左目
白い建物の一室に僕は監禁されていた。
そこは、刑事ドラマのワンシーンにある、留置所のような白い独房だ。金庫の如く頑丈な扉があり、その扉の窓にしか格子が嵌っていない。
違っていることは、本が積まれてあった。
退屈しないようになのか、それとも、この建物のオーナーの趣味なのかは明確では無い。江戸川乱歩や夏目漱石、志賀直哉、シェークスピアなど誰もが知る文豪ばかりである。しかも、かなり年季が入ったものだ。ところで、これらは日本語で記されている。この街の言語はどうなっているのか。些か気になった。
本の他には、簡易トイレ、毛布、病院で言うナースコールのようなもの、食事だと思われる乾パンの入った缶詰がある。この缶詰も日本語表記だ。この世界は、もしかしたら、日本語が通じるのかもしれない。
今から遡ること30分ほど前。
件の巨大な門をくぐり抜けて、謎の街に拉致された僕たちは、門のすぐ近くにあるコンクリート製の建物に連れて来られた。実際に細部まで見ていないため断言できないが、四階建てぐらいの大きさで学校の体育館よりも一回り大きい。別館があるらしいが、自由に動けないので探索が出来ない。全く困ったものだ。
先程も言ったが、独房には窓がある。しかし、猫1匹通れるかどうか分からないぐらいの大きさだ。もちろん、言うまでもなく脱出は不可能に近いだろう。曇ガラスで薄く光が入ってくるが、部屋の中は証明が設備されていないため、折角本が置いてあっても、薄暗くて読書には適さない。贅沢を言うのは場違いな気がするが、読書灯のようなものが欲しい。
ズボンの後ろポケットからスマートフォンを出す。時間を確認すると夕方の5時半だった。
夏目と会ったのが1時過ぎ、水幡高校に行ったのが1時半から2時の間ぐらいと考えるとあのバスで3時間も移動し、眠っていたことが考えられる。
スマートフォンは圏外だった。家族に連絡したくてもこれでは埒が明かない。それに夏目にも文句を言いたかった。彼奴が話題を振った事で僕は巻き込まれているのではないだろうか。しかし、今ここで感情を彷彿させても彼は現れない。仕方なく、諦め、違うことを考えることにする。
無音の部屋で暫し考えに更ける。バスの中で見たあの光景ーーー巨大な壁や門、現代日本ではありえない工場の煙の異臭、そして天を突き刺す塔。そこから導かれる答えは。
「どうやら僕は異世界に来てしまったらしい…」
推定六畳間の部屋で頭を抱える。
里山モネの言っていたことも気になっていた。
彼女が言った実験材料とは一体何なのだろう。文字からして人体実験というやつなのだろうか。
染み一つない床に寝そべり、天井を見上げた。横になると、段々と吸い込まれるように、眠たくなってくる。少しだけならいいか。
そう僕は思い、薄い毛布を腹にかけて意識を虚無に預けた。
ドアのノック音で目を覚ました。慌ててスマートフォンのロック画面の時計を確認する。
夜の八時十三分。窓からの光は相変わらずで、この世界には太陽が無いのだろうかと連想させる。
僕の返事に構わず、解錠して重たい扉が開かれる。
「失礼致します、佐月慎也様。準備が整いましたのでお呼びに伺いました」
堅苦しい挨拶をして出てきたのは若い女性だった。驚くことに髪と瞳は緑色で、パンツスーツの上に白衣という科学者を匂わせる服装だ。
僕は黙って頷き立ち上がった。僕の寝起きの悪い気怠げな顔を見ると、女科学者は何も言わず広い廊下へと出ていく。僕は慌てて付いていく。
女科学者は入口とは逆の方向へと歩き出した。もしかして別館の方なのだろうか。無機質で、死んでいるかのように静まり返っていた廊下に、悪寒を感じた。両サイドに人間の歯のように淡々と並ぶ独房の扉は硬く閉ざされている。また、廊下は窓が無いため暗く、先へ進むのに躊躇してしまう。
いたたまれなくなって僕は女科学者に話し掛けることにした。
「これから僕は何処に向かうのですか?」
女科学者は鬱陶しそうに緑の瞳を細め、ぶっきらぼうに「外です」と答えた。黙ってろと目で語っているが、色々と不安なことだらけだったので質問を続ける。
「僕、殺されるんでしょうか?」
前を歩く彼女は振り返らず、「それはお答え出来ません」と言った。
「でも里山モネは僕のことを実験材料と言ってましたよ。こんな男の体弄ったって面白いことは無いと思うのですがね。痛いこととかされるのでしょうか?」
「モネ様には敬意を払ってください」
形容しがたい威圧で怒られた。しかし様付けで呼ばれるなんて里山モネはこの街では一体どんな身分をしているのだろうか。
階段を降り、長らく真っ直ぐに行くと扉に突き当たった。女科学者は白衣のポケットから鍵束を出し、スチール製の頑丈な扉の鍵を開けた。
「佐月様はこちらで待機していてください。暫くしたら担当の者がそちらに向かいます。では」
扉はガチャっと大きな音を出して、女は強引に僕を扉の外へ追い出した。そして、追い討ちをかけるかのように内側から施錠音が鳴る。
