裏 another
【登場人物】
<カタストロフ>
・佐月慎也/サツキ
本編の主人公。好奇心旺盛な性格。コードネームは<破壊を灯す青>。
・里山モネ/モネ=フィーヴァル
本編のヒロイン。政府に勤める裏で、政府反逆テロ組織<カタストロフ>を運営する。
・サリカ
盲目の少女。回復魔法の使い手。あらゆるものを見る視認の能力も持つ。
・カディス
髪の長い男性。あまり話さない。能力は氷で剣を作る。
・カノン
左目にサツキの瞳を持つ。能力は相手の活力の吸引と失った体の部位の再生。
・<ダンテ>
ステラに呪いを植え付けた忌み嫌われる魔法使い。黒い髪と青い瞳を持つ男性。
・ステラ
<エラ・ステラス>の女王。数々の呪いを残した謎多き人物。
幕間 裏
時空の歪みを正す。それが青年の仕事だった。歪みはある日急に生まれる。条件というものはない。歪みから生まれた、枝分かれした世界ーーー異世界というものが形成される。
青年がやって来た、この<エラ・ステラス>も、そのひとつだった。
「なんだ、これは」
疑いの目を向けたのは、汚染された土地と空気だった。呼吸をすれば息苦しくなるほどの黄色い視界、ぬかるんで足を取られる地面。外から見た時も異常な気配が漂っていたが、まさかここまでだとは誰も推測出来なかった。
「君かな。この世界をこんな風にしたのは」
いつの間にか青年の前に倒れ込んでいた少女。青年と同じ色の黒い髪を、長く長く垂らしている。彼を見上げた瞳の色も、青年と同じ色。深海の底のようなサファイア色だ。しかし、髪は艶がなく、瞳は虚ろで。まるで、死んでしまった人のようだった。
「助けて…」
少女は虚ろな青色の瞳を青年に向ける。
全身から放たれる魔力の多さに、思わず青年は顔を歪めた。いつしか本で読んだことがある。これは、使えば使う程周囲を巻き込み、そして全身を蝕んでいく自傷魔法だろう。彼女の魔力が世界をも汚していく。今すぐ消去しなければ、と彼の第六感が囁く。だが、それは余りにも無慈悲だ。せめて、彼女の話を聞いてあげたい。
「条件がある」
「…いいよ。…私は何をすれば良いの?」
「俺がやる前にこの世界を消せ。これはお前の妄想だ。魔力を沈めれば世界は消えるがお前は助かる」
「そんなの、…無理に決まってるじゃない。止めることは不可能だもの」
「そうか。それじゃあ仕方ない。君は消えて、世界も消える」
そう言って青年は少女の額に手を当てた。
久々に夢を見た。
内容は思い出せない。お化けに追われたり、殺人鬼に殺されたりする、怖い夢ではなかったことだけは確かだ。
僕たち<兵器>は寝ることをしない。心臓の音も限りなく小さくなり鼓動は聞こえない。食事も取ることも必要としない。一言で表すなら死んだような存在だ。
だが、僕たちは雇い主の意向で強引に睡眠や食事を取らされる。摂取しなくても無問題なそれらは、不思議なことに僕の体へと受け入れられる。一体、どのような仕組みになっているのか疑問である。
「カノン?起きてるか?」
二段ベッドの上段を覗いてみると、灰色の髪の少女の姿は見えない。もうリビングの方か、それとも違う部屋へと向かったのだろうか。
心の中に疼く蟠りを押し殺しつつ、俺も廊下へ出る。
しかし、リビングには誰の気配を感じられなかった。曇ガラスの窓は濁っていて、光を通さない。昼だというのに夜のように暗く、一人残された僕を孤独へと誘っていく。
リビングだけではなく、ほかの部屋も確認する。片目を奪われて、気絶した僕を、サリカが看病してくれた客間。不味い紅茶を出される、本に囲まれた里山モネの部屋。1度も入ったことの無いサリカの部屋。温水シャワーが出る風呂場とトイレ。2階に上がって、モネの育てている農園。その隣のカディスの部屋。
全てノックをしても、乾いた音しかしない。応答は何もない。そして、扉を開いても、人一人存在しない。気配も、匂いも、全く留まっていない。
「どこに行ったんだ?」
