会田まさ江
時:1929年(昭和四年)、春
場所:横須賀・汐入尋常小学校
春の光はまだ淡く、校庭の隅に立つ大きな銀杏の木は、ようやく小さな若葉を芽吹かせ始めたばかりだった。冷たい潮風が、新しい学年の始まりを告げるように教室の窓をカタカタと揺らす。
東郷幸は、新しい教室の窓際の席で、外の景色をぼんやりと眺めていた。
父一成に宛てて、あの少女――会田まさ江を助けてほしいと手紙を書いてから数ヶ月。返事はまだない。自分のしたことが、本当に正しかったのか。歴史という巨大な流れに、自分のような小さな存在が石を投げてしまってよかったのか。希望と不安が、胸の中で渦を巻いていた。
「……皆さん、静かに」
朝の会の始まりを告げる担任教師の声。教室のざわめきがすっと静まる。
「今日は、皆さんに新しいお友達を紹介します。横浜から来られました。……さあ、入って」
教室の引き戸が、そろりと開かれた。
そしてそこに現れた姿に、幸は息を呑んだ。
黒い瞳。通った鼻筋。そして周囲の空気を一瞬にして変えてしまう、圧倒的なまでの存在感。
会田まさ江だった。
教室中が、どよめきに包まれた。男子生徒は顔を赤らめ、女子生徒は羨望と好奇の入り混じった視線を送る。
まさ江は、その視線の全てを静かに受け止めると、教壇の前に立ち、深く、深く頭を下げた。
「……横浜から参りました、会田まさ江と申します。よろしく、お願い申し上げます」
その声は低く、しかし凛として響いた。ドブ板通りで聞いた、魚の血と脂にまみれていた時の声とは、まるで違って聞こえた。幸の心臓が、喜びと安堵で大きく高鳴った。
(……お父様……!)
父が、自分の声を聞き届けてくれた。そして、あの星の原石をこの場所に導いてくれたのだ。
まさ江の席は、幸のすぐ後ろに決まった。幸が振り返ると、まさ江は静かに会釈しただけだった。その瞳の奥には以前と同じ、深い井戸の底のような静けさが湛えられていた。
その日の給食の時間は、少しだけぎこちない空気に包まれていた。
献立は、子供たちに大人気の鯨の竜田揚げ。制度債によって海軍から供給される、この港町の子供たちにとっては馴染みの味だ。
「やったあ、海軍さんの肉だ!」
東北出身の庄司梅が、満面の笑みで自分の皿を指さす。彼女のように制度債の恩恵を受けている子供たちにとって、この竜田揚げは感謝の象徴だった。
しかし、教室の隅では、株式仲買人の息子である佐藤が、聞こえよがしに悪態をついていた。
「ふん。どうせタダ同然の紙切れで買い叩いた、鯨の残りカスだろ。俺はいいや」
クラスの中に存在する、制度債への「光」と「影」。幸はその見えない亀裂の上で、どう振る舞うべきか戸惑っていた。
彼女は、黙々と竜田揚げを口に運ぶ後ろの席のまさ江に、おそるおそる声をかけた。
「……美味しい?」
その声にまさ江は咀嚼する手を止め、幸の顔をじっと見つめた。そして静かに、しかしはっきりと答えた。
「……はい。存じております。このお肉をいただけることの本当の意味を。……このお肉のおかげで、私のような者が、こうして学校に通わせていただけるのですから」
その言葉には感謝だけではない、何か別の響きが混じっていた。施しを受けることへの、かすかな屈辱。あるいは、自らの運命を受け入れざるを得ない者の、静かな覚悟。
幸は自分が考えていたほど、物語は単純ではないことに気づかされた。父の救いの手は、彼女に新しい生活を与えたが、同時に新しい「負い目」をも与えてしまったのかもしれない。
その日の午後、体育館で臨時の全校集会が開かれた。
壇上に立った校長先生の顔は、興奮で紅潮していた。
「皆さん! 今日は信じられないような、素晴らしいお知らせがあります!」
体育館が期待のどよめきに包まれる。
「帝国海軍のご発案により、本校の上級生の生徒を全員、アメリカ合衆国への修学旅行に派遣することが、正式に決定いたしました!」
瞬間、体育館は割れんばかりの歓声に包まれた。アメリカ! 摩天楼! 自由の女神! 子供たちの夢が、一気に爆発した。
「費用は渡航費、滞在費に至るまで、全て海軍が制度債によって負担してくださいます! サンフランシスコの摩天楼と日系人社会を見学し、ロサンゼルスでは、映画の都ハリウッドを訪れる予定です!」
幸はふと隣に立つ、まさ江の横顔を盗み見た。
まさ江は驚いたように、大きな瞳をさらに大きく見開いていた。しかしその瞳の奥にこれまで見たことのない、かすかな、しかし確かな「希望」の光が灯るのを、幸は見逃さなかった。
その日の帰り道。
幸は勇気を振り絞って、一人でとぼとぼと歩くまさ江に追いついた。少し後ろを、橘小百合が影のようについてきている。
「……修学旅行、すごいね!」
「…………はい」
「まさ江さんも、行きたい?」
その問いに、まさ江は初めて立ち止まった。そしてゆっくりと幸の方へ向き直った。
夕陽が、彼女の完璧な横顔を照らし出している。
彼女は一瞬ためらい、そして初めて幸に向かって、はにかむような、しかし決意を秘めた、息をのむほど美しい笑みを見せた。
「……はい。……行ってみたいです。……映画というものが生まれる国を、この目で」
その笑顔のあまりの輝きに、幸は(やっぱり、この人は本物だ…!)と改めて確信した。
その全てを、少し離れた場所から橘小百合が静かに観察していた。
幸が父に手紙を書いたこと。まさ江が転校してきたこと。そしてこのあまりに都合の良いタイミングで、修学旅行の話が持ち上がったこと。
(……偶然ではない)小百合は確信していた。
(東郷大佐は、幸様の非凡さを見抜き、彼女を自らの計画の重要な「触媒」として使い始めた。そして私の任務は、この幸様をアメリカへ行かせること。……全ての歯車が、恐ろしいほど完璧に噛み合い始めている)
その夜、幸はアメリカの父に宛てて、再びペンを取った。
『お父様、ありがとうございました。まさ江さんは、私の学校に来てくれました。そしてアメリカへの修学旅行の話も。……お父様は、私のわがままを聞いてくださったのですね。
でも、私は分かっています。これはただの楽しい旅行ではないのですよね。
お父様が私たちに見せようとしている、アメリカの本当の姿を、私はまさ江さんと一緒に、この目でしっかりと見てきます。
そしてお爺様に言われた通り、お父様のための、本当の「羅針盤」になってみせます』
その手紙を書き終えた時、幸の心にあったのはもはや、歴史が変わることへの不安ではなかった。
自らの手で新しい、そしてより良い未来を掴み取ってみせるという、静かで、しかし揺るぎない決意だった。
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