「……このような事態は久しぶりじゃ」
固定観念というのは厄介なもので、一度こびりつくと落とすことは難しいらしい。
それは常日頃巫女に接し、不可思議なことに慣れた一族の者においても例外ではなかった。
以前滝へ打たれるべく池に沈んだ際に、うっかり淵に履物を揃えておいたことがあった。
池の淵に履物である。真砂の姿も見えなかったこともあって、屋敷内では上へ下への大騒ぎとなり、発見した者はもちろんのこと、真砂自身もとんでもない目に遭った。
懲りた真砂はそれ以降、決して脱ぎっぱなし……にはしていなかったのだが、とにかく履物を置いておくことは止め、術で出し入れをしていた。
よって今回も放っておけばこのまま立ち話を続けるであろう孫息子(予定)を目線で制し、自分の屋敷へ付いてくるよう促すと手早く足の裏に着いた砂を払い、術で呼び出した草履を履いて自室へと戻り始めた。
月が照らす中、響くのは足音のみ。
明るさに問題はないのだが、懐中電灯どころか灯篭どころか提灯すら灯していない自然に包まれる静寂に現代っ子は耐えられないらしいとみえ、孫息子(予定)が口を開いた。
「なあ、その……池で何してたんだ?」
「うむ。滝に打たれようかと思うてのう……」
池へ入り、水を媒介にしてどこかの滝に空間を繋げ、その先の滝で打たれてこようとしたのだが。
「どうにも雑念が多かったようじゃ」
憂いを含んだ真砂へ孫息子(予定)は声を掛ける。
「繋がらなかったのか」
「滝の方からはじかれたようにも思う。……かような事態は久方ぶりじゃ」
ぽつりとこぼした真砂はたどり着いた縁側へ腰掛け、沓脱石の上で草履を脱いだ。
縁側を上がり障子を抜ける。その先が真砂の部屋だった。
床の間に飾り棚までしつらえた典型的な和室には文机といった基本的な調度品を除くと物が少ないのを通り越してまったく無い。
持ち主を知らない人間には何だこりゃ、隠居の部屋かとあきれられてしまいそうだ。
--もっとも、そういう人間には未だに出会ったことなないのだけれど。
ともあれすでに何度か訪れている孫(予定)にとっては目新しい物など何もないため、真砂が隅でお茶を淹れている間、適当にくつろいでいるかと思いきや。
「--あれ」
「何じゃ」
突然上がった声に真砂は手を止め振り向いた。
「いや、掛け軸。床の間の」
「床の間かえ? ……何ぞそなたの目を引くような物があったかのう」
首を傾げる真砂に対し、孫息子(予定)が指でさした。
「掛かってるじゃねーか」
その瞬間、真砂の中を知らない感情が溢れて満たした。
あたたかいような、くすぐったいような、……申し訳がないような。
そんな感情を真砂は今まで知らなかった。
本当に、知らなくて……。
後はもう全て覚えていなかった。
問われるままに何かを話したような気もするし、話さなかったのかもしれない。
覚えているのは、床の間の掛け軸のこと。
孫息子(予定)が指した滝が描かれた掛け軸のことばかりだった。