明らかにおかしい。元の世界の時間で換算するなら数十年だと思うが、実際、僕はまだこの世界に来て数日だ。里山モネやその仲間たちを完全に信用している訳では無い。だけど、一応テロ組織。チームメイトとしては、それなりの感情は抱いている。僕を取り残してこの場から立ち去るのは納得出来ない。
過去、カノンと僕の独断で、被験者のゴミ捨て場と呼ばれる地下水邸に忍び込んだことがあった。その時は里山モネには伝えずに行動したが、今回のはそれと異なるような気がする。
「誰…?誰かいるのか?」
玄関の方から足音が聞こえた。底が擦れた革靴のような、固くて、薄い音だ。里山モネはいつもヒールだし、カディスやサリカ、カノンはブーツである。聞きなれない靴音に、ぼくは訝しげに思う。
「やあ。ごきげんよう。お困りのようだね、自称<ダンテ>さん。いや、【crash】の使い手の<破壊を灯す青>と呼ぶべきか?」
玄関には、目の下にアイシャドウで塗ったみたいな濃いクマを浮かべた青年がいた。
立ち振る舞いからして僕より歳上だろう。だが、男性にしては背が低い。多分、僕の目線ぐらいだと思う。
青年は奇妙な格好をしていた。そもそもこの世界の住人はコスプレイヤーみたいな変な服を着たがるがーーーー異国の騎士のようなキラキラした青と白のストライプのワイシャツに、シミひとつない真っ白いズボン。それを革製のオシャレなサスペンダーで吊っている。
変なのは服装だけでなく、髪型も奇妙だ。女子が小顔にしたがる時に作る『触覚』と呼ばれる揉み上げのようなもの。それだけが異常に長く、後ろは刈り上げにしている。
それに、この世界では珍しく、髪色が黒である。僕を見るその瞳の色は青。今の僕と同じ色だ。
目の前にいる青年の正体を直感で感じる。
僕の変な視線に、青年は嫌そうに顔を歪めて、言った。
「彼女たちが何処に行ったか知りたいか?」
僕は黙って肯定する。
予想外の返答だったのか、男は「ったく、調子が狂うな」と独り言のようにこぼした。
「君、まず俺が誰だか聞かないのか?何処の馬の骨かも分からない人を、自分の家にいれて、平気なの?セールスとか押し売りに弱い?」
「ちょっと何を言ってるか分からないんだが」僕は続ける。「あんたは<ダンテ>じゃないのか?」
「はははっ…。やっぱり俺の仮の名前を使って迷惑行為をしてるだけある面白い人だね、…ってもう人じゃないか。ねえねえ、最強で最凶と恐れられた俺だぜ?怖がったりしないの?」
「僕からは…悪そうに見えない。それに、逆に、僕と似たような外見で、親近感が湧いたかもしれない」
それはちょっと言いすぎたかもしれないが。僕はこんな目付きは悪くないし、こんな厚化粧なクマもないし、髪型も短くで清潔感がある。なんて今思ったことは心の中に封じる。
「ここは人の気配が感じられない。あんた、…じゃなくて。えっと、<ダンテ>さん?」
「うん、<ダンテ>で良いよ。呼び捨てで良い」と青年<ダンテ>は返事をする。
「<ダンテ>は、今の、この<エラ・ステラス>の、異常状態の原因が分かるのか?」
「何となくだけど。だから、君を助けに来たんだよ。佐月慎也くん」
「僕の名前…」
「うん。知ってる。元の世界のことも。全て」
久々に真名を呼ばれると違和感しかない。
どうして彼が僕のことや、それ以外のことを知っているかについては不思議に思わない。何故か、と考え始めたらいけない気がしたからだ。僕と<ダンテ>の関係は、これ以上踏み込んではいけない。
「里山モネと…カディス、カノン、サリカ…それにミルファー。あいつらは何処に行ったんだ?消えてしまったのか?」
「消えてない。分かりやすく言うなら、佐月慎也の存在が、向こうから消えてしまった」
「どういうことだ?いなくなったのは、彼女たちじゃなくて、…俺?」
「ちょっと長くなりそうだから上がってもいいか?立ちっぱなしじゃあれだし」
「ああ。俺も、お前に聞きたいことがたくさんある」
僕は頷く。
<ダンテ>は丁寧に革靴を脱いで玄関で揃える。<エラ・ステラス>では名前を出すだけでも禁忌と恐れられる魔法使いが、律儀に靴を揃える姿を見ると少しだけ笑えてきてしまった。
