振りか。お礼に、一息で殺して差し上げましょう」
「ッ!? 待て―――!」
イナバはそう言うと、得意の跳躍にてイリスとの間合いを一瞬で詰める。
シヴァステャンの制止も間に合わず、冷たい刀の切っ先がイリスの胸に触れた。
(―――あ、)
右の脇腹から左の鎖骨にかけて、冷たい感触が駆ける。
次の瞬間、冷たい感触は熱い感覚に変わり、同時に赤い飛沫が視界を埋める。
本能で理解する。これは駄目なやつだ、と。取り返しのつかない致命傷であると。
目に映る像がひどくゆっくりに見える。自身の胸から飛び出る血飛沫が、小さなルビーのようにキラキラと煌めいて見えた。
そこで、イリスの意識は―――
ばたり、と少女が背中から倒れ込む。その後、指先一つすら動きはしない。
致命傷であった。それは通り抜けた刀の深さやそこから噴き出した血の量からも明らかであった。
「―――キ、サ、マァァぁあああああ!!!!!!」
深い哀しみと烈しい憤りを、臓から声としてぶち撒ける。
守るはずだった存在。護るべきだった存在。その存在を、目の前で奪われた。
黙っていられようか。斬らずにいられようか。
否ッ!!!
自身の筋肉がはち切れようとも構わぬと宣うかのように、シヴァステャンは“紅艶血相”を重ねがける。
眼球は虹彩どころか白目の部分まで真っ赤に充血し、朱の涙が頬を濡らす。
毛細血管がいくつも切れ、白かった肌は赤鬼のように染まる。
剣鬼。そのような言葉が、イナバの脳裏に過る。
「ヌゥんッッッ!!!!!」
飛び出す。直後、力任せの大振りな一撃が脳天をめがけて振り下ろされる。
なんとも単調な動き。だが、その疾さは先程の比ではない。
これは、避けられない。いなせない。受け止めるより他にない。
「くっ……!」
振り下ろされる凶刃を刀で、さらに刀の峰を両肩、背中、左腕の手甲で支え、受け止める。
峰が肉に喰い込む。鈍い痛みに思わず声が漏れそうになる。かつて故郷の島国にて剛剣術の使い手と打ち合った時があったが、それ以上の衝撃!
「ヌぅぅうおおおオオオオ!!!!!」
(この剣気、重圧……このまま圧し斬るつもりか!?)
手甲と刀が悲鳴を上げ始める。放っておけば、自身の肩から下は泣き別れだ。
「フッ……!」
一つ息を吐き、刀を傾けサーベルの刃を滑らせる。直線的な力は強いが、逸らすことは実に容易い。
ギンッ、とサーベルと固い床がぶつかる音が背中に響く。ここからシヴァステャンが反撃に出るよりも、その無防備な首筋に刀を振り下ろすほうが確実に早い。
いなした動きをそのまま回転運動へと転換する。その勢いを刀の鋒に乗せる。
「剣技“桜颪―――」
―――瞬間、目の端で捉える、眩い閃光。
何か、と、眼が反射で追うよりも速く、それは自ら目の前に現れる。
「―――“雷豹”」
それは、油断であったのだろう。慢心でもあったのだろう。
だが、最も正しい表現で言うのならば、それは思い込みに他ならない。
“エレーナはこの戦いについてこれない”。そんな思い込みが確かにあった。
失念していた。この女のトップスピードは、あの“竜騎士”と同等。
この場で唯一、イナバよりも速いのは間違いなくこの女だった!
「っ! チィッ!」
顔面に突き立てられる雷爪を、首を傾け既のところで躱す。
被っていた面の半分が砕け散る。少し触れただけでこの威力。もし皮膚に触れさえしたらと想像すると、脂汗が噴き出す。
(まだ……!)
