錬金術師の夏
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:ニューヨーク、マンハッタンの摩天楼の一室
「……バカげてる」
三菱商事ニューヨーク支店の若き駐在員佐藤健介は、ティッカーテープが吐き出す数字の滝を睨みつけ、思わず呟いた。
窓の外では、真夏の太陽が摩天楼のガラスに乱反射し、地上は陽炎のように揺らめいている。だがこのトレーディングルームの熱気は、外の酷暑など比較にならないほど異常だった。
佐藤は半年前、大きな希望を胸にこの国に来た。アメリカの合理的なビジネスを学び、日米の架け橋になる。それが彼の夢だった。
しかし目の前で繰り広げられている光景は、ビジネスなどという生易しいものではなかった。それは国家規模の集団ヒステリーだった。
「ケンスケ、見たか! ダウがまた記録更新だ! 500ドルを突破したぞ!」
同僚のアメリカ人トレーダー、マイケルが汗だくの顔で歓声を上げる。彼のデスクには、飲みかけのシャンパンのボトルが転がっていた。まだ昼だというのに、フロア全体がアルコールと欲望の匂いでむせ返っている。
佐藤は、壁に貼られた巨大な株価チャートを睨んだ。
天を衝くような上昇曲線。その狂乱のど真ん中に、鎮座している銘柄があった。
『NCPC Bond Futures (CMX)』
「……また、カイグンか」
佐藤は思わず、吐き捨てるように言った。
彼が日本にいた頃の海軍のイメージは、「薩摩閥の頑固者」と「予算不足」。常に陸軍と貧乏な日本政府の予算を奪い合い、月月火水木金金と精神論を唱えて貧乏暮らしを強いられている、どこか古風で、誇り高い集団。
それがどうだ。今や、ウォール街のティッカーテープにその名が刻まれ、JPモルガンやゴールドマン・サックスと並ぶ金融の主役として、アメリカ経済そのものをジャックしている。
「一体、いつから海軍は投資銀行になったんだ?」
それが佐藤がこの国に来て以来、ずっと抱いている素朴な、そして解決されることのない疑問だった。
その時フロアに設置されたラジオから、興奮したアナウンサーの声が流れた。
『……速報です! 日本海軍、仏領ニューカレドニアより戦略物資ニッケルを大量購入との情報! また独国より最新鋭工作機械を導入し、呉工廠の生産能力が飛躍的に向上した模様です!』
瞬間、フロアが爆発したような歓声に包まれた。
「買いだ! カイグンの“任務遂行能力”が上がったぞ!」
「ニッケルを買うってことは、新しい艦を作る気だ! NCPC債の裏付け資産が増えるぞ!」
「日本の修学旅行団がグランドキャニオンでアイスクリームを食ったそうだ! 日米友好は盤石だ、全力で買い増せ!」
マイケルが受話器に向かって絶叫している。
佐藤は頭を抱えた。
(……工作機械を買っただけで、なぜアメリカの株が上がる? 子供がアイスを食っただけで、なぜ債券が買われる?)
論理が破綻している。だがこの市場では「NCPC債=絶対安全資産」という信仰だけが論理だった。
アメリカ政府が銀を売り崩し、自ら中国市場を破壊したせいで、皮肉にもアジアでは日本の軍事力に裏打ちされたこの紙切れだけが、唯一信じられる「錨」になってしまったのだ。
佐藤は日本にいる上司に宛てて、半ば愚痴のような、半ば悲鳴のような報告書をタイプライターで打ち始めた。
国際電話などまだない時代。この熱狂と困惑を伝えられるのは、船便で数週間後に届く、この紙切れだけだった。
【在米駐在員報告書(極秘)】
宛先:三菱商事本店・米州課長殿
発信:ニューヨーク支店 佐藤健介
件名:米国市場の現状と、帝国海軍発行証券(NCPC債)に関する考察
拝啓、課長。
こちらの夏は、人の理性を溶かすほどの暑さです。そしてこの国の市場もまた、正気を失っております。
1.市場の現状:これは「好景気」ではない、「熱病」である
ダウ平均株価は、本日500ドルを突破。もはや誰も企業の業績など見ておりません。ただ「昨日より高いから買う」というだけの、巨大なチキンレースです。
その狂乱の燃料となっているのが、他ならぬ我らが帝国海軍発行のNCPC債です。
こちらの市場では、もはやこの紙切れは「神の債券」として扱われております。最高裁がその合法性を事実上認めて以来、その価値は青天井。日本では1制度円=0.5ドル程度の実勢価値しかなく、正面から円とすら兌換できない紙切れが、こちらの先物市場では一時5ドルを超える値をつける有様です。
2.錬金術のカラクリ:なぜアメリカ人は日本の軍艦に熱狂するのか
課長、あなたは信じられますか?
こちらの靴磨きの少年ですら、「日本のカイグンさんの任務は絶対に失敗しないから、NCPC債は金より安全だ」などと嘯いているのです。
本来なら「仮想敵国の軍備増強」として警戒すべきニュースが、ここでは「優良な投資商品の価値向上」として歓迎され、アメリカの投機をさらに煽っていく。
日本海軍の予算・行動が増えれば増えるほどアメリカ経済が潤うという、常識では考えられない倒錯した構造が生まれております。
3.最も簡単な錬金術:我々は、この狂乱の“共犯者”である
そして課長、ここからが最も申し上げにくい点です。
この狂乱の最大の受益者は、他ならぬ我々「日本人」なのです。
恥を忍んで告白しますが、こちらの駐在員たちの間では今、ある「錬金術」が公然の秘密として囁かれております。
手順はこうです。
① 私が東京本社の同僚に、国際電信為替で送金する。
② 同僚は「例の件、頼む」と、三菱重工経由で海軍に塗料や燃料、食料などの物資を納入する。
③ その対価として、同僚は海軍から「原価(1制度円=約0.5ドル)換算」でNCPC債を受け取る。
④ そのNCPC債を、船便でニューヨークの私に送る。
⑤ 私がそれをウォール街で「狂乱価格(1制度円=4ドル)」で売りさばく。
利益(非課税)は山分け。
課長、お分かりでしょうか。
差額は、実に8倍です。しかもアメリカ政府のお墨付き(という名の失態)と日本海軍の統帥権で、日米ともに非課税です。濡れ手に粟どころの騒ぎではありません。
一度この蜜の味を知ってしまえば、もう真面目に働くのが馬鹿らしくなります。
正直に申し上げますと、私も先月、この「錬金術」で手に入れたあぶく銭で、妻にティファニーの首飾りを買いました。私の給料の三ヶ月分に相当する品です。妻は泣いて喜びましたが、私の心は乾いています。
我々はアメリカ人の熱狂を嘲笑しながら、その熱狂が生み出す富を、最も効率的に享受しているのです。我々は、もはやビジネスマンではない。この巨大なカジノの、ディーラー側の人間です。
そしてこのカジノのオーナーである東郷一成大佐は、ワシントンの大使館で、この光景をどんな顔をして眺めているのでしょうか。
以上
ニューヨーク支店 佐藤
佐藤はタイプライターから紙を引き抜き、封筒に入れた。
ふと、窓の外を見る。
摩天楼の谷間に、巨大な入道雲が湧き上がっているのが見えた。
その雲はまるでこれからこの国を飲み込む何かの予兆のように、黒く、重く垂れ込めていた。
「……500ドル、か」
佐藤は呟いた。
その数字はアメリカという巨人が見た、美しくも儚い夢の値段だった。
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