閉められた。鍵をかけられた。
「おい、ちょっと女!?説明が足りてないぞ!?」
こちら側から扉を叩き、ドアノブを回しても女科学者の反応は見えない。
なんてことだ、これじゃさっきの監禁状態と何も変わらないではないか。
科学者を追うのを諦め、自分が今置かれた状況を確認する。霧が濃くて奥行が分からない空は先程見たのと同じものだ。建物の外、と言って良いだろうか。脱獄できないように3メートルはあるフェンスが庭を囲み、フェンスの頂部には、有刺鉄線が張り巡らされている。
足下も変わらずぬかるんだままだ。スニーカーの爪先で抉るように掘ってみる。すると、鉄パイプが通っていた。パイプは、水道管のように見えなくもないが、所々腐食しており、今は使われていなさそうである。この土、爪先で掘って思ったが、実に水分を多く含んでいる。しかも赤い。土が赤いのか、水が赤いのかは定かではないが、血を思わせられて気分が悪くなった。
テニスコート二面分くらいの大きさの裏庭には僕を含めて三人いた。全て男性で僕とは大して年齢が離れている訳でも無さそうだ。1人は泥だらけの姿で、地面に座り込んでいる。もう1人は扉の前で立往生する僕を見ると手招きをする。その後、彼は、自身が座っているベンチに、その目線を置いた。こっちに来て、座れという意味だろう。
人と関わるのは好きではない。だが、このままでは無知のまま殺されかねない。
僕は、仕方なく彼の横に歩み寄る。
「君、名前は?」
僕が隣に腰掛けた途端、名前を聞いてくるとは相当なやり手なのだろうか。男は爽やか系の所謂、優男だった。程よく日焼けした肌は、如何にもスポーツをやってそうな雰囲気を醸し出し、そして、愛嬌のある垂れ目は、目付きの悪い僕に喧嘩を売ってるとしか思えない。
「佐月慎也。下の名前で呼ばれるのは好きじゃないから上で呼んでほしい。タメで良いよ」
「へぇ〜。佐月くんね。俺は太一。永野太一だ。よろしくな」
「…ああ。よろしくって言っても、もうすぐ殺されるんだろうけどな」
あれ、これでは僕はただの皮肉屋ではないか?
「それは…そうとは限らないんじゃないかな?」
「ソースは?」
「その前に情報交換しよう。俺、ここに来る前の記憶が無くてな。気付いたら門の前にいて、あの美人な子に、精神病院の隔離病棟のような部屋に押し込まれてたんだよ。空気汚染は酷いし、この土も腐っててこれじゃ植物も育たないだろうし、日本は夜だというのに太陽も沈まない。それにあの巨大な壁と塔。壁の外には巨人でもいるのかな?何なんだよ…、この奇妙な街は…」
永野太一の、此処に来るまでの記憶が無いというなら、里山モネに眠らされていたからという理由で、ほぼ間違いないだろう。実際、僕がバスの中で彼らを振り返った時、眠っていたのだから。
その事を含めて僕は彼に話す。
「なるほどね。じゃあ君は…、佐月くんは外の景色を見たということなのか。気になるな」
「壁の外…?あれ、外なんて」
外なんてあったっけ。
そういえばこの街に来る前に見たバスの外の景色が全く思い出せない。バスには窓があったはずなのに。これもあの女の記憶操作ということなのだろうか。
「悪いが、外の景色は思い出せない。街がこのような状態だから、壁の外だって、きっとカオスだろう。そもそも存在しなかったりな。…ところで、永野さんはどうしてここに?急にあの女に会って眠らされた訳、じゃないよな…」
「呼び方、太一で良いよ。そんじゃ俺のターンか」
左手でスポーツ刈りの頭部を撫でながら語り出す。
「俺はなぁ、コンビニでバイトしてたんだ。そこであの子と知り合ったのよ。いい子だし美人だしチョロそうだったから仲良くしてたんだけど突然、宗教の勧誘みたいに誘ってきたんだ」
「宗教の勧誘?」
予期しなかった言葉に思わず聞き返す。
「そうなんだよね。まあ、あの子は宗教なんて一言も言ってなかったけど、俺からしたら宗教みたいに狂気じみていたよ。〝永遠に朽ちない、女王に選ばれた存在に興味はないか?〟って」
「それで、太一はどうしたのさ」
「話を聞く限り、集会みたいな雰囲気だったからさ。断るのも申し訳ないし、話を聞くだけなら良いかなって、思って付いてきちゃった」
「不用心すぎないか、それ」
胡散臭すぎではないか。架空請求会社だってもっと賢い文句で客を騙すのだろうに。
「えー、ちょっと傷付くよ?で、佐月くんは里山モネちゃんとは知り合いなのかな」
「知り合いというか元クラスメイトだ。それでーーーー」
言葉を続けようとしたら悲鳴が響いた。それはお菓子を強請る子どもの鳴き声とは比べ物にならない。強制的に人生に終止符を打たれる前の慟哭と呼ぶに相応しいだろう。
悲鳴の主は隅の方で座っていた男だった。但し、今の体勢は俯せになっている。その右の足首からは、夥しく深紅の液体が絶えず溢れ出ている。
血だ。
現実離れした光景に脳の処理が追いつかない。
