記憶の中に
「なあ、佐月。里山モネという人物を覚えているか?」
5月。
初夏の気配が香り初めた頃に、突然僕の元に1件の連絡が入った。
大学生活に慣れてきて、私生活が落ち着きを取り戻した辺りに、突然喫茶店に呼び出されたのである。僕にメールを寄越した人物は夏目雅之。今僕の眼の前にいる彼こそがそうだ。
小学校からの腐れ縁で、元々1人を好んでいた僕には良い迷惑だったのが、何故か憎めず、大学生になった今も、このような生温い人間関係を保ってきている。
「里山モネ?誰だよそれ」
聞き覚えのないその単語に、僕は疑問を抱く。
「里山モネは里山モネだよ。千里の里に富士山の山。モネはカタカナでモネ。黒髪で背が小さいんだ。目の色が綺麗な青色だったから多分ハーフなんじゃないかな?クラスの中でも、結構可愛かったよ」
ジェスチャーを交えながら彼は言う。そう言われても、やはり、分からない。
大体高校生活でまともに会話したのは夏目ぐらいだ。男子ならそれなりに関わりはなかったことはないが、女子となると関わりどころか話したことさえもない。必要最低限の関係しか、人とは会話をしたくない。
「やっぱりそうか。まあまあ、一応聞いてくれよ。面白い話だからさ。あの女、まだ高校で三年生やってるらしいんだ」
「留年か。それ程馬鹿だったんだな。そんなつまらないことでわざわざ僕を呼び出したのか君は」
「まさか。違うよ」へらへらと笑いながら彼はアイスコーヒーを啜る。
「そんなことで君を呼び出したりなんかしないさ」
「じゃあ一体なんだ?」
「卒業アルバムに彼女の名前が残っていないんだ。もちろん、写真にも。だが、不可解なことに写真に変なスペースがあるんだよ、まるで彼女がそこにいたみたいにね。それに俺らの前の年…即ち去年、一昨年、その前のアルバムにも同様、さ行の列に不思議に間が空いてるんだよ」
「で、夏目は何が言いたい?」
「永遠の高校三年生、ってことだ。彼女は卒業しない。佐月と同じように元三年四組の連中にも里山モネの存在を確認してみたいんだ。だが、皆してこう言うんだ。“覚えてない”って」
「くだらない。僕みたいに他のやつもその里山っていう女に興味無かったんだろ。学校側も本来卒業を見込んでいたが、卒業間近で単位が足りないことが分かって慌ててアルバムから削除したんじゃないか?」
公立の学校は現在では留年を認めないと聞いたことがある。しかし僕の母校は私立だ。学校の方針も厳しい方だったが故に、夏目の言っていることは今ひとつ理解出来ない。
「だと思うだろ?だけどね、学校側も里山モネの存在を覚えていないんだ」
「…それは面白いかもしれないな。人の記憶に残っていない、ということだろう?」
決して他人の記憶の隅に残らない人間と聞くだけで、怪異感が増し、僕の好奇心を擽った。
「そうだろ?やっと興味を持ってくれたか」
しかし、ひとつだけ違和感があった。いくら僕が他人に興味は無いと言っても彼女の名字は、僕の名字である“佐月”と同じく、さ行。始業式やその後の座席で顔を合わせないなんて事はないはずだ。そして、彼女の名字の響きは、何処か懐かさを思い出させる気がするのである。
「どうした慎也。難しい顔をして」
「何か引っかかる気がして。今、僕が母校に行ったら彼女に会えるのか?」
「ちょっと厳しいだろうな」
「なぜ?」彼女の存在を肯定していた彼から否定の言葉が出て思わず戸惑う。「里山モネに会えたから僕をわざわざ呼び出したんじゃないのか?」
