蝉の亡骸が落ちる前
思えば、特異な環境だったわけでもなく、普通の家庭で育った。父さんはあまり家にいなかったが、誰かの誕生日とか学校行事の時は必ず見に来てくれていた。母さんは優しく、ちょっとしたことでもあまり叱らなかった。ただ、人に迷惑をかけるような人間だけにはなるなと言われた。兄貴は大学に合格した途端、バイトで貯めてきただろう金でさっさと日本を飛び出して行くような奇人変人ではあったが、別に目が三個あるわけでも手が六本あるとか、そういうことはなかった。
それが俺の家。どこにでもあるような一般家庭だ。なのに俺、真渕幸は、恐らく一般常識からかけ離れたような子供だったのだろう。昔から相手の裏を読み取ることが得意で、よくトランプのババ抜きとかポーカーとか、心理戦の遊びは負け知らずだった。
「お前、変わってるよな」
昔誰かにそういわれた記憶があるが、当時の俺はよく判らなかった。それが当たり前だったのだから。
そうしてかれこれ十五年。俺は何にも興味を示さず、何かの操り人形のようにその場の空気に流されながら生きてきた。実際、そこまで苦労をするような生き方ではなかった。他人から反感を買うことはあったけど、そうなった時には味方と呼べる人脈は手に入れていた。俺はこういう小賢しい人間なんだな、と感じたのは小学校高学年にあがってからだ。
そんな俺の転機は、中学二年の時だった。
その日は何となく屋上に行こうと思い、具合が悪いというのを装い授業を抜け出した。中学の時は、屋上は本当に立ち入り禁止で、見つかったら即説教という感じだった。休み時間は常に見張られているので、先生に見つからないようにするためには、授業中しかない。
俺はゆっくりと階段を上り、屋上へ行こうとした。通り過ぎて行く教室のあちこちから話し声やチョークの音、あるいは説教の怒鳴り声を聞こえてきた。屋上への扉を開く時、俺は気づいた。もう既に開いていたのだ。俺と同じ考えをするのが、もう一人いたとは。
俺はゆっくりと扉を開けた。中学の屋上はそれほど広くなく、扉から数十歩歩けば奥までいけるレベルだった。
その奥の落下防止用の手すりの所に、先客はいた。風で左右になびく黒髪を見て、俺は初めて美しいという感情を抱いた気がする。制服を見る限り、先客は女子生徒だった。よく見ると、肩……というか体全体が小刻みに揺れていた。
「……っ、どおして、どおしてあたしばっかり辛い思いをしなきゃいけないのよぉ……」
小声だったが、何となくそんな類いのことを言っていた。いじめを受けているのか、それとも家庭が不安定からきた精神的ストレスなのか、それは俺には判らなかった。ただ判るのは、もしかしたらこの女子生徒は、
「あの……目の前で閉じ下りるのだけはやめてくださいね」
俺がそう言うと、女子生徒は体をびくっとさせた。俺に気づいていなかったのだろう、相当驚いている。振り返った女子生徒の顔を見ると、左頬に湿布が貼ってあった。
「え……え……?」
「いや、だってあまりにも自分を追いつめてたから……あ、驚かせたことには謝るよ」
本当に困惑しているな。俺が来たことになのか、あるいは自分は飛び降りると思われていたからなのか。
「……君、えっと、誰……?」
「え、俺? うーん……」
俺は基本、これから先付き合っていくことにはならないような人間に本名は教えない。この時も然り。曰く、
「村人A」
女子生徒は疑いの目を俺に向けた。そりゃそうだ、いきなり村人Aなんて言う奴いねえもんな。
「えっと……取り敢えず、君もここにいたら怒られるよ」
「うん。怒られるのが嫌だから今来てんの」
「ふーん……ねえ、本名は?」
俺は付き合っていかないような人間に本名を教えないとはいったが、他人からダイレクトにそう聞かれればちゃんと答える。
「真渕幸。幸せって書いて”ゆき”ね。ちなみに二年二組。あんたは?」
そう聞くと、女子生徒は一瞬嬉しそうな顔をした。何が嬉しかったのかは知らないが。
「……みき。中河内未来。二年四組、です」
それが、中河内との出会いだった。
「へえ。おんなじ学年なんだ。それにしても、珍しい名字」
「そうかな。まぶちだって、珍しいとは思うけど」
まあ確かに、鈴木や田中のように頻繁でいるような名前ではない。俺もまだ、親戚類以外で同じ名字の人間にあったことはない。
この頃の中河内の印象は、目を離したらすぐにでも壊れてしまいそうなくらい繊細な印象が強かった。まあ、それは今でもあまり変わらないけど。
とにかく、俺はこいつを守らなければいけないという謎の使命感を、当時の俺は感じていた。その使命感からなのか、俺たちが形のない歪な関係になるまでに費やした時間は、そう多くはなかった。
ちょうど過去編ですね。現在と過去を交互にしてきたいと思っているので、判りにくかったらコメント等でよろしくお願いいたします。
【追記】真渕の名前ですが、”こう”ではなく”ゆき”でした。すみません。