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スラムドッグハート  作者: 橋本洋一


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9/10

入学初日の喧嘩

 ホーデンさんに聞いていた軍隊らしいなと思いつつ、腕立て伏せを始めた、

 意外にもオリバーは文句を言わずに黙々とやった。レイも同様だった。

 五十回終えると「よし席に座れ!」とティガー教官に命じられた。


「このように貴様たちは一蓮托生である。ひとりのミスが三人への罰となる。例外は認めない。ウッド助手教官、何かあるか?」


 痩せぎすのウッド助手教官は「自分の役割は、生徒殿が日々の訓練を全うすることであります」と意外に低くて重厚な声で言う。


「そのためならばいかなる手段を取っていいと教官殿から許可をいただきました。その点を肝に銘じて訓練に臨んでいただきたく思います」


 うわあ。とんでもないところに入学してしまった。

 それが初日で抱いた素直な感想だった。

 だけど逃げ出そうとは思わなかった。お嬢さまのため、ローズホーンズ家のため、意地でも卒業してみせると心に誓っているからだ。


「わんっ!」


 一先ず落ち着いたところにグレイがやってきた。

 一匹ではなく学校の事務員の方と一緒だった。

 オリバーが「なんだその犬っころ」と嫌そうな顔をした。


「ああ。その犬はジョン生徒の私物だ。貴様らと一緒に訓練を受けることになる」

「はあ? どうしてですか?」


 またもオリバーが訝しげに問う。

 ティガー教官は「ジョン生徒には不思議な力があると報告が上がっている」と僕を見た。


「貴様そうだな?」

「はい、そのとおりです。その力は自在に操れませんが……」

「三年間の訓練でできるようになればいい」


 するとレイが「国軍幼年学校に入学できるほど特異な能力ですか」と顎に手を置いて考え込む。

 期待されているようだけど、発動のきっかけが分からないんだよなあ。


「話を変えるが、貴様らがどうして国軍幼年学校に入学したのか、この場ではっきりと言ってもらおうか」


 ティガー教官が改めて話を振った。


「教官殿、それは面接のときに――」

「あんな形式ばったところで話す内容に真実などない。大方聞こえのいい理由を言ったのだろう」


 レイの言葉を遮ったティガー教官は「誰でもいいから話せ」と教壇の近くに置かれた椅子に座った。ウッド助手教官は立ったままだ。


「えっと、僕はご主人さまの推薦で国軍幼年学校に入学いたしました」


 誰も話さないので率先して言うと「お前の自由意志ではないのか?」とティガー教官は不機嫌そうに笑った。


「はい、そうではありません」


 先ほど指導された否定を使った。


「ローズホーンズ家の方々を守るために自ら進んで志願しました」

「たいした忠誠心だな」

「僕は元々浮浪児で、従士見習いとして拾われた身です。自分で言うのもおこがましいですが、忠誠心は高いと思います」

「言うじゃないか。それで、貴様たちはどんな理由で入学した?」


 するとレイが「先ほども言いましたが自分を鍛え直すためです」と答えた。


「王族という血に守られた軟弱な心と身体を鍛え直して、己の手で何かを掴み取る。そのために入学しました」

「王族ならば最高の教育と指導を受けられるはずだ。どうしてそうしない?」

「自分でもはっきりとした答えはありません。ただ違う気がします」


 曖昧な答えにオリバーは「はっ。気楽だなお前ら」と嘲笑った。

 レイが顔色を変えて「どういう意味だ?」と迫った。


「ローズホーンズ家にしろ、王族にしろ、後ろ盾があるのに変わりねえな」

「なんだと!」


 レイが立ち上がってオリバーに詰め寄ったので「まあまあ落ち着いて」と僕は間に入った。


「ここで喧嘩でもしたらまた腕立て伏せだから」

「逆に腕立て伏せで済むのなら殴ってもいいだろう!」


 怒っているときでも頭が回るのは凄いけど、今は良くないな。

 なんとか宥めようとすると「俺が国軍幼年学校に入学した理由は」とオリバーが話し出す。


「金のためだ。軍人になって出世すれば大金が手に入る。そして金さえあれば何でも買える。立派な家や美味い食べ物、それに人からの尊敬も買えるしな」

「ふん。ひねくれた心は金でどうしようもできないけどね」


 レイの挑発的な言葉にオリバーは「口先は切れるようだな」と睨む。