その僅かな恐怖が、イナバに一瞬の硬直を与えた。
肋に響く衝撃。目を向ければ、シヴァステャンがサーベルの柄を己の脇腹に突き立てていた。
メキリ、と自身の脇腹から嫌な音が聞こえる。肋骨が折れた。
「ぐぅ……ま、だぁ!」
全身から嫌な汗が滝のように流れる。冷や汗なのか、脂汗なのか。
引いていく体温に意識が飛びそうになる。が、飛びかけた意識を刀を持つ右手に集中させる。
窮地。だが、それがどうした。この程度の命の危機など、何度も味わったろう。
負けるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、その窮地こそ求めていたもの!
嗤え! 生命の徒花を散らせることこそ、“侍”の本懐!
私は、私こそ、真の剣豪―――
―――ぞくり。
恐怖が、全身を支配した。それは、あり得ないモノを見たからだ。
雷を纏った雌豹、ではない。赤い瞳を宿した白の剣鬼、ではない。
二人の間、その奥に、亡霊のように佇む、白い影。
馬鹿な、あり得ない、死んだはずだ、私が殺した、私が斬った、致命傷だ、助かりようがない、なのに、なのに、なのに! 何故!!!
垂れかけられた老婆のように白い髪の奥から、ぎょろりと死人の視線が向けられた。
「ヒッ……!」
気がついた時には、振り向いていた。……いや、違う。逃げていたのだ。
僅かに一歩。だが、逃げるために一歩、踏み出してしまっていた。
「あ、―――」
―――ザンッッッ!!!!!!
悔やむより早く、背中に一太刀が浴びせられる。
決して癒えることのない逃げ傷が、イナバの背に刻みつけられた―――。
―――――――――
「まさか、生きていたとはね。どうやって、復活したのよ?」
イナバを拘束し終えたエレーナは振り返り、シヴァステャンの治療を受けるイリスに問いかける。
「……ごめんなさい、分からない。確かに、致命の一撃だった。私はイナバの攻撃を受けた瞬間、即死したはずだった。でも、生きている」
「傷の具合から見ても、ほぼ一瞬で完治したようです。しかし、一体何故……?」
「それが“希望の徳”の権能! その名も“希望の灯火”!!」
またもや突如として会話に乱入してきた知恵に、三人は再び目を丸くして呆然とする。
「……っすぅー、よし、オケイ。もういい加減慣れてきたわ。それで、その“希望の権能”って何なわけ?」
「良いだろう、教えてやる。俺たち“七つの美徳”幹部には正義から固有能力を賜っているのは莫迦な貴様らでも理解しているところだろう」
シヴァステャンが無言でサーベルを構える。
エレーナは無言でその手を押さえる。
「続けなさい」
「言われずとも。で、だ、俺たちにはそれぞれに、それぞれが望んだ固有能力が分け与えられている。知恵を求めた俺には異界の知識を覗くことができる“賢者の書”、神の愛を求めた信仰には確率を変動させる“神の試練”、人からの愛を求めた慈愛には他者の精神を支配する“聖母の愛”、最強の肉体を望んだ前の勇気には“変形自在”、潜入任務が主な節制には“百面装”……ってな具合でな。
ただ一人、己の欲望を吐露しなかった希望には、贔屓で二つの固有能力を与えた。一つはあらゆる刀剣を十全に扱うことができる“大剣聖”。そして、もう一つが“希望の灯火”。その内容は、『死亡した時、戦闘継続の意思があれば復活できる一回きりの能力』。……ま、当人にはもちろん、俺以外の幹部にも教えられていなかったみたいだがな」
なんでアンタにだけ教えられてんのよ。そんな言葉がエレーナの喉元まで出かかった。
エレーナは意識的にそれを飲み込む。余計な一言でさらに燃料を投下されては敵わないと判断してのことだ。
「わかった、十分よ。そんなことより、先ずはこっちの解決ね」
エレーナが視線を目的の方向へ動かす。……いや、動かさずともどうしても視界には入ってしまう。