僕は先にリビングへと向かい、里山モネのポットで紅茶をいれた。多分だが、あいつのよりは美味しいはずだ。
「どうぞ」
「おお、アップルティーだね。お構いなく」
にこやかにクマで囲まれた目を細める。こんな表情をすることも、僕にとって予想外で、ある意味で違和感しかない。
「まず何から話そうか」
「なあ。質問しても良いか?」
「なんでもどうぞ」
「…夏目雅之って知ってるか?<禁忌の赤い箱>の幹部をやっていた」
「もちろん。勝手に、俺のことを崇拝している集団だろ?そのナツメってのも知ってる。前髪がこんな風な」
<ダンテ>が自分の前髪を掴み、左右に流す。確かに夏目は前髪を伸ばして、よく額が見える髪型をしていた。彼が知っていると言うのは、真実だろう。
「<ダンテ>って、一部の人からは物凄く忌み嫌われる。それに対して、夏目やリア、それに地下水邸の人からは尊敬されて奉られている。それはどうしてだよ?どうしてこんなに差が付いたんだ?」
「さあね。俺は仕事をただこなしているだけだ。その仕事内容が一部の奴からは好かれていない、それだけのことじゃないかな」
「仕事?」
僕は尋ねると、<ダンテ>は嫌な顔をせず、淡々と話しはじめる。まるで、与えられた仕事を遂行するように。
「時空の管理人って表現が相応しいかな。まあ、魔法使いって言葉も間違いではないけど」
「…時空の管理人?」
オウム返しする僕。<ダンテ>は分かりやすい言葉を思いついたのか、「えーっとね」と、そのまま続ける。
「ここは異世界なのは君も知っているだろう?女王・ステラが作り出した、<エラ・ステラス>。俺が嫌われる元凶となったのは、ステラを鏡の中に閉じ込めたことだ。じゃないと、歪みが大きくなって本当の現実世界にも支障が出てきてしまう」
「え?…ってことは、その歪みを修正することが、あんたの仕事か?」
「ご名答。勘が鋭いね」
「そりゃどうも」と僕は言う。自分でいれた紅茶に口を付けた。少しだけ温くなってしまっている。柔らかい赤が混じったオレンジ色の液体に、僕の顔がぼんやりと写る。
ーーーー写る?
「…あ」
慌てて<ダンテ>に目を移す。
この世界は、鏡じゃなくても、自分の姿が映るなんてことは、あってはならない。なぜなら、姿見の中にステラがいるからだ。映ったヒトに彼女の感情がまとわりつき、あちらの世界へ連れていかれる。
これには諸説あり、<兵器>自体がそもそも鏡写しにならない、だとか、実際に鏡写しした人が何も起こらなかったらしく、でっち上げた嘘話だとも言われている。もし、映った場合は『ヴォル・フレーム』と助けを乞えば見逃して貰えるらしい。僕もそれで命拾いしたことがある。
「ここでの鏡写しは、ただの鏡写しだよ」
「…ただの鏡写し?」
「ステラは鏡の中にいない。塔の中にいる」
「…俺がいた世界線とは違うってことか?パラレルワールド、みたいな」
「はははっ。その発想面白いね。間違いじゃないよ」
<ダンテ>は手を組み、そこに顎を乗せる。
「そもそも、ここはステラだけの世界だ。君は迷い込んだ子羊。だから、俺が現れて、君を返そうとしている。これが答えだ」
「里山モネや、他の人たちは…?」
「ここにはいない。君が来る前から存在していない。いなくなったのは、彼女たちじゃなくて、君の方なんだよ。佐月慎也くん。今頃心配しているだろうな。彼女なら、鏡をぶっ壊してでも、ここにやって来ると思うよ。君は彼女のお気に入りだからね」
「里山モネと知り合いなのか?」
「知り合いもなにも。大親友ってとこかな。彼女はそう思っていないだろうけどね」
それは大親友とは呼ばないのではないか。
こんなツッコミは置いておく。里山モネと<ダンテ>に接点があったことは意外だった。あの女は基本、隠し事しかしない。僕に話したがらない。僕は、彼女のことを、政府反逆組織<カタストロフ>のリーダーとしか知らないのだ。
「俺からのヒントはここまでだ。あとは一人で考えるんだよ。迷える子羊くん」