男の横には、佇む少女とシェパード犬によく似た真黒い犬のような生き物がいた。女の、一度見たら忘れられない星空のように透き通った、あの美しい青の瞳がこちらを見る。
「待ったかしら?佐月慎也と、そのお友達…えっと名前なんだったかしら…」
里山モネが考える素振りを見せる間に、倒れた男に変化が起き始めた。
まず、ぷるぷると痙攣し始める。肌色の皮膚が、色素で染めたかのように紫へと変遷した。開けていた口からだらしなく伸びた舌が、干し梅のように皺を帯びる。
見るも無残な、非現実的な様子に僕も太一も恐怖で体が硬直する。
「里山モネ…、これは、どういうことだ?」
怖気づいて動かない口を無理矢理動かし、女に問う。
あの傷口…あ、そうか。犬が男を噛んであの殺伐とした状態にしたのか。
「どうもこうもないわ。見ての通りよ。そのまんま。あなたに実験材料って言ったじゃない」
「それを聞いてるんだよ!?何故わんこに噛まれたら皮膚の色が変わるんだ?僕たちはリトマス試験紙かよ!?」
「面白い冗談を言うわね」
里山モネは男が死んだのを見定めると、犬と一緒にゆっくりとこちらに近付いてきた。
「里山さん、俺たちは殺さないんじゃなかったの…?」
蝋人形のように固まっていた太一が、顔色を青に染めながら、女に質問する。彼の指と足は、座っていても、はっきりと小刻みに震えていた。
「あ、思い出した。あなた、永野だっけ?ねえ。私がいつあなのことを、殺さないなんて言ったかしら?」
「永遠の存在って…。死を否定しないんじゃないのかよ!?俺たちはお前の玩具なんかじゃない!」
「それは成功したらの話。大体私、あんたみたいな女遊びが激しそうなの好きじゃないのよ。ダキア、行きなさい」
ダキアと呼ばれた犬は女の命令に忠実に従う。永野太一の方へカタパルトの如く走り、その足首に噛み付いた。
「ああっ…!!!」
太一は短く叫び、ベンチから転げ落ちる。踝から脹脛にかけて、噛まれたところの肉がごっそりとなくなり、足の骨がみえていた。
「…マジでやべぇ…佐月くん、早く逃げて…」
「逃げろったって何処にだよ!?!?」
ここは視界を遮るものもない彼女の作り出した箱庭。
扉は閉められていて、建物の中にだって逃げられない。フェンスを登ろうにも、有刺鉄線に手こずっている最中にご臨終だろう。奴の支配下に置かれ、どう脱走しろと言うのだろうか。掌で踊らされるだけではないか。
目の前で仰向けに倒れた永野太一が苦しそうに喘ぐ。それと同時に、傷口の深く抉れた部分から、次第に上へ上へと、紫が侵食を始める。瞳孔が大きく開いた眼球は根本から、視神経ごと腐り落ち、惨めな音を立てて地面に転がり、そして泥に塗れた。それを里山モネは拾い、細い指先でビー玉でも触るかのようにころころと転がす。
「また失敗しちゃった。あーあ、私もクビかしらね」
「や…やめろ…」
人間の眼球を弄ぶ狂気に、吐き気が誘われ、その場でそれを出す。震える足に精一杯力を込めたが、腰が抜けて上手く歩けず、尻から盛大に転んだ。粘土質の土が跳ねて服に飛び散る。
「そんなに怖がらなくたって良いのに。佐月くんは優秀だから。心配はいらないと思うわ」
「そんなに、って…お前は今自分が何をしてるか分かってるのか?」
里山モネは指先で転がしていた太一の眼球を飽きたかのように放り投た。また、こちらへゆっくりゆっくり歩み寄る。
「この世界に来てどう感じたかしら?」
「いきなり何を」
「答えて」
解答を急かされ、慌てて僕は答える。
「見たままだよ。壁に囲まれた街、まるで世界の終りだ。空気も、環境も、ここの住人だと思われるあの女科学者も、全てを含んで終りって意味だがな」
「ふーん、そう。そうね、見ての通りね。ただ、訂正するならここは街では無く王がいる列記とした国よ。この国じゃ環境に人間は負ける。だから、〈エラ・ステラス〉の賢い人達はこの世界を生き抜く為に〈兵器〉を作り出すことにしたの」
「〈兵器〉…?」
「そうよ。この犬、正確には犬じゃなくて精霊の一種なんだけど、この生物を予めウイルスに感染させるの。そして、特殊な抗体を持った人間を、私みたいな政府の駒に探させて、噛ませる。それに耐えられたら超人的な能力を持つ、戦う人間の出来上がりってことかしらね」
「それが僕たちってことか…?」
「ビンゴ。国民でも試してるのだけれど、無尽蔵って訳じゃないのよね。何度も言うようだけど本当は貴方を巻き込みたくなんてなかった」
「だからそれってどういう意味だよ」
里山モネに問い立てる。「どうしてお前みたいな奴が、こんな辺鄙な僕に固執するんだ」
「…覚えてないの?」
言っている意味が分からない。僕はここに来るまでで、彼女に関する記憶は全て取り戻したはずだ。
「もう良い。…関係無いわよね」
無慈悲に告げる。犬のような生命体に、命令を下した。
もう終わりだ。今まで育ててくれてありがとう、お父さんお母さん、そして愛する妹よ。大学のえらく高い入学金と学費を払わせて行方不明になるなんて、親不孝な息子でごめんなさい。