「絶対に会おうと思って会える相手じゃない。この話題は俺の後輩から聞いたんだよ。俺も先日、高校の方に遊びに行ったんだが、いなかった。適当にすれ違った三年生に声をかけたら“里山モネはいる、今日も学校に来ている”っていうんだよ。変な話だろ?それでも、もし今日この後講義がないのなら、会いに行くだけ行ってみたらどうかな?何かわかるかもしれないよ」
「…そうしてみる。面白い話が聞けて良かった。馬鹿にして悪かったな」
「うん、それは何より。佐月が興味を持ってくれたのが俺は一番嬉しいね」
夏目は笑顔で座席を立ち、鞄を背負った。黒を基調としたお洒落なリュックサックだ。
「じゃ俺、これから授業あるから。話付き合ってくれてありがとう」
そんな彼を座席から僕は見送り、胸の中に残る訝しい蟠り。里山モネ。絶対、過去に、僕は聞いたことがある。
なのに、どうして思い出せないのだろう。
遅くなったが僕について語ろう。
と、言っても、僕は語れるほどハイスペックな人間ではない。一言で表せば、背が高いだけが取り柄の人間だ。趣味は読書。目を合わせる事が苦手だから、コンタクトにしないで、敢えて眼鏡をする。前髪を伸ばして、他人に表情を悟られないようにする。こう、言葉にしてみると、僕の根暗さがより一層分かってしまうのが、少しだけ悲しい。
前述で出たように僕は友達を作らない主義だ。
中二病だとか1匹狼だとか言われるのは別に構わない。ただ、僕は人と戯れる行為自体が嫌なのだ。
先程僕と話していた夏目雅之。彼だけは、何故か僕の事を気に入ったらしい。その出会いは小6だった。親の都合で転校してきた彼が、特に席が近い訳でもない僕と交友を持つなんて、全くおかしな話である。
話は変わって、夏目の言っていた、里山モネのこと。それが、どうも胸の奥に引っかかっていた。まるで、水無しで飲んだ大粒の錠剤が、喉の先で蠢いている感じだ。
無意識の内に僕の足は母校である水幡高校へと歩んでいた。普通の公立の高校だ。僕が3年間通った学校。特に面白くもない高校生活だった。
まだ彼女の事は思い出せない。何か大切な事を忘れているようで、物凄く、心の中が苦しい。
高校へ入り、職員室に寄った。
約二ヶ月ぶりに来た学校は巨大なコンクリートの塊のようだった。生きているものをすべて飲み込んでしまうかのように見えた。何故だか分からないが昔、蛇が卵を丸呑みする映像を連想させた。
職員室には知っている先生はちらほらいた。誰に話しかけようか暫し迷ったが、結局一番手前にいた進路指導の教員に話しかけた。名前は確か、吉田先生だったと思う。
「こんにちは」
何を口に出したら言いか分からなかったので挨拶をした。その教員は僕の存在に気付くと振り返り、にこやかに微笑む。
「佐月くんだったけ?夏目くんと仲が良かった。久しぶりだね。学校はどう?大学生活は楽しい?」
禿げかけた頭を撫でながら彼は言う。
僕は「まあ」と曖昧に返事をする。夏目の名前が出てくるのと同時に自分の名を知られていた事実に少々驚いた。
「たまたま近くに寄ったので」
「高校から君の進学した大学、近いもんね。わざわざ来てくれて嬉しいね。君の元担任は生憎授業中だが、どうする?お茶でも出よ。先生が来るまで、そこの奥の会議室で待つかい?」
「あ、いえ。大丈夫です。先生の方には僕が後から伺います」
正直、担任には会いたくなかったが、無断で来校する理由にはいかない。適当に嘘をついた。
「もしかして…。君も、里山モネさんに会いに来たのかな?」
ドキリとした。背筋が冷たいものに触れたみたいに。
この初老の教員は、僕の他にも、里山モネを目当てとして来校した卒業生を、知っているのだろうか。それとも夏目が眼の前の彼に口外したのだろうか。分からない。