「…おい。随分無責任だな。図々しいかもしれないが、もう少しぐらいヒントをくれたって良いんじゃないか?」
「うーん。そうだね」
<ダンテ>は綺麗な眉を顰めて考える。
「塔。夢幻塔だ。あそこに行ったら良いんじゃないかな」
「僕が?ひとりで?」
「俺が行ってどうするんだよ。行動するのは君だろう?俺は、促すことしかしない。世界の時空に関わるのなら、ちゃんと仕事するけどね」
「じゃあ」と短く告げる。そして付け足すように言った。
「紅茶ごちそうさま」
もう僕の目の前には<ダンテ>はいなくなっていた。玄関から入ってきた癖に、どうして忽然と消えてしまうのだろうか。やっぱり僕には理解出来ない人物だ。
夢だったんじゃないか。そもそも、今、僕しかいない世界自体が夢じゃないのか、って思う。
夢じゃない。
僕の、限りなく小さくなった鼓動が、少しだけ大きくなる。
「行かなきゃ」
ステラ様に会いに。
外を開けて僕はびっくりした。夜のように暗く、空には、星があるのだ。
<エラ・ステラス>に時間という概念は、労働時間しかない。鐘がなったら、起きる、出勤して退勤する、寝る。時間というものはそれだけの価値しかない。朝も昼も夜も、明るいのか暗いのか。よく分からないのだ。空は雲がかかっているし、排気ガスで黄色いし、汚染物質で先が見えない。黄砂やPM2.5が飛んでいる何処かの国みたいだ。
足元には一輪の花。青と白の、<ダンテ>の着ていたワイシャツのような色の花だった。名前は分からないけれど、小さくてとても綺麗だ。僕が知っている<エラ・ステラス>では、植物が育たないと言われていたから、とても不思議な気分になる。
こちら側にきても僕の体はそのままのようで、走っていると、あっという間に塔に着いてしまった。その身体能力を活かし、フェンスを飛び越え、敷地内に侵入する。
「…入口が見当たらない」
考えてみれば、窓ガラスもないような世界だ。
確か、地下水邸は塔の真下にあったと言われていたか。だからといって、地下鉄の壁から侵入して、塔の中に入りたいとは思わない。過去に怖い思いをした人間は学習するのだ。
あまり能力に頼りたくないが、ここは仕方ない。
壁から少し距離を取る。右腕を突き出して、意識を集中。壊れることだけを意識する。
「ーーーー【|crash(ぶっ壊せ)】!」
壁は意外と脆かったらしく、ぼろぼろ、と音を立てて崩れ落ちた。そして僕は、地面に剥き出しになっている鉄パイプをもぎ取る。もう使われていない廃残物だ。僕が使ったって、きっと誰も気付かないし、文句も言わないだろう。
鉄筋が見えた辺りを、鉄パイプで、無理矢理叩いてこじ開ける。ほんの数分格闘すると、僕1人がやっと通れる隙間が出来た。もう少しだけ、能力を使って穴を大きくする。
「いってぇ…」
能力を使った代償ーーー懲罰。
能力を使う度、僕の両腕の皮膚は、Ⅲ度の火傷を負った時のように、赤く溶けていく。
普段、包帯を巻いているが、完治することはほぼ無い。これだけは<兵器>の治癒能力は効かないのである。
段々と能力を使う度にその痛みは増していくらしい。本当、何のために使う能力なのだ、と思う。
僕は痛みを堪えて塔の中に入った。
「…うぁ!?…びっくりした。なんだこれ」
鏡だ。
僕が驚かされたのは、その鏡に写った自分の姿である。
万華鏡の中のように、大量の鏡が置かれている。それも、僕の身長を遥かに超えていて大きい。大きな鏡が、無造作に並んでいる。僕が動く度にその中の僕も動く。
鏡の僕は、僕を見つめる。呪いは発動しない。
「…ステラ。お前に会いに来た」
声が響く。返事はない。僕の独り言だ。
「お願いだ。この塔に…、お前の城に、いるんだろ?」
正面の鏡が光った。黄色く、淡い光が、暗いこの場所を照らす。
鏡の表面が、波を打つように、揺れている。その度に黄色い色彩が、キラキラと虹色に変わっていく。
この中に、入れということだろうか。
優しく撫でようと手を触れると、とてつもない力で、僕の全体が予期せぬ力で引っ張られる。
「うわぁっ!?」
