地下水邸
「ただいま」
すっかり我が家と馴染んだ家に入る。懐かしの我が国と同様に、靴を脱いで下駄箱に閉まった。
鐘は鳴る前であったが、既に里山モネは帰宅していた。
「おかえり。どうだった?」
「人が少なくて僕にとっては最高だったよ」
「…貴方は相変わらず平常運転ね。カノンはどうだったかしら?」
里山モネは、好奇心旺盛の幼稚園生のような瞳でカノンを見る。目が合ったカノンは恥ずかしそうに少しだけ逸らして「まあ…そこそこ楽しめた…かな」と言った。
「サリカもお疲れ様。子守りした気分でしょ?」
「まるで僕たちが幼児のように聞こえるぞ?」
僕の反抗に里山モネは華麗な程に無視。
「無視すんな!?」
サリカは囁かに笑い、買ってきた戦利品の入った紙袋を渡した。
「まあまあサツキくん落ち着いてくださいよ。私も楽しめましたよ。モネ様もカディスもお仕事ご苦労さまです」
「俺は特に料理くらいしか手伝っていない」
「手伝ってるじゃん!?」
「カディスもよく仕事やってくれたわ。冷めると美味しくないから夕飯にするわよ」
既に準備されていた食卓に付く。今日の夕飯はパンにひよこ豆のスープ、そしてほうれん草のバター炒めだ。いただきます、と手を合わせスプーンを手にして食する。
「なあ里山」
ここで口にして思った。無論、地下の件である。サリカが禁忌に触れるかのように呟いた地下水邸。しかし、やはり僕は皆の前でその話題を出すことに躊躇してしまった。
「何よ?途中でやめられると気になるわ」
「…ごめん。なんでもない」
「皆の前だと言い難いことかしら?それならまた私の書斎で話し合う?お茶出して待ってるわよ?」
そんな里山モネの気遣いを、勘の鋭いサリカが遮る。普段は優しそうで、ふわふわの綿菓子のような雰囲気の彼女は、今は見られない。
「私としてはあれは忘れて貰いたいものです」
「分かってるって。本当に少しだけの好奇心だ。それに、聞くなって言うなら聞かない。悪かった」
「…そうですか。そうやって好奇心を理由に、またやらかすんですか?そろそろ学んだらどうです?」
「…分かったよ」
珍しく喧嘩腰なサリカ。僕は抵抗せずに食い下がるものの、カノンは落ち着かない様子でパンを口にしていた。
「私も…気になります」
「そう言われても困るのよね。サリカ怒らせると怖いわよ、だから我慢。そのうちこっそりと教えてあげるから」
里山モネに諭されてカノンは黙る。その内教えるという言葉に納得したのか。彼女は食事を再開する。
食べるのが早い僕は静かに合掌し、食器を流し台に持っていった。流し台の位置は、丁度、里山モネの席の後ろに存在していて、食器を片す時に僕はそっと声をかけた。
「―――今夜お前の書斎に行く」
誰にも聞こえないぐらいの小さな声で、僕はそっと囁いた。
「良いわよ」
彼女はこちらを向かずに言った。
「また来たわね。さあ、座って」
此処に来るのは2度目。里山モネの城である書斎。
天井に届くまで立つ立派な本棚は、四方の壁に沿っている。まるで、この世界の壁のようだ。そして、部屋の中心に収まる高級感の溢れる革張りのソファ。その椅子に座る彼女は、本当に城に住むお姫様のようである。
「地下の事で何か教えてくれ」
僕の問いを聞きながら、彼女は律儀に紅茶を出す。
里山モネの出す紅茶はクセが強く、芳香剤のような強い香りが特徴的だ。つまり、正直に言うと、あまり美味しくない。
香りからしてバラかハイビスカスのような花だと想像するが、僕はこのようなものが苦手なようだ。
しかし、断るのも悪いので一口だけ飲む。やっぱり美味しくない。
「えっと…、何から話せば良いかしら?」
「勿論、地下の事だ。あそこには何が住んでいるんだ?」
里山モネは迷わず答える。
「―――<ディスミス>と呼ばれる人たちよ」
「…<ディスミス>?なんだ、それ。日本語か」
「もう人間を辞めてるような奴らだから、侵入したところでなんにもならないわ。寧ろ殺し合いになるわね」
「それが実験に失敗した奴ら、だよな?」
「そうそう。サリカからそれくらいは聞いてるみたいね。あと、余りあの子の前で地下水邸の話はしないように」
「地下水邸…?その<ディスミス>と呼ばれる奴らの住処か?」
