ドッキリ番組
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:アメリカ合衆国、サンフランシスコ
客船の甲板から見下ろすサンフランシスコの港は、幸の記憶にある21世紀の風景とは似ても似つかない、活気と混沌に満ちていた。海鳥の鳴き声、船の汽笛、そして様々な言語が入り混じる喧騒。その全てが、巨大な国家の脈動のように感じられた。
(……来たんだわ。本当に、来てしまった)
隣に立つ橘小百合は、感情を映さない硝子のような瞳で、霧の切れ間から姿を現す丘の上の街並みを静かに見つめている。
「すごいですね、幸様。あれが、アメリカの……」
「ええ……」
幸は、目の前の光景に息を呑んだ。
テレグラフヒルやノブヒルの斜面に、白い石造りのビルディングが競い合うように建ち並び、その合間をケーブルカーがゆっくりと登っていく。街全体が、まるで天へ向かう階段のようだ。21世紀とは比べ物にならないほど低い摩天楼だが、その一つ一つが放つエネルギーと未来への楽観は、今の日本のどの都市よりも力強く感じられた。
これが、狂騒の20年代――アメリカがその栄華を極めた時代の、最後の輝き。
だが幸の視線は街並みではなく、その向こう側――アルカトラズ島とマリン郡を結ぶ、広大な海峡に釘付けになっていた。
(……おかしい。何もない……)
彼女の記憶の中では、そこには燃えるようなインターナショナル・オレンジに塗られた、世界で最も美しい吊り橋が架かっているはずだった。霧の中から優雅な主塔が姿を現し、力強いケーブルが空に弧を描いているはずだった。
しかし目の前にあるのはただ、フェリーボートが白い航跡を描きながら行き交う、広々とした灰色の海面だけ。
(……まだ、ないんだ。ゴールデンゲートブリッジは、まだ……)
歴史の教科書で知っていたはずの事実。着工は1933年。しかしその「知識」が目の前の「現実」とぶつかった瞬間、幸は初めて、自分が本当に過去に来てしまったのだという、どうしようもない事実を突きつけられた気がした。
それは未来を知る者だけが感じる、奇妙な喪失感だった。
翌日、彼らを乗せたチャーターバスは、カリフォルニアの乾いた太陽の下を走っていた。車窓から見える光景は、幸の心を激しく揺さぶった。
ロサンゼルスの大通りには、フォードのT型フォードが洪水のように溢れ、ショーウィンドウには最新のファッションが眩しく輝いている。ラジオからは陽気なジャズが流れ、誰もが永遠の夏を謳歌しているかのようだった。
(すごい……。これがお父様が戦っている国の力。教科書で見た写真なんかじゃない。本物の“豊かさ”……)
しかしバスが一本裏通りへ入った途端、その景色は一変した。
埃っぽい路地裏では、移民労働者たちが厳しい顔つきで寄り集まり、日雇いの仕事を待っている。その子供たちは裸足で走り回り、母親たちは洗濯物の湯気が立ち上る長屋の戸口で、遠い故郷を思うように、虚ろな目をしていた。
繁栄と、貧困。
希望と、絶望。
光と、影。
そのあまりにも強烈なコントラストが、幸の胸に突き刺さった。
その夜ホテルの部屋で小百合がお茶の用意をしている間、幸は窓の外のネオンサインを眺めながら、小さな手帳に今日の出来事を書き留めていた。
『フォードの車はピカピカだった。でも、その車を作る人の目は疲れていた』
『ハリウッドの女優さんはお人形みたいだった。でも、撮影所の隅でパンを食べていたおじいさんは、泣きそうだった』
その時だった。ホテルの前の広場で、数人のアメリカ人の少年たちが、幸と同じ修学旅行団の日本の子供たちを取り囲んでいるのが見えた。
「ヘイ、ジャップ! お前らの持ってるその変な紙切れ(NCPC債)、チョコレートと交換してやるぜ!」
少年たちは、日本の子供たちが持っていたNCPC債を指さし、嘲るように笑っている。
日本の子供たちは、意味が分からず、ただ戸惑うばかりだった。
その光景を見た瞬間、幸の頭の中で、何かがぷつりと切れた。
それは怒りではなかった。
あまりの無理解と、無邪気な傲慢さに対する、深い深い、憐れみだった。
(……ああ、そうか。この人たちは、まだ何も分かっていないんだ)
彼女の脳裏に、21世紀の高校生時代の知識を活かし、暇な船内でひそかに書き上げた分析の内容が鮮やかに蘇った。
(幸の心の声)アメリカ合衆国の皆様への一言
親愛なるアメリカ国民の皆様。
私は東郷幸。皆様が「未来」と呼ぶであろう時代から皆様の歴史を学習し、このメッセージを送っております。
まず、お祝いを申し上げます。
皆様の国は今、空前の繁栄を謳歌しておられます。自動車は売れ、ラジオは鳴り響き、株価は天を衝く勢いです。皆様は自らが世界の中心であり、そのルールが普遍であると信じて疑っておられないことでしょう。
誠におめでとうございます。皆様は今、歴史上最も壮大な「ドッキリ番組」の主役に選ばれました。
仕掛け人は東郷一成という名の、日本から来た控えめなプロデューサーです。
皆様に分かりやすく、私が皆様に本当に言いたいことを、二つのポイントに絞ってご説明いたします。
ポイント①:皆様は今、「健康診断」を受けている真っ最中です
お父様は、皆様の偉大な国家に喧嘩を売っているのではありません。
彼はただ「制度債」という名の非常に高性能な「内視鏡」を、皆様の身体(国家システム)にそっと挿入しただけです。
そしてその内視鏡が今、映し出しているものは何か?
