蝉はまだ土の中
「……真渕」
ぐっと胸元を押された。俺はすぐに中河内の頭から手を話した。
「もう、人が来る」
言われてみれば、扉の向こうから何人かの話し声が聞こえていた。
「あー……じゃあ、俺保健室行くから」
もうチャイムは鳴り終わっている。今更行った所で、手遅れと言えば手遅れだが。
「つーか、お前はどうすんだよ」
振り返ると、中河内は既に来た時にいた所にいて、またシャボン玉を吹いていた。まるで、何事もなかったかのようにすました顔で。
……つまり、自分は初めっから授業をさぼっていたと装うと。そうですか。
俺は俺で、どう言い訳をしようかと考えながら保健室へ向かった。
「……と、言うわけなんで、ご心配はいりません」
明らかに嘘くさい笑みで説明しているような声が聞こえた。隙間から覗くと、さっきの世界史の時の先生がいた。やっぱり来たか、来る前になんとか滑り込めてよかった。
「そうですか。じゃあ、真渕の担任にはそう伝えておくんで、午後の授業は休ませてやってください」
「はい、お願いします」
そんな会話をしてから、世界史の先生は去って行った。
「さて。確か具合が悪くて来たのよね、真渕くん」
くるっと椅子を回し、さっきの笑みより明らかに腹黒い笑みを浮かべた顔が俺の目に入った。
「そうですけど」
「どの辺が悪い? 頭? 喉? それともお腹からしら」
そう言って、寝転んだ俺の腹に拳が入った。自分でも驚くほど鈍い声が出た。
「ばっ……! あんたそれでも保健教諭かよ!」
「誰のおかげで匿えたと思ってんのよ、ちょっとくらい感謝しなさいよ」
なんと恩着せがましい。と、口に出せば確実に俺は地獄行きなのでやめておく。
入江結姫奈。この学校の保健教諭で、兄貴の結婚相手。兄貴とは高校からの付き合いだから、何度か家に来たことがあった。その度にいじられていたが。兄貴の結婚相手になったほどだから、この人も自由奔放で感情の起伏が激しい。そんなんでよく教師という職業が成り立っていると思う。
俺がさっき駆け込んで来たときなんか、理由も聞かずに襟元を掴んで空いていたベッドに放り込まれただけだった。身内だからといって、俺の扱いは尋常じゃないほど酷い。
「それで? どうせまた未来ちゃんと一緒にいたんでしょ?」
そして何故か、家族にも隠している中河内のことを知っている。
「……そうだけど」
「幸はほんとに未来ちゃんが好きよねえ」
「いや、違うけど」
「隠さなくていいのよ。いいわねえ、高校生」
なんだ、この親戚のおばさんみたいな言い方。
俺はこの人は苦手だが、だからといって避けることもできない。この人だけが俺たちの歪な関係について理解してくれる人だし、良き相談相手(と言えるかは謎だが)にもなってくれる。しかも俺たちの学校に務めているのだから、何かあった時にうまく裏を回してくれるかも知れないから。中河内は、俺とこの人の関係を未だ知らないが。
「それで? 未来ちゃん元気?」
「元気って……あんた全然会わないだろ」
「そうでもないのよ。あの子最近ここによく来るようになってね。まともに教室に行ってないんじゃないかしら」
なんと。
それは初耳だ。屋上によくいることは知っていたが、まさか教室に入らず直行してたこともあったのか。まあ、一つの空間に閉じ込められるのが嫌いな中河内のことだ。そんなことをしていても頷ける。
「ちゃんと大切にしなさいよ。あの子も女の子なんだから」
「……ていうか、なんでそんなに俺たちのこと気にかけるんだよ」
「あの人にいわれたの」
あの人とは、恐らく兄貴のことだろう。
「幸は誰かを守ろうとするけど、不器用だから空振るだろうからフォローをよろしくって」
「……あいつ、ほんとにエスパー?」
「さあ。でも、あの人も結構疎いとこあるから。そこは兄弟よね、さすがだわ」
そんなところを褒められても嬉しくはない。