手首を掴まれ、勢いで体が前転する。頭を両手で抱えて、反射的に僕は目を閉じた。
暗い場所から、明るい場所へ転がり込んだことが、目を瞑っていても分かる。
ーーーーそっと目を開くと、着いた先は、白い空間だった。
「いらっしゃい」
それは、僕が聞いたことのある声に似ていた。美しくて、澄んでいて、高くて心地よい声色。だけど、僕の知っているそれとは違って、トゲがない。
「…嘘だろ?」
里山モネ。
僕の目の前にいる彼女は、僕の知っている少女にそっくりだった。同一人物だと言われても、信じてしまう。
艶のある長い黒い髪、サファイアを埋め込んだような真っ青な瞳。白くても健康的な陶器のような肌。
赤いドレスを纏っていることを除けば、目の前の少女は里山モネとほぼ同じ顔だ。
「違う。まるでモネにそっくりと言いたいようね。私はステラ。ここの管理人で、王様。あなたも知っているわよね?」
「…喋り方までも似てる」
「そう?よく言われるわ」
白い空間に、テーブルと椅子が出現する。ティータイムに使うようなオシャレなデザインのものだ。
ステラはティーポットとカップを出し、お茶をいれる。
「どうぞ。座って。ゆっくり話しましょう」
「お、お構いなく」と僕は返事をして紅茶に口をつけた。ハイビスカスの香りが鼻腔をくすぐる。少し癖のある味だが、決して不味くはない。
「ダンテに言われて来たんだ。ここは何処なんだ?本当に塔の中なのか?」
「ええ。さらにその中にある、鏡の中。私が唯一、自我を持つことが許された世界」
「…こちらにいるってことは、向こう側の、<エラ・ステラス>のステラはもういないのか?」
「そうね。ただの抜け殻よ。あちら側の魔法の名残だから意識もないし、思考もない。本体はここの私だけ」
長い前髪を耳に掛けながらステラは言う。
「だから、あちら側のことは何も分からないの。ごめんなさい」
「大丈夫だ。どうして僕は、こっちに迷い込んでしまったんだろう?君は分かるか?」
「さぁね。運命とは何があるのか分からないものだわ。それに、ここは歪んだ世界。何が起こるのかとっても不明瞭だもの」
「僕が、返して欲しいって頼んだら、君はそれを出来るのか?」
「もちろん。構わないわ。それは私の仕事だから別に良いのだけれど。佐月慎也くん、あなたは」
ステラは僕の瞳を、焼けるぐらいじっと見つめて続ける。
「ーーーーどっちの世界に帰りたいの?」
里山モネたちが待つ<エラ・ステラス>。僕の家族が待つ東京。
人をやめた僕には、選びたくても、選択が許されない、厳しい決断だ。今更帰ったって月日の流れは違う。本当の元の世界に戻ったって、僕の居場所はきっとない。
「<エラ・ステラス>。里山モネたちが待つあの世界だ」
僕は迷わず言い放つ。
ステラは特に驚きもしない。ただ、不敵なな笑みを浮かべる。
「そう。そんなあなたにいいことがあるわ。願いごと。ひとつだけ叶えてあげる」
「それって何でもいいのか?」
「あんまり頭のおかしいのは駄目よ。だけど、失ったものを取り戻すのはアリ。あなたのその左目だとか、あの日の友達・夏目雅之だとか」
「…そうか」
基本的に無欲を貫いてきた僕だ。何も思いつかない。
「駄目だ。欲しいものがない」
「…はぁ。やっぱそう言うと思った。その傷を完治するとか些細なものでもいいのよ?」
「それだと、懲罰の意味が無くなるだろう?だから駄目だ」
「本当に大真面目ね。どうする?願いなんてなかったフリして今すぐ帰るつもり?」
「じゃあ、質問でいいか?君は、それにどんな禁則事項でも答える。これだと提案した願いに沿うだろう?」
「ええ。何かしら」
「ステラ様の二重人格説についてだ」
いつしかサリカが言っていた仮説を思い出す。塔の中にいる彼女と、鏡の中にいる彼女は違う。真の<エラ・ステラス>に伝わる鏡の呪いはフェイクだ。ステラ本人ではなく、彼女の強力すぎる魔法の落し物だ。そして、本物のステラはこちら側にいる。
だとしたら、僕がいた世界で、女王の仕事を成し遂げていたのは、誰なのだろうか。
