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スラムドッグハート  作者: 橋本洋一


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7/9

約束

「……ねえジョン。約束してくれる?」


 しばらく沈黙して、お嬢さまは僕の目を見て話し始める。

 その青い瞳は憂いが込められていて、原因は自分にあると分からされた――胸を締めつけられる。


「はい、なんでしょうかお嬢さま」

「必ずこの屋敷に帰ってほしいの」


 その約束を守るのはかなり難しい。

 戦場に行くのだから生き残れるとは限らない。無惨に殺されるかもしれない。

 ここで必ず帰ります、と言えればどんなに気持ちが楽になるだろう。僕だけじゃない、お嬢さまだって安心できるに決まっている。


「約束は――できません」

「…………」


 お嬢さまはまるで大切なものが壊された気持ちになったのだろう。悲しみで心が裂けそうな顔をしていた。


「約束を破ってしまうかもしれませんから」

「ジョン、あなたはいつも私に嘘をつかないのね」


 お嬢さまは泣きながら微笑んだ。

 心が苦しくなる――僕のせいだからだ。


「いつだってそうなの。でもね、嘘でもいいから生きて帰るって言ってほしかった。そうすれば――あなたの帰りを待てたのに」

「……お嬢さま、申し訳ございません」

「本当に残念だわ……」


 それだけは僕が悪いという言い方だった。

 実際、そうなのだから仕方ないけれど。


「もう、いい⋯⋯ジョンなんて――知らないんだからっ!」


 お嬢さまは最後に怒鳴って、大広間から出て行った。

 追いかけるべきかどうか迷って――結局はできなかった。


「あらあら。追いかける度胸もないのね。情けない子」


 奥方さまの嘲笑に何も返す言葉はなかった。そのとおり、僕には勇気が必要だった。あればお嬢さまを追いかけて、ただ一言『必ず帰ります』と言えばいい。それすらできないほど臆病者だった。


「まあ浮浪児に私の最愛のマリアは釣り合わないってことね。安心したわ」

「奥方さま⋯⋯よろしいのでしょうか?」

「ホーデン。私はそこの子が嫌いなの。だから屋敷を出て行ってくれてせいせいするわ」


 そこまで嫌われると悲しいよりも清々しい気分になる。

 ホーデンさんは「私が言いたいのはそうではありません」と首を振った。


「お嬢さまの心に傷がついたと思います。大きく深い傷です。その傷の疼きは年月が経つほど強くなるでしょう」

「もったいぶった物言いは嫌いよ」

「せめてお嬢さまとジョンに良い思い出を。たとえ二度と会えなくても、それさえあれば悲しい現実を乗り越えるように」


 ホーデンさんの提案を「意味がないわ」と奥方さまは一蹴した。

 譲れないものを感じるようだった。


「悲しみはいつか乗り越えられるけど、美しい思い出は汚すしか諦めがつかないのよ」


 奥方さまの考えに僕なんかが異議など唱えられない。

 そんな資格すらない。

 お嬢さまを悲しませたのは僕なんだから。



◆◇◆◇



 いよいよ屋敷を出て新兵教育を受けに王都ネームスに向かう日がやってきた。

 その間、お嬢さまとは会えなかった。ずっと自室に閉じこもっていたようだ。これでは何も話せない。

 せめて別れの言葉を告げられたらと思うけど⋯⋯


「ジョン、軍隊は厳しいところだ。気を抜かず生き抜くんだぞ」


 馬車に乗り込むときにホーデンさんがありがたいことに助言をくれた。僕は「今までありがとうございました」と頭を下げた。一緒に行くグレイもわんっと一鳴きした。


「最高の教育をしてくれたこと、絶対に忘れません。ご恩はいずれ返します」

「生きて屋敷に帰ってくれれば何よりの恩返しだ」


 寂しさを滲ませた声だった。

 僕は力強く頷いた。

 馬車のドアを開けてグレイと共に入ろうとする――


「――ジョン!」


 暖かくて柔らかな声に振り返る。

 お嬢さまがいた。大粒の涙を流している。

 まさか会えるとは思わなかった。

 戸惑う中、グレイが吠えて僕を促す。

 ホーデンさんが御者に待つよう言う。


「お嬢さま⋯⋯見送ってくださるのですか?」

「⋯⋯私、決めたの!」


 何をですか、と聞く前に――お嬢さまは僕を抱きしめた。


「お、お嬢さま! 人が見てますよ!?」

「見せつければいいじゃない! 何も恥ずかしいことしてないんだから!」


 痛いくらいの強さでどうしようもない。

 なすがまま、時間が経って。

 ようやく離れてくれた。


「ジョン、これあげる!」


 差し出されたのは黒のペンダントだった。

 僕が贈ったものと似ている。


「メイドに作り方教わって作ったのよ。あなたの髪色と一緒。受け取ってくれる?」

「ええ、もちろんです」


 その場で付けるとお嬢さまはにっこりと微笑んだ。

 僕が一番好きな笑顔だ。


「私、ジョンが帰ってくるまでこの屋敷にいるわ」

「何年経つか分からないんですよ?」

「それでも待つのっ!」


 口を尖らせてわがままを言うお嬢さま。


「ご結婚なさるときも来るでしょう。その時どうするんですか?」

「安心して。ジョンが帰ってくるまで結婚しないから!」

「それはそれで心配になりますよ!」


 するとお嬢さまは得意そうな顔になった。


「これなら絶対に帰ってくるでしょ」

「⋯⋯⋯⋯」

「どう? 私、間違っているかしら?」


 ああもう。こんな風にされたら死んでも帰らないといけなくなる。

 いつからずるくなったのかな。


「やっぱり、お嬢さまには勝てませんね」

「でしょ? ⋯⋯ジョン、帰ってきてね」


 急に真剣な顔に変わったお嬢さまに、僕は真面目に応じる。


「はい。絶対に帰ってきます」

「⋯⋯約束よ。破ったら許さないんだから」

「これ以上、お嬢さまを悲しませるわけにはいきませんから」


 死ぬ気は元々ないけれど、ますます死ねなくなった。

 お嬢さまのために生きて、生きて、生きる。


「お嬢さま、そろそろお時間でございます」


 言いにくそうにホーデンさんが促すと、名残惜しそうに「そうね……」とお嬢さまは頷いた。


「それじゃ、ジョンまたね! グレちゃんも元気でね!」

「ええ。また会いましょう――マリアお嬢さま」

「わんっ!」


 馬車に乗り込んで窓からお嬢さまを見る。

 ホーデンさんの隣で大きく手を振っている。

 僕も同じように手を振った。

 グレイもしっぽを振っている。


「これから新しい生活が始まるんだね、グレイ」


 この一年間、とても楽しかった。

 お嬢さまとグレイ、そしてホーデンさんたちがいたから楽しかったんだ。

 裏路地のつらい生活を忘れるぐらい輝かしいものだった。


「くぅうん……」


 グレイが後悔はないの? と訊ねるように鳴く。


「ううん。大丈夫。後悔なんてないよ」


 首にかけたペンダントを触りながら思う。

 僕を待ってくれる人がいるから。

 僕に生きてほしいと思ってくれるから。


「マリアお嬢さまのおかげで――頑張れる」

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