「なぜそれを?」
僕はなるべく表情を変えないで聞き返す。
「まあ見に行ってみると良いさ。彼女は何かモデルでもやってる有名人なのかな?自分には知らない事ばかりでね。三年四組にいるよ」
教員に軽く礼をすると職員室から退室した。
もちろん僕が行く先は三年四組だ。彼女の存在を確かめなければならないと謎の衝動に駆られる。
廊下を通り、階段手前のその途中に洗面所がある。学校生活を送っていた時は特に気にも止めなかったが、今日は一時停止をした。再び違和感が僕を襲う。
「なんだってことないよな」
鏡に映る僕を見つめた。少し長めの黒い前髪。切れ長で目付きが悪いと定評の黒い目。目付きの悪さを誤魔化す黒い眼鏡。そして血色が悪い白い肌。紛れもない佐月慎也僕自身だ。
背後に何かを感じた。
反射的に振り向くが後ろは壁。しかもここは廊下だ。誰かが通ってもおかしくない。廊下の先、左右を見渡すが誰もいなかった。きっと気のせいだと再び自分に言い聞かせる。
「…気のせいだよな」
そう言い、鏡に視線を戻すと非日常は僕を襲った。
洗面所の鏡には真っ赤な液体でこう、警告だろうと思われる文字が書かれていたのだ。シンプルに3文字で。
ーーーー『来るな』と。
「なんだよこれ、血か…?」
生理的に触れたくはなかったのだが、好奇心に負ける。震える指で文字の書かれた鏡をなぞった。
生乾きの油絵の具のような、ねちゃっとした気味の悪い触感がした。その嫌悪感に顔を顰める。
そもそもこれは誰の血か。汚れた指を慌てて水で洗い、二階の一番手前の教室、三年四組がある上の階へと登る。ぺたぺたと床に張り付いた音を出す来客用のスリッパが鬱陶しかった。
階段を上り終わったところで、僕は緊張していることに気がついた。
深呼吸。
僕は何に怯えてくるのだろうか。どうせ夏目が言った通りに彼女には会えないことに違いないだろう。
五時間目の授業中の三年四組の教室の前に来て、教室後方の扉の窓ガラスから中を窺った。教卓に立つ見慣れた教員。その教員の話に耳を傾けたり机に臥している生徒。その光景はいつもと何も変わらないはずだ。
ーーー廊下側の後ろから二番目に座る異彩を放つ少女を除いては。
刹那、突如“声”が現れた。
「あーあ。見つかっちゃった」
若い女の子の声。鈴の音のような、軽くて、透き通っていて。その儚げな声が何処から聞こえたのか辺りを見回すが誰もいない。
教室に視線を向けると、黒髪の少女が座席から振り向く姿勢でこちらを一点に見ていた。
サファイアを埋め込んだかのような澄んだ青色の綺麗な瞳が、僕のような不健康じゃない、真っ白で美しい肌に、映える。そして、唯ならぬ雰囲気を醸し出す。
間違いなく彼女こそが里山モネであると強く確信した。
振り向き、授業中に外の人物と話す里山モネには、クラスの連中は目もくれない。きっと夏目の言っていた、あの謎の不思議設定が働いているのだろうと、自己解釈した。
だが、腑に落ちないことがある。何故この僕が会えないはずの彼女に会えたのだろうか。強く疑問を抱いた。
「適正はあると前から思ったけど…。あの警告も私の姿も見えるとは信じられないわ…。…あなたの記憶を返すしかないじゃない」
上から目線の物言いで、彼女は僕には理解に苦しむ言葉の羅列を並べる。混濁した頭の中に、突如、彼女に関する記憶が波のように流れてきた。
「君は…、里山モネは…」
「ごめんなさいね。いくらあなたに適正があるって分かっていても巻き込みたくはなかったのよ。だけど見つかったのなら話は別だわ」
