いっそのこと…。
夏美は苦笑いして石津に向き直る。
「いっそのこと、このキレイな川を歩いて行った方がいいかもしれません。誰も引き留めませんよ。」
「そんなことあらしまへん!」
「さっきの二つの映像、見ましたか?あれが私の立ち位置なんです。」
石津の顔をじっと見て、夏美は言った。
「兄と私、二人が同時に何かがあったら、私は常に切り捨てられるんです。」
言い終えると、夏美はくるりと踵を返し、驚く石津を置いて歩き出した。
「お嬢さん、誤解です!」
石津の声が背中に飛んできたが、夏美は足を止めることなく歩いて行った。
歩いている夏美の頭上に、また目の前に映像が浮かんできた。
「お母さん、タオルある?学校に持っていく雑巾を縫いたいの。」
「何枚?」
「2枚。」
すると母親は4枚のタオルを差し出した。
「2枚でいいよ?」
「お兄ちゃんの分も縫ってあげてくれない?」
仕事で疲れた表情で母親が言う。
「…。…いいけど。」
寝転がって漫画を読んでいる兄を尻目に、肩を落としてタオルを受け取る小学生の夏美。
新学期に学校に持っていく雑巾を、せめて自分の分は自分で、と思ったら、兄の分まで縫う羽目になったのだ。あの頃は、雑巾は売られてなかったから、家で縫わなければならなかった。
「この時も、どうして私ばっかり、って思って、悲しかったな…。」
呟いたら涙が滲んできた。
「こっちに来たら、泣かなくていいのよ。」
映像が消えると、川の向こうから声が聞こえた。
「ホント?私はもう悲しくならない?」
「もちろん。」
そっと水面に手を伸ばすと、後ろから物凄い勢いで引っ張られた。振り返ると石津が夏美を水面から引き離すべく尻もちをついていた。
「何するんですか!」
「お嬢さん、あきまへんで。気を確かに!」
「止めないでください。私は価値のない人間だと、よくわかりましたから。」
「そないなこと言わんといてください。ノブさんがどんなにお嬢さんを大事に思ってらっしゃるか。」
「じゃあどうして、私はかばってもらえなかったんですか!どうして雑巾を4枚も縫わないといけなかったんですか!」
そうこうしていると、また映像が浮かび上がった。
そこにいたのは、高校生の夏美。そして両親。
「どうして私ばっかりこんな思いさせるわけ!」
「仕方ないでしょう?お兄ちゃんがかわいそう。」
「結果を出したのに?家事を手伝いながら頑張ったのに?」
「仕方ないでしょう。夏美はガマンしなさい。」
一番見たくない記憶だ。
年子の兄と同時に大学受験をして、夏美は現役合格を果たしたが、1浪した兄には一つも合格通知が届かなかった。その影響で、夏美は春休みは何一つ好きに出かけられず、友人と約束していた卒業旅行すら行けなくなった。後々「あのことは本当に悪かった」と何度も謝られたが、夏美の気は収まらなかった。
「これ、ノブさん、ホンマに後悔してはった記憶やと思いますわ。」
「後悔しようが、謝られようが、時間は戻りません。この時に、私は価値のない人間だと思い知らされたんです。」