最後の最後まで足掻き、数歩逃げたが無駄だった。右足首に猛烈な痛みが襲う。立っていられずに地面に倒れ臥した。眼鏡が顔からずれて落ちる。
傷を見たら絶対に駄目だ。きっと見た目のグロテスクさで失神するに違いない。ただ噛むだけではなく、あの永野太一のようにごっそり肉を持ってかれているはずだろう。
痛さと出血の多さで頭がおかしくなってしまいそうだ。熱いお湯に長く漬かったあと、急に上がった感覚によく似ている気がする。音が遠くなり、視界も心音も意識も霞がかかっていく。
嫌だ。
まだ死にたくない。
死にたくない、死にたくない。
「死にたくない…」
涙と泥でぐちゃぐちゃになる。惨めだ。足掻き続ける自分が醜い。こんなに弱い僕を苦しめて誰が得するのだろうか。心臓の音は、ゆっくりと潮が引くように遠ざかっていく。
だが、一向に死は訪れず、傷口とは全く関係のない背中が疼き出した。
突如、固く天然石の結晶のようなものが、背中から突き出した。色は赤く、ローズクォーツのようなそれが、肩甲骨の間を破り、筋肉から皮膚、そして服へと駆け抜け、産声を上げた。
第二の痛みが僕を襲う。ただ、一本や二本という単位ではなく、剣山のように鋭く大量に、先から僕の血を滴らせながら。
「あぁ…痛い…痛い、痛い痛い痛い…っ……助けて」
神も仏も縋るものなんていない。ただこの外で呼吸するように煙を吐く工場を睨みながら、僕は指をフェンスに絡ませる。
痛い、痛い。足も背中も頭も全てが、血液が沸騰したかのように熱く痛い。
「え、痛い?」
里山モネだけは不思議そうな表情を浮かべる。
「もしかして痛覚があるの?」
答える気力がもう残っていない僕は、振り返り、黙って頷く。その僕の返答を見た彼女は溜息を吐いた。
「完全体は痛覚が無いの。その様子じゃ能力も使えないみたいだし、見てるこっちも辛いわ」
ズボンのポケットから携帯が落ちていたが、今はもうどうでも良かった。それどころか視界までおかしくなっている。ものとものと焦点が合わず、里山モネの顔でさえも見えにくい。
「ねえ、佐月慎也。…死にたい?」
今迄の嘲笑うかのような表情とは異なり、今の彼女は何処か大切なものを置いてきたような顔をしていた。もちろん、あの女が考えていることは読めない。読めないが、不思議と僕にはそんな気がしたのだ。
「僕は…死にたくない」
「そう、それが答えね」
そういうとチャリ、と金属音を立てて何かが僕の左目に触れた。
痛い。もう何が痛いか分からない。
こんなに痛くても死なないし、気も失わない。人間って、どうしてこんなに、丈夫なのだろうか。
ほんの一瞬で反射が動かなかったが、一歩遅れて左目に触れると掌に付いたのは涙でも泥でも無く、べっとりとこびりついた血液だった。
里山モネの手には、片手には黒く輝く鎖、もう片方の手には僕の目玉らしきものがあった。
らしき、というからには少々不自然な点があって、その左目の瞳の色は黒では無く、青色だった。
「耐えられると目の色が変わるのよ。黒い目玉は青に変わるの。この国の王、ステラと同じ色に」
「そうじゃない…なんで、僕を殺さないんじゃ」
「殺さないわ。だけど、被験者の目玉は貴重なの。目玉抉っただけじゃ、死なない体だから、大丈夫なはずよ。実験が成功した人って治癒力が半端ないから、注射針を刺して血液採取とかできないのよね。ただ、口の中と目玉は回復しないのだけれど。そういうこと。分かった?」
「分からない…。死にたくない…死にたくない」
取り憑かれたかのように、僕は逃げ出した。
足首の傷のせいで右足は使い物にならない為、上手く走れないけれど、自分なりの抵抗だった。覚束無い足取りで、少しでも里山モネとの距離を取ろうとする。
ぬかるんだ泥に足を取られ、転んだ。女が来る。長い鎖を鳴らしながら、こちらに来る。
「嫌だ、来るな!」
「必要なものは手に入ったから、もう無駄な殺戮はしないって言っているのに」
涙声で、潤んだ片目を拭いながら叫んだ。
もしも。神様がいるのなら。こんな僕に、力をください。生き残れる、力を。
「来ないでくれーーーーーー」
するとどうだろう。
ーーーー里山モネは、まるで地雷でも踏んだかのように吹っ飛んだ。
この衝撃で、彼女の隣にいた犬はその衝撃でホログラムのように消える。
庭には肌を紫にして死んだ男二人と、吹っ飛んだ里山モネと、泥と血と涙と汗で汚れた僕がだけになった。
今のは何だ?僕がやったのか?
「…そういうことね。ねぇ、私が本当にしたいことは何か分かる?好きでやってるんじゃないのよ。全てこれはフェイク。こうなったらあなたに教えてあげるわ。…実はね、ーーー」
里山モネが、泥を払いながら起き上がる。彼女が最後まで言葉を言い終わる前に、僕の意識のシャッターは完全に閉じられた。そして、僕は、意識を失った。
銃声が聞こえた。
音に混じり、男性が話す英語が聞こえる。その迫力と切羽詰まった様子から、現場の惨憺が伺える。
ーーー英語?