「まあそんなところね」
里山モネは紅茶を啜り、手にしていたハードカバーの書籍を、徐ろにぱらぱらと捲る。
「しかし、何故サリカはあんなに地下水邸を嫌うんだ?」
「あの子、昔あそこに侵入したことがあるみたい。右目はその時の事故で奪われた。サリカがまだサリカじゃなかった頃は、色々あったらしいからこの話題は今後無し。良いわね?」
考えてみれば、サリカは里山モネが付けた名前だ。きっとその前に、本当の名前というものが存在していたはずだ。それに政府のモルモットである<兵器>は左目を回収される決まりがあるらしい。しかし、サリカの様に、両目を失う件例はまだ僕は見かけていない。
「そうすると僕はトラウマを思い出させてしまった訳か…。悪いことをしたな」
「もう少し仲良くなれたら、サリカからその話は聞けるはずよ。それまで我慢。分かったわね?」
「僕は子供じゃないっての。分かった」
「私から見たらまだまだ子供よ?」
不敵に微笑む里山モネ。長年、同クラスに佇むと囁かれていた彼女。僕の基準で計算すれば一体何歳なのだろうか。
「ねえ」
「なんだよ」
さては僕が年齢を考えたことに怒ったのか。里山モネは、繊細に形作られた美しい顔に、少しだけ悲しそうな表情を青い瞳に映した。
「私の紅茶、そんなに不味い?」
既にバレていた。
「ねえ、シン」
独り言のように、カノンが二段ベッドの上で呟いた。否、それは独り言ではなく僕自身に宛てられた言葉だ。
「もしかして寝ちゃった?」
「起きてる」
僕は彼女にそう答える。カノンは特に下へ降りることはせず、その場でぼそぼそと語り出した。
「モネさんのところ、行ったのね?」
「ああ」
僕の肯定にカノンは少しだけ話の間を開ける。
「…さっきのあれ、どうしても気になるの」
「あれ、ってあれか。地下鉄のあれ」
「語彙力が欠落した人みたいよ?」
笑いながらも「そう」とカノンは頷いた。実験に失敗した人たちのごみ捨て場。サリカの言うことが正しければ、あの扉の奥は狂人で溢れていることであろう。
「私ね、あそこの奥に行ってみようと思うの」
「お前実は馬鹿だろ」
僕はホラーは苦手では無いが実際に体験するのと、作り物のような映像を見るのとでは全く違う。これをホラーと名乗ってよいのか分からない。だが、得体の知れない場所に行くことは、僕にとって恐怖の塊でしかない。選りに選って里山モネの話の後だ。間違いなく死亡フラグが立ちそうである。
「冗談な訳ないでしょ?それに馬鹿は余計です」
カノンが毛布を叩き、その影響で上のベッドがギシッと鳴る。
「政府が〈兵器〉以外にどのような実験を行っているか知ってる?」
「いいや、知らない。でも聞かなくても碌でもないことしかやってないのは分かるさ」
犬によく似た生命体―――おそらく精霊に人間を噛ませて強制的に能力の発動を促すくらいだ。そんな無慈悲なことをするのだから、他にもきっと似たような実験をしているのだろう。
「水でも生きていける半魚のような実験に…毒薬、あと不老不死もやっていたっけ。まあ、いいわ。逆に考えるの。私たちが本当に〝生きている〟かを証明して貰うチャンスじゃない?」
「まだ気にしていたのか?死んでたら僕達はゾンビだ。証明なんて諦めろ」
「もう、当たり前よ。私の考えを真っ向から否定されたのだから」
カノンの生死に対する固執は異常だ。里山モネが生きていると言ったのだから、それで良いのだと僕は思う。仮に死んでいたとしても、死を認めたら自分の中の何かが噛み合わなくなりそうな気がしてしまう、と僕は感じる。
「で、僕にも一緒に来て欲しいのか?」
「うん。お願い」
一瞬躊躇う。しかし、実験の失敗作のごみ捨て場というワード。それが僕の好奇心を擽ってやまない。色眼鏡だと思われるかもしれないが、少し見てみたい気もする。念を押された脅しの後でもだ。つまり、行きたくないと言ったら、僕のそれは嘘になる。
誰かが、また学ばないと僕を蔑むかもしれない。でも、いい。ひとりで行くのは若干躊躇することもあるが、カノンと一緒だ。無限回復に活力吸引の能力は僕にとってとても心強い。
それに彼女の気が済むのならと思い僕は二つ返事で了承した。何処までも成長しない佐月慎也だ。
「いいよ、分かった」