彼女たちがいる空間。右を見ても、左を見ても、そこには人間が詰められた巨大な試験管のような物体が並べられている。
この空間はどこまで続いているのか。このガラス管はどこまで並べられているのか。そして、一体何名の人間がこの空間に囚われているのか。
(元凶である“正義”を止めに行きたい。だけど、ここにいる人達を放置したまま行くわけにもいかない……。それに、この中には恐らく捕まった勇者候補達もいるに違いないわね……)
さて、どうしたものかと頭の中で頭を抱える。
拉致された人たちの救出。勇者候補たちの奪還。捕らえた幹部の処遇。怪我をした仲間の対処。そして何より、敵の首魁の動向。様々な課題がエレーナの脳内を駆け巡る。
「助言が必要なようだな」
「……いいえ、結構よ。アナタの話を聞くのはこれっきり」
一瞬、頼りそうになった。そんな考えに甘えようとした自分を今すぐ殴りたい。
今、この場で一番体力を消費しておらず、かつ、冷静に判断を下すことができるのはエレーナだ。そのことは彼女自身も自覚している。
そのうえで、彼女が下した判断は……
「―――イリス。もう立てる?」
「……? ええ。能力のおかげか、体力まで全回復しているみたい」
「そう、それは僥倖ね。じゃあアナタに命令を下してあげる。勇者候補を探して。そして、見つけた勇者候補たちと正義を倒してきなさい」
現時点において優先すべき事項は人命の確保。その人命というのはこの場に監禁された者ではなく、舟の外にいる人間たちのこと。
それに、この場で監禁された人たちを救い出したところで、首魁である正義に阻まれては元の木阿弥。そもそもとして、四人だけではこの場に囚われた人を救出するには頭数が足りなすぎる。
ならば障害を退けること……すなわち、正義の打倒が第一優先だ。
イリスが動けないのであれば、最悪、エレーナが単身向かうことも想定していた。だが、それでは勝ちの目は限りなくゼロだ。
であるのならば、戦力を増やす他ない。
幸い、というべきか、この空間のどこかには勇者候補達も捕まっているはず。彼らならば十分な戦力足り得る。
「……了解した。アナタたちは?」
「残った仕事を片付けるわ。具体的に言うと、捕まえたこの二人の監視と、ここに囚われている人達の解放。……間違っても、手伝おうなんて言わないで。私の命令のほうが何倍も重要なんだから」
「ええ、わかったわ。行ってくる」
「場所は分かっているの? なんだったら、そこのメガネをいたぶれば何かしら情報は吐くと思うけど」
「いいえ、大丈夫。私にはこの子がいるから」
そう言うと、イリスは自身のフードから謎の綿毛のような生物を取り出してみせる。
先程の激しい斬り合いの最中でもずっと身を潜めていたのか。キュイ、と鳴くその生物はイリスの手から離れると、付いてこいと言わんばかりにずんずんと奥へ進んでいく。
イリスは『じゃ』と一言だけ残して、謎生物の後を追って奥の闇へと消え去っていった。
「……なんか、少し心配になってきたんだけど」
「いいや、お前の判断は間違ってないぜ」
「それはどーも。……さて、じゃあ、ここにいる人たちを解放していきますか。…………これだけの人数を運び出せるのかしら……」
「その点も問題ない。もうすぐで着く頃合いだからな」
「はぁ? 着く、って何がよ」
エレーナが問いかけたその時、背後から足音が飛び込んでくる。
一人ではない。ガシャガシャと、鉄靴が鳴る音がいくつも。
少し驚いて、エレーナが足音がした方へ顔を向けた。
「アナタ達は―――」
―――――――――
上空を吹きすさぶ風が、ひゅおうひゅおう、と音を立てる。それ以外の物音は聞こえない。
「―――健闘した、と褒めるべきだな」
そう言った男の足元には、先程まで相対していた少年が倒れ伏していた。
「だが、これで終わりだ。貴様はこれ以上戦えない、立ち上がれない。これで、我が前を阻む障害はない。
……さあ、正義に満ちた世界を実現しよう」