僅かな光を感じて目を覚ました。何故か右目だけが開き、今僕がここにいる状態を教えてくれる。
モデルルームのような空間の奥行を感じさせる高い天井、僕が寝かされている柔らかいベッドには、何故か臍の当たりに小動物が乗ったような心地の良い温もりが感じられた。
音の発生源を見るために、首を回転させると、執事服のような服装で、美しい金髪を左耳の後ろで端正に括った青年が、居間のソファに寝そべりながら映画を鑑賞していた。しかも、日本語の字幕でだ。この世界の住人と会話できるのだから、やはり日本語は共通語なのだろうか。
ゆっくりと体を起こす。
ガラス張りの壁は高級感があるが、そのガラスは、全て曇ガラスで違和感がある。自分の体は包帯だらけで、顔に手を当てると左目にガーゼが貼られていた。眼鏡がないと落ちつかないが、かけていた時とそう視力は変わらない気がしたので、探すのを断念した。
泥だらけだったあの服は、今は纏っていない。しっかりとアイロンがかかった白のワイシャツと、シンプルな黒のズボンを着用していた。
ああ、そうだ。あの悲劇を乗り越えて、僕は生きているのか。
いや、それとも生かされているのだろうか?
臍の上の、温もりの正体は女の子だった。
目を閉じていても分かるぐらいの美少女だ。柔らかく肩を擽るショートカットの金髪を絹糸のように垂れ下げて、僕の掛け布団の上で眠っている。
東雲色の、体のラインがはっきりと見える美しいワンピースに黒のケープを羽織り、そこから伸びる華奢な手は肩口まであると思われる長い手袋をしていた。きっとこの娘が看病してくれたのだろう。
寝息を立てていた少女は、僕が体を起こしたのに気付いたのだろう。小さく呻き、そして起きた。
「あ、わっ、ごめんなさい。今起きました?」
僕は驚いた。
なぜなら少女は起きたのにも関わらず、閉じた両目を開かなかったからだ。しかし、よく見ると、眼窩が窪んでおり、眼球自体が存在しないのだと悟る。
「目が無い…」
「え、えぇ…?私の目ですか?貴方の目ですか?」
「…どちらもだな」
再び自分の左目の上に被さったガーゼに触れる。もちろん、その奥には何も存在していない。あの女が、僕のを奪ったのだ。
「君は誰?僕は里山モネに殺されかけて、意識を失って倒れたはずだと思うけど。もしかして君が助けてくれたのか?」
少女は、小さく伸びをするとこちらに顔を向けて話す。
「まあ、大方そういうことですかね。私はサリカです。で、あっちの金髪がカディス。モネ様があなたをここの家に連れてきたんですよ。あ、ちなみにですよ。看病は私がしたんです!痛いところとかは無いですかね?背中の羽は全て削ぎ落としたんですけど、平気です?〈兵器〉だけに、ですね。ふふっ…」
上品な見た目とは異なり、よく話す娘だった。それにしてもまた〝モネ様〟か。
「君は僕が巻き込まれた理由を知っているのか?」
「全部じゃないですよ。モネ様から聞いた分だけです。長くなるけど聞きたいです?えっと…サツキくん、でしたっけ」
質問に僕が首を縦に振ると、金髪の少女ーーーサリカは続けた。
「分かりました。まず何から聞きたいですか?」
「ここはどこだ?」
「モネ様のお家です。テロ組織をする犯罪者の住処ですよ。こういうと、ダークヒーローっぽくてかっこいいですかね」
「テロ組織?」
僕の疑問に彼女は肯定し、続ける。
「そうです。汚いやり方で人体実験を繰り返し、ステラ様のご意向を勘違いしてるクソ政府に反抗しているんです。私は小さい頃に父親に捨てられまして、サツキくんがさっきまでいた建物に幽閉されてました。そこで目を奪われ、超人的な力を得たところで、モネ様に助けて頂いたんです。ところで、ステラ様と捨てられたを掛けたの分かりました?」
独特な話のテンポで内容が入ってこないが、何となくは理解できた。
里山モネが僕に対して「見ているのが辛い」や「好きでやってるんじゃない」と言っていた。あれは嘘ではないのだろう。
彼女の真の目的は政府の目を欺き、犯行声明を上げようとしていることが思い起こされる。だとしても、僕は彼女のやった行動を許せないが。
「君たちが呼ぶ〈兵器〉とやらに詳しく問いたい」
「そのまんまですよ。成功すれば、純白の翼と驚異的な身体能力、特殊能力、生命力を持つ戦うヒューマンの出来上がりです。ちなみに、私はその能力のお陰で、目を失っても視力はあります。サツキくんが仮に失敗作と言われていても、その胸の鼓動に、耳を澄ませば分かることです。心音は完璧に止まった訳じゃなくて、ゆっくり動いているらしいですけどね」
彼女の言われて胸に手を当てた。
そうか、犬のような生命体に噛まれた時に遠ざかっていった心臓の音はそういうことだったのか。僕の心臓はゆっくりになり、歳をとるのも緩やかになる。これは僕の予想にすぎないが、多分そうだ。
サリカは、「続けてますよ?」と僕に話かけると説明を再開する。
「この国、〈エラ・ステラス〉は、呪いのせいで壁の外には出られません。って言っても、モネ様みたいに例外はいますが。だから、政府の開発者は天使のように空を飛べれば、外に出られると思ったんじゃないですか?それで、翼を持つ〈兵器〉です。サツキくんのは、血液が固まって上手く翼がプログラムされなかったみたいですけど、本物は宝石みたいにキラキラしているんですよ」
「〈兵器〉の話は分かったが。呪いとは何だ?」
「ステラ様、この国の女王にかけられた呪いです。……ここから先は、話が長くなりそうなので、お茶いれますね。あ、これは私の話が鈍いのと、呪いを掛けたわけで」
「笑った方がいいのかな?」
サリカは不服そうに「別に笑えなんて言ってるわけじゃないですよ」と頬を膨らませる。
台所の方に行き、ティーカップをふたつ並べ、紅茶のパックを入れた。予め沸いていたのだろう。目が無いと思わせない程の手際で電気ポットのお湯を注ぎ始める。しかし、目がなくて視力があるとは一体どんな感覚なのだろう?