「本当!?人のこと馬鹿呼ばわりした癖に!?」
二段ベッドの上の段からカノンが跳び、華麗に着地する。その服装は花柄の寝間着ではなく、いつものブラウスに、真っ赤なスカートという私服であった。
「今から行きましょう。シン…何その服、寝巻きだよね?」
「寝巻きに決まってるだろ!それに遠足前日の幼稚園児か!?楽しみすぎて次の日の服着て寝るやつだろ!」
「もう静かに。誰が幼稚園児?もう寝巻きでもいいや。早く行きましょう。あ、一応ランプとジャケット持って行った方が良いよね?」
「今からかよ!」
僕の発言を無視して、鼻歌を歌いながらカノンは身支度を始めた。ホームセンターで売ってそうな充電式のランタンを取り、それから衣装箪笥のハンガーに掛けられた我らの戦闘服――――軍服とアイドル衣装を足したような装飾華美なジャケットを手にする。
「この服本当お洒落。可愛いしかっこいい」
「僕から見たらコスプレみたいで恥ずかしいけどな」
そう言いながらも不思議と身に着けてしまう魅力がある。袖に手を通し、鏡がないので感覚だけで襟を整える。
「曲がってないか?」
「うん、大丈夫。自分で確認出来ないものね。私のは平気?」
「おう。それでどうやって行くんだ?日没が無いとしてもこの時間帯は夜だぞ?地下鉄って終電逃したら閉鎖しないのか?」
「確かずっと入口は空いていたはず。それにシャッターが閉まっていても、シンの能力でぶっ壊せるでしょ?」
「言われればそうだけど公共の器物破損で怒られないのかよ!?」
しかし、油断は禁物にしかならない。〈兵器〉の所持する能力は使いすぎれば内側から肉体を喰らい、やがてはその体を壊す。僕みたいな成り立てほやほやの新人は特に注意しなければならないだろう。
「そうね、ところでブーツってあった?」
「ブーツ?」
「うん。私の勘でしか言えないけどあの奥、相当な程に水浸しだと思う。並の靴じゃ濡れてしまうはずよ」
「駅のホームも湿度が凄かったもんな。…とりあえず玄関を見てみるか」
僕たちは成る可く足音を立てないように、玄関に向かった。白い色の下駄箱を開けてみると確かにブーツが三足ほどある。
「カディスさんのかな?」
「多分そうだな」
僕が手に取ったカディスのと思われるブーツは、膝上まであるゴム製のロングブーツだ。澄んだ黒がとても美しい代物だった。
「この足の大きさだと僕はカディスので事が足りると思うけど。カノンのはどうしようか」
「無断で借りるのは心が痛むけど…、サリカのを借りようかな。ちょっと緩いかもしれないけど我慢する」
「よし、それで決定だな」
靴に足を入れる。靴の底から失われたぬくもりが伝わる。
「静かに扉開けろよ。気付かれたらお前の計画潰れちまうぞ」
「分かってるって」
そして僕たちはまた懲りずに新たな好奇心へと一歩を踏み出したのである。
地下へは問題無く入れた。危惧していたシャッターは、閉じられることも無く、すんなりと中へと通れる。
「薄気味悪いな」
僕の声がホームに木霊する。じめじめとした湿気が頬を舐める。実に居心地が悪い。
「ここの扉ね」
ホームから線路にカノンが降りた。1.5m程の段差があるが、彼女は怖気付くことなく着地。日本のそれとは異なり、線路上には電気は通っていないようだ。
「シンも早く降りて」
「僕が住んでいた世界じゃ、線路への侵入は、立派な犯罪なんだよなぁ…」
そう言いつつも着地。錆びた鎖で固定された扉の前へと歩む。指先で暈すように、扉の表面に線を描く。手袋に赤錆がべったりとくっ付いた。血糊のようである。
「やっぱり開かないみたい。壊せる?」
カノンが、大袈裟にドアノブを握りしめても、鎖が鳴るだけ。何か特殊な術式がかけられているのか不安である。
折角ここまで来たので、僕は鎖を壊すことに能力を解放した。心の中で壊れろと祈る。
チャリン、と何かが外れる音がして鎖が破壊された。
「お、凄い。これを解けば開くかな?」
手袋を赤錆だらけにしながらカノンが絡まった鎖を丁寧に解いていく。そうすると、扉の形がはっきりと現れた。カノンが恐る恐るドアノブに手を掛け、回す。
「…開いた」
ギィィと、嫌な音がして扉が開いた。中は真っ暗で、先に何があるのか未知だ。
