見えざる敵
時:1929年(昭和四年)、夏
場所:カリフォルニア州、サンディエゴ海軍基地
太平洋艦隊の母港は、乾いた太陽と潮風に満ちていた。桟橋には、灰色に塗られた巨大な戦艦「コロラド」が、その十六インチ連装主砲塔四基の威容を誇るように停泊している。“ビッグセブン”の一角を担うこの鋼鉄の巨城は、アメリカの太平洋における力の象徴だった。
しかしその日、その甲板の上には力の誇示とは程遠い、苛立ちと無力感が澱のように溜まっていた。数人の若い士官たちが、信じられないものを見るような目で港の入り口を指さしている。
「……おい、あれを見ろよ」
「……冗談だろ? また来たのか、ジャップの客船が」
彼らの視線の先には、白い船体の豪華客船「浅間丸」が入港してくるところだった。デッキには小さな日の丸の旗を振る、無数の子供たちの姿が見える。
『帝国海軍主催・西海岸修学旅行団』
新聞はこの奇妙な日本の団体旅行を好意的に、そしてどこか面白おかしく報じていた。カリフォルニアの観光業にとっては、株高ながら実体経済では不況の足音が聞こえる中での、まさに天の恵みだったからだ。
「……信じられるか? 俺たちの税金で造ったこのグレート・ホワイト・フリートの母港が、今やジャップのガキどもの観光名所だぜ」
砲術士官のひとりが吐き捨てるように言った。彼の声には侮蔑と、それを通り越した無力感が滲んでいた。
「観光名所だけならまだいいさ」
隣の機関士官が苦々しく続けた。
「奴らが泊まっているホテル、移動に使っている鉄道やバス、その支払いは全て、あの忌々しいNCPC債で行われているそうだ。そしてそのNCPC債をドルに両替しているのが、我らがウォール街の銀行家どもだ。……つまり俺たちが汗水流して守っているこの国の経済が、敵国に金を貢いでいるようなもんじゃねえか」
その言葉に、甲板の空気は鉛のように重くなった。
彼らは軍人だ。国を守るために、日々過酷な訓練に耐えている。その彼らの目の前で、仮想敵国であるはずの日本の海軍が、自分たちの「庭」で堂々と経済活動とプロパガンダを展開している。しかもその活動資金の一部は、アメリカ経済そのものから吸い上げられている。
「……モフェット提督やミッチャー中佐は、何を考えているんだ」若い航空士官が不安げに呟いた。
「日本の新ドクトリンは『巧妙な罠』だと、あれほど警戒していたはずなのに。……こんな白昼堂々の“侵略”をなぜ許しているんだ」
彼らは知らない。この「修学旅行」という、あまりにも平和的で、あまりにも子供じみた陽動作戦の前に、海軍作戦本部がいかに無力であったかを。
『反対理由が見当たらない』
それが、海軍作戦本部が下した苦渋に満ちた結論だった。
国際親善と教育を目的とした民間の客船による、民間の子供たちの旅行。これを軍事的な理由で拒否すれば、アメリカは世界中から「排他的で、子供にさえ脅威を感じる偏狭なチキン国家」というレッテルを貼られることになる。フーヴァー大統領から直々に「対話」を命じられたスティムソン国務長官は、この計画を「日米友好の素晴らしい一歩」として、手放しで絶賛せざるを得なかったのだ。
「……だが、一番腹が立つのはこれだ」
砲術士官は、ポケットからくしゃくしゃになった新聞の切り抜きを取り出した。それは東郷一成がワシントンの記者クラブで行った、短いスピーチの記事だった。
『……なぜ、子供たちをアメリカへ? 素晴らしいご質問です。それは彼らに“本物”を見せるためです。摩天楼の壮大さ、T型フォードが流れる工場の効率性、そしてヨセミテの雄大な自然。……これら全てが、アメリカという国家の偉大さの証明です。我々日本は、この偉大な隣人から、まだ学ぶべきことが多くある』
「……聞きましたか、皆さん」
砲術士官は声を震わせた。
「奴は、俺たちの国の偉大さを褒め称えているんだ。俺たちの力を認め、敬意を払っている。……その上で、その懐に静かにナイフを突き立ててきやがる。……これほど、屈辱的なことがあるか!」
その通りだった。
東郷の戦略は、敵を罵倒し貶めることではなかった。
敵の強さを認め、それを賛美し、それを「教材」として利用することで敵の警戒心を解き、その内側から静かに侵食していく。あまりにも洗練され、あまりにも狡猾なやり方だった。
「……ちくしょう」
誰かがぽつりと呟いた。
「……いっそ、戦争ならよかったのによ」
その言葉は、その場にいた全員の心を代弁していた。
戦艦の砲門をぶっ放し、魚雷を叩き込み、勝敗を決する。それならどんなに分かりやすいことか。
だが彼らが今直面しているのは、そんな単純な戦いではなかった。笑顔と、親善と、経済活動という、甘い綿に包まれた静かなる窒息。
その時基地のゲートの方から、一台のチャーターバスが近づいてくるのが見えた。バスの窓からは、日本の子供たちが目を輝かせながら巨大な戦艦を見上げ、興奮したように指をさしている。
「……おい、来るぞ。例の“ご見学”だ」
士官たちは吐き捨てるように言うと、慌てて甲板の奥へと姿を隠した。
まるで、自分たちの聖域を汚されるのを嫌うように。
あるいはその子供たちの無邪気な瞳に、自分たちの敗北の姿が映るのを恐れるように。
⸻
場所:サンフランシスコ、フェアモント・ホテル