そんな彼女の様子に目もくれず、金髪の青年、カディスは黙々と映画を見ていた。
よく観察してみると部屋に置かれている家具は全て見たことがある日本の有名ブランドのものだ。この距離でブランド名を識別出来るだなんて、ひょっとして、僕の視力上がったのだろうか。
「紅茶入れましたよ。痛覚あるんですよね?熱いから気をつけてください」
サリカが差し出したお洒落なカップを受け取った。紅茶は綺麗な赤茶色をしていて、一口飲むと良い香りが鼻孔をくすぐった。
「サリカは…、痛覚はないのか?」
「そうなんですよ。だから目玉すっぽ抜かれた時も気付かないくらいだったといっても過言じゃないですね。片方は元からなかったので、モネ様に残った眼球を持ってかれた時の話ですよ?ちなみに味覚もないんです。だから、この飲み物がどんな味がするのかわかりません。分からないけど、見た目が美しいから好きです。…じゃあ話を戻しましょう、呪いの話です」
サリカは僕が座っているベッドの横のテーブルにカップを置く。相変わらず早口で、言葉を紡いでいく。
「呪いはふたつあります。まずこの世界には夜がありません。太陽は一日中出ていますが、まあ、この環境なので、めちゃくちゃ暗いです」
「時間という概念はあるのか?」
「ありますよ、鐘が鳴ります。3回鳴ったら皆起床し、5回鳴ったら出勤。7回鳴ったら帰宅してそのまま就寝。かなりアバウトなので、サツキくんがいた世界とは随分と異なると思いますけど」
異なるどころか、僕の住んでいた地域にあった、夕方に鳴る夕焼けチャイムと同じぐらいのアバウトさがある。実際、地元の小学生はあのチャイムが鳴っても帰宅しなかったらしいが。
「で、ふたつめですが。この世界に入った以上、絶対に鏡に写ってはいけません」
「それは鏡の他にも、例えば自分の姿見が写る窓ガラスや濁った大きな水溜まりとかも駄目だったりするのか?」
サリカは如何にもビンゴと言った様子で親指を立てた。
なるほど、だからこの部屋のガラスが曇ガラスだったり、幽閉されていた独房の窓ガラスが手の届かない、高い位置にあったりしたのだろう。
「あと、サツキくんがこの世界に持ち込んだケータイ電話と呼ばれるものも、画面が黒くて自分が写るので危険です。流石に捨てるのは悪いので、閉まっておきました。使いたくなったら言ってください」
「まあそうだな。仮に元の世界に戻れる方法が見つかったら教えてもらうよ。で、なんで鏡には写れないんだ?」
「この世界の番人と呼んだ方が良いでしょうかーーーステラ様が外部の敵である魔法使い〈ダンテ〉に敗れたからです。負けたステラ様は魔女と忌み呼ばれ、〈ダンテ〉により壁を作られました。そして、鏡に自分の心を閉じ込められる呪いを施されました」
「その呪いが、僕たちが鏡に写ることが出来ないのとどう関係がある?魔女である女王の精神に干渉してしまうからか?」
「実はですね、ステラ様は二重人格だと言われています」
サリカは言う。
「実際に、今もご健在なのですが、彼女の中に入っているものは、何とも形容しがたい混沌としたものだそうです。まあ政府に〈兵器〉やら地下に街を作れだとか言うぐらいですから。それを勘違いして捉えている政府も政府ですけど。即ち、彼女は鏡の中に閉じ込められた、と考えられていますよ。二重人格以前に、彼女の中にいるものは、人ではありません」
「じゃあさ、もし、鏡に写ったら?」
「先程サツキくんが言ったように、ステラ様にその体を持っていかれる可能性があります。運が良くても体の何処かを悪戯されるでしょうね。何しろ鏡の中には精神しかありませんから。理性が抜けた精神は体を欲しがるでしょう」
サリカは再びティーカップに手を付け、上品に啜った。
「どうです?これがこの国の実態。だからこそ、私たちは、この世界を変えなくてはなりません。あなたは私たちにーーーモネ様に協力してくれますか?」
彼女の閉じた瞳がどこかを見つめる。テレビから銃声と、流暢な英語と、その他の些細な音が流れていて、酷く僕の頭を酷く混乱させた。
「悪いけど僕は本気で脱出しようと考えている」
僕は言った。
「本気ですか?今私が話したこと聞いてました?」
「だからこそだ。僕はこの世界には絶対に馴染めない」
「本気です?あまり否定する言葉は使いたくないですが…無理、ですよ?」
「はぁ。私にはもう手が負えません。サツキくんが起きる前に、鐘の音が鳴ったので、もうすぐモネ様がご帰宅されると思います。…もう少し待っててください」
呆れた顔で彼女は席をたった。ちょうどその時、玄関の方から扉が開く音が聞こえ、何者かがやって来た。
「ただいま。あのクソ上司マジ死ね、ぶっ殺す」