僕の足を、暗闇が前に進ませるのを防ごうとしている。
「行くか?」
気持ちが揺らぐ。僕はそっとカノンに尋ねる。
彼女は頷く。どうやら意思は硬いらしい。肯定の意を示した彼女は持ってきたランプに明かりを灯した。すると先が露わになる。
「階段があるみたい。降りてみよう」
「結局行くのか。僕の第六感が折り返せと叫んでいるんだが」
「もしかして怖いの?」
ニヤリと笑うカノンに煽られる。僕のプライドにかけて言おう。怖い訳ではない、体が拒絶しているのだ。
「私は帰らないよ。帰りたかったらシンはひとりで帰って」
「女の子残して帰宅なんて、そんな男は僕は許せないね。はいはい!行くよ!もうどうとでもなれ…」
彼女の手からランプをひったくり、僕を先頭にして階段を下る。扉の内側が地下鉄のホームよりも湿気が漂っていて、おまけに、遠くから不思議な音が反響している。
ランプを消せば辺りは暗闇だ。きっと瞬きをしているのかさえも分からないだろう。幾ら視力が向上してしても危険だ。
ランプの明かりだけを頼りに1分くらい階段を降りると地面に足が着いた。正確にはその地面は、踝ぐらいの高さまで水面が張っている。
「やっぱり片目だけって怖いよ、距離感が全く掴めない」
「何かあったら私が何とかするから安心して」
自信有り気に胸を張るカノンを尻目に僕は辺りを見渡す。
「地下の…更なる地下か。後ろは壁。進むなら前か横か。どっちに行ったら良いか分かるか?お前耳が良いんだろ?」
僕が聞くと彼女は大きな声を出し、左右異色の瞳を閉じる。声が広い空間に響く。
「うーん。取り敢えず前に行ってみましょう」
「取り敢えずってなんだよ!根拠はあるのか?」
「左右は多分だけど真っ直ぐ進んでも壁。いや、壁というより…」
「なんだ?なんかあるのか」
「何でもない。真っ直ぐ行くと多分鉄格子があるわ。その先に何かいる。そこを目指しましょう」
水に足元を取られながら進む。明かりが揺れ、影が歪む。横には進めないとは言え、空闊とした場所。何処に化け物が転がっているのかも知れないが故に注意が必要だ。
先は暗く、あとどれ位歩けばたどり着くのかは計り知れない。不安だ。怖くないと言ったがあれは嘘だ。晦冥は僕の底から恐怖を誘う。信託するものは燈と、隣を歩くカノンしかいない。バシャバシャと歩く度に水が飛び散る。
湿った嫌な臭いが鼻を突く。臭いの原因は水だろう。汚染物質が混じったそれは酷く臭い、敏感になった嗅覚を犯す。
「ここの水って地下水じゃないのか?工業排水?」
「え…?知らないよ、そんなこと。地下水が化学物質に汚染されたんだけじゃない?」
「飲んだら死にそうなぐらい強烈な臭いだな。絶対、有毒物質が混ざってる。僕の故郷にもこんな場所があったよ」
カノンが目を瞬かせる。
「へぇ、シンが住んでたところはもっと平和で清潔なイメージがあるけど。どんな場所なの?」
「市場を移転しようとしたら、引越し先の地下がめちゃくちゃ汚染されてた」
「…なんか良く分からないけど大変みたいだね?」
「故郷っても僕が住んでいた地域からは結構あるけどな」
政治関係の話は出し過ぎるとよくないので、これくらいで抑えておこう。僕が話題を逸らそうとした時。
「きゃっ?!」
突然カノンが悲鳴を上げた。吃驚して後ずさり、バランスを崩しそうになるものの、後ろ足で体重を支える。
「何があった?」
「しっ」人差し指を立ててこちらを睨む。
「多分、気付かれた。もう近いわ」
「…気付かれた?」
僕は懐疑の念を抱く。
「まだ鉄格子なんて見えないんじゃ――――」
そう言おうと思った。
しかし、いつの間にか僕達の目の前には鉄格子が並んでいた。否、立ち聳えていた。手を触れ揺らすことを試みるも音ひとつ立てない。非常に頑丈だ。
「呼ばれた、みたい」
カノンがランプを格子の奥へ照らす。1人の少年がこちらを見つめている様子が見えた。
「あなたがここの住人?」
カノンは怯えることなく少年に問いかける。その少年はこちらにゆっくり近づき、徐々に顔が露わになった。鱗に覆われた左顔半分、そして耳はまるで海竜のように尖っている。
一目で見てわかる。人間ではない。
「お兄さんたち…<マグセレット>?」
少年がゆっくり口を開いた。