約束
「……ねえジョン。約束してくれる?」
しばらく沈黙して、お嬢さまは僕の目を見て話し始める。
その青い瞳は憂いが込められていて、原因は自分にあると分からされた――胸を締めつけられる。
「はい、なんでしょうかお嬢さま」
「必ずこの屋敷に帰ってほしいの」
その約束を守るのはかなり難しい。
戦場に行くのだから生き残れるとは限らない。無惨に殺されるかもしれない。
ここで必ず帰ります、と言えればどんなに気持ちが楽になるだろう。僕だけじゃない、お嬢さまだって安心できるに決まっている。
「約束は――できません」
「…………」
お嬢さまはまるで大切なものが壊された気持ちになったのだろう。悲しみで心が裂けそうな顔をしていた。
「約束を破ってしまうかもしれませんから」
「ジョン、あなたはいつも私に嘘をつかないのね」
お嬢さまは泣きながら微笑んだ。
心が苦しくなる――僕のせいだからだ。
「いつだってそうなの。でもね、嘘でもいいから生きて帰るって言ってほしかった。そうすれば――あなたの帰りを待てたのに」
「……お嬢さま、申し訳ございません」
「本当に残念だわ……」
それだけは僕が悪いという言い方だった。
実際、そうなのだから仕方ないけれど。
「もう、いい⋯⋯ジョンなんて――知らないんだからっ!」
お嬢さまは最後に怒鳴って、大広間から出て行った。
追いかけるべきかどうか迷って――結局はできなかった。
「あらあら。追いかける度胸もないのね。情けない子」
奥方さまの嘲笑に何も返す言葉はなかった。そのとおり、僕には勇気が必要だった。あればお嬢さまを追いかけて、ただ一言『必ず帰ります』と言えばいい。それすらできないほど臆病者だった。
「まあ浮浪児に私の最愛のマリアは釣り合わないってことね。安心したわ」
「奥方さま⋯⋯よろしいのでしょうか?」
「ホーデン。私はそこの子が嫌いなの。だから屋敷を出て行ってくれてせいせいするわ」
そこまで嫌われると悲しいよりも清々しい気分になる。
ホーデンさんは「私が言いたいのはそうではありません」と首を振った。
「お嬢さまの心に傷がついたと思います。大きく深い傷です。その傷の疼きは年月が経つほど強くなるでしょう」
「もったいぶった物言いは嫌いよ」
「せめてお嬢さまとジョンに良い思い出を。たとえ二度と会えなくても、それさえあれば悲しい現実を乗り越えるように」
ホーデンさんの提案を「意味がないわ」と奥方さまは一蹴した。
譲れないものを感じるようだった。
「悲しみはいつか乗り越えられるけど、美しい思い出は汚すしか諦めがつかないのよ」
奥方さまの考えに僕なんかが異議など唱えられない。
そんな資格すらない。
お嬢さまを悲しませたのは僕なんだから。
◆◇◆◇
いよいよ屋敷を出て新兵教育を受けに王都ネームスに向かう日がやってきた。
その間、お嬢さまとは会えなかった。ずっと自室に閉じこもっていたようだ。これでは何も話せない。
せめて別れの言葉を告げられたらと思うけど⋯⋯
「ジョン、軍隊は厳しいところだ。気を抜かず生き抜くんだぞ」
馬車に乗り込むときにホーデンさんがありがたいことに助言をくれた。僕は「今までありがとうございました」と頭を下げた。一緒に行くグレイもわんっと一鳴きした。
「最高の教育をしてくれたこと、絶対に忘れません。ご恩はいずれ返します」
「生きて屋敷に帰ってくれれば何よりの恩返しだ」
寂しさを滲ませた声だった。
僕は力強く頷いた。
馬車のドアを開けてグレイと共に入ろうとする――
「――ジョン!」
暖かくて柔らかな声に振り返る。
お嬢さまがいた。大粒の涙を流している。
まさか会えるとは思わなかった。
戸惑う中、グレイが吠えて僕を促す。
ホーデンさんが御者に待つよう言う。
「お嬢さま⋯⋯見送ってくださるのですか?」
「⋯⋯私、決めたの!」
何をですか、と聞く前に――お嬢さまは僕を抱きしめた。
「お、お嬢さま! 人が見てますよ!?」
「見せつければいいじゃない! 何も恥ずかしいことしてないんだから!」
痛いくらいの強さでどうしようもない。
なすがまま、時間が経って。
ようやく離れてくれた。
「ジョン、これあげる!」
差し出されたのは黒のペンダントだった。
僕が贈ったものと似ている。
「メイドに作り方教わって作ったのよ。あなたの髪色と一緒。受け取ってくれる?」
「ええ、もちろんです」
その場で付けるとお嬢さまはにっこりと微笑んだ。
僕が一番好きな笑顔だ。
「私、ジョンが帰ってくるまでこの屋敷にいるわ」
「何年経つか分からないんですよ?」
「それでも待つのっ!」
口を尖らせてわがままを言うお嬢さま。
「ご結婚なさるときも来るでしょう。その時どうするんですか?」
「安心して。ジョンが帰ってくるまで結婚しないから!」
「それはそれで心配になりますよ!」
するとお嬢さまは得意そうな顔になった。
「これなら絶対に帰ってくるでしょ」
「⋯⋯⋯⋯」
「どう? 私、間違っているかしら?」
ああもう。こんな風にされたら死んでも帰らないといけなくなる。
いつからずるくなったのかな。
「やっぱり、お嬢さまには勝てませんね」
「でしょ? ⋯⋯ジョン、帰ってきてね」
急に真剣な顔に変わったお嬢さまに、僕は真面目に応じる。
「はい。絶対に帰ってきます」
「⋯⋯約束よ。破ったら許さないんだから」
「これ以上、お嬢さまを悲しませるわけにはいきませんから」
死ぬ気は元々ないけれど、ますます死ねなくなった。
お嬢さまのために生きて、生きて、生きる。
「お嬢さま、そろそろお時間でございます」
言いにくそうにホーデンさんが促すと、名残惜しそうに「そうね……」とお嬢さまは頷いた。
「それじゃ、ジョンまたね! グレちゃんも元気でね!」
「ええ。また会いましょう――マリアお嬢さま」
「わんっ!」
馬車に乗り込んで窓からお嬢さまを見る。
ホーデンさんの隣で大きく手を振っている。
僕も同じように手を振った。
グレイもしっぽを振っている。
「これから新しい生活が始まるんだね、グレイ」
この一年間、とても楽しかった。
お嬢さまとグレイ、そしてホーデンさんたちがいたから楽しかったんだ。
裏路地のつらい生活を忘れるぐらい輝かしいものだった。
「くぅうん……」
グレイが後悔はないの? と訊ねるように鳴く。
「ううん。大丈夫。後悔なんてないよ」
首にかけたペンダントを触りながら思う。
僕を待ってくれる人がいるから。
僕に生きてほしいと思ってくれるから。
「マリアお嬢さまのおかげで――頑張れる」