物騒な言葉と共に現れたのは長い黒髪を一つに束ね、大人っぽいスーツを着用し、そのような服装とは真逆の小柄な容姿をした女ーーー里山モネであった。
彼女は僕が起きているのに気付くと、あからさまに何か話したいと言ったような表情をした。
先程まで、ニートのようにだらしなく映画鑑賞をしていたカディスは、見違えるように里山モネの前に向かい「お疲れ様でした、モネ様」と騎士のように言う。
「お疲れ様。えっと、サリカだけじゃ不安ね。カディスも今日の夕食作るの手伝ってあげて。私は少し佐月とお話したいから」
里山モネは小さく僕に向かって手招きした。
手足が震えていた。あの女が行った残虐が思い返される。目の前で人が死に、自分は殺されかけ、そして奪われた目玉。痛みや嫌悪感、憎悪が溢れ出す。トラウマがじりじりと、真夏の路上のアスファルトのように僕の神経を焼き焦がしていく。
覚束無い足を動かす。痛くなかったはずの左目や背中の肩甲骨の辺りが再び痛みを伴ってきたように感じ、それに相反する動いているのかもさえ分からない心臓の音だけが僕には一種のアイロニーに思えた。
「大丈夫?私の部屋こっちだから。肩貸した方が良いかしら」
「誰がお前なんかに借りるか」
里山モネの優しさを切り捨てる。「同情されるなんて真平だ」
険悪な雰囲気をサリカ、カディスは黙って見ていたが、僕が彼らの方を向くと目を逸らした。彼らなりに僕に配慮しているのか、それとも後から来た面倒者として煙たがれているのか、今ひとつ理解出来ずにいる。サリカの態度からしたら、恐らく前者なのだろうけど、僕にはその心遣いが鬱陶しかった。
黙って廊下を歩き、付いていく。
廊下には新築の香りが漂っていた。閉じ込められていたあの政府とやらが管理する建物とは異なり、ライトが足元を照らすが、薄暗いことには変わりない。
里山モネは玄関から見て、左手前の部屋のドアノブを握ると「入って」と言ってドアを開けた。
彼女の部屋は十畳ぐらいの大きさで、壁一面に本棚が並んでおり、その中には目が回るぐらいの本が並んでいた。それは漫画、小説、ライトノベル、伝記、雑誌など、有名な作品から見たこともない作品まで揃っている。
「女の子の部屋っていうのにこんな状態でごめんなさいね。さあさあ、座って」
僕が怖がらないように配慮したのか、ドアの鍵を閉めず、10cm程度開けて、里山モネは席を勧めた。僕は黙って、その部屋の中心に置かれた椅子に座る。机を挟んで里山モネと向き合う形になる。
「まず、本当にごめんなさい」
里山モネが苦しそうに呟く。
「今から説明するわ。何から聞きたい?」
謝られたのは意外だった。
「大体はサリカと名乗る女の子から大体聞いた。…お前は〈兵器〉なのか?」
「いいえ、違うわ。私は人間と言ったら少し語弊があるかもしれないけれど、…少し特殊な力を持った人間よ」
特殊な力というと僕が里山モネを吹っ飛ばしたのと同じ様に、自由に操るあの黒い鎖や、サリカの言っていた、こちらと現実世界を行き来できるなどと言ったようなものなのであろう。既にそのような力を得ているなら、もう人間をやめたとしか思えないが。
僕は次の質問に移る。
「ここはテロ組織と聞いたが、何故そんなことをする?政府の元で働くお前が、どうして自分の首を絞めることをするのか、よく分からない」
「納得がいかないからに決まってるじゃない」
彼女は青い瞳を鋭くする。
「敵に反逆するにはまず、敵の弱点を知らなきゃいけないの。あとあそこ、お給料が良いから」
結局、人間って金が一番なんだなと僕は思った。
「何でも聞いて良いのか?」
「私のプライバシーに関わらなければ問題無いわ」
「ちょっと迷うな」
「え、待って迷うって何よ?気になるわ。まさか私のお胸の話じゃ」
慎ましい胸部を抑えて慌てる彼女に思わず笑ってしまう。硬い空気が少し解れた。彼女なりのジョークなのだろうか。
「…そっちじゃない。学校での話。どうしてお前が嫌がらせを受けていたのかが気になっただけだ」
どうでもいいが、確かに女の子としては小さめだ。だが、僕としては嫌いな大きさではない。逆に僕は大きい方は下品で苦手である。
話を戻して、里山モネは俺の質問に答える。
「ああ、それね。私もその件で気になることがあるの」
「気になること?自分のことなのにか?」
「そうなのよ」
腕を組み、部屋の真っ白な天井を仰ぐ。
「あなた、あの件で、私のこと庇ってくれたの覚えてないの?」
「僕がお前の事を庇った?」
そのような話には心当たりがない。何度も言うようだが、僕は人と馴れ合ったり関わるのが大嫌いなのだ。夏目だけは唯一心を許せたが、女子の揉め事に首を突っ込むなんて言語道断である。