「さっき、お前は育ちが悪いと卑下していたが妥当な自己理解だな。金ですべて買えるなどまやかしだ。その程度のことも分からないのか」

「金に不自由してねえボンボンの言い草だな。くだらねえ挑発しやがって」

「先に挑発したのは君のほうだろ! 育ちだけじゃなくて記憶力も悪いのか?」


 どんどん口論がエスカレートしていく。

 レイは立ちふさがっていた僕を押しのけてオリバーの席の前に立つ。


「くぅん……」

「大丈夫だよ、グレイ」


 尻もちをついた僕にグレイは駆け寄って顔を舐める。

 今にも殴り合いを始める剣呑な雰囲気だ。

 どうしよう……と思ったらばあん! と教卓が叩かれた。


「貴様ら、互いに気に入らないなら――ここで死ぬか?」


 ティガー教官がドスを利かせた声で威圧した。

 レイとオリバーは固まって何も言えなくなった。

 おっかないなあ。


「いいか? 貴様らは仲間だ。好き嫌いなど関係なく共に行動しなければならない。罰則を設けて喧嘩を止めるのは簡単だ。けれども、俺やウッド助手教官を煩わせるのであれば――二度と立てないように躾ける必要があるな」


 流石に軍人を養成する機関だけあって、人死になんて日常茶飯事なんだな。

 それからティガー教官は腕組みをして考え込む。

 嫌な予感がする……


「よし、貴様ら殴り合え」

「えっ? 何を――」


 僕が戸惑う中、オリバーが勢いよく立ち上がりレイの顔を殴った。

 不意打ちに近い――そのまま気絶するんじゃないかという威力だったけど、レイは素早く立って「育ちが悪いと手も早いのか」と唇に滲んだ血を指でふき取る。


「教官命令だ。ぼうっとしていたてめえが悪い」

「そうだな、油断していたよ……」


 ゆっくりとオリバーに近づいて――隙だらけだった――間合いに入るとレイは俊敏な動きで殴りかかる。それは武術を習った者ではないできないと素人の僕でも分かるような、非常に洗練された攻撃だった。


 鈍い音が教室に響く――殴られたオリバーはよろけたものの倒れはしなかった。

 彼もまた口元に血が滲んでいた。


「ボンボンにしてはいいパンチだ」

「馬鹿にするなよ。私はお前と同じ国軍幼年学校の生徒なんだ。一通りの武術は修めている」


 その言葉を皮切りに――二人は拳を構えて殴り合いを始めた。

 ばぎんごぎんと肉と骨の音が間隔無く響く。

 どうしたものかと呆然としていると「何をしているジョン生徒」とティガー教官が叱ってくる。


「俺は貴様らに殴り合えと命じた。さっさと参戦しろ」

「本気で言っているんですか!?」

「なんだ貴様。教官の指導に逆らうのか」


 ああ、ウェスタウンで平和に暮らしているであろうマリアお嬢さま。

 軍隊とは暴力と野蛮が理不尽にはびこるところなんですね。


「うううう――わんっ!」


 どうしたものかと悩んでいると、グレイが組み合っている二人に突撃した。


「な、なんだこの犬っころ……うわあああ!?」


 オリバーを押し倒しペロペロと顔を舐めまわすグレイ。

 まるでじゃれているようだ。レイがはあはあと気を切らして呆れている。


「ごめんね。教官命令だから」

「あ? ――ぐわっ!?」


 レイを殴るとその場に倒れこんでしまう。

 もう限界だったようだ。

 僕はぱあんと手を叩いて「気が済んだでしょ」と止めようとする。


「ティガー教官が言ったように、僕たち仲間なんだからさ。仲良くやっていこうよ」

「き、気に入らねえ! いきなり犬をけしかけやがって、さっさと離れさせろ!」


 舐められながら凄まれても怖くない。

 僕は「グレイ、もういいよ」と呼んだ。


「ふう、ふう、てめえ、やりやがったな」

「初日で怪我して訓練休むよりマシでしょ。君ももういいよね?」


 レイに水を向けるとそっぽを向いて「…………」と黙り込んでしまう。


「その沈黙は肯定でいいよね? さあ二人とも握手して仲直りしてよ」


 僕がそう促すと二人は嫌そうな顔をした。


「絶対にいやだ!」

「断る!」


 はあ。これからいろいろと大変だなあ。

 ちらりとティガー教官とウッド助手教官を見る。

 なんともないように平然としていた。


「血の気が多い生徒には慣れているんですか?」

「軍人になろうとする奴は血の気が多いもんだ。その点、ジョン生徒は案外向いていないかもな」


 初日で仲間が喧嘩して止めたら軍人として不適格と言われた。

 グレイがわんっとひと鳴きした。

 頑張れと言っているようだった。

 本当に大丈夫かなあ。

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