頭痛がする。後頭部が熱を帯びたように響き、まるで脳味噌と熱した鉄板とが交換されたみたいだ。音が遠くなり、世界が歪む。ぐにゃぐにゃになって、溶けていく。平衡感覚が崩れていく。
「ああ…。思い出したよ、里山」
薄れていく意識の中で失われた記憶の核を掴んだ。
僕は知ってる。彼女のことを。それは気の所為でもない。都市伝説でもない。実際に存在したのだから、嘘も何もないのだ。
ーーー里山モネは、僕のクラスで、いじめの被害にあっていた少女だった。
それはバスだった。そこに僕は座っている。
眠りから覚醒した僕は飛行機のシートベルトのようなもので固定されていた。身動きが取れなかったので、恐らくシートベルトと呼んでも間違いはないだろう。
天井には空があった。海外のバスのように、そういった設計なのだろう。まるで、オープンカーのようで、バス走ると、風が僕の顔面を撫でる。
空は曇天だった。霧だろうか、黄色く霞んでいる。そして意識はしなかったが、鼻を刺す酸っぱい臭いがした。
バスは塔の方へ走っているようだった。運転席のフロントガラスから垂直に落としたような巨大な塔が立っていた。僕の地元の清掃工場の焼却塔とは比べ物にならないほど大きく、この街の塔は雲に突き刺さっているみたいだ。その塔を囲むかのように建つ壁もかなり気になる。
世界史の資料集で見た要塞とどことなく似ていた。変な街だ。ここは一体何処なのだろう。
ここで僕の冷静な判断が崩れる。
慌てて椅子から上半身を乗り出す。ガタガタと下手な運転をしてるはずのバスの運転手を確認するといない。無人運転なのだろうか。
続いて後方を確認すると、他に人間が8人いる。2人がけの席だったが僕同様、1人で独占しており、疎らに座っている彼らは死んだように眠っていた。
ーーーまさか、このまま壁の内側へ連れてかれるのではないか?
僕の人生の危険信号が囁く。
狼狽えて、シートベルトを外すことを試みるものの、外れない。引っ張ったり、叩いたり、入り込んでいるところに指を挿したりしたが、一向に外れる気配は無かった。
「無駄よ」
隣から女性の声がした。若い女の声だ。何処かで聞いたことがある。
「え?」
今の僕の表情は驚愕に満ちているだろう。なぜなら、先程いなかった僕の隣の席に、里山モネが座っていたのだから。
「もうすぐ着くから大人しくしてなさい。お久しぶりね、佐月。私のこと、ちゃんと覚えてるわよね?」
パンツスーツに身を包み、長い髪を左側で結った姿は、大人っぽさを感じられた。綺麗な顔を上品に歪ませ、子どものような笑みで僕に話しかける。
「…覚えているさ。僕の後ろの席で、いじめられていた女の子と言えば、一発で君だと特定できるほどにね」
「それは歓迎ね。嬉しいわ。あんまり長くは会話出来ないみたいだけど、一個だけなら質問に答えてあげるわよ」
酸っぱい臭いが濃くなり、バスが停車した。
僕を束縛していたシートベルトは、カチッと快い音を出して外れた。後ろの席で眠っていた連中が目を覚ましたのか。僕のようには狼狽しない。奴らは操り人形のように、ぞろぞろと、前方の開いたドアへと降りてゆく。
「ここは…何処なんだ?僕の夢?」
里山は黙って僕の手を引く。バスを下車し、ビル10階はあるような壁を指差した。
「ようこそ、<エラ・ステラス>へ」
彼女が言うと壁に埋め込まれた観音扉のような大きな門が開いた。
「あなたたちには実験材料になってもらうわ」
門の奥に見える大量の工場の煙突から煙が上がっており、これが酸っぱい臭いだと知る。
足元のぬかるんだ穢れた土も、異臭を放つ白煙も、そして、この異様な街の全体が僕を歓迎しているようにみえて悲しかった。