「…記憶操作かしら。私が嫌がらせを受けた原因は女子どもの受験のストレスを発散する道具だと思われていたのだろうけど。そんなことより、佐月の記憶が抜けきっていることが不思議でならないわ」
「どうして僕が記憶操作なんて受けなきゃならないんだよ」
「分からないわよ。もし可能性があるとしたら、誰かが私とあなたを関わらせないようにしたんだと思うけど。まあ、その話は良いわ、あとでゆっくり考えましょう。〝失敗作〟のあなたにだからこそのお願いがあって呼んだのだから」
「お願い?」僕は首を傾げる。「人殺しは勘弁してくれよ」
「安心して。〝私たち〟は決して、罪のない人を殺さないテロ組織だから。人殺しはしないわ」
既に拉致した人を二人も殺していることを突っ込んでいいのか。それともあれはテロ組織としての活動ではなく、政府の手先としての活動だからノーカウントでいいのか。里山モネは大きく息を吸って、僕に告げた。
「私たちの仲間になって欲しい。あなたが嫌がることは決していない。逆に今回の罪滅ぼしとして、不自由のない生活を保証するつもりよ。政府のデータの中では成功の直前であなたは死んだことになってるから、好きなことをして自由に暮らせる。不満なことは、絶対に、させないわ」
魅力的な言葉であった。だが、僕はそんな誘惑には屈しない。
「断るよ」
「何故?親の金で一生過ごせるニート生活を推進してるようなものよ。何故、あなたは断るの?まだ私が信用できない?」
「里山モネことを信用しきれないのは事実だけど」
僕はサリカにも告げたことを言った。
「脱出をしようと思うのさ」
「…正気?」
「お前にだけは一番言われたくないね!?」
確かに、里山モネが疑う気持ちも理解出来ない訳ではない。事実、この世界は呪いで脱出不可能だ。だが、僕に言わせれば呪いがなんだ。そんな非科学的なものなど、僕は信じたくもない。
「止めるのか?」僕が問うと暫し黙り、噛み砕くように里山モネは口を開いた。
「止めないわ。元はと言えば、私が初めた事だから。ただ、サリカに言うように頼んだのだけれど。彼女の言ったこと聞いていなかったの?」
「聞いていた。だけど、お前はこっちと現実世界を行き来できるんだよな?呪いなんて関係ないだろ?」
「そうね。裏技があるのよ」
「そんなゲームのチート方法の用に言われても困るのだが」
里山モネは机の引き出しからメモ帳とセロハンテープを出し、机上にあった万年筆で何かを書き、セロハンテープに自身の指紋を付けた。
「私があなたを押し込めた建物ーーーあそこに別館があるんだけれども、そこの地下に行きなさい」
「逃がしてくれるのか?」
「否定はしないわ。こいつを押し付けて、番号を入れれば開く、ザルみたいなセキュリティよ。トドメはあなたの能力で切り抜けるはず。あと、あなたを生かす約束をしたから、仮にあなたが政府の奴らに捕まったとしたら私たちが助けに行く」
「何故そこまでしてくれる?」
「気分って事にしておいて」
メモ帳と指紋の付いたセロハンテープを僕に渡した。
「良い?正門は内側から開かないわ。地下に行くのよ。扉に近寄るだけでセンサーが働いて通報。また、牢獄生活になる。だから、あの巨大な門には、絶対近寄ったら駄目。例え私でも近寄れないんだから」
僕は黙って頷いた。
「別館に入ったら、必ず防犯カメラの死角になるように移動しなさい。警備の人もいるから気を付けて。別館にはね、被験者の目玉だとかの臓器が保存されているのだけれど、見ない方が良いわ。どの部屋にも入らず、屋上から侵入したら突き当たりの階段を降りること。良いわね?」
「待て、僕は屋上から入れば良いのか?」
「その方が安全よ。体力もジャンプ力上がってるでしょう?」
魔法少女か何かなのか。僕は空は飛べなくても強力なジャンプはできるらしい。彼女の言い分に「はぁ」と上手くご飯を飲み込めない子供のように僕は言う。
「ご飯は食べていくでしょう。夕飯の時間を使って本当に脱出したいのかじっくり考えなさい。さて、そろそろ出来る時間よね。カディスは料理が得意なのよ」
鼻歌交じりに里山モネは言った。
「全然関係ないこと聞いてもいいか?」
「どうぞ。今度は何の話かしら?」
「大したことじゃないさ」椅子から立ち上がり僕は言う。「サリカとカディス。名前を付けたのはお前か?」
僕の質問に里山モネは笑った。それはあどけない、無邪気な子供の笑顔だった。
「そうよ。素敵な名前でしょう。元ネタが分かるなんて流石ね」
「お前らしいよ」
彼女の後ろにある世界史の参考書を見ながら、僕はそう思ったのだった。