「ステラの片割れ。それって里山モネーーーモネ・フィーヴァル、だろ?」
「バレちゃったか。こんなに似てるのだもの。隠せるはずないわよね」
ステラは笑う。いや、ステラなのか。モネなのか。僕の目の前にいる少女は誰なのか。
「モネは私から産み落とされたもう1人の私。政府は私の声に耳を貸さないわ。私をここに閉じ込めて自由を拘束した。私の自傷魔法を理由にね。だから私の代わりに彼女が反逆をするの」
「僕は、僕をこんな体にした政府を、政府の組織を許さない」
「ふふっ。あなたはやっぱり私の味方ね。モネもきっと喜ぶと思うわ」
「教えてくれ。<ダンテ>はお前の味方か?それとも敵か?」
僕をここまで導いてくれた彼について問う。あのクマだらけの青年は、最凶と恐れられた魔法使いには見えなかった。それに彼がステラのことを語る時は、優しい目をしていた気がする。到底、戦争をしてステラを負かしたとは思えない。
「味方よ。彼は、<ダンテ>は私の共犯者」
「良かった。だったら僕も堂々と彼の名を借りて暴れるとするよ」
「精々、名前負けしないことを祈るわ」
「ああ。そうしといてくれ。答えてくれてありがとう」
ステラは「どういたしまして」と微笑む。
「向こう側に行く用意はいいかしら?」
「もちろん。いつでも構わない」
「それじゃあ行くわ。目を瞑って」
ステラは立ち上がって僕の背後に立つ。
そして、両手で優しく目を覆った。柔らかく、指先だけが冷たい肌が、僕の顔に触れる。
「また会いましょう」
「シン…!シン…!!!起きた…!モネさん、起きましたよ!」
光を感じて目を開く。
ここは里山モネの家。初めて僕がこの家に通された時に寝かされた客間のベッドに寝ているようだ。
瞼を開くと目の前にはカノンの顔があった。異色の双眸に涙を浮かべている。
「佐月、大丈夫?2日気を失っていたわ。気持ち悪いところとか無い?」
「2日も寝ていたのか?…少し頭がクラクラするが問題無い。立てそうだ」
こちら側で眠っていたのなら、あちらでは意識だけ移動していたということか。だけど、あれは夢じゃない。<ダンテ>も、ステラも、僕の瞼と耳の奥にしっかりとこびりついている。
「腕、失礼します。特に異常は無いみたいですが…、また能力使いましたか?腕の爛れが酷いですね。包帯変えた方が良いね」
サリカが腕の包帯を取り替える。ジンジンと痺れるように傷口が熱い。能力の対価は払っているようだ。例え意識だけのトリップでも、きっちりと懲罰はあるらしい。
「なあ、すまない。里山と2人だけで話したい」
「分かりました。これ自分で巻けますか?」
「ああ。曲げると痛むが、巻けないことはないよ。ありがとうサリカ」
「どういたしまして。行きましょう、カノン」
カノンは名残惜しそうに「また後でね」と呟く。僕は彼女らに手を振る。
客間には里山モネと僕の2人だけになった。
「びっくりしたのよ。眠るように倒れて。もしかして、誰かに呼び出されたか、迷い込んだのかしら?」
「心配かけてすまない。…<ダンテ>に会った。あとステラにも」
僕がそう言うと、彼女は目を見開く。そして、思い出したかのように、「そう」と、言った。
「変な人だったが、悪い人じゃなかった。むしろ僕のことを助けてくれたよ」
「…私のことは聞いた?」
「ああ。全部じゃないが。お前の正体については、誰にも話すつもりはないから安心しろ」
「うん。内緒ね。あの子たちにはまだ知って欲しくないわ。…佐月は、私が〝彼女〟だと知った上で、まだ協力をしてくれるわよね?」
里山モネは僕から目を反らす。碧眼に不安の影がゆらゆらと揺れる。
「もう忘れたのか」僕は続ける。
「この前だって言ったはずだろう?僕は協力するって。お前が俺を生かすことと同じだ。裏切る理由だって無い。お前の命令に従うことが、一番合理的だろう」
「…うん。ありがとう」
<ダンテ>がステラの共犯者ならば、僕だって彼女と共に反逆をしよう。それこそが、政府反逆テロ組織<カタストロフ>だ。
「僕は、君の共犯者だ」