ノーマ・ジーン
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:カリフォルニア州ロサンゼルス郊外、孤児院の庭
カリフォルニアの太陽は、容赦がなかった。乾いた土の匂いと、ユーカリの葉が放つ青臭い香りが、ぎらつく光の中で混じり合っている。孤児院の庭の隅、古びたブランコの影に、一人の少女が膝を抱えて座っていた。
名前は、ノーマ・ジーン。まだ三つのその小さな頭の中には、母親の温もりも、父親の顔もなかった。ただこの孤児院の白い壁と、時折響き渡る他の子供たちの甲高い泣き声だけが、彼女の世界の全てだった。
その日彼女の世界に、異質な音が侵入してきた。
ゲートの外から聞こえる、大型バスのエンジン音と、聞き慣れない言葉のさざめき。好奇心に駆られて顔を上げると、信じられない光景が広がっていた。
東洋から来た、黒い髪、黒い瞳の子供たちの一団。
揃いの制服に身を包み、少し緊張した、しかし好奇心に満ちた目で、この見慣れた孤児院の庭を物珍しげに眺めている。
『日本帝国海軍主催・西海岸修学旅行団』
その一行は、ロサンゼルスの日系人社会との交流の一環として、この孤児院に慰問品を届けに来たのだった。
その一団の中心に、ひときわ目を引く二人の少女がいた。
一人は、東郷幸。駐米海軍武官の令嬢として、流暢な英語を操り、通訳として大人たちの間を立ち回っている。その立ち居振る舞いには、年の割には大人びた落ち着きと、全てを見通すような不思議な知性の光が宿っていた。
そしてもう一人。幸のすぐ隣で、少し不安げに、しかし背筋をすっと伸ばして立っている少女。
会田まさ江――この世界では、彼女の一家は苦しい暮らしを立てるため神奈川の保土ケ谷を離れ、海軍の制度債がもたらす好景気に沸く横須賀に移り住んでいた。そして彼女はこの修学旅行団の一人として参加していたが、その並外れた美貌と聡明さから、注目され始めていた。
彼女のあまりにも彫りが深く、大きな瞳は、この乾いたカリフォルニアの光の下で、まるで濡れた黒曜石のように静かな、しかし抗いがたい光を放っていた。
「……まあ、可愛い」
大人たちが、孤児院の院長と儀礼的な挨拶を交わしている間、まさ江は、庭の隅で一人ぽつんと座っているノーマ・ジーンの姿を見つけた。
「幸さま、あの子…」
「ええ。一人だけ、輪に入れないでいるのね」
幸とまさ江は、そっとその小さな影に近づいていった。
ノーマ・ジーンは、見慣れぬ東洋の少年少女たちの出現に怯えるように、ぎゅっと膝を抱え直した。
「Hello」
幸が、優しい英語で声をかけた。
「What's your name?(あなたのお名前は?)」
ノーマ・ジーンは答えなかった。ただ大きな青い瞳で、目の前の二人をじっと見つめ返すだけだった。その瞳の奥には、幼い子供が持つにはあまりにも深い、孤独と不安の翳りが見えた。
まさ江は、何も言わなかった。
彼女は幸の隣にそっと屈み込むと、ノーマ・ジーンと視線の高さを合わせた。そしてただ静かに、微笑んだ。
その微笑みは、言葉を超えていた。それは同じように孤独の翳りを知る者だけが交わすことのできる、静かな魂の挨拶だった。
ノーマ・ジーンの固く閉ざされていた心の扉が、ほんの少しだけ、開いた気がした。
彼女はおずおずと、膝の上の古びた布人形を差し出した。
「……Dolly(お人形さん)」
かろうじて聞き取れる、小さな声だった。
「まあ、可愛らしいお人形ね」
幸がにこやかに応じる。
だがまさ江は、その人形の目が片方取れかかっているのに気づいていた。
彼女は自分の制服のポケットから、小さな裁縫セットを取り出した。それは旅のしおりと共に、母親が「もしもの時のために」と持たせてくれたものだった。
彼女は慣れた手つきで針に糸を通すと、取れかかったボタンの目を丁寧に、そして丈夫に縫い付け始めた。
その静かで、無心な横顔。
カリフォルニアの強い日差しが、彼女の長い睫毛の影を、白い頬の上に落としている。
その姿は、神聖な儀式を執り行っている巫女のように美しかった。
幸は、その光景を黙って見つめていた。
(……まさ江さんは、すごい)
彼女は心の中で呟いた。
(私は、言葉でしか人と繋がれない。でもこの人は、ただそこにいるだけで、ただ微笑むだけで、人の心を癒してしまう。……これが、この人が生まれ持った“力”なのね)
やがて、人形の目は、元通りに輝きを取り戻した。
「はい、できたわ」
まさ江は、人形をノーマ・ジーンの手に返した。
ノーマ・ジーンは、生まれ変わった自分の唯一の友人を、信じられないという顔で見つめた。そして顔を上げ、目の前の美しい少女に向かって、生まれて初めて見せるような、屈託のない笑顔を浮かべた。
「Thank you」
その笑顔は、太陽そのものだった。
それはこれから世界中の男たちを虜にし、そして彼女自身をも焼き尽くすことになる、あまりにも無垢で、あまりにも危険な輝きだった。
その瞬間、三人の少女の運命が確かに交錯した。
「日本の新しい知性」を象徴する、幸。
「日本の永遠の美」を象徴する、まさ江こと原節子。
そして「アメリカの尽きせぬ欲望」を象徴する、ノーマ・ジーン。
彼女たちの出会いは、ほんの数十分のささやかな出来事に過ぎなかった。
慰問品を渡し終えた修学旅行団は、慌ただしく次の目的地へと去っていった。
バスの窓から幸とまさ江は、いつまでも手を振るノーマ・ジーンの小さな姿が見えなくなるまで見つめていた。
幸はこの出会いを、父への手紙にこう書き記すだろう。
『……今日、私はアメリカの“光”と“翳り”の両方を見ました。そしてまさ江さんという日本の“美”が、その翳りをほんの少しだけ照らし出すのを、見ました』と。
会田まさ江こと原節子は、この日のことを生涯誰にも語ることはないだろう。だが彼女の心のフィルムには、あの乾いた土地で見た、孤独な少女の太陽のような笑顔が、永遠に焼き付くことになる。
そして、後のマリリン・モンローこと、ノーマ・ジーン。彼女の記憶には、遠い東洋から来た聖母のように美しい少女の面影と、繕ってもらった人形の温もりだけが、おぼろげな夢のように、残り続ける。
彼女たちは、まだ知らない。
自分たちがこれから歩むことになる、あまりにも違う、そしてあまりにも数奇な人生の道を。
ただその日、カリフォルニアの空の下で。
三つのまだ何者でもない、しかし、それぞれの宿命をその内に秘めた魂が、一度だけ確かに触れ合った。
それだけが、揺るぎない事実だった。
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