財務省・FRBの皆様:あなた方の消化器系(金融システム)が、「金」という偏った食事しか受け付けない、深刻なアレルギー体質であることが判明いたしました。未知の栄養素(「任務」という信用)に対し、拒絶反応を起こして自らの腸内環境(銀市場)を破壊するという、前代未聞の自己免疫疾患の疑いがあります。
国務省様:あなたの脳(外交判断)は、「法の支配」という美しい理想に満ち溢れていますが、残念ながら現実の身体(国際情勢)との神経接続が一部断線しているようです。身体が「腹痛だ」と訴えているのに、脳は「これは法的にありえない痛みだ」と認識を拒否しております。
ホワイトハウス様:あなたはこの身体の「意識」そのものですが、現在「何もしない」という瞑想状態に入っておられるようです。身体の各器官が悲鳴を上げているにもかかわらず、意識は「これもまた自然の摂理なり」と、非常に高い次元で達観しておられます。
ウォール街の皆様:あなた方はこの身体の「食欲」ですが、栄養価を一切無視し、目の前の「非課税」という名のジャンクフードに夢中です。満腹中枢が完全に破壊されている恐れがあります。
お分かりでしょうか。
お父様は皆様を攻撃しているのではありません。彼はただ、皆様がどれほど不健康で、内部矛盾に満ちているかを皆様自身に、そして全世界に、親切にも見せてくれているだけなのです。
ポイント②:皆様は今、最高の「ビジネスチャンス」を逃しています
皆様はNCPC債を「脅威」だとか「侵略」だとかおっしゃっていますが、それは全くの誤解です。
考えてもみてください。
皆様が誇るフォードの自動車も、エジソンの電球も、その価値の根源は「人々の生活を便利にする」という“任務”を遂行しているからです。
お父様がやっていることは、その「“任務”の価値を直接金融化する」という、皆様がまだ発明していない、画期的なイノベーションです。
皆様は本気を出せば、日本海軍の数十倍、数百倍の「任務」を日々遂行しています。道路を作り、電気を送り、商品を運び、映画で世界を感動させる。
もし皆様がNCPC債を脅威と見なすのではなく、「素晴らしいビジネスモデルだ! 我々も真似しよう!」と考えたならどうなっていたでしょう?
皆様は「連邦公共事業債」や「ハリウッド映画収益債」といった、ドルとは全く別の、新しい価値の尺度を世界に提示できたかもしれません。
しかし皆様は、自分たちの古いルールブックに固執するあまり、新しいゲームの創造者になるチャンスを、自ら放棄してしまったのです。
「……幸さん?」
広場に降りてきた会田まさ江の声に、幸ははっと我に返った。
いつの間にか、彼女は窓の外を睨みつけるように、拳を固く握りしめていた。
「どうかなさいましたか。顔色が……」
「ううん、なんでもないの」
幸は慌てて笑顔を作った。
「ただ、思ったの。この国の人たちって、とっても大きくて、とっても強いけど……なんだか、とっても可哀想な人たちなのかもしれないなって」
その子供の口から出たとは思えない、あまりにも深く、そして憐れみに満ちた一言。
まさ江は、その言葉の意味を測りかね、ただ静かに目の前の不思議な少女を見つめ返すだけだった。
(……この方は、一体何を見ておられるのでしょう……?)
その答えを、彼女はまだ知らなかった。
そしてこの国の誰もが、まだ気づいていなかった。
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