ロビーの巨大なシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に複雑な光の模様を描いていた。ホテルの支配人、マイケル・オブライエンは、その光の中で、一つの奇妙な集団がロビーを横切っていくのを、複雑な気持ちで見つめていた。
日本の子供たちだ。揃いの制服に身を包み、引率の教師に連れられて、寸分の乱れもなく整然と歩いていく。彼らは決して大声を出さず、走り回ることもない。ただ目をきらきらと輝かせ、この壮麗なホテルの内装を、食い入るように見つめている。
(……また来たか、ジャップのガキどもが)
マイケルは、心の中で悪態をついた。だがその悪態には、以前のような純粋な侮蔑の色はなかった。むしろ、それは自嘲に近い響きを持っていた。
「ミスター・オブライエン」
会計係が、一枚の伝票を手に近づいてきた。
「日本領事館からです。修学旅行団、第五陣の宿泊費。……例の『カイグン債』で、全額支払いだそうです」
「……分かった。受け取っておけ」
マイケルは力なく頷いた。
数ヶ月前、このNCPC債という奇妙な紙切れが初めて持ち込まれた時、彼は当然のように支払いを拒否した。
「冗談じゃない。こんな子供銀行の札みたいなもので、うちのホテルの代金が払えるか」と。
だがその翌日、ホテルのオーナーから直々に電話がかかってきた。オーナーは、ウォール街に太いパイプを持つ、抜け目のない投資家だった。
『マイケル、君は馬鹿か! NCPC債は、今ウォール街で最も信用のある資産だ! 国債よりも安全で、しかも非課税なんだぞ! それを拒否するとは何事だ! 今すぐ受け取れ! それどころか、日本人客には10%の割引と、最高のサービスを提供しろ! 彼らは客ではない、神だ!』
それ以来このフェアモント・ホテルは、日本の修学旅行団の定宿となった。
おかげで閑古鳥が鳴いていたこのホテルは、息を吹き返した。従業員の給料も、遅れずに払えている。マイケル自身も、クビにならずに済んだ。
ありがたい客だ。彼らがいなければ、俺の家族は今頃、路頭に迷っていただろう。
だが、とマイケルは思う。
(……なんだってんだ、この国は)
ロビーの片隅にあるニューススタンド。新聞の一面にはサンフランシスコの港湾労働者たちが、大規模なストライキに突入したという記事が、大きな見出しで報じられていた。賃金の引き下げに抗議する陰鬱な戦いだった。
俺の隣人たちは、明日のパンのために戦っている。
その一方で、俺は敵国であるはずの日本の子供たちに、頭を下げてサービスをしている。
そしてその子供たちの宿泊費は、日本の軍隊が発行した紙切れで支払われ、その紙切れのおかげで、俺は給料をもらっている。
マイケルの頭は、混乱していた。
一体誰が敵で、誰が味方なのだ?
この国の経済を回しているのは、ホワイトハウスのフーヴァー大統領なのか、それとも「トーゴー」という名の、顔も見えない日本の軍人なのか。
彼はロビーを横切っていく子供たちの一団を、もう一度見つめた。
その中の一人の少女がふと彼の方を振り返り、ぺこりと、小さくお辞儀をした。
そのあまりにも礼儀正しく、そしてあまりにも無邪気な仕草に、マイケルの胸に、言いようのない感情が込み上げてきた。
それは怒りでも、屈辱でもなかった。
それは自分たちが築き上げてきたはずの世界が、自分たちの知らないところで、全く別のルールで動き始めていることへの、どうしようもない戸惑いだった。
彼はただ呆然と、その小さな背中がエレベーターの扉の向こうに消えていくのを、見送ることしかできなかった。
⸻
一方、日本海軍・海軍省。
東郷の真意を理解する、条約派を中心とした一部の将官たちは、この「修学旅行」の報を全く別の感慨を持って受け止めていた。
海軍省の会議室。軍務局長の堀悌吉は、沢本頼雄から提出された、修学旅行の第一陣からの報告書を読みながら、静かに頷いていた。
「……面白いな、沢本君」
「はっ。何がでありますか」
「子供たちの感想文だ。『アメリカの戦艦は大きくてすごかった。でも、日本の戦艦の方がきれいだと思いました』……『フォードの工場はすごかった。でも呉の工廠の職人さんの方が、もっとすごいと思いました』……ふっ、可愛いものじゃないか」
堀は、煙草の煙を吐き出した。
「東郷は、子供たちにアメリカを見せに行った。だがそれはアメリカに“心酔”させるためではない。その逆だ。……本物を見せることで、自分たちの国の“本物”の価値に、気づかせるためだ」
圧倒的な物量の差。しかし、その背後にある精神性や、美意識の違い。
それを肌で感じ取った子供たちは、決してアメリカに対する無邪気な劣等感を抱かないだろう。彼らは正しくアメリカを恐れ、そして同時に、自分たちの国に、揺るぎない誇りを抱くことになる。
「やるな、東郷」堀は、遠いワシントンの空を見やるように目を細めた。
「奴が本当に育てようとしているのは、軍艦でも、航空機でもない。……この国の、新しい“魂”そのものなのかもしれんな」
その言葉は誰に聞かせるでもなく、静かな執務室の空気に溶けていった。
アメリカの海軍軍人が、見えざる敵への苛立ちと屈辱に歯噛みしている、まさにその同じ瞬間に。
歴史の歯車は、子供たちの無邪気な笑い声を乗せて静かに、そして確実